君のいる春を手放せない
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二月十四日。
この世界でもすっかり定着したこの特別な日、西の国のとある街で大きなイベントが開催される。
その名は「L'amore è primavera」、訳すと「恋は春」。昼間は女性のみが入場してチョコレートや可愛い雑貨を山ほど買い、夜は入場してきた異性にそれらを渡したりダンスを踊ったりして楽しむというものだ。
私は毎年わざわざ西の国まで行って、このイベントに参加している。
理由は二つ。一つは、たくさん出回る質のいい薔薇をゲットするため。
そしてもう一つは、私がピンクが大好きだからだ。
「L'amore è primavera」の期間中、街のいたる所がピンクの花やリボンで飾られ、入場者もピンク色の物を身につけることが義務づけられる。
なんて素晴らしい祭りだろうか。私はピンクのリボンが似合う女になりたくて日々美容に対するアンテナを張るような生き物なのだから、これを見逃すはずがない。
もちろん今年も私は喜び勇んで現地入りした。
隣でおどおどするファウストを連れて。
彼は毎年「一人で西の国まで行くのは危ない」と忠告してくれていた。
「あの国は治安もそんなに良くないし、きみは顔も名前も知れている。ただでさえ世界で唯一の存在なのだから、護衛の一人でも連れていった方がいい」と。
でも私はそれを断っていたのだ。女性オンリーの昼間しか行かないし、薔薇の買い付けもしたいし、何よりピンクを思いっきり浴びたかったから。
そしたらとうとう「ならば僕も行く」とファウストは言い出した。「きみをあまりここに縛りつけるのもどうかと思うし、僕がいれば夜もいられるだろ」なんて、少し照れながら。
私は二つ返事で了承した。この二百年間毎年参加してきたけど夜は経験がないし、一緒に楽しめる人がいるならそれに越したことはない。
「でもファウスト、昼間は女性しか入れませんよ?」
そう問うた時、ファウストはいたって真面目な顔でこう宣ったのだった。
「女体化すればいいだろう」
そんなことで、今私の目の前には女の子になったファウストが立っている。
160センチの私より頭半分低いから、多分身長は150程度。アメジストの瞳はいつもよりぱっちりと大きく、癖のあるオリーブブラウンは腰まで伸びて揺れている。
同色の睫毛は雪が積もるほどに長くくるりと上にあがり、鼻筋は細く通り、小さな唇はさくらんぼのように赤い。輪郭はやや丸みを帯び、顔全体を幼く見せていた。
体格も細くて小さい。胸は多分AA、手足も折れそうなほど華奢だ。お人形さんかな?と私も初めは目を疑った。いつもより高い声で「僕だぞ」と言われるまでは。
前提条件として、ファウスト・ラウィーニアという魔法使いは見目麗しい。二百年前はそのご尊顔をサングラスや帽子で隠していたが、賢者の魔法使いを引退してからはどちらも私の前では外すようになった。
それが女体化。当然美少女になるはずである。
本当に羨ましくて思わずじっと見つめてしまった。私もこんな可愛い子になりたい。
「……晶」
「はい」
「何か変なところでもあるか?」
「いえ、どこからどう見ても可愛い女の子です」
「なら良かった」
口調がいつもと同じというのも誠によろしい。この見てくれで僕っ娘なんて元いた世界だったら秋葉原・池袋界隈が大爆発を起こしていたことだろう。異世界でよかった。
「じゃあ着替えましょうか」
「ああ」
ファウストが持ってきた大きな包みを開ける。
これは彼が事前にクロエの店に赴き、女体化した体に合わせて作ってもらった衣装だという。この天使相手にあの天才がどんな服を拵えたのか、現役の女としては非常に気になるところだ。
「え、待ってめっちゃかわいい」
私は心の中であの赤毛の青年を拝んだ。センスの良いチェックの包みから出てきたのが、この世のものとは思えぬほどに可愛らしい洋服だったから。
それは、薄いピンクとホワイトのドレスワンピースだった。
かなり大きなクワイアボーイ・カラーにブラウンのラインが入り、ハートやリボンのモチーフでできたピンクのレースがそれを縁どっている。胸元にはピンク×ホワイトのギンガムチェックの大きなリボンがついていた。
袖はランタン・スリーブの切り返しに同じ柄の小さなリボンをつけ、さらにコルネット・スリーブに繋げていた。その裾は襟と同様のレースで飾られている。
前身頃はピンクのリボンがバーラップボウで三連、サイドにまたレース。そしてすごいのがその下のスカート部分だった。
わかりやすく言えば『ベルサイユのばら』のアントワネットのドレスの縮小版だ。可愛く膝丈に収まっているものの、そのボリュームは本物のドレスにも劣らない。
