霽れとその先の恋について
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その姿が視界に入る度に、どこか背筋が伸びるような心地がする。
みんなとも私とも違う、オリーブブラウンの髪。
太陽を拒むような白い肌に、細く、均整のとれた体。
ドイツから転校してきたばかりの彼は、この街にとってあまりに異質で、六月の晴れ間のように美しかった。
ファウスト・ラウィーニア。その人は、黒板の前でそう名乗った。
彼はあまり話さない人らしい。
窓側の一番後ろ、たった一席はみ出したところに居場所を定められてから、ずっと一人で俯いて座っている。
頭はいいらしい。数学で難しい問題を指されたときはすらすらと数式を黒板に書いていたし、英語の発音は教師のそれよりも流暢に聞こえた。
でも彼はいつだってひとりで、クラスメイトと会話をしようとはしなかった。昼休みにはいつも姿を消し、放課後は誰よりも早く帰る。家がどの辺にあるのかも、何が好きなのかも、なんで転校してきたのかも、誰も知らない。
美しい容姿をしているから、女子には当然騒がれた。でも彼が心底嫌そうな顔をしたから、「え、何あれ感じ悪い……」と言われてそれっきり。
海外からの転校生ということで、先生たちも彼をどう扱っていいか分かりかねている様子だ。取り敢えず、国語と古文の授業で「ファウスト」という名が呼ばれたことは無い。
五時間目の現代文。
まだ四月で特に難しい内容もなく、お腹も脹れて眠気が襲うこの時間。
「はい、じゃあ今日は自分のお気に入りの物語について作文を書いてみましょう」
まだ教師になって二年目なのだと言っていた若い先生は、そう言って手を叩いた。
教室のあちこちから「え〜」という残念な空気感が漂っている。基本作文は嫌いな人が多いからだろう。
好きな物語か。
私は家に山積みになっている本の背表紙を思い出した。どれにしよう。
『檸檬』もいいし『人間失格』も捨てがたい。物語ってことは漫画でもいいのかな。
カテゴリが広すぎて迷うな〜なんて思っていると、後ろから小さく「……あの、」と声がした。
私の席は窓際の後ろから二番目。振り向くとそこには、当然だけどあの転校生が座っている。
「漢字、が、」
「はい?」
周りに配慮した小さな声。
眼鏡の奥から華やかな菫色の瞳が覗いた。
「漢字が、わからないんだ。教えてほしい」
「いいですよ。何がわからないですか?」
「これだ」
彼は原稿用紙の片隅にひらがなを書いて見せた。マスの中には「X脚」「いじめ」とか、そういう文字が並んでいる。
「あ、これは……」
私はその隣に『運動音痴』と書いて見せた。
「こうですね」
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼はまた下を向き、私は前に向き直った。
こちらを見ていた先生が微笑む。こっちも不器用に笑い返して、ペンを握り直した。
作文そのものはそれから十分程度で描き上がった。
選んだのは『桜の森の満開の下』。短いし変わってるし感想が書きやすいというのが選考理由だ。
「じゃあ、隣の人と二人一組になって読み合いましょう!」
今度は露骨に「え〜」と教室のどこかから声が漏れた。そりゃそうだ。自分の書いた文なんて人に読まれたくないし、それならせめて仲がいい人が良かった。
「ファウストくんは真木さんと組んでください」
「はい」
先生は唐突にこちらを向いてそう言った。ファウストクンハ真木サント組ンデクダサイ。
「……よろしく」
「よろしく、お願い、します」
ケロリとした顔で彼は紙をこちらに差し出してくる。受け取って、こちらも原稿用紙を渡した。
外国人が書いたとは思えない整然とした文字が、きちんとマスに収まって並んでいる。
先程欄外に書かれたひらがなは消されて、私が見本として書いた「運動音痴」だけが残されていた。彼が書いた文字と並ぶと、酷く汚く見える。
「……やっぱり」
予想した通り、彼はミヒャエル・エンデの『モモ』について書いていた。
「予想がついていたのか?」
「さっきちらっと見た内容から、なんとなく」
