君のいる春を手放せない
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ギイ、ギイ。
縄の軋む音で目が覚めた。
視界は床で埋め尽くされている。ブラブラと浮く足が、頼りなげに宙を蹴った。
昨夜台に使った椅子が、倒れた状態から勝手に起き上がって、ひとりでに移動した。精霊が泣いている。外は雨で、ザアザアと冷たい音を響かせていた。
「よいしょっと……」
椅子に足をかけて縄から首を外す。やっぱり、死ねないものだ。賢者の魔法使いには何度でも死んで生きかえるオーエンがいたけど、私のこれはそれよりたちが悪い。だって死にすらしないから。
あの日精霊の力によって再構築された魂は、その力を宿すようになった。実体もなく死の概念もないそれを体内に持つ私は、当然ながら死ぬことができない。体の方はとんでもない魔力を持つ面々によって傷を塞がれてピンピンしている。
あのあと、目覚めた時にはファウストがそばにいた。夜明けを臨む瞳に宝石のような涙を溜めて、「……起きたか」と、酷く掠れた声で笑ったのだ。
あの時彼が何故泣いたのか、私にはよくわからない。ある日から彼は私を見るようになって、話しかける頻度を増やした。
なんでだろう。引きこもりだとか呪い屋だとか言ってはいたけど面倒見のいい人だから、孤立を選ぼうとする私を放っておけなかったのだろうか。
今日は月曜日。店は定休日だ。ベッドに転がって見上げた天井は、今のところシミひとつない。
「はー……」
今日はご飯を作る気にもなれない。髪を編む気にも、メイクをする気にも。
二百二十年も生きてれば、こういう日はよくある話。乗り切るコツは、決して無理をしないこと。
精神が辛い状況にあったことは、首にぐるりと残った痣が証明している。思っている以上にカップル関連の仕事は苦しいらしい。
首吊りは、これでちょうど十回目になる。
長すぎる人生から逃げたくなったり、手に入らない幸せに目眩がしたり、そういう時にやっている。多分。私にもよくわからないけど。
まあリストカットみたいなものだ。元いた世界ではどんなに辛くても絶対やらなかったけど、今は見た目勝負ではない仕事をしているからなかなか歯止めが効かない。よくないのはわかってるけど、それでも二百年に十回なんだから許してほしい。
今日の朝ごはんは適当でいいから、リンゴを剥いて終わり。自分へのご褒美としてうさぎリンゴにした。うさぎ、最近見てないなあ。
部屋の掃除も今日はいい。昨日の夜もやったし、基本的にあんまり汚い場所はないようにしている。
ヘアメイクも諦めよう。仕事着と同じ白ワンピ、髪は梳かしてカチューシャのみ。日焼け止めと睫毛上げて眉描いてルージュさえ塗れば人権は保証されると信じましょう。ありがとう、日頃のスキンケアをサボらなかった私。もちろん今朝もきちんとそれだけはやりました。
「こんにちは」
「あらあ、こんにちは」
出かけた先はパティスリー。月に一回と決めているけど、本当は毎日来たいくらいお気に入りの店だ。
「オペラとコーヒーのセット一つお願いします」
「かしこまりました〜」
ここの店主さんは二百年前は男の人だった。彼女はその曾孫の、更にその娘さんにあたる。
栗色の髪に淡い空色の瞳の彼女は、少し前まではそれはそれは地味な格好をしていた。「勇気を振り絞った」という感じで私に身だしなみのことを 聞きにきてからは、巷でも有名な美人さんになったけど。
彼女はいつも、私を少し奥まった席に通してくれる。今日はレコードから流れる心地よいバイオリンと雨音が落ち着いた印象だ。
「大変お待たせいたしました。オペラとコーヒーのセットです」
目の前にコトリと置かれた甘さの直方体と、苦味のカップ。これ食べなきゃやってられない、とまではいかないけど、それでも大好きな味だ。
「あと、これはおまけです」
小皿に入れられたオランジェット。華やかなオレンジにチョコレートは、祖国でも人気の取り合わせだった。
「……ねえ、晶さん」
「はい?」
「ずっと訊きたかったことがあるんですけど」
彼女はエプロンの裾をぎゅっと握りながらこちらを見ている。何か、言い難いことなのだろうか。
「あの、毎月一回、お店に、聖ファウスト様が、来ていらっしゃいませんか?」
「ああ……」
中央の国民からしてみれば、彼は建国の英雄だ。
しかも、大いなる厄災を空に還してから十年後のある日、「歴史改定」が行われた。
それは国歴の教科書に「初代国王アレクは悪しき人間達に唆され、聖ファウストら仲間であった魔法使いを火刑に処した」という記載を追加するもので。とうとう中央の国は今まで押し隠してきた負の歴史を認め、正式な謝罪を行ったのだ。もちろん、国王となった子孫のアーサーが。
その式典には、当時の革命軍の魔法使い達の代表としてファウストとレノックスが呼ばれた。儀式は処刑の丘やビアンカのひまわり畑をはじめとした「負の遺産」の前で正式な祈りを捧げる厳粛なものだった記憶がある。アーサーとファウストが共に賢者の魔法使いであったことから私も呼ばれ、ファウストの師であり、なおかつ革命に関与したフィガロも参列した。