まず、全体的に中世のガウンドレスっぽいデザインなのだ。そこにレースもリボンもてんこ盛りになっている。ペチコートにあたる部分の刺繍の細さとレースの量はよく見れば目眩がするほどだ。
これぞ正統派ロリータ!と言わんばかりの見事なワンピース。ありがとうクロエ。ありがとう世界。目の前の美少女がこんなのを着ると思うと生きててよかったとすら思えてくる。
こんな服なので、当然付属品もとんでもない量がある。さらに別に包まれた下着類、パニエ、靴、その他アクセサリーも合わせると「どこのお姫様ですか?」と突っ込みたくなる大ボリューム。いや賢者の魔法使いのファウスト様ですが?建国の英雄ですが?と心の中の厄介な人が喚いている。
「……改めて見ると凄いな」
「これ、全部身につけるんですよ、ファウスト」
「……頑張るよ」
包まれていた下着類を取り出した。
「可愛い〜!!!」
「ど、どうやって着るんだこれ……」
内容はパンツ、ブラジャー、スリップ、ガーターとソックス。どれも流石クロエと店の方を拝みたくなる素晴らしいクオリティーだった。
色は白。レースはふわふわと肌触りが良く、カップはぺたんこのファウストに合わせて柔らかめで浅め。スリップはシルクで出来ておりサラサラ、ガーターはきちんとレースが腰周りを覆うように上だけ縫い付けられた仕様だ。
「ファウスト、全部脱いでください」
「わ、わかった……」
「パンツは履き方わかりますよね?」
「わかる」
後ろを向くとするすると衣擦れの音が聞こえる。ファウストが着てきたカソックと下着を脱ぐ音だ。
「……履けたぞ」
「失礼しますね」
時刻は朝七時。
生まれたての朝日に照らされたパンツ一枚の美少女。手で胸を隠す仕草が可愛らしい。
私は心の中で土下座した。勝てません。あなたが優勝です。
「じゃあブラつけるので後ろ向いてください」
「あ、ああ」
私のリボンで取り敢えず長い髪を上げ、繊細な細工の肩紐を肩に通させる。
「カップの下を優しく持って、前に少し屈んでください」
「わかった」
バストにカップを沿わせてそのまま抑えてもらい、フックを留める。
「失礼しますね」
「えっ、わっ」
そしてストラップを少し浮かせて、流れた肉を集めて入れていく。ファウストは恥ずかしいのか瞳を潤ませてこちらを見てきた。お願いだからやめてくれその顔。眉を八の字にするな!ってそれはいつもか。
それにしてもこの体肉がない。私のを分けて差し上げたい。
そうして装着を終えた時にはもう彼の顔は真っ赤になっていた。
「きみ、結構容赦ないな……」
「今のファウスト女の子なんで……」
ガーター、ソックス、スリップはファウストも自力で身につけることが出来た。まだゴムの入った靴下がないこの世界では、男性もソックスガーターやシャツガーターを扱うからだ。
スリップの上からパニエ、そしてその上からワンピースを着せて整え、首元には揃いのチョーカーを結ぶ。靴はこれまた叫び出したくなるほど可愛いピンクのパンプスだ。フリルやらリボンやら、クロエはよくこんなのが思いつくな。
かなり厚底な上にヒールだから大丈夫かと思ったが、ファウストは「問題ない」ととことこ歩いて見せた。いつもよりだいぶ小股でかわいい。
無事フリフリの国のお姫様となったファウストをドレッサー前の椅子に座らせる。目の前に広げられているのは、大量の化粧品。
ここからが私の領域。メイクとヘアである。
服を汚さないようにハンカチを広げ、その可愛らしい顔をじっと見た。
「洗顔とスキンケアは?」
「済ませてきた」
生真面目な彼は頷く。
甘ロリータに必要なのは人形のような白くてマットな肌だから、化粧下地はテカリを抑えるものを選んだ。元が色白なファウストに合う色を見つけるのはなかなか難しいのだ。
彼は元々きめ細かく綺麗な肌で、色ムラや荒れもない。ベースは最低限でいい。
だからコンシーラーは無し、ファンデーションはパウダーで軽く。なんじゃこの舐めたベースメイクは!と思うけど、素材が良すぎるので仕方ない。中学時代の私が見たら地に伏して泣くだろう。ハイライトはピンクのチークで入れた。服が派手だからだ。
眉は足りないところを書き足すだけで終了、アイメイクがロリータにおける肝である。
少し眠たげでジト目になりがちなファウストの目を、お人形の如きぱっちりお目目にしなくてはならない。
しかしこれも元の二重幅も目の縦横も大きい彼にとっては大きな問題にはならない。ピンクでグラデーションを作ってラメを足し、涙袋はブラウンで影を入れてここにもラメ。アイラインは下に二ミリ。元が大きいとこれしか引かなくていいのだ。ただ、つり目の印象を和らげるために下にブラウンでくの字を入れ、薄いブラウンのアイライナーで地雷盛りラインを引いた。
