君のいる春を手放せない
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僕が起きるのは、いつだって夜明け前だ。
前は井戸の水を汲みに行ったけど、水道という便利なものが開発されてからはそんなことをする手間も省けるようになった。井戸から直接室内に水を引くとは、人間もなかなか面白い発明をする。
洗面台で顔を洗って保湿。百年前までは洗うだけだったのを、彼女の真似をして化粧水と乳液を使うようになった。癖が強い髪も、ヘアオイルを使うようになってからはまとまりが良くなった気がする。
彼女はずっとこれ以上の手間をかけて自分の容姿を磨いてきたのかと思うと、少し気が遠くなってしまう。そりゃあんなに綺麗なわけだ。
白い肌も豊かで滑らかな髪も、努力の賜物だからこそこんなにも愛しくて。でもたとえ彼女が疲れて全てを放棄しても、僕の気持ちは捨てられそうにもなかった。
あの子が生きていてくれるだけで良かった。それだけのはずだった。
でも、恋を知った心は愛を求めようとする。触れたい。触れられたい。寄りかかられたい。寄りかかりたい。
人嫌いが聞いて呆れるほどの想いは、スクランブルエッグを作る音に溶けた。
朝食を終えたら食料調達の時間だ。生き物達を捕食するのは胸が痛まないわけじゃないけど、彼女から「いただきます」という言葉を教わってから少し楽になった。
全ての命に感謝を。生きる糧として頂く代わりに、しっかり完食すること。
いい心構えだと思う。まあこれも、必ず食事の前にその言葉を呟く彼女から無理矢理聞き出したことなんだけど。
まだ人間で、僕のことを「賢者の魔法使い」以上には思っていなかったであろう彼女は、酷く強ばった声で意味を教えてくれた。それでも僕はその春の音色が聞けたのが嬉しくて、色々と質問攻めにしてしまったんだっけ。
祖国の習慣に詳しく、きちんとそれを続けていた彼女をとても好ましく思ったのも覚えている。
僕は昨日仕掛けていた罠に猪がかかっているのを見て、そっと呪文を唱えた。
「<サティルクナート・ムルクリード>」
静かに息絶えた命を、更に魔法で外して持ち帰る。重い。僕一人にはこれで十分だ。
そしたら解体作業をして、保存用と今日食べるものに分けておしまい。昼食はガレットにしよう。
レノックスが羊の毛を送ってきてくれるようになって、もう二百年が経つ。
南の国に戻って羊飼いを再開した彼は、今もルチルやミチルと楽しく元気にやっているようだった。手紙の宛名が『ファウスト様』なのが昔は気恥ずかしく思ったものだけど、今ではすっかり慣れた。
最近はその毛を縁って毛糸にして編み物をするのが暇潰しになっている。初夏も過ぎ、梅雨入りも間近というタイミングで何をしてるんだ?とかいう質問は野暮だ。嵐の谷は気候が変わりやすく、夏なのに雪が降ることだってある。糸車を使う時間は楽しいし、編み物は六百歳を過ぎた魔法使いにとって本当に丁度いい娯楽なのだ。
取り敢えず今は膝掛けを編んでいる。彼女にあげたっていいし、僕が使ったっていい。毒には決してならない、心地良い温度を提供してくれるから。
大工仕事がない日は、ずっと針仕事をしていることも多い。編み物、刺繍、レース編み、引きこもって過ごした年月で会得した技術はまあまあ豊富だ。クロエには敵わないけど。
そういえば彼は念願の仕立て屋になり、西の国で店を開いているらしい。今度行ってみるのもありか。ラスティカやシャイロック、オーエンなんかは結構な頻度で顔を出していると聞く。
引きこもりがなんでこんなにかつての仲間たちの情報を把握出来ているのか。
それは電話というやつがようやくここにも出来たからだ。回線やら何やら、とにかく引くのが大変だった。その代わり恐ろしく便利で騒がしく、今では週一でムルから「にゃーん!」と言うだけの電話がかかってくる。呪いの依頼も、電話を介して来ることが増えた。
ちなみに、彼女のいた世界ではもうこんなの当たり前で、電話もめーるとかいう手紙の進化版も写真も全てを一つでまかなうとんでもない機械があるという。それを世界の半数近くの人間が持っていて、どこからでも電波というやつさえあれば繋がれるらしい。
それらを作ったのは科学者やえんじにあと呼ばれる人達だと、彼女は言っていた。魔法なんて一ミリも使っていないと聞いたけど、僕は密かにその科学者やえんじにあが魔法使いなんじゃないかと思っている。