大ショックだったのは人間達の方だ。まさかあの聖ファウストと初代国王アレクの間にそんなことがあったなんてと、当時彼らは深く傷ついたようだった。
そして、「一度我らの王に手酷く裏切られながらもまた賢者の魔法使いとして私達を救ってくださったなんて!」と、ファウストの人気は爆発した。そもそも英雄として崇められていたのがさらに跳ね上がったのだ。そりゃとんでもないことになった。
その年の流行語大賞は「ファウスト様」、生まれた男の子にはこぞってファウストと名が付けられ、メダルや肖像画やコインがとんでもない売れ行きを見せた。この年から始まった「聖ファウスト祭」は国家の祝日となり、建国記念日と並んで派手に祝われている。
まあつまり、中央の国にとってファウストはとんでもない偉人なのだ。
そんな人がちょこちょこ目の前の人を訪ねているとなったらそりゃ黙ってもいられないだろう。
「私が元賢者だからじゃないですかね?何かと良くしてくれてるんですよ、彼」
「あの、それはわかってるんですけど、なんというか……その……」
「はい」
「晶さんといる時のファウスト様、とても楽しそう……というか、物凄く嬉しそうなので……」
「え、そうなんですか?」
「はい。……もしかして、気づいてらっしゃらないんですか?凄くわかりやすいのに」
あらま。この二百年必ず月に一回は会ってるけど、何も気づかなかったわよ。
確かに頬が薔薇色だったり声が弾んでいる時もあるけど、それは何かいいことがあったのかと思っていた。彼はあくまで取引のためで私のところに来ているに過ぎないから。
「私、てっきり晶さんとファウスト様はそういう関係なのかと……」
「いや、それはないですって」
「でも、本当にファウスト様は嬉しそうなんです。あれが好きな子見る目じゃなくて何なんですか」
「いやいや考えすぎですって」
「でもどうしようもなく愛しい人を見る目してましたよ」
「え〜?」
有り得ない。自分を愛せない私を愛する人が、この世にいるはずがない。
ずっとずっとそうだった。手を伸ばしても振り落とされるばかりで、私が憎む私の手なんて誰も掴みやしない。
「今度はよく見ておいた方がいいですよ。ファウスト様のこと」
「そうします。あ、お会計お願いします」
「はい。ありがとうございました!」
ファウストが私を好き?
ないない。
……ないないないない。
縄の軋む音で目が覚めた。
視界は床で埋め尽くされている。ブラブラと浮く足が、頼りなげに宙を蹴った。
昨夜台に使った椅子が、倒れた状態から勝手に起き上がって、ひとりでに移動した。精霊が泣いている。外は雨で、ザアザアと冷たい音を響かせていた。
「よいしょっと……」
椅子に足をかけて縄から首を外す。やっぱり、死ねないものだ。賢者の魔法使いには何度でも死んで生きかえるオーエンがいたけど、私のこれはそれよりたちが悪い。だって死にすらしないから。
あの日精霊の力によって再構築された魂は、その力を宿すようになった。実体もなく死の概念もないそれを体内に持つ私は、当然ながら死ぬことができない。体の方はとんでもない魔力を持つ面々によって傷を塞がれてピンピンしている。
あのあと、目覚めた時にはファウストがそばにいた。夜明けを臨む瞳に宝石のような涙を溜めて、「……起きたか」と、酷く掠れた声で笑ったのだ。
あの時彼が何故泣いたのか、私にはよくわからない。ある日から彼は私を見るようになって、話しかける頻度を増やした。
なんでだろう。引きこもりだとか呪い屋だとか言ってはいたけど面倒見のいい人だから、孤立を選ぼうとする私を放っておけなかったのだろうか。
今日は月曜日。店は定休日だ。ベッドに転がって見上げた天井は、今のところシミひとつない。
「はー……」
今日はご飯を作る気にもなれない。髪を編む気にも、メイクをする気にも。
二百二十年も生きてれば、こういう日はよくある話。乗り切るコツは、決して無理をしないこと。
精神が辛い状況にあったことは、首にぐるりと残った痣が証明している。思っている以上にカップル関連の仕事は苦しいらしい。
首吊りは、これでちょうど十回目になる。
長すぎる人生から逃げたくなったり、手に入らない幸せに目眩がしたり、そういう時にやっている。多分。私にもよくわからないけど。
まあリストカットみたいなものだ。元いた世界ではどんなに辛くても絶対やらなかったけど、今は見た目勝負ではない仕事をしているからなかなか歯止めが効かない。よくないのはわかってるけど、それでも二百年に十回なんだから許してほしい。
今日の朝ごはんは適当でいいから、リンゴを剥いて終わり。自分へのご褒美としてうさぎリンゴにした。うさぎ、最近見てないなあ。
部屋の掃除も今日はいい。昨日の夜もやったし、基本的にあんまり汚い場所はないようにしている。