睫毛は驚異のオール自前、ビューラーとマスカラだけで終了だ。瞳の色も自前だし本当になんなんだこの人。
チークは高い位置に丸く置き、小さな唇には艶のあるリップとグロスを入れて少しづつ整えていく。ここまで可愛いとコンシーラーで余分なとこ消すとかしなくていいのだ。これを勝ち組というのである。
「終わりましたよ」
「凄いな。だいぶ違う」
「元が良すぎるのでかなり薄めですけどね」
「え?薄い?」
鏡でしげしげと自分の顔を眺める美少女。これぞまさしく清純派だ。
「次髪の毛です」
「ああ。どうやる予定なんだ?」
私はその量の多いくせっ毛をキュッと二つに分けてまとめて見せた。
ツインテールである。
こんなロップイヤーみたいなビジュアルしてるんだからやるべきだと私の中の勘が告げている。行け。やれ。相手が六百歳の本当は男性の魔法使いだとしても怯むな。
「量が多いので根元に三つ編み巻き付けます」
「僕、髪の量多いんだよな」
「そうですね。多いししっかりしてる」
アレンジしやすくて最高ですありがとうございます。どこまで可愛ければ気が済むんですか。
私は手早く髪をまとめ、編み、巻き、結んだ。こんなの毎日やってるから三分もあれば余裕。おまけに相手はとっても大人しいのだ。
そして頭のてっぺんにめちゃくちゃ大きいリボンを固定していく。ヘッドドレスと迷いましたというのが散々伝わってくるそれは、デコレーションも規格もレベル違いの大作だ。クソデカおリボンは正義である。最後に薄いフレームの丸メガネをかけさせて終了。
「完成です」
「……これ、本当に僕か?」
「ファウストですよ」
「凄いな……」
なんじゃこのピンクのお姫様は。小さな体格と可愛いお顔がもう天使にしか見えません。
彼はちまちまと歩いてポスンとベッドに腰掛けた。うぎゃーかわいい。
「次は君の番だろう?」
「はい。すぐ終えますね」
あのお姫様に比べれば私は一瞬だ。手早く服を脱いで新調した白ワンピースに着替え、顔を作っていく。
遠心顔にして優しい印象に。グラデーションとラメはファウストと何も変わらないけど、どちらかというと私の方がすっきりした印象にはなる。
髪はサイドでピンクのリボンを編み込んで結んで毛先を巻くだけの簡単仕様。前髪を少し薄くしておいたのでこれだけでも充分可愛い。
靴は焦げ茶のヒールブーツにした。
「終わりましたよー」
「速くないか?!」
「慣れてますからね」
「それにしたって凄い」
彼は小さな両手でぱちぱちと拍手を送ってくれた。なんだあの手……お人形さんかな……。
街に出たのは九時のことだった。
既に屋台や露店が開店し、ピンクで着飾った女の子達が歩いている。
中でも圧倒的にファウストは可愛かった。隣をちょこちょこついてくる様は歩く芸術品と言っても過言ではない。
「お久しぶりです」
「あら晶様!ご無沙汰しております」
薔薇の発注をしながら雑貨やお菓子を見ていく。
「かわいいな……」
ファウストも気分はすっかり女の子なのか、店にわりと積極的に入っていくのが面白い。薔薇と白猫のオルゴールや薔薇の香油、クッキーなんかをどんどん買っていく。
「あそこの店、珍しい薬草が売ってる」
「なら後で行きましょうか」
「そうしてくれると嬉しい」
ふうむ、と店の前で考えるファウストはもうそれだけで絵画だ。東の生徒だった魔法使い達に見せてあげたい。ネロは料理人戻り、ヒースクリフは家を継ぎ、シノはその補佐に入ったと聞いている。
そして彼らに慕われた呪い屋先生は今、うさぎのぬいぐるみを抱っこしている。あまりにかわいいし目が合ったからと唇をとがらせてのご購入だ。
「薬草のお店どこですか?」
「あっちだ」
小さな手が通りの左側を指さす。その爪は私が事前にピンク色に塗ったおかげでキラキラと可愛らしい。
「この薬草は打ち身によく効くんだ」
「お嬢ちゃん詳しいね」
「お嬢ちゃん……ああ、まあな」
「かわいいのに男勝りな口調で話すねえ」
「癖だ」
お店の人がカラカラと笑って「これはサービスね」と薬草を増量している。この人まさか目の前のお嬢ちゃんがあのファウスト・ラウィーニアだなんて思ってないんだろうな。
昼食はカフェで摂った。
ふわふわの猫型パンケーキ。ベリーやらローズやらクリームやらでデコレーションされたそれが運ばれてきた時、ファウストは「はわわ」と言った。あのファウストの「はわわ」。今頃フィガロは草葉の陰で涙を流しているはずだ。
「可愛すぎて食べにくい」と言いつつもそのまろい頬っぺは美味しそうに甘味を味わっている。見ているだけで浄化されていきそうだ。
「晶も食べるか?」
「え、大丈夫ですよ」
「遠慮するな」
ファウストはちょっと大きめにパンケーキを切り取った。クリームとベリーもフォークに刺し、「あーん」とこちらに向けてくる。
