episode.0 Alhaitham
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
風がやや強い、花の香りが濃い日だった。
アルハイゼンの人並外れて鮮明な記憶の中でも、その日は特に華やかで、優しくて、美しい日であった。そして、後に思い返すのに信じられないほどの苦しさと切なさと、自身への微かな怒りすら覚えるものでもある。
アルハイゼンは、教令院内の研究室で一人本を読んでいたのだ。普段はやるべきことが終わったらさっさと帰るのに、何故かその日に限って面白い書籍を見つけてしまった。
黙々と読み進め、パタリと背表紙を閉じれば時刻はもう日付を超える数字を示している。レポートが終わらない学生なんかはこの時間でも普通に知恵の殿堂に篭っているが、アルハイゼンはそうではない。優秀な成績で卒業した彼はもう既に学者という肩書きで、論文もしっかりと通したばかりだ。
さっさと帰ろう。
アルハイゼンが立ち上がって荷物を纏めようとするのと、外で「わぁっ」と控えめな悲鳴が聞こえるのはほぼ同時だった。
「……人か」
こんな時間に、随分とご苦労なことだ。声から推測するにまだ歳若い少女だろう。今からの帰宅では身に危険が及ぶ可能性が高いが、まあそんなこと知ったことではない。
知ったことではないはずなのに、アルハイゼンは何故かドアを開けていた。
この行動について彼は後でも「どうしてあの時戸を開けたのかわからない」と首を傾げている。少なくとも日頃の自分なら絶対にしなかった行動だ、と。
しかし、この時彼が出会うことになる少女を知る者は、皆「仕方無い」とうんうん頷くだろう。
何故なら、この少女が絶世の美少女だからだ。
そのあまりの顔の良さに、アルハイゼンですら目を見開いた。肩ほどに切られた黒髪をふわふわ揺らし、あわあわと落とした書類を掻き集める様はまさに天使。思えば、先程の悲鳴もちょっとやそっとでは聞けないような可愛らしいものだった。
制服の真新しさと面立ちの幼さから、彼女はおそらく今年入学したばかりの新入生だろうとアルハイゼンは推測した。いきなり山のような課題を渡され、バランスを崩して落としてしまったのだろうか。にしては時間が遅すぎる。
「あああごめんなさい……!うるさかったですね」
大きな丸い瞳がアルハイゼンを捉え、花弁のような唇が謝罪の言葉を紡ぐ。拾う時に切ったのだろう、華奢な指先が紙の裏に赤い線を引いた。
「指」
「はい」
「右手の指、切ってるぞ」
「わっ……」
少女は慌てて書類を膝に置き、ハンカチを取り出した。遠目から見ても質の良いものだ。
アルハイゼンは廊下に踏み出し、散らばった書類を拾った。やはり記入済みの課題レポートだ。
「君、知論派の学生か」
「はい、今年入学した月鈴と申します。あの、あなたは……」
「アルハイゼンだ。同じく知論派の」
名前の音からして、おそらく璃月から来たのだろう。面立ちもこちらの人間と比べると彫りが優しく、小さく床にかがみ込んだ体は華奢だ。そもそもの骨格が細いのだろう。
アルハイゼンがレポートを纏めて渡してやると、彼女はそれを受け取ってまた抱えた。それ以外にもたくさんの本や手提げ鞄を持っていて、傍目から見ても危なっかしい。
「今度は本に血が着くぞ」
「あっ」
月鈴はまた荷物を下ろして指先を見た。スッパリと切れた傷口は、彼女の想定よりも深いものらしい。
「……少し待っていろ」
研究者にとって紙で指を切ることは日常茶飯事。当然、アルハイゼンも絆創膏を携帯している。
「ありがとうございます」
「切った方が利き手だろう。俺が貼る」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
差し出された右手の人差し指に、くるりと絆創膏を貼り付けた。随分と小さな手だとぼんやり思った。
