Flavor of Life
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帰り道が嫌いだ。
鮮やかな春の終わりの夕陽に照らされた道がだらだらと続いて、そこを子供達がきゃあきゃあと笑いながら駆けていく。
どこかの家からカレーの匂いと「ただいま」とドアの閉まる音が流れてきた。散歩中のポメラニアンがこちらに興味を示して近づいてきたから、飼い主さんに挨拶をして頭を撫でる。首輪がピンクだから女の子だろうか。
そうやって歩いていくと、どんどん見知った世界に近づいていくのを感じる。膨らんだ薔薇の蕾、手入れが放棄された庭、外に転がったまま放置された子供用の靴。
「うぎゃーーー!!!」
怪鳥めいた泣き声が聞こえて、思わず溜息をついた。門扉を閉めて、鍵を取り出す。もうキーホルダーがボロボロになってるから買い換えないと。
「ただいまー……」
「ねぇね!」
「理恋、どうしたの」
「ママが、ママがりこのことぶった!りこ、なんにもしてないのに!」
「何もしてないわけないでしょ!!ねえ理津見てよこれ、どう思う?」
駆け寄ってきて私のブレザーにしがみついたのは、妹の理恋。小学二年生に上がったばかりだ。
「……ママ」
「ねえ、理恋ったらまだ小学二年生なのにこんな点数しかとれないのよ!このままじゃ何にもなれやしないわよ、お先真っ暗」
パタパタと気の抜けた音を立てるスリッパが、酷く不釣り合いだ。エプロンをつけているし奥からはご飯の匂いがするから、きっと夕飯の支度をしていたのだろう。
「……59点か」
「そうよ!もう信じられない、こんな簡単な問題なのにたったの59点!一年生の復習なのに!」
眉を吊り上げた母の手から、クシャクシャになったテスト用紙を受け取った。おおかた、ランドセルの底に押し潰されていたのだろう。科目は算数だ。
「このバカガキ!」
ゴツン、と重い音が響く。私の影に隠れていた理恋を引きずり出して頭を殴ったのだ。
「うわぁぁぁぁぁああん!!!」
「ああもう、うるさい!」
「……ママ、鍋吹きこぼれるよ」
「あらヤダ大変!じゃあ理津、そのバカによくよく言い聞かせておいて。次のテストで理恋が満点取れたらお小遣いあげるから」
「うん……」
くるりと身を翻して奥に走っていった姿を見送ってから、グズグズと泣きじゃくる妹にハンカチを渡して靴を脱いだ。
「ねぇね、ねぇね……」
「はいはいねぇねだよ。一緒にお部屋に行こうね」
小さな手を握って階段を上がり、自室の扉を開けて鞄を置いた。今日も、ここはなんの変化もない。
ブレザーを脱いでリボンを外して、首と肩を回した。鞄やら制服の重みやらで、学生は意外と体が凝るのだ。
「算数のテスト、59点だったね」
「りこわるくないもん。先生だってむずかしかったねっていってた」
「お隣の席の子は何点だって言ってた?」
「あ、ななちゃんはね、まんてん!花丸もらってたよ!」
「あら……」
母から受け取ったままになっていたテスト用紙を広げる。確かにこれだと掛け算にも苦戦することになるだろう。でも、殴りつけるほどじゃない。
理恋はハンカチでぐしゅぐしゅになった顔を拭きながら、「ママ、またりこにごはん食べないで勉強しなさいって言うかな」と悲しそうに呟いた。
一年生の頃から、理恋はテストの成績が良くない。元来集中力を保つことが難しいタイプで、授業中に手遊びや落書きをしてしまうのが原因の一つではあるだろう。
母は、そんな彼女に異常に厳しく当たっている。泣きながらこちらにこうして逃げてくるのも、実は一度や二度では無いのだ。
「理恋、宿題はある?」
「計算ドリルと、あとなんかある」
「なんかかあ」
連絡帳にちゃんと書けてるといいんだけど。
階下に降りると、母が味噌汁をお椀によそっているところだった。
「理恋はこんなの食べないで勉強しなさい。今度そんな点数とったら家に入れないからね」
「ママ、理恋はまだ小さいんだから、そんなことしてると大きくなれなくなるよ」
「バカのまま大きくなられちゃ困るのよ。全く、理津はこんなに頭がいいのに……」
冷たく吐き捨てる彼女に、母親としての愛情は微塵も感じられない。私も妹もこの人から生まれているというのに。
「理津、食べましょ。今日は元町で美味しそうなオーガニックドレッシングを買ってきたから、今日はそれをかけなさい」
「うん……」