しゃあない。食べます。絵面が可愛すぎて辛いです。
「美味しいですね」
「だろ?」
ツインテールが揺れる。気合を入れて巻いた甲斐があった。とんでもなくかわいい。
「私のも食べます?」
「あ、ああ」
私は自分のチーズケーキを切って彼の口に入れる。「美味い」と目を丸くしたその睫毛がめちゃくちゃ長い。
「ここ美味しいな」
「ですね」
紅茶を飲む仕草が上品で絵になる。私もこちらの世界に永住することが確定してから様々な作法を教わったものの、彼には敵わない。田舎の村出身だと聞いたけど、どこでその気品を身につけたのだろうか。立ち方ひとつとっても、彼は普段から美しい。
「……どうした?」
「いえ、なんでも」
首を傾げる仕草がお人形さんのように可愛らしい。私は笑って、手元のケーキに視線を落とした。
夕方に一度宿に戻ってきた。
まずファウストの部屋に行って彼の服を脱がせ、ブラジャーのホックを外して自室に戻る。字面はとんでもないけど彼の体は女の子なのでなんら問題はない。
服はそのままでいいか。化粧は軽く直して、髪も少しだけ修正して。
ドレッサーの前でそんなことを考えていると、控えめなノックの音がした。ファウストだ。
「はい」
もう着替え終わったのか。早いな。
ドアを開ける。
えぐいイケメンがいた。
いや、知ってはいた。ファウスト・ラウィーニアの顔面のポテンシャルの高さは重々承知の上だし、女の子の姿でもそれを痛感した。
だからといってこれは、非常に良くない。良くないよ。
化粧はきちんと落とされていた。でもその上に、新たにメイクが施されているのだ。先程とは違い、求心顔になるように計算されている。彼が「実はあまりよく思っていない」と昔言っていた眉は抑えめに、目を際立たせるように上手く、かといって濃すぎないように整えられていた。具体的に言うとほんのり入ったブラウンシャドウが最高にいい塩梅なのだ。アイラインも綺麗に睫毛の間を埋めている。
「……クロエに習ったし、きみの動きも見たから自力でできると思ったんだ。変か?」
「まさか。お似合いですよ。かっこいい」
自信なさげに微笑む彼は最高に素敵だ。こんなに麗しい人がこの世にいていいのか。
「……少しいい?」
「?はい」
彼は私の部屋に入ると、少し離れたところから何かを確認した。
「そのままでもきみは綺麗だけど、せっかくならと思って」
「え」
「《サティルクナート・ムルクリード》」
それは、おとぎの国の呪文だった。
いつだって優しい声は、少し早い花の香り。
ドレッサーに映りこんだ薄桃のドレスを纏った女は、まさか。
「いつの間に……」
「クロエに仕立ててもらってたんだ」
昼間のファウストの装いがお人形さんなら、こちらは妖精。ソフトマーメイドの膝下がふわふわと揺れ、袖口のパフスリーブとレースが甘くとろけて腕を彩っている。
シルエットは当世の流行りだ。でもファウストと並ぶと少しクラシカルに映るようになっている。彼の着ているチョコレート色のスリーピースと揃いなのだと、何となくわかった。
「綺麗だよ。すごく」
その顔があまりにも嬉しそうなものだから、私は緩く巻かれたポニーテールの毛先を弄りながらそっぽを向いた。
夜の街は楽しかった。
昼とはまた違う店が並び、振る舞われる飲み物はお酒が主になる。ルージュベリーとローズをふんだんに使ったそれはとても飲みやすくて、「飲み過ぎないようにな」なんて言っていたファウストの方が進みが早いくらいだった。
だからだろうか。
だいぶ酔っていたであろう彼が買ってくれたものがある。シルバーに透明な石か嵌められた、品のいいピアスだ。
店の主人は品のいい若い女性で、私たちを見て「あら」と一声だけあげた。正体に気づいたのだろう。一応世界の救世主だから。
そして彼女は私に似合うとそのピアスをあてがい、乗じたファウストはそれを買った。そう高いものでは無いから、私も凝縮しなくて済む。
確か売店の彼女は濃いルージュを引いた唇を軽快に動かして、こんなことを言ったのだ。
「そのピアスの宝石は、少し不思議な力があるんです」と。
「持ち主が着けた状態で誰かがそこに口付けると、色が変わります。口付けた人が持ち主に恋をしているならピンク、嫌いなら黒、それ以外なら青色に」。
普段ならそんなこと気にも留めない。そういうグッズは西の国ではよくあるものだから。
これを買ったとき、ファウストは「服によく合うからつけたら」と言ったのだ。私もそれに従った。
そしてそこからが多分酒のノリである。もう遅いからと宿に帰ってそれぞれ部屋の前で別れるとなった時に、その薄くて小さい唇が私の耳に微かに触れた。
「おやすみ」と掠れた声で呟いた彼は、確かに酔っていた。でなきゃそんなことしない。
