episode.0 Alhaitham
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それから二ヶ月が経った。
もうその頃になると、アルハイゼンはいたるところで月鈴の噂を聞くようになっていた。「めちゃくちゃ可愛い」「レポートのテーマがニッチすぎて担任すらお手上げになることがある」「大賢者に取り入っている」「枕をしている」「教令院の男を全員振った」等、それらは数えてもキリがない。悪意を持って広められたものであることは明白だった。
アルハイゼンはコソコソと下世話な話をする彼らの間をすり抜け、研究員棟に足を踏み入れて進む。そこではもっと品のない、直接的な会話が繰り広げられていた。
「なあ、新入生の月鈴って子、論文見せればヤれるって本当かな」
「お前あの子見たことあるか?あんな男に困りそうにない子がそんなことするかよ」
「あるから言ってるんだよ。……いいなあ、あんな美人抱けたらもう一生他の女じゃ満足出来ないだろうな」
「正気か?あの子まだ十五らしいけど」
「それがいいんじゃん」
最悪だ。アルハイゼンは人知れず眉を顰めた。
月鈴に関して下品な噂を広めている者は、実は既に特定している。とある男子学生に「月鈴が好きだから」と振られた女子学生が、逆恨みとして彼女に関する悪評を広めているのだ。
七国一の学問機関であるはずの教令院において、事実無根の情報を多くの学生や研究員が信じ込んでいるということも非常に残念だが、それ以上にまだ未成年の少女に不特定多数の人間からの悪意が集中すること自体が許されざることだ。知識の探求者としても、倫理観のある人間としても、アルハイゼンはこの状態を憂いていた。
自分の研究室の戸を開け、閉める。小さく「おかえりなさい」と、鈴の音のような声がした。
「ああ、ただいま」
「すみません、わざわざお買い物まで頼んでしまって……。本来なら私が自力でやるべきなのに」
「仕方ない。君が悪いわけではないんだから」
結果として、月鈴はアルハイゼンの研究室に駆け込むしかなかった。
刺さり続ける男子学生からの性的な視線、それに伴う女子学生からの攻撃的な視線。最前で講義を受ければ後ろからゴミを投げられ、知恵の殿堂に行けばコソコソと噂話をされる。とうとう講師の中にも彼女に対して良からぬことを考える者が出てきた。手を握られた恐怖に震えているところに遭遇したのは、一度や二度ではない。
しまいには宿舎の鍵穴に糊を詰められ、寝床にすら辿り着けなくなってしまった。ただでさえ精神的に弱っていたところにそんなパンチを叩き込まれた月鈴は、遂に自分からアルハイゼンを訪ねたのだ。
「あの……宿舎の部屋に入れなくなっちゃって……」
「は?」
事情を聞いたアルハイゼンは犯人達への最大限の呆れと軽蔑を込めて溜息をついた。ここは幼稚園や小学校じゃないんだぞ、と一人一人の胸倉を掴みたくなる。
アルハイゼンは持っていた荷物を下ろした。中には食料と、替えの下着や着替えが入っている。
「本当に良いのか、俺が買ってきた物で」
「はい、特にこだわりはないので」
違う、そうじゃない。
目の前の少女のきょとんとした様子に、アルハイゼンは一抹の不安を覚えた。言いたかったのは、「君のような思春期真っ只中の女の子の、下着というデリケートな部分に触れる物を、俺のような出会って数ヶ月程度の男が適当に買ってきて良かったのか、身につける時に不快感を覚えないか」ということである。買う過程でサイズだって知ってしまった。
「いえあの、学院内を自由に歩けなくなるくらいのメンタルになってしまったのは私のせいですし、先輩だって女物の下着を買うのは気まずかったでしょう。わざわざご厚意で動いてくださっているのに、不快だとか、そういうことを言うのは違うなと思って」
「…………そうか」
もう少し我儘になってもいいと、アルハイゼンは思った。
研究室には備え付けの簡易シャワー室があるため、入浴そのものはすぐに済んだ。
寝間着として購入したワンピースは「あの顔立ちだし何でも似合うだろう」とよく考えずに選んだものだが、それでもやはり上手く着こなせている。本人は意外とデザインにこだわりはないらしく、それよりも「こちらの布は軽くていいですね」と素材に興味を示していた。