「なるほど」
白い手が、私の原稿用紙を持ち直す。その動きがあんまりにも美しくて、何だか泣きたくなった。
「……あの、恥ずかしい話なんだが」
「はい」
「まだあまり読めないところがあるんだ。読み方を教えて欲しい」
「あっ」
「……すまない」
困りがちな眉が心做しかしゅんと下げられる。春のような瞳が陰るのは見たくなくて、私は慌てて彼の手元を覗き込んだ。難しい漢字を使いすぎたかもしれない。読まれる相手が彼だとわかっていたら、もう少し難易度を下げたのに。
「えっと、どこら辺が……?」
「『幻想的な表現が』の次だ」
「あ、これは「しゅういつ」ですね」
「なるほど。ありがとう」
彼はノートを取り出して何かを書き込んだ。
「あとは……?」
「ここだ」
「「ひゆ」です」
「ありがとう。意味はあとで自分で調べてみるよ」
「え、教えますよ」
切れ長の目が大きく見開かれた。はっきりした二重瞼だ。
「いいのか?」
「いいですよ。減るものでもないし」
「ありがとう」
そしてその眉尻がふわりと下がって、口元がほころぶ。彼は本当に、物語の中のように美しい。
その日の放課後、私は先生に呼び出された。
「ごめんね、急に呼び出して」
「いえ」
「ファウストくんのことなんだけどね」
「え」
現代文担当の彼女は、私たちの担任でもある。
先程の様子になにか引っかかるものがあったのだろうか。
「彼、真木さんに話しかけてたでしょ?あの時何を聞かれてたの?」
「か、漢字の書き方を……。あと読み方と意味も」
「そうだったのね。ありがとう」
彼女は日誌らしきものに「自分から話しかける」と書き込んだ。
「実はファウストくん、日本に来たばかりなんだよね」
「え、そうなんですか?」
「うん。今年の二月に来たんだって」
「でも話し方はほぼネイティブでしたよ」
「前から独学で勉強してて、喋りは完璧なんだって。でもまだ読み書きが難しいところがあるみたい」
彼女はそう言って「でも字とか綺麗だし凄いよね〜」と笑う。
「ファウストくん、前に何かあったみたいでなかなか私たちとも他の生徒たちとも話さなかったんだよね。でも今日は真木さんに話しかけてたから、何かあったのかと思って」
「単純に、漢字が解らないと課題が出来ないからじゃないんですか……?」
確かに、彼が誰かと話しているのは見たことがない。今日だって五時間目が終わったあとは無言だったし、SHRが終わったらすぐに席を立っていた。
「でもファウストくんが人に尋ねるなんてこと、本当になかったから。これは大きな進歩だよ」
「はあ……」
先生は嬉しそうだ。
「真木さんの後ろにファウストくんの席を置いたのは、そういう理由もあるし」
「え?」
何その話。私は目を丸くして目の前の若い女教師を見た。
「真木さん、国語科目に特に強いでしょ。だからファウストくんの近くにいてもらって、何かあったら助けてもらおうかなっていう魂胆」
「ええ……」
確かに私は現代文やら古文やら、そういう教科が得意ではある。でもまさか、そんなことを期待されていたなんて知らなかった。
「ファウストくんは私たちにも困ってることを相談しないし、ほら、一部の女の子たちに変なはしゃがれ方されちゃったせいで何となく接しにくくなってるでしょ」
「まあ、そうですね」
「一応その女の子たちには私から注意はしたんだけどね。やっぱりヨーロッパ系のイケメンに拒絶されたショックは大きいみたいよ」
私は五時間目に見た端正な顔を思い出す。確かにあの見目麗しい人に明確に嫌がられたとしたら、心に負うダメージは大きいだろう。
「だから真木さん、何かファウストくんが困ってそうだったら助けてあげてね。教師からこんなこと頼むって本当はおかしいことだとは思うんだけど、まずは日本で人と打ち解けてもらわないとこっちも彼に必要な支援がわからない」
彼女はパン、と手を合わせた。
教員という立場の人にしては、随分と素直にものを話す人だ。私はそれに好感を覚えた。
「わかりました。あんまりグイグイいかない程度に気にかけます」
「ありがとう!」
かといって、何をすべきかもよくわかってないんだけど。