そしてそのピアスに嵌め込まれた石がピンク色に染まっているように見えるのは、やっぱり私も酔っているせいだろう。
この世界でもすっかり定着したこの特別な日、西の国のとある街で大きなイベントが開催される。
その名は「L'amore è primavera」、訳すと「恋は春」。昼間は女性のみが入場してチョコレートや可愛い雑貨を山ほど買い、夜は入場してきた異性にそれらを渡したりダンスを踊ったりして楽しむというものだ。
私は毎年わざわざ西の国まで行って、このイベントに参加している。
理由は二つ。一つは、たくさん出回る質のいい薔薇をゲットするため。
そしてもう一つは、私がピンクが大好きだからだ。
「L'amore è primavera」の期間中、街のいたる所がピンクの花やリボンで飾られ、入場者もピンク色の物を身につけることが義務づけられる。
なんて素晴らしい祭りだろうか。私はピンクのリボンが似合う女になりたくて日々美容に対するアンテナを張るような生き物なのだから、これを見逃すはずがない。
もちろん今年も私は喜び勇んで現地入りした。
隣でおどおどするファウストを連れて。
彼は毎年「一人で西の国まで行くのは危ない」と忠告してくれていた。
「あの国は治安もそんなに良くないし、きみは顔も名前も知れている。ただでさえ世界で唯一の存在なのだから、護衛の一人でも連れていった方がいい」と。
でも私はそれを断っていたのだ。女性オンリーの昼間しか行かないし、薔薇の買い付けもしたいし、何よりピンクを思いっきり浴びたかったから。
そしたらとうとう「ならば僕も行く」とファウストは言い出した。「きみをあまりここに縛りつけるのもどうかと思うし、僕がいれば夜もいられるだろ」なんて、少し照れながら。
私は二つ返事で了承した。この二百年間毎年参加してきたけど夜は経験がないし、一緒に楽しめる人がいるならそれに越したことはない。
「でもファウスト、昼間は女性しか入れませんよ?」
そう問うた時、ファウストはいたって真面目な顔でこう宣ったのだった。
「女体化すればいいだろう」
そんなことで、今私の目の前には女の子になったファウストが立っている。
160センチの私より頭半分低いから、多分身長は150程度。アメジストの瞳はいつもよりぱっちりと大きく、癖のあるオリーブブラウンは腰まで伸びて揺れている。
同色の睫毛は雪が積もるほどに長くくるりと上にあがり、鼻筋は細く通り、小さな唇はさくらんぼのように赤い。輪郭はやや丸みを帯び、顔全体を幼く見せていた。
体格も細くて小さい。胸は多分AA、手足も折れそうなほど華奢だ。お人形さんかな?と私も初めは目を疑った。いつもより高い声で「僕だぞ」と言われるまでは。
前提条件として、ファウスト・ラウィーニアという魔法使いは見目麗しい。二百年前はそのご尊顔をサングラスや帽子で隠していたが、賢者の魔法使いを引退してからはどちらも私の前では外すようになった。
それが女体化。当然美少女になるはずである。
本当に羨ましくて思わずじっと見つめてしまった。私もこんな可愛い子になりたい。
「……晶」
「はい」
「何か変なところでもあるか?」
「いえ、どこからどう見ても可愛い女の子です」
「なら良かった」
口調がいつもと同じというのも誠によろしい。この見てくれで僕っ娘なんて元いた世界だったら秋葉原・池袋界隈が大爆発を起こしていたことだろう。異世界でよかった。
「じゃあ着替えましょうか」
「ああ」
ファウストが持ってきた大きな包みを開ける。
これは彼が事前にクロエの店に赴き、女体化した体に合わせて作ってもらった衣装だという。この天使相手にあの天才がどんな服を拵えたのか、現役の女としては非常に気になるところだ。
「え、待ってめっちゃかわいい」
私は心の中であの赤毛の青年を拝んだ。センスの良いチェックの包みから出てきたのが、この世のものとは思えぬほどに可愛らしい洋服だったから。
それは、薄いピンクとホワイトのドレスワンピースだった。
かなり大きなクワイアボーイ・カラーにブラウンのラインが入り、ハートやリボンのモチーフでできたピンクのレースがそれを縁どっている。胸元にはピンク×ホワイトのギンガムチェックの大きなリボンがついていた。
袖はランタン・スリーブの切り返しに同じ柄の小さなリボンをつけ、さらにコルネット・スリーブに繋げていた。その裾は襟と同様のレースで飾られている。
前身頃はピンクのリボンがバーラップボウで三連、サイドにまたレース。そしてすごいのがその下のスカート部分だった。
わかりやすく言えば『ベルサイユのばら』のアントワネットのドレスの縮小版だ。可愛く膝丈に収まっているものの、そのボリュームは本物のドレスにも劣らない。