問題は睡眠である。
一応、部屋には休憩用のソファがある。それは筆が乗りすぎて研究室で徹夜してしまったアルハイゼンを受け止める大きさはあるが、さすがにそれにプラスして少女一人は無理があった。
かといって月鈴に譲ろうとすれば、彼女は「いや、先輩が寝てください」と言って聞かないだろう。そういう子だというのは、これまでにしてきた会話の中でわかっている。自分を優先せず、他人のことを考える。彼女は璃月人だから、「お世話になった人には礼を尽くす」という、彼の国の伝統的な考え方に基づいて行動している可能性もあるだろう。
「わかったんですけど」
「ほう、なんだ」
「寝なきゃいいんですよ」
結局、月鈴が出した結論はそれだった。あまりにも力技だし体には決して良くないが、確かにベッド問題は解決する。
「完徹か」
「そうです」
彼女は机の上に広げてある課題の山と本を指差した。「ちょうど暇潰しグッズがたくさんありますよ!」と言わんばかりだ。
「確かに、それを片付けれていれば寝ずに夜を越せるだろうな」
「はい。先輩はお好きに本とか読んで、疲れたら寝てください。私は完徹するので」
「なるほど」
これで解決ですね!と課題に向き合った月鈴の小さな背中を見て、アルハイゼンはそっと微笑んだ。
変な子だ。可憐な見目からは想像できないほど突飛で芯があり、それでいて変に自己肯定感が低い。
ペンをスラスラと動かすその手元を見ながら「君の字は軽やかだな」と呟く。本の表紙に触れると同時に、開かれた窓から吹く風がありふれた花の香りを纏わせる。
「私、この花好きなんですよね」
「そうなのか」
「はい。故郷には無いけど、甘くてすっきりしてて、すごく好きなんです。見た目も白くてかわいいし、この時期はたくさん咲いてるし」
レポートの調子が良いのだろう。靱やかな文字が紙面を埋め、細い指先が資料をなぞる。
アルハイゼンはその様子を少し眺めたあと、本の表紙を開いて目を落とした。
意識もしていなかったはずの香りが、ふわりと心を撫でる。パラリと紙を捲る音が重なって、しっとりと柔い外の暗闇に溶けた。
見慣れた花が満開を迎える、星が見えない夜のことだった。
もうその頃になると、アルハイゼンはいたるところで月鈴の噂を聞くようになっていた。「めちゃくちゃ可愛い」「レポートのテーマがニッチすぎて担任すらお手上げになることがある」「大賢者に取り入っている」「枕をしている」「教令院の男を全員振った」等、それらは数えてもキリがない。悪意を持って広められたものであることは明白だった。
アルハイゼンはコソコソと下世話な話をする彼らの間をすり抜け、研究員棟に足を踏み入れて進む。そこではもっと品のない、直接的な会話が繰り広げられていた。
「なあ、新入生の月鈴って子、論文見せればヤれるって本当かな」
「お前あの子見たことあるか?あんな男に困りそうにない子がそんなことするかよ」
「あるから言ってるんだよ。……いいなあ、あんな美人抱けたらもう一生他の女じゃ満足出来ないだろうな」
「正気か?あの子まだ十五らしいけど」
「それがいいんじゃん」
最悪だ。アルハイゼンは人知れず眉を顰めた。
月鈴に関して下品な噂を広めている者は、実は既に特定している。とある男子学生に「月鈴が好きだから」と振られた女子学生が、逆恨みとして彼女に関する悪評を広めているのだ。
七国一の学問機関であるはずの教令院において、事実無根の情報を多くの学生や研究員が信じ込んでいるということも非常に残念だが、それ以上にまだ未成年の少女に不特定多数の人間からの悪意が集中すること自体が許されざることだ。知識の探求者としても、倫理観のある人間としても、アルハイゼンはこの状態を憂いていた。
自分の研究室の戸を開け、閉める。小さく「おかえりなさい」と、鈴の音のような声がした。
「ああ、ただいま」
「すみません、わざわざお買い物まで頼んでしまって……。本来なら私が自力でやるべきなのに」
「仕方ない。君が悪いわけではないんだから」
結果として、月鈴はアルハイゼンの研究室に駆け込むしかなかった。
