短編

わたし、月からきた。
銀色のさざ波があなたを選んだその瞬間に、わたしはその薄い左肩に宿った。とびきりの呪いと復讐と、そして遠大な恋と愛を背負わせて。
祝福と純潔の名を持つあなたは、わたしのことを酷く嫌ったように見えた。なんで、どうして、僕はもう世界なんて救いたくないのに。

ごめんなさいって思ってる。世界の誰より優しくて不器用な魔法使い。きっとあなたが思うよりこの世界はずっと鮮やかに歪んでいて、それでいて醜くくすんでいる。サングラスをかけていなかった頃のあなたの菫を、きっと月は愛してしまった。だからあなたはあの運命に選ばれ、火にその白い肌を舐められてしまったのだ。

ごめんなさい。わたし、こなければよかったね。
眠るあなたの背中を感じながら、毎日ずっと謝っている。
紅蓮がはねる。濃紺が舞う。
怒号はオーケストラのチューニングのように、愛した蒼天の色は氷のように。
あなたの薔薇の肌を留める茨は黒く重く、流れる紅は炎よりずっと甘くて悲しい色。
「どうして」
あなたは言う。
「どうして、アレク」
そばで笑っていたはずの銀色は、緩く靡いて遠ざかる。
「なんで、僕は」
ぼくは、なに?
そしてあなたは口から紡ぐ。なんて美しい、桜のような唇から。
「アレク!!!!!」
もう、あなたのリュートは届かない。
揃いで伸ばしていた深い森の木の色の髪は、首元で散らされた。あなたの菫を奪ってやろうと、かつての仲間たちが騒ぎ立てる。殺せ、殺せ、裏切り者を。魔法使いを、殺してやれ。
白い貝のようなその耳に、声は無遠慮に突き刺さる。白百合の花だったあなたの心に、初めてインクが落とされた。
その瞬間を、空を支配する惑星が見ていた。
そうして、わたしがやってきたのだ。

「うう……」
魘される声。
手を差し伸べることもできないわたしは、それをずっと聴いている。
だれか、だれか、きてあげて。わたしのせいで苦しむこの人を、助けてあげて。
でも辺りはしんとして、消されたキャンドルの溶けた蝋だけが音もなく固まっていく。わたしの故郷から注ぐ光を、無遠慮に鏡が反射した。
「ぅ、あ……」
やさしい声が歪んで、細い肩が揺れる。誰よりも美しい、悲しい、夢の果ての犠牲者。
遠い日々の残骸が、あなたをこんなにも苦しめる。
黒に染まりきれなかったあなたを、傷という名のわたしが締めつける。
「あ………れ、く……」
過去に消えたその名を呼ぶ声を、いっそ塞いでしまいたい。
でも、それじゃ楽にもなれやしない。わたしが離れてあげないと、わたしが消えてあげないと。
そしたら、あなたは魘されなくなる。
かつて燃やされてしまった心は、どうしたって戻らないけれど。

もうすぐ夜が明ける。
空を牛耳る白銀が消えて、みんなの味方が東から昇る。あたたかな光はあなたのことも、いつだって平等に包んでくれる。
ねえ、とわたしはあなたを呼ぶ。いつか壊れてしまう世界を二十一等分して、その中のわたしを背負ったあなたに。
魂すらないわたしの声も、あなたには届かない。
でもいいの。その分ずっとそばにいるから。
そばにいて、しまえるから。

火の粉が消えた。カーテンの隙間から朝陽が差して、溢れた夢を追い払う。
酷く波打っていた心臓がゆっくりと拍を刻んで、絞り出されていた声はすうすうと、子猫のような寝息に変わった。

ファウスト・ラウィーニア。
わたしを背負う、魔法使いの名。
月の願いが果たされるまでは、そばにいるね。
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