まず、全体的に中世のガウンドレスっぽいデザインなのだ。そこにレースもリボンもてんこ盛りになっている。ペチコートにあたる部分の刺繍の細さとレースの量はよく見れば目眩がするほどだ。
これぞ正統派ロリータ!と言わんばかりの見事なワンピース。ありがとうクロエ。ありがとう世界。目の前の美少女がこんなのを着ると思うと生きててよかったとすら思えてくる。
こんな服なので、当然付属品もとんでもない量がある。さらに別に包まれた下着類、パニエ、靴、その他アクセサリーも合わせると「どこのお姫様ですか?」と突っ込みたくなる大ボリューム。いや賢者の魔法使いのファウスト様ですが?建国の英雄ですが?と心の中の厄介な人が喚いている。
「……改めて見ると凄いな」
「これ、全部身につけるんですよ、ファウスト」
「……頑張るよ」
包まれていた下着類を取り出した。
「可愛い〜!!!」
「ど、どうやって着るんだこれ……」
内容はパンツ、ブラジャー、スリップ、ガーターとソックス。どれも流石クロエと店の方を拝みたくなる素晴らしいクオリティーだった。
色は白。レースはふわふわと肌触りが良く、カップはぺたんこのファウストに合わせて柔らかめで浅め。スリップはシルクで出来ておりサラサラ、ガーターはきちんとレースが腰周りを覆うように上だけ縫い付けられた仕様だ。
「ファウスト、全部脱いでください」
「わ、わかった……」
「パンツは履き方わかりますよね?」
「わかる」
後ろを向くとするすると衣擦れの音が聞こえる。ファウストが着てきたカソックと下着を脱ぐ音だ。
「……履けたぞ」
「失礼しますね」
時刻は朝七時。
生まれたての朝日に照らされたパンツ一枚の美少女。手で胸を隠す仕草が可愛らしい。
私は心の中で土下座した。勝てません。あなたが優勝です。
「じゃあブラつけるので後ろ向いてください」
「あ、ああ」
私のリボンで取り敢えず長い髪を上げ、繊細な細工の肩紐を肩に通させる。
「カップの下を優しく持って、前に少し屈んでください」
「わかった」
バストにカップを沿わせてそのまま抑えてもらい、フックを留める。
「失礼しますね」
「えっ、わっ」
そしてストラップを少し浮かせて、流れた肉を集めて入れていく。ファウストは恥ずかしいのか瞳を潤ませてこちらを見てきた。お願いだからやめてくれその顔。眉を八の字にするな!ってそれはいつもか。
それにしてもこの体肉がない。私のを分けて差し上げたい。
そうして装着を終えた時にはもう彼の顔は真っ赤になっていた。
「きみ、結構容赦ないな……」
「今のファウスト女の子なんで……」
ガーター、ソックス、スリップはファウストも自力で身につけることが出来た。まだゴムの入った靴下がないこの世界では、男性もソックスガーターやシャツガーターを扱うからだ。
スリップの上からパニエ、そしてその上からワンピースを着せて整え、首元には揃いのチョーカーを結ぶ。靴はこれまた叫び出したくなるほど可愛いピンクのパンプスだ。フリルやらリボンやら、クロエはよくこんなのが思いつくな。
かなり厚底な上にヒールだから大丈夫かと思ったが、ファウストは「問題ない」ととことこ歩いて見せた。いつもよりだいぶ小股でかわいい。
無事フリフリの国のお姫様となったファウストをドレッサー前の椅子に座らせる。目の前に広げられているのは、大量の化粧品。
ここからが私の領域。メイクとヘアである。
服を汚さないようにハンカチを広げ、その可愛らしい顔をじっと見た。
「洗顔とスキンケアは?」
「済ませてきた」
生真面目な彼は頷く。
甘ロリータに必要なのは人形のような白くてマットな肌だから、化粧下地はテカリを抑えるものを選んだ。元が色白なファウストに合う色を見つけるのはなかなか難しいのだ。
彼は元々きめ細かく綺麗な肌で、色ムラや荒れもない。ベースは最低限でいい。
だからコンシーラーは無し、ファンデーションはパウダーで軽く。なんじゃこの舐めたベースメイクは!と思うけど、素材が良すぎるので仕方ない。中学時代の私が見たら地に伏して泣くだろう。ハイライトはピンクのチークで入れた。服が派手だからだ。
眉は足りないところを書き足すだけで終了、アイメイクがロリータにおける肝である。
少し眠たげでジト目になりがちなファウストの目を、お人形の如きぱっちりお目目にしなくてはならない。
しかしこれも元の二重幅も目の縦横も大きい彼にとっては大きな問題にはならない。ピンクでグラデーションを作ってラメを足し、涙袋はブラウンで影を入れてここにもラメ。アイラインは下に二ミリ。元が大きいとこれしか引かなくていいのだ。ただ、つり目の印象を和らげるために下にブラウンでくの字を入れ、薄いブラウンのアイライナーで地雷盛りラインを引いた。
睫毛は驚異のオール自前、ビューラーとマスカラだけで終了だ。瞳の色も自前だし本当になんなんだこの人。