絶望したような顔をしている理恋に、「今は取り敢えずお勉強しててね」と耳打ちする。こんなに小さな子に、こんな表情をさせるなんて。
私は音を立てないように席に着いた。お父さんは今日もいない。
食事が終わったあと、母はすぐにお風呂に入る。早く寝たいからというのが理由だ。
だから私はその隙に、近所のコンビニまで走った。幼い理恋が夕飯を抜くなんてこと、あってはいけない。
「栄養価……野菜は根菜のがいいよね。パンはお腹にたまらないからご飯で……」
ざっと考えて野菜スティックと鮭のおにぎりをセルフレジに通した。どう考えても六歳の女の子には色々足りないだろうけど、私の力ではこれが限界だ。
また家まで走って帰り、母がまだ体を洗っていることを確認してから理恋のところに戻る。泣きながら鉛筆を握る彼女に、「ママがお風呂から出る前に急いで食べてね」とコンビニ飯を袋ごと渡した。
「ねぇね、今日は隣にいるからね。わからないところあったら何でも聞いていいから」
「うん!ありがとう、ねぇね」
理恋の隣で宿題をざっと片付ける。ざくざく進めていると彼女が食事を終えたので、ゴミをゴミ箱の奥に押し込んで隠蔽。
数式を復習し、予習として英語の日本語訳と単語のチェックを始める。バン、とドアを開け閉めする音がして、母がお風呂から上がったことを知った。
「……はあ」
「ねぇね、ここわかんない」
「あー、ここはね、上の数字が下の数字より小さいでしょ?繰り下がりっていうんだけどね……」
ほよほよと頷く妹の丸い頭を撫でた。今日が早く終わればいいと願いながら。
結局、私が自分の時間を確保できたのは二十二時を過ぎた頃だった。
「疲れた……」
理恋と母はもう眠っている。こちらももうお風呂と歯磨きは済ませたから、あとは布団に入るだけ。やっと休める……と胸をなでおろしても、現実というものはどこまでも非情だ。
「……お父さん」
『雪乃がお前に似合いそうな服を見つけたから、来週の土曜の予定空けといてくれ』
返信を打って、ブルーライトを撒き散らす液晶を伏せた。ああもう、こんなところは嫌だ。
早く明日になってほしい。蛍ちゃんや綾華ちゃんに会いたい。図書館に逃げたい。
二十三時になった。
瞼を伏せる。もう二度と目覚めなくてもいいかもなとすら思った。
鮮やかな春の終わりの夕陽に照らされた道がだらだらと続いて、そこを子供達がきゃあきゃあと笑いながら駆けていく。
どこかの家からカレーの匂いと「ただいま」とドアの閉まる音が流れてきた。散歩中のポメラニアンがこちらに興味を示して近づいてきたから、飼い主さんに挨拶をして頭を撫でる。首輪がピンクだから女の子だろうか。
そうやって歩いていくと、どんどん見知った世界に近づいていくのを感じる。膨らんだ薔薇の蕾、手入れが放棄された庭、外に転がったまま放置された子供用の靴。
「うぎゃーーー!!!」
怪鳥めいた泣き声が聞こえて、思わず溜息をついた。門扉を閉めて、鍵を取り出す。もうキーホルダーがボロボロになってるから買い換えないと。
「ただいまー……」
「ねぇね!」
「理恋、どうしたの」
「ママが、ママがりこのことぶった!りこ、なんにもしてないのに!」
「何もしてないわけないでしょ!!ねえ理津見てよこれ、どう思う?」
駆け寄ってきて私のブレザーにしがみついたのは、妹の理恋。小学二年生に上がったばかりだ。
「……ママ」
「ねえ、理恋ったらまだ小学二年生なのにこんな点数しかとれないのよ!このままじゃ何にもなれやしないわよ、お先真っ暗」
パタパタと気の抜けた音を立てるスリッパが、酷く不釣り合いだ。エプロンをつけているし奥からはご飯の匂いがするから、きっと夕飯の支度をしていたのだろう。
「……59点か」
「そうよ!もう信じられない、こんな簡単な問題なのにたったの59点!一年生の復習なのに!」
眉を吊り上げた母の手から、クシャクシャになったテスト用紙を受け取った。おおかた、ランドセルの底に押し潰されていたのだろう。科目は算数だ。
「このバカガキ!」
ゴツン、と重い音が響く。私の影に隠れていた理恋を引きずり出して頭を殴ったのだ。
「うわぁぁぁぁぁああん!!!」
「ああもう、うるさい!」
「……ママ、鍋吹きこぼれるよ」
「あらヤダ大変!じゃあ理津、そのバカによくよく言い聞かせておいて。次のテストで理恋が満点取れたらお小遣いあげるから」
「うん……」