電話番号は、もちろん彼女のものも控えてある。
訪ねる前には必ずかけるし、その他にもどうしても声が聞きたくなった時に、迷惑にならなさそうな時間に、月に一回だけダイヤルを回すことにしていた。そうじゃないと歯止めが効かなくなりそうだ。彼女の世界に僕がいたら、めーるを無限に送り続けることになるだろう。この世界でよかった。
暗くなったら電気をつける。これも最近できるようになったことだ。
彼女の世界では当然こんなの当たり前で「ぶっちゃけ蝋燭とかランタン面倒だったんで有難いです」と嬉しそうに笑っていた。星空をかき消してしまいそうな無機質な灯りは好まないけど、あの子が笑うならそれでいい。
僕は電気は針仕事をする時だけ使っている。本当は魔法があるからいらないのかもしれないな。
それでもせっかく引いてきたからもったいなくて、義務的に数時間はつけてしまう。
夕食を作って食べて、外で火を見ながら晩酌をする。
ずっとずっと続けてきた習慣だ。そして、これからも続けていく。
エルダー酒を煽って、かつてネロから教わったつまみを食べる。揺れる炎は、僕の心の真ん中を温めて、同じ熱を覚ます。
そろそろ夏がくる。「この大陸は北の国以外ならどこでもめちゃくちゃ過ごしやすいです。祖国の灼熱地獄に比べれば」と、あの子は真顔で言っていた。聞けば、湿度も気温も恐ろしく高い、それはそれは過ごしにくい夏だったようだ。
でもその分記憶の色も濃いようで、夏祭りやらかき氷やら、カインが好きそうな話がたくさん聞けた。まあ彼女本人はくーらーだかなんとかをガンガンにつけて部屋に引きこもっていたらしいけど。
僕は、彼女のことを何も知らない。
元の世界や自分のことについて、基本的に酷く口が重いのだ。後者に関しては僕も同じだから、責める理由もないけれど。
それでも知りたくて、どうしたって「きみはどう思う?」「きみの話が聞きたい」なんて言って、彼女を困らせてしまう。でもその度「えっと……」と毎度律儀に答えてくれる生真面目さが可愛くて、どうしたってやめられそうにない。
重症だ。僕はこの二百年間、ずっと熱に浮かされ続けている。
多分明日起きて一番に考えることも今日と同じなんだろうななんて思いながら、火を消して立ち上がった。
あの子が今日も、ちゃんと眠れていればいい。
前は井戸の水を汲みに行ったけど、水道という便利なものが開発されてからはそんなことをする手間も省けるようになった。井戸から直接室内に水を引くとは、人間もなかなか面白い発明をする。
洗面台で顔を洗って保湿。百年前までは洗うだけだったのを、彼女の真似をして化粧水と乳液を使うようになった。癖が強い髪も、ヘアオイルを使うようになってからはまとまりが良くなった気がする。
彼女はずっとこれ以上の手間をかけて自分の容姿を磨いてきたのかと思うと、少し気が遠くなってしまう。そりゃあんなに綺麗なわけだ。
白い肌も豊かで滑らかな髪も、努力の賜物だからこそこんなにも愛しくて。でもたとえ彼女が疲れて全てを放棄しても、僕の気持ちは捨てられそうにもなかった。
あの子が生きていてくれるだけで良かった。それだけのはずだった。
でも、恋を知った心は愛を求めようとする。触れたい。触れられたい。寄りかかられたい。寄りかかりたい。
人嫌いが聞いて呆れるほどの想いは、スクランブルエッグを作る音に溶けた。
朝食を終えたら食料調達の時間だ。生き物達を捕食するのは胸が痛まないわけじゃないけど、彼女から「いただきます」という言葉を教わってから少し楽になった。
全ての命に感謝を。生きる糧として頂く代わりに、しっかり完食すること。
いい心構えだと思う。まあこれも、必ず食事の前にその言葉を呟く彼女から無理矢理聞き出したことなんだけど。
まだ人間で、僕のことを「賢者の魔法使い」以上には思っていなかったであろう彼女は、酷く強ばった声で意味を教えてくれた。それでも僕はその春の音色が聞けたのが嬉しくて、色々と質問攻めにしてしまったんだっけ。
祖国の習慣に詳しく、きちんとそれを続けていた彼女をとても好ましく思ったのも覚えている。
僕は昨日仕掛けていた罠に猪がかかっているのを見て、そっと呪文を唱えた。
「<サティルクナート・ムルクリード>」
静かに息絶えた命を、更に魔法で外して持ち帰る。重い。僕一人にはこれで十分だ。
そしたら解体作業をして、保存用と今日食べるものに分けておしまい。昼食はガレットにしよう。