職員室を出たあとについたため息は、多分誰にも聞かれてはいないだろう。
みんなとも私とも違う、オリーブブラウンの髪。
太陽を拒むような白い肌に、細く、均整のとれた体。
ドイツから転校してきたばかりの彼は、この街にとってあまりに異質で、六月の晴れ間のように美しかった。
ファウスト・ラウィーニア。その人は、黒板の前でそう名乗った。
彼はあまり話さない人らしい。
窓側の一番後ろ、たった一席はみ出したところに居場所を定められてから、ずっと一人で俯いて座っている。
頭はいいらしい。数学で難しい問題を指されたときはすらすらと数式を黒板に書いていたし、英語の発音は教師のそれよりも流暢に聞こえた。
でも彼はいつだってひとりで、クラスメイトと会話をしようとはしなかった。昼休みにはいつも姿を消し、放課後は誰よりも早く帰る。家がどの辺にあるのかも、何が好きなのかも、なんで転校してきたのかも、誰も知らない。
美しい容姿をしているから、女子には当然騒がれた。でも彼が心底嫌そうな顔をしたから、「え、何あれ感じ悪い……」と言われてそれっきり。
海外からの転校生ということで、先生たちも彼をどう扱っていいか分かりかねている様子だ。取り敢えず、国語と古文の授業で「ファウスト」という名が呼ばれたことは無い。
五時間目の現代文。
まだ四月で特に難しい内容もなく、お腹も脹れて眠気が襲うこの時間。
「はい、じゃあ今日は自分のお気に入りの物語について作文を書いてみましょう」
まだ教師になって二年目なのだと言っていた若い先生は、そう言って手を叩いた。
教室のあちこちから「え〜」という残念な空気感が漂っている。基本作文は嫌いな人が多いからだろう。
好きな物語か。
私は家に山積みになっている本の背表紙を思い出した。どれにしよう。
『檸檬』もいいし『人間失格』も捨てがたい。物語ってことは漫画でもいいのかな。
カテゴリが広すぎて迷うな〜なんて思っていると、後ろから小さく「……あの、」と声がした。
私の席は窓際の後ろから二番目。振り向くとそこには、当然だけどあの転校生が座っている。
「漢字、が、」
「はい?」
周りに配慮した小さな声。
眼鏡の奥から華やかな菫色の瞳が覗いた。
「漢字が、わからないんだ。教えてほしい」
「いいですよ。何がわからないですか?」
「これだ」
彼は原稿用紙の片隅にひらがなを書いて見せた。マスの中には「X脚」「いじめ」とか、そういう文字が並んでいる。
「あ、これは……」
私はその隣に『運動音痴』と書いて見せた。
「こうですね」
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼はまた下を向き、私は前に向き直った。
こちらを見ていた先生が微笑む。こっちも不器用に笑い返して、ペンを握り直した。
作文そのものはそれから十分程度で描き上がった。
選んだのは『桜の森の満開の下』。短いし変わってるし感想が書きやすいというのが選考理由だ。
「じゃあ、隣の人と二人一組になって読み合いましょう!」
今度は露骨に「え〜」と教室のどこかから声が漏れた。そりゃそうだ。自分の書いた文なんて人に読まれたくないし、それならせめて仲がいい人が良かった。
「ファウストくんは真木さんと組んでください」
「はい」
先生は唐突にこちらを向いてそう言った。ファウストクンハ真木サント組ンデクダサイ。
「……よろしく」
「よろしく、お願い、します」
ケロリとした顔で彼は紙をこちらに差し出してくる。受け取って、こちらも原稿用紙を渡した。
外国人が書いたとは思えない整然とした文字が、きちんとマスに収まって並んでいる。
先程欄外に書かれたひらがなは消されて、私が見本として書いた「運動音痴」だけが残されていた。彼が書いた文字と並ぶと、酷く汚く見える。
「……やっぱり」
予想した通り、彼はミヒャエル・エンデの『モモ』について書いていた。
「予想がついていたのか?」
「さっきちらっと見た内容から、なんとなく」
「なるほど」
白い手が、私の原稿用紙を持ち直す。その動きがあんまりにも美しくて、何だか泣きたくなった。
「……あの、恥ずかしい話なんだが」
「はい」