チークは高い位置に丸く置き、小さな唇には艶のあるリップとグロスを入れて少しづつ整えていく。ここまで可愛いとコンシーラーで余分なとこ消すとかしなくていいのだ。これを勝ち組というのである。
「終わりましたよ」
「凄いな。だいぶ違う」
「元が良すぎるのでかなり薄めですけどね」
「え?薄い?」
鏡でしげしげと自分の顔を眺める美少女。これぞまさしく清純派だ。
「次髪の毛です」
「ああ。どうやる予定なんだ?」
私はその量の多いくせっ毛をキュッと二つに分けてまとめて見せた。
ツインテールである。
こんなロップイヤーみたいなビジュアルしてるんだからやるべきだと私の中の勘が告げている。行け。やれ。相手が六百歳の本当は男性の魔法使いだとしても怯むな。
「量が多いので根元に三つ編み巻き付けます」
「僕、髪の量多いんだよな」
「そうですね。多いししっかりしてる」
アレンジしやすくて最高ですありがとうございます。どこまで可愛ければ気が済むんですか。
私は手早く髪をまとめ、編み、巻き、結んだ。こんなの毎日やってるから三分もあれば余裕。おまけに相手はとっても大人しいのだ。
そして頭のてっぺんにめちゃくちゃ大きいリボンを固定していく。ヘッドドレスと迷いましたというのが散々伝わってくるそれは、デコレーションも規格もレベル違いの大作だ。クソデカおリボンは正義である。最後に薄いフレームの丸メガネをかけさせて終了。
「完成です」
「……これ、本当に僕か?」
「ファウストですよ」
「凄いな……」
なんじゃこのピンクのお姫様は。小さな体格と可愛いお顔がもう天使にしか見えません。
彼はちまちまと歩いてポスンとベッドに腰掛けた。うぎゃーかわいい。
「次は君の番だろう?」
「はい。すぐ終えますね」
あのお姫様に比べれば私は一瞬だ。手早く服を脱いで新調した白ワンピースに着替え、顔を作っていく。
遠心顔にして優しい印象に。グラデーションとラメはファウストと何も変わらないけど、どちらかというと私の方がすっきりした印象にはなる。
髪はサイドでピンクのリボンを編み込んで結んで毛先を巻くだけの簡単仕様。前髪を少し薄くしておいたのでこれだけでも充分可愛い。
靴は焦げ茶のヒールブーツにした。
「終わりましたよー」
「速くないか?!」
「慣れてますからね」
「それにしたって凄い」
彼は小さな両手でぱちぱちと拍手を送ってくれた。なんだあの手……お人形さんかな……。
街に出たのは九時のことだった。
既に屋台や露店が開店し、ピンクで着飾った女の子達が歩いている。
中でも圧倒的にファウストは可愛かった。隣をちょこちょこついてくる様は歩く芸術品と言っても過言ではない。
「お久しぶりです」
「あら晶様!ご無沙汰しております」
薔薇の発注をしながら雑貨やお菓子を見ていく。
「かわいいな……」
ファウストも気分はすっかり女の子なのか、店にわりと積極的に入っていくのが面白い。薔薇と白猫のオルゴールや薔薇の香油、クッキーなんかをどんどん買っていく。
「あそこの店、珍しい薬草が売ってる」
「なら後で行きましょうか」
「そうしてくれると嬉しい」
ふうむ、と店の前で考えるファウストはもうそれだけで絵画だ。東の生徒だった魔法使い達に見せてあげたい。ネロは料理人戻り、ヒースクリフは家を継ぎ、シノはその補佐に入ったと聞いている。
そして彼らに慕われた呪い屋先生は今、うさぎのぬいぐるみを抱っこしている。あまりにかわいいし目が合ったからと唇をとがらせてのご購入だ。
「薬草のお店どこですか?」
「あっちだ」
小さな手が通りの左側を指さす。その爪は私が事前にピンク色に塗ったおかげでキラキラと可愛らしい。
「この薬草は打ち身によく効くんだ」
「お嬢ちゃん詳しいね」
「お嬢ちゃん……ああ、まあな」
「かわいいのに男勝りな口調で話すねえ」
「癖だ」
お店の人がカラカラと笑って「これはサービスね」と薬草を増量している。この人まさか目の前のお嬢ちゃんがあのファウスト・ラウィーニアだなんて思ってないんだろうな。
昼食はカフェで摂った。
ふわふわの猫型パンケーキ。ベリーやらローズやらクリームやらでデコレーションされたそれが運ばれてきた時、ファウストは「はわわ」と言った。あのファウストの「はわわ」。今頃フィガロは草葉の陰で涙を流しているはずだ。
「可愛すぎて食べにくい」と言いつつもそのまろい頬っぺは美味しそうに甘味を味わっている。見ているだけで浄化されていきそうだ。
「晶も食べるか?」
「え、大丈夫ですよ」
「遠慮するな」
ファウストはちょっと大きめにパンケーキを切り取った。クリームとベリーもフォークに刺し、「あーん」とこちらに向けてくる。
しゃあない。食べます。絵面が可愛すぎて辛いです。
「美味しいですね」