「君は、なんでこんな時間にここにいるんだ」
「えっと、お恥ずかしい話ではあるんですけど、道に迷ってしまって……」
「新入生だろう。教令院内部は入り組んでいるし、君の体でその荷物じゃ前も見えなかったはずだ。迷っても仕方ない」
しかも、この子はどうもパニックを起こしかけている気配がする。確実に何かがあったのだろう。
「……台車を貸そう」
「えっ」
「言っただろう。君の体ではその荷物を学生用の宿舎に運ぶのは無理だ。こんな時間じゃ他人の手助けも望めないしな」
アルハイゼンは立ち上がり、部屋から台車を引っ張り出した。月鈴の荷物をそこにほいほいと積み上げ、レポート用紙が飛ばないようにクリップで留めてやる。入学して一ヶ月では、こうした細々とした必要品はまだ揃っていないだろうと踏んでのことだった。
「ありがとうございます」
「台車は持っておいた方がいい。知論派は特に参考文献が多くなるし、レポートを見た限り君は凝り性のようだ」
「えっ」
「この時間まで残っていたのも、大方疑問点や前提を細かく設定するためだろう。一年目にしては論点の炙り出しがよく出来ている。もちろん粗はあるが」
月鈴は目を丸くしている。瞳の色がこちらの人間より濃い。
「……台車は明日返してくれればいい。クリップはあげるから」
「ありがとうございます」
「このままここを真っ直ぐ行って左に曲がれば研究者用のエレベーターがある。本来は学生は使用禁止だが、この時間なら咎める者もいない。そこを降りて右に曲がって進めばエントランスに着くはずだ」
「わかりました」
「ありがとうございました」と月鈴は拳と手を胸の前で合わせる璃月のお辞儀をする。アルハイゼンはひとつ頷いて、「気をつけて帰れ」と添えた。
どうもあの少女は、既に教令院の中でまあまあ名が知れ渡っているらしい。
「あの子めっっちゃくちゃ可愛いよな」
「な。あんな子ほんとにいるもんなんだな」
「彼氏とかいるのかな」
「好きな人がいるからって断ってるらしいぞ」
「えーいんのかよ!いけるかと思った」
「お前鏡見ろよ」
「うるせえよお前こそ鏡見ろよ」
「てか現状で何人振られたんだ?」
「教令院内だけで五人らしいぞ」
「えぐいなモテ方が」
アルハイゼンがその会話を聞いたのは、教令院内の食堂でのことだった。
普段ならシンプルにうるさいと思うだけのそれに耳を傾けてしまうのは、おそらくその話題が昨日出会ったあの少女についてだからだ。
「名前なんだっけその子」
「月鈴ちゃんだろ」
「名前の音からして璃月の子だよな。あの国あんな美人隠し持ってたのか」
「年齢いくつだって?」
「十五だよ十五」
「若いな〜……俺らの十二歳下」
なるほど十五歳か、とアルハイゼンは心の中で頷いた。道理であんなに顔立ちが幼いわけだ。
「俺昨日あの子のこと見かけてさ、ちらっと話しかけてみたんだ。すごい大荷物だったから、持とうかって」
「へえ、それで?」
「大丈夫ですって逃げてったよ。ぴゃって感じで」
「お前それ怖がられてんじゃん」
「あんな大荷物持ってどこ行ったんだろうな。研究員棟方面に逃げてったけどあそこって学生侵入禁止だし」
「もう既に研究員の誰かと繋がってたりしてな」
「有り得る!可愛い顔してやり手だったりしてな」
「璃月って商人の国で男も女も強からしいし有り得る」
確かに、あそこにアルハイゼンの部屋があるのを知っていて、わざとレポートを落としてこちらを誘導した可能性はある。
でも、それではあのパニックの直前のような顔にはならないだろう。大きな瞳の子だから、感情は分かりやすく伝わる。そもそもそんなことをする利点がない。
男に声をかけられて恐怖を感じた?しかし先程「教令院内だけで五人振られた」という話を聞いている。男の対応に慣れている可能性もあるだろう。
データが少なすぎる。
