君のいる春を手放せない
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「大いなる厄災」がこの世に現れなくなってから、もう二百年が経つ。
ファウストは嵐の谷にある自宅のドアを開けて、玄関にズルズルとしゃがみ込んだ。
「はあ……」
帽子とサングラスを取って上を向く。ぽいと放り投げたそれらは、定位置にきちんと収まった。
懐にしまっていた封筒を取り出すと、受け取った時に触れた、ひんやりとした指を思い出した。水に触れることが多い仕事だから荒れていても不思議ではないが、彼女のその手はあかぎれもささくれもなく、するりと滑らかだった。精霊の力だ。
「はあ……」
またため息をついた。彼女にまとわりついた強すぎると言ってもいい精霊の気配は、元を正せばファウストが原因だった。
仕方がなかった。まだ人間だった彼女を救うためには、そうするしか無かった。
それでも、とファウストは考える。もっと他に方法があったんじゃないか、と。
いくら命を救うためとはいえ人の輪廻から外させ、元の世界に帰れる可能性を奪い、死の権利すら失わせてしまった。彼女は二十歳の姿のまま、永遠に生き続けていく。
その責任をとる必要があると、ファウストは常々思っている。元は異世界から強制的に召喚された、人嫌いの孤独な少女だったのだ。
二百二十歳となった彼女は、今や立派なレディーとなった。もう人を見て逃げ出すことも、幸せそうな家族連れやカップルを見て泣き出すこともない。
ただ、眩しげに伏せられた睫毛や桜貝のような可愛らしい爪、控えめでややぎこちない対人用の笑みが、まだ彼女が人間であった頃の面影を残している。
持ち帰ってきたバスケットをテーブルに置いた。あの子がサンドイッチを好むことを知ったのは、あの大事故の少し前だった。
それももう、二百年も前の話になる。
「……かわいかったな」
相変わらず器用な子だ。髪の編み込みも丁寧に施された化粧も、全てがよく似合っている。あの遠い春の日のような愛らしさの八割程度を