「まだあまり読めないところがあるんだ。読み方を教えて欲しい」
「あっ」
「……すまない」
困りがちな眉が心做しかしゅんと下げられる。春のような瞳が陰るのは見たくなくて、私は慌てて彼の手元を覗き込んだ。難しい漢字を使いすぎたかもしれない。読まれる相手が彼だとわかっていたら、もう少し難易度を下げたのに。
「えっと、どこら辺が……?」
「『幻想的な表現が』の次だ」
「あ、これは「しゅういつ」ですね」
「なるほど。ありがとう」
彼はノートを取り出して何かを書き込んだ。
「あとは……?」
「ここだ」
「「ひゆ」です」
「ありがとう。意味はあとで自分で調べてみるよ」
「え、教えますよ」
切れ長の目が大きく見開かれた。はっきりした二重瞼だ。
「いいのか?」
「いいですよ。減るものでもないし」
「ありがとう」
そしてその眉尻がふわりと下がって、口元がほころぶ。彼は本当に、物語の中のように美しい。
その日の放課後、私は先生に呼び出された。
「ごめんね、急に呼び出して」
「いえ」
「ファウストくんのことなんだけどね」
「え」
現代文担当の彼女は、私たちの担任でもある。
先程の様子になにか引っかかるものがあったのだろうか。
「彼、真木さんに話しかけてたでしょ?あの時何を聞かれてたの?」
「か、漢字の書き方を……。あと読み方と意味も」
「そうだったのね。ありがとう」
彼女は日誌らしきものに「自分から話しかける」と書き込んだ。
「実はファウストくん、日本に来たばかりなんだよね」
「え、そうなんですか?」
「うん。今年の二月に来たんだって」
「でも話し方はほぼネイティブでしたよ」
「前から独学で勉強してて、喋りは完璧なんだって。でもまだ読み書きが難しいところがあるみたい」
彼女はそう言って「でも字とか綺麗だし凄いよね〜」と笑う。
「ファウストくん、前に何かあったみたいでなかなか私たちとも他の生徒たちとも話さなかったんだよね。でも今日は真木さんに話しかけてたから、何かあったのかと思って」
「単純に、漢字が解らないと課題が出来ないからじゃないんですか……?」
確かに、彼が誰かと話しているのは見たことがない。今日だって五時間目が終わったあとは無言だったし、SHRが終わったらすぐに席を立っていた。
「でもファウストくんが人に尋ねるなんてこと、本当になかったから。これは大きな進歩だよ」
「はあ……」
先生は嬉しそうだ。
「真木さんの後ろにファウストくんの席を置いたのは、そういう理由もあるし」
「え?」
何その話。私は目を丸くして目の前の若い女教師を見た。
「真木さん、国語科目に特に強いでしょ。だからファウストくんの近くにいてもらって、何かあったら助けてもらおうかなっていう魂胆」
「ええ……」
確かに私は現代文やら古文やら、そういう教科が得意ではある。でもまさか、そんなことを期待されていたなんて知らなかった。
「ファウストくんは私たちにも困ってることを相談しないし、ほら、一部の女の子たちに変なはしゃがれ方されちゃったせいで何となく接しにくくなってるでしょ」
「まあ、そうですね」
「一応その女の子たちには私から注意はしたんだけどね。やっぱりヨーロッパ系のイケメンに拒絶されたショックは大きいみたいよ」
私は五時間目に見た端正な顔を思い出す。確かにあの見目麗しい人に明確に嫌がられたとしたら、心に負うダメージは大きいだろう。
「だから真木さん、何かファウストくんが困ってそうだったら助けてあげてね。教師からこんなこと頼むって本当はおかしいことだとは思うんだけど、まずは日本で人と打ち解けてもらわないとこっちも彼に必要な支援がわからない」
彼女はパン、と手を合わせた。
教員という立場の人にしては、随分と素直にものを話す人だ。私はそれに好感を覚えた。
「わかりました。あんまりグイグイいかない程度に気にかけます」
「ありがとう!」
かといって、何をすべきかもよくわかってないんだけど。
職員室を出たあとについたため息は、多分誰にも聞かれてはいないだろう。
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