ヘアメイクも諦めよう。仕事着と同じ白ワンピ、髪は梳かしてカチューシャのみ。日焼け止めと睫毛上げて眉描いてルージュさえ塗れば人権は保証されると信じましょう。ありがとう、日頃のスキンケアをサボらなかった私。もちろん今朝もきちんとそれだけはやりました。
「こんにちは」
「あらあ、こんにちは」
出かけた先はパティスリー。月に一回と決めているけど、本当は毎日来たいくらいお気に入りの店だ。
「オペラとコーヒーのセット一つお願いします」
「かしこまりました〜」
ここの店主さんは二百年前は男の人だった。彼女はその曾孫の、更にその娘さんにあたる。
栗色の髪に淡い空色の瞳の彼女は、少し前まではそれはそれは地味な格好をしていた。「勇気を振り絞った」という感じで私に身だしなみのことを 聞きにきてからは、巷でも有名な美人さんになったけど。
彼女はいつも、私を少し奥まった席に通してくれる。今日はレコードから流れる心地よいバイオリンと雨音が落ち着いた印象だ。
「大変お待たせいたしました。オペラとコーヒーのセットです」
目の前にコトリと置かれた甘さの直方体と、苦味のカップ。これ食べなきゃやってられない、とまではいかないけど、それでも大好きな味だ。
「あと、これはおまけです」
小皿に入れられたオランジェット。華やかなオレンジにチョコレートは、祖国でも人気の取り合わせだった。
「……ねえ、晶さん」
「はい?」
「ずっと訊きたかったことがあるんですけど」
彼女はエプロンの裾をぎゅっと握りながらこちらを見ている。何か、言い難いことなのだろうか。
「あの、毎月一回、お店に、聖ファウスト様が、来ていらっしゃいませんか?」
「ああ……」
中央の国民からしてみれば、彼は建国の英雄だ。
しかも、大いなる厄災を空に還してから十年後のある日、「歴史改定」が行われた。
それは国歴の教科書に「初代国王アレクは悪しき人間達に唆され、聖ファウストら仲間であった魔法使いを火刑に処した」という記載を追加するもので。とうとう中央の国は今まで押し隠してきた負の歴史を認め、正式な謝罪を行ったのだ。もちろん、国王となった子孫のアーサーが。
その式典には、当時の革命軍の魔法使い達の代表としてファウストとレノックスが呼ばれた。儀式は処刑の丘やビアンカのひまわり畑をはじめとした「負の遺産」の前で正式な祈りを捧げる厳粛なものだった記憶がある。アーサーとファウストが共に賢者の魔法使いであったことから私も呼ばれ、ファウストの師であり、なおかつ革命に関与したフィガロも参列した。
大ショックだったのは人間達の方だ。まさかあの聖ファウストと初代国王アレクの間にそんなことがあったなんてと、当時彼らは深く傷ついたようだった。
そして、「一度我らの王に手酷く裏切られながらもまた賢者の魔法使いとして私達を救ってくださったなんて!」と、ファウストの人気は爆発した。そもそも英雄として崇められていたのがさらに跳ね上がったのだ。そりゃとんでもないことになった。
その年の流行語大賞は「ファウスト様」、生まれた男の子にはこぞってファウストと名が付けられ、メダルや肖像画やコインがとんでもない売れ行きを見せた。この年から始まった「聖ファウスト祭」は国家の祝日となり、建国記念日と並んで派手に祝われている。
まあつまり、中央の国にとってファウストはとんでもない偉人なのだ。
そんな人がちょこちょこ目の前の人を訪ねているとなったらそりゃ黙ってもいられないだろう。
「私が元賢者だからじゃないですかね?何かと良くしてくれてるんですよ、彼」
「あの、それはわかってるんですけど、なんというか……その……」
「はい」
「晶さんといる時のファウスト様、とても楽しそう……というか、物凄く嬉しそうなので……」
「え、そうなんですか?」
「はい。……もしかして、気づいてらっしゃらないんですか?凄くわかりやすいのに」
あらま。この二百年必ず月に一回は会ってるけど、何も気づかなかったわよ。
確かに頬が薔薇色だったり声が弾んでいる時もあるけど、それは何かいいことがあったのかと思っていた。彼はあくまで取引のためで私のところに来ているに過ぎないから。
「私、てっきり晶さんとファウスト様はそういう関係なのかと……」
「いや、それはないですって」
「でも、本当にファウスト様は嬉しそうなんです。あれが好きな子見る目じゃなくて何なんですか」
「いやいや考えすぎですって」
「でもどうしようもなく愛しい人を見る目してましたよ」
「え〜?」
有り得ない。自分を愛せない私を愛する人が、この世にいるはずがない。
ずっとずっとそうだった。手を伸ばしても振り落とされるばかりで、私が憎む私の手なんて誰も掴みやしない。
「今度はよく見ておいた方がいいですよ。ファウスト様のこと」
「そうします。あ、お会計お願いします」
「はい。ありがとうございました!」
ファウストが私を好き?
ないない。
……ないないないない。