くるりと身を翻して奥に走っていった姿を見送ってから、グズグズと泣きじゃくる妹にハンカチを渡して靴を脱いだ。
「ねぇね、ねぇね……」
「はいはいねぇねだよ。一緒にお部屋に行こうね」
小さな手を握って階段を上がり、自室の扉を開けて鞄を置いた。今日も、ここはなんの変化もない。
ブレザーを脱いでリボンを外して、首と肩を回した。鞄やら制服の重みやらで、学生は意外と体が凝るのだ。
「算数のテスト、59点だったね」
「りこわるくないもん。先生だってむずかしかったねっていってた」
「お隣の席の子は何点だって言ってた?」
「あ、ななちゃんはね、まんてん!花丸もらってたよ!」
「あら……」
母から受け取ったままになっていたテスト用紙を広げる。確かにこれだと掛け算にも苦戦することになるだろう。でも、殴りつけるほどじゃない。
理恋はハンカチでぐしゅぐしゅになった顔を拭きながら、「ママ、またりこにごはん食べないで勉強しなさいって言うかな」と悲しそうに呟いた。
一年生の頃から、理恋はテストの成績が良くない。元来集中力を保つことが難しいタイプで、授業中に手遊びや落書きをしてしまうのが原因の一つではあるだろう。
母は、そんな彼女に異常に厳しく当たっている。泣きながらこちらにこうして逃げてくるのも、実は一度や二度では無いのだ。
「理恋、宿題はある?」
「計算ドリルと、あとなんかある」
「なんかかあ」
連絡帳にちゃんと書けてるといいんだけど。
階下に降りると、母が味噌汁をお椀によそっているところだった。
「理恋はこんなの食べないで勉強しなさい。今度そんな点数とったら家に入れないからね」
「ママ、理恋はまだ小さいんだから、そんなことしてると大きくなれなくなるよ」
「バカのまま大きくなられちゃ困るのよ。全く、理津はこんなに頭がいいのに……」
冷たく吐き捨てる彼女に、母親としての愛情は微塵も感じられない。私も妹もこの人から生まれているというのに。
「理津、食べましょ。今日は元町で美味しそうなオーガニックドレッシングを買ってきたから、今日はそれをかけなさい」
「うん……」
絶望したような顔をしている理恋に、「今は取り敢えずお勉強しててね」と耳打ちする。こんなに小さな子に、こんな表情をさせるなんて。
私は音を立てないように席に着いた。お父さんは今日もいない。
食事が終わったあと、母はすぐにお風呂に入る。早く寝たいからというのが理由だ。
だから私はその隙に、近所のコンビニまで走った。幼い理恋が夕飯を抜くなんてこと、あってはいけない。
「栄養価……野菜は根菜のがいいよね。パンはお腹にたまらないからご飯で……」
ざっと考えて野菜スティックと鮭のおにぎりをセルフレジに通した。どう考えても六歳の女の子には色々足りないだろうけど、私の力ではこれが限界だ。
また家まで走って帰り、母がまだ体を洗っていることを確認してから理恋のところに戻る。泣きながら鉛筆を握る彼女に、「ママがお風呂から出る前に急いで食べてね」とコンビニ飯を袋ごと渡した。
「ねぇね、今日は隣にいるからね。わからないところあったら何でも聞いていいから」
「うん!ありがとう、ねぇね」
理恋の隣で宿題をざっと片付ける。ざくざく進めていると彼女が食事を終えたので、ゴミをゴミ箱の奥に押し込んで隠蔽。
数式を復習し、予習として英語の日本語訳と単語のチェックを始める。バン、とドアを開け閉めする音がして、母がお風呂から上がったことを知った。
「……はあ」
「ねぇね、ここわかんない」
「あー、ここはね、上の数字が下の数字より小さいでしょ?繰り下がりっていうんだけどね……」
ほよほよと頷く妹の丸い頭を撫でた。今日が早く終わればいいと願いながら。
結局、私が自分の時間を確保できたのは二十二時を過ぎた頃だった。
「疲れた……」
理恋と母はもう眠っている。こちらももうお風呂と歯磨きは済ませたから、あとは布団に入るだけ。やっと休める……と胸をなでおろしても、現実というものはどこまでも非情だ。
「……お父さん」
『雪乃がお前に似合いそうな服を見つけたから、来週の土曜の予定空けといてくれ』
返信を打って、ブルーライトを撒き散らす液晶を伏せた。ああもう、こんなところは嫌だ。
早く明日になってほしい。蛍ちゃんや綾華ちゃんに会いたい。図書館に逃げたい。
二十三時になった。
瞼を伏せる。もう二度と目覚めなくてもいいかもなとすら思った。