アルハイゼンは食べ終えた食器を持って立ち上がった。月鈴にはおそらくこの後会えるし、その時に話を聞けばいいだろう。
アルハイゼンの人並外れて鮮明な記憶の中でも、その日は特に華やかで、優しくて、美しい日であった。そして、後に思い返すのに信じられないほどの苦しさと切なさと、自身への微かな怒りすら覚えるものでもある。
アルハイゼンは、教令院内の研究室で一人本を読んでいたのだ。普段はやるべきことが終わったらさっさと帰るのに、何故かその日に限って面白い書籍を見つけてしまった。
黙々と読み進め、パタリと背表紙を閉じれば時刻はもう日付を超える数字を示している。レポートが終わらない学生なんかはこの時間でも普通に知恵の殿堂に篭っているが、アルハイゼンはそうではない。優秀な成績で卒業した彼はもう既に学者という肩書きで、論文もしっかりと通したばかりだ。
さっさと帰ろう。
アルハイゼンが立ち上がって荷物を纏めようとするのと、外で「わぁっ」と控えめな悲鳴が聞こえるのはほぼ同時だった。
「……人か」
こんな時間に、随分とご苦労なことだ。声から推測するにまだ歳若い少女だろう。今からの帰宅では身に危険が及ぶ可能性が高いが、まあそんなこと知ったことではない。
知ったことではないはずなのに、アルハイゼンは何故かドアを開けていた。
この行動について彼は後でも「どうしてあの時戸を開けたのかわからない」と首を傾げている。少なくとも日頃の自分なら絶対にしなかった行動だ、と。
しかし、この時彼が出会うことになる少女を知る者は、皆「仕方無い」とうんうん頷くだろう。
何故なら、この少女が絶世の美少女だからだ。
そのあまりの顔の良さに、アルハイゼンですら目を見開いた。肩ほどに切られた黒髪をふわふわ揺らし、あわあわと落とした書類を掻き集める様はまさに天使。思えば、先程の悲鳴もちょっとやそっとでは聞けないような可愛らしいものだった。
制服の真新しさと面立ちの幼さから、彼女はおそらく今年入学したばかりの新入生だろうとアルハイゼンは推測した。いきなり山のような課題を渡され、バランスを崩して落としてしまったのだろうか。にしては時間が遅すぎる。
「あああごめんなさい……!うるさかったですね」
大きな丸い瞳がアルハイゼンを捉え、花弁のような唇が謝罪の言葉を紡ぐ。拾う時に切ったのだろう、華奢な指先が紙の裏に赤い線を引いた。
「指」
「はい」
「右手の指、切ってるぞ」
「わっ……」
少女は慌てて書類を膝に置き、ハンカチを取り出した。遠目から見ても質の良いものだ。
アルハイゼンは廊下に踏み出し、散らばった書類を拾った。やはり記入済みの課題レポートだ。
「君、知論派の学生か」
「はい、今年入学した月鈴と申します。あの、あなたは……」
「アルハイゼンだ。同じく知論派の」
名前の音からして、おそらく璃月から来たのだろう。面立ちもこちらの人間と比べると彫りが優しく、小さく床にかがみ込んだ体は華奢だ。そもそもの骨格が細いのだろう。
アルハイゼンがレポートを纏めて渡してやると、彼女はそれを受け取ってまた抱えた。それ以外にもたくさんの本や手提げ鞄を持っていて、傍目から見ても危なっかしい。
「今度は本に血が着くぞ」
「あっ」
月鈴はまた荷物を下ろして指先を見た。スッパリと切れた傷口は、彼女の想定よりも深いものらしい。
「……少し待っていろ」
研究者にとって紙で指を切ることは日常茶飯事。当然、アルハイゼンも絆創膏を携帯している。
「ありがとうございます」
「切った方が利き手だろう。俺が貼る」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
差し出された右手の人差し指に、くるりと絆創膏を貼り付けた。随分と小さな手だとぼんやり思った。
「君は、なんでこんな時間にここにいるんだ」
「えっと、お恥ずかしい話ではあるんですけど、道に迷ってしまって……」