刺さり続ける男子学生からの性的な視線、それに伴う女子学生からの攻撃的な視線。最前で講義を受ければ後ろからゴミを投げられ、知恵の殿堂に行けばコソコソと噂話をされる。とうとう講師の中にも彼女に対して良からぬことを考える者が出てきた。手を握られた恐怖に震えているところに遭遇したのは、一度や二度ではない。
しまいには宿舎の鍵穴に糊を詰められ、寝床にすら辿り着けなくなってしまった。ただでさえ精神的に弱っていたところにそんなパンチを叩き込まれた月鈴は、遂に自分からアルハイゼンを訪ねたのだ。
「あの……宿舎の部屋に入れなくなっちゃって……」
「は?」
事情を聞いたアルハイゼンは犯人達への最大限の呆れと軽蔑を込めて溜息をついた。ここは幼稚園や小学校じゃないんだぞ、と一人一人の胸倉を掴みたくなる。
アルハイゼンは持っていた荷物を下ろした。中には食料と、替えの下着や着替えが入っている。
「本当に良いのか、俺が買ってきた物で」
「はい、特にこだわりはないので」
違う、そうじゃない。
目の前の少女のきょとんとした様子に、アルハイゼンは一抹の不安を覚えた。言いたかったのは、「君のような思春期真っ只中の女の子の、下着というデリケートな部分に触れる物を、俺のような出会って数ヶ月程度の男が適当に買ってきて良かったのか、身につける時に不快感を覚えないか」ということである。買う過程でサイズだって知ってしまった。
「いえあの、学院内を自由に歩けなくなるくらいのメンタルになってしまったのは私のせいですし、先輩だって女物の下着を買うのは気まずかったでしょう。わざわざご厚意で動いてくださっているのに、不快だとか、そういうことを言うのは違うなと思って」
「…………そうか」
もう少し我儘になってもいいと、アルハイゼンは思った。
研究室には備え付けの簡易シャワー室があるため、入浴そのものはすぐに済んだ。
寝間着として購入したワンピースは「あの顔立ちだし何でも似合うだろう」とよく考えずに選んだものだが、それでもやはり上手く着こなせている。本人は意外とデザインにこだわりはないらしく、それよりも「こちらの布は軽くていいですね」と素材に興味を示していた。
問題は睡眠である。
一応、部屋には休憩用のソファがある。それは筆が乗りすぎて研究室で徹夜してしまったアルハイゼンを受け止める大きさはあるが、さすがにそれにプラスして少女一人は無理があった。
かといって月鈴に譲ろうとすれば、彼女は「いや、先輩が寝てください」と言って聞かないだろう。そういう子だというのは、これまでにしてきた会話の中でわかっている。自分を優先せず、他人のことを考える。彼女は璃月人だから、「お世話になった人には礼を尽くす」という、彼の国の伝統的な考え方に基づいて行動している可能性もあるだろう。
「わかったんですけど」
「ほう、なんだ」
「寝なきゃいいんですよ」
結局、月鈴が出した結論はそれだった。あまりにも力技だし体には決して良くないが、確かにベッド問題は解決する。
「完徹か」
「そうです」
彼女は机の上に広げてある課題の山と本を指差した。「ちょうど暇潰しグッズがたくさんありますよ!」と言わんばかりだ。
「確かに、それを片付けれていれば寝ずに夜を越せるだろうな」
「はい。先輩はお好きに本とか読んで、疲れたら寝てください。私は完徹するので」
「なるほど」
これで解決ですね!と課題に向き合った月鈴の小さな背中を見て、アルハイゼンはそっと微笑んだ。
変な子だ。可憐な見目からは想像できないほど突飛で芯があり、それでいて変に自己肯定感が低い。
ペンをスラスラと動かすその手元を見ながら「君の字は軽やかだな」と呟く。本の表紙に触れると同時に、開かれた窓から吹く風がありふれた花の香りを纏わせる。
「私、この花好きなんですよね」
「そうなのか」
「はい。故郷には無いけど、甘くてすっきりしてて、すごく好きなんです。見た目も白くてかわいいし、この時期はたくさん咲いてるし」
レポートの調子が良いのだろう。靱やかな文字が紙面を埋め、細い指先が資料をなぞる。
アルハイゼンはその様子を少し眺めたあと、本の表紙を開いて目を落とした。
意識もしていなかったはずの香りが、ふわりと心を撫でる。パラリと紙を捲る音が重なって、しっとりと柔い外の暗闇に溶けた。
見慣れた花が満開を迎える、星が見えない夜のことだった。