レノックスが羊の毛を送ってきてくれるようになって、もう二百年が経つ。
南の国に戻って羊飼いを再開した彼は、今もルチルやミチルと楽しく元気にやっているようだった。手紙の宛名が『ファウスト様』なのが昔は気恥ずかしく思ったものだけど、今ではすっかり慣れた。
最近はその毛を縁って毛糸にして編み物をするのが暇潰しになっている。初夏も過ぎ、梅雨入りも間近というタイミングで何をしてるんだ?とかいう質問は野暮だ。嵐の谷は気候が変わりやすく、夏なのに雪が降ることだってある。糸車を使う時間は楽しいし、編み物は六百歳を過ぎた魔法使いにとって本当に丁度いい娯楽なのだ。
取り敢えず今は膝掛けを編んでいる。彼女にあげたっていいし、僕が使ったっていい。毒には決してならない、心地良い温度を提供してくれるから。
大工仕事がない日は、ずっと針仕事をしていることも多い。編み物、刺繍、レース編み、引きこもって過ごした年月で会得した技術はまあまあ豊富だ。クロエには敵わないけど。
そういえば彼は念願の仕立て屋になり、西の国で店を開いているらしい。今度行ってみるのもありか。ラスティカやシャイロック、オーエンなんかは結構な頻度で顔を出していると聞く。
引きこもりがなんでこんなにかつての仲間たちの情報を把握出来ているのか。
それは電話というやつがようやくここにも出来たからだ。回線やら何やら、とにかく引くのが大変だった。その代わり恐ろしく便利で騒がしく、今では週一でムルから「にゃーん!」と言うだけの電話がかかってくる。呪いの依頼も、電話を介して来ることが増えた。
ちなみに、彼女のいた世界ではもうこんなの当たり前で、電話もめーるとかいう手紙の進化版も写真も全てを一つでまかなうとんでもない機械があるという。それを世界の半数近くの人間が持っていて、どこからでも電波というやつさえあれば繋がれるらしい。
それらを作ったのは科学者やえんじにあと呼ばれる人達だと、彼女は言っていた。魔法なんて一ミリも使っていないと聞いたけど、僕は密かにその科学者やえんじにあが魔法使いなんじゃないかと思っている。
電話番号は、もちろん彼女のものも控えてある。
訪ねる前には必ずかけるし、その他にもどうしても声が聞きたくなった時に、迷惑にならなさそうな時間に、月に一回だけダイヤルを回すことにしていた。そうじゃないと歯止めが効かなくなりそうだ。彼女の世界に僕がいたら、めーるを無限に送り続けることになるだろう。この世界でよかった。
暗くなったら電気をつける。これも最近できるようになったことだ。
彼女の世界では当然こんなの当たり前で「ぶっちゃけ蝋燭とかランタン面倒だったんで有難いです」と嬉しそうに笑っていた。星空をかき消してしまいそうな無機質な灯りは好まないけど、あの子が笑うならそれでいい。
僕は電気は針仕事をする時だけ使っている。本当は魔法があるからいらないのかもしれないな。
それでもせっかく引いてきたからもったいなくて、義務的に数時間はつけてしまう。
夕食を作って食べて、外で火を見ながら晩酌をする。
ずっとずっと続けてきた習慣だ。そして、これからも続けていく。
エルダー酒を煽って、かつてネロから教わったつまみを食べる。揺れる炎は、僕の心の真ん中を温めて、同じ熱を覚ます。
そろそろ夏がくる。「この大陸は北の国以外ならどこでもめちゃくちゃ過ごしやすいです。祖国の灼熱地獄に比べれば」と、あの子は真顔で言っていた。聞けば、湿度も気温も恐ろしく高い、それはそれは過ごしにくい夏だったようだ。
でもその分記憶の色も濃いようで、夏祭りやらかき氷やら、カインが好きそうな話がたくさん聞けた。まあ彼女本人はくーらーだかなんとかをガンガンにつけて部屋に引きこもっていたらしいけど。
僕は、彼女のことを何も知らない。
元の世界や自分のことについて、基本的に酷く口が重いのだ。後者に関しては僕も同じだから、責める理由もないけれど。
それでも知りたくて、どうしたって「きみはどう思う?」「きみの話が聞きたい」なんて言って、彼女を困らせてしまう。でもその度「えっと……」と毎度律儀に答えてくれる生真面目さが可愛くて、どうしたってやめられそうにない。
重症だ。僕はこの二百年間、ずっと熱に浮かされ続けている。
多分明日起きて一番に考えることも今日と同じなんだろうななんて思いながら、火を消して立ち上がった。
あの子が今日も、ちゃんと眠れていればいい。