「だろ?」
ツインテールが揺れる。気合を入れて巻いた甲斐があった。とんでもなくかわいい。
「私のも食べます?」
「あ、ああ」
私は自分のチーズケーキを切って彼の口に入れる。「美味い」と目を丸くしたその睫毛がめちゃくちゃ長い。
「ここ美味しいな」
「ですね」
紅茶を飲む仕草が上品で絵になる。私もこちらの世界に永住することが確定してから様々な作法を教わったものの、彼には敵わない。田舎の村出身だと聞いたけど、どこでその気品を身につけたのだろうか。立ち方ひとつとっても、彼は普段から美しい。
「……どうした?」
「いえ、なんでも」
首を傾げる仕草がお人形さんのように可愛らしい。私は笑って、手元のケーキに視線を落とした。
夕方に一度宿に戻ってきた。
まずファウストの部屋に行って彼の服を脱がせ、ブラジャーのホックを外して自室に戻る。字面はとんでもないけど彼の体は女の子なのでなんら問題はない。
服はそのままでいいか。化粧は軽く直して、髪も少しだけ修正して。
ドレッサーの前でそんなことを考えていると、控えめなノックの音がした。ファウストだ。
「はい」
もう着替え終わったのか。早いな。
ドアを開ける。
えぐいイケメンがいた。
いや、知ってはいた。ファウスト・ラウィーニアの顔面のポテンシャルの高さは重々承知の上だし、女の子の姿でもそれを痛感した。
だからといってこれは、非常に良くない。良くないよ。
化粧はきちんと落とされていた。でもその上に、新たにメイクが施されているのだ。先程とは違い、求心顔になるように計算されている。彼が「実はあまりよく思っていない」と昔言っていた眉は抑えめに、目を際立たせるように上手く、かといって濃すぎないように整えられていた。具体的に言うとほんのり入ったブラウンシャドウが最高にいい塩梅なのだ。アイラインも綺麗に睫毛の間を埋めている。
「……クロエに習ったし、きみの動きも見たから自力でできると思ったんだ。変か?」
「まさか。お似合いですよ。かっこいい」
自信なさげに微笑む彼は最高に素敵だ。こんなに麗しい人がこの世にいていいのか。
「……少しいい?」
「?はい」
彼は私の部屋に入ると、少し離れたところから何かを確認した。
「そのままでもきみは綺麗だけど、せっかくならと思って」
「え」
「《サティルクナート・ムルクリード》」
それは、おとぎの国の呪文だった。
いつだって優しい声は、少し早い花の香り。
ドレッサーに映りこんだ薄桃のドレスを纏った女は、まさか。
「いつの間に……」
「クロエに仕立ててもらってたんだ」
昼間のファウストの装いがお人形さんなら、こちらは妖精。ソフトマーメイドの膝下がふわふわと揺れ、袖口のパフスリーブとレースが甘くとろけて腕を彩っている。
シルエットは当世の流行りだ。でもファウストと並ぶと少しクラシカルに映るようになっている。彼の着ているチョコレート色のスリーピースと揃いなのだと、何となくわかった。
「綺麗だよ。すごく」
その顔があまりにも嬉しそうなものだから、私は緩く巻かれたポニーテールの毛先を弄りながらそっぽを向いた。
夜の街は楽しかった。
昼とはまた違う店が並び、振る舞われる飲み物はお酒が主になる。ルージュベリーとローズをふんだんに使ったそれはとても飲みやすくて、「飲み過ぎないようにな」なんて言っていたファウストの方が進みが早いくらいだった。
だからだろうか。
だいぶ酔っていたであろう彼が買ってくれたものがある。シルバーに透明な石か嵌められた、品のいいピアスだ。
店の主人は品のいい若い女性で、私たちを見て「あら」と一声だけあげた。正体に気づいたのだろう。一応世界の救世主だから。
そして彼女は私に似合うとそのピアスをあてがい、乗じたファウストはそれを買った。そう高いものでは無いから、私も凝縮しなくて済む。
確か売店の彼女は濃いルージュを引いた唇を軽快に動かして、こんなことを言ったのだ。
「そのピアスの宝石は、少し不思議な力があるんです」と。
「持ち主が着けた状態で誰かがそこに口付けると、色が変わります。口付けた人が持ち主に恋をしているならピンク、嫌いなら黒、それ以外なら青色に」。
普段ならそんなこと気にも留めない。そういうグッズは西の国ではよくあるものだから。
これを買ったとき、ファウストは「服によく合うからつけたら」と言ったのだ。私もそれに従った。
そしてそこからが多分酒のノリである。もう遅いからと宿に帰ってそれぞれ部屋の前で別れるとなった時に、その薄くて小さい唇が私の耳に微かに触れた。
「おやすみ」と掠れた声で呟いた彼は、確かに酔っていた。でなきゃそんなことしない。
そしてそのピアスに嵌め込まれた石がピンク色に染まっているように見えるのは、やっぱり私も酔っているせいだろう。