「新入生だろう。教令院内部は入り組んでいるし、君の体でその荷物じゃ前も見えなかったはずだ。迷っても仕方ない」
しかも、この子はどうもパニックを起こしかけている気配がする。確実に何かがあったのだろう。
「……台車を貸そう」
「えっ」
「言っただろう。君の体ではその荷物を学生用の宿舎に運ぶのは無理だ。こんな時間じゃ他人の手助けも望めないしな」
アルハイゼンは立ち上がり、部屋から台車を引っ張り出した。月鈴の荷物をそこにほいほいと積み上げ、レポート用紙が飛ばないようにクリップで留めてやる。入学して一ヶ月では、こうした細々とした必要品はまだ揃っていないだろうと踏んでのことだった。
「ありがとうございます」
「台車は持っておいた方がいい。知論派は特に参考文献が多くなるし、レポートを見た限り君は凝り性のようだ」
「えっ」
「この時間まで残っていたのも、大方疑問点や前提を細かく設定するためだろう。一年目にしては論点の炙り出しがよく出来ている。もちろん粗はあるが」
月鈴は目を丸くしている。瞳の色がこちらの人間より濃い。
「……台車は明日返してくれればいい。クリップはあげるから」
「ありがとうございます」
「このままここを真っ直ぐ行って左に曲がれば研究者用のエレベーターがある。本来は学生は使用禁止だが、この時間なら咎める者もいない。そこを降りて右に曲がって進めばエントランスに着くはずだ」
「わかりました」
「ありがとうございました」と月鈴は拳と手を胸の前で合わせる璃月のお辞儀をする。アルハイゼンはひとつ頷いて、「気をつけて帰れ」と添えた。
どうもあの少女は、既に教令院の中でまあまあ名が知れ渡っているらしい。
「あの子めっっちゃくちゃ可愛いよな」
「な。あんな子ほんとにいるもんなんだな」
「彼氏とかいるのかな」
「好きな人がいるからって断ってるらしいぞ」
「えーいんのかよ!いけるかと思った」
「お前鏡見ろよ」
「うるせえよお前こそ鏡見ろよ」
「てか現状で何人振られたんだ?」
「教令院内だけで五人らしいぞ」
「えぐいなモテ方が」
アルハイゼンがその会話を聞いたのは、教令院内の食堂でのことだった。
普段ならシンプルにうるさいと思うだけのそれに耳を傾けてしまうのは、おそらくその話題が昨日出会ったあの少女についてだからだ。
「名前なんだっけその子」
「月鈴ちゃんだろ」
「名前の音からして璃月の子だよな。あの国あんな美人隠し持ってたのか」
「年齢いくつだって?」
「十五だよ十五」
「若いな〜……俺らの十二歳下」
なるほど十五歳か、とアルハイゼンは心の中で頷いた。道理であんなに顔立ちが幼いわけだ。
「俺昨日あの子のこと見かけてさ、ちらっと話しかけてみたんだ。すごい大荷物だったから、持とうかって」
「へえ、それで?」
「大丈夫ですって逃げてったよ。ぴゃって感じで」
「お前それ怖がられてんじゃん」
「あんな大荷物持ってどこ行ったんだろうな。研究員棟方面に逃げてったけどあそこって学生侵入禁止だし」
「もう既に研究員の誰かと繋がってたりしてな」
「有り得る!可愛い顔してやり手だったりしてな」
「璃月って商人の国で男も女も強からしいし有り得る」
確かに、あそこにアルハイゼンの部屋があるのを知っていて、わざとレポートを落としてこちらを誘導した可能性はある。
でも、それではあのパニックの直前のような顔にはならないだろう。大きな瞳の子だから、感情は分かりやすく伝わる。そもそもそんなことをする利点がない。
男に声をかけられて恐怖を感じた?しかし先程「教令院内だけで五人振られた」という話を聞いている。男の対応に慣れている可能性もあるだろう。
データが少なすぎる。
アルハイゼンは食べ終えた食器を持って立ち上がった。月鈴にはおそらくこの後会えるし、その時に話を聞けばいいだろう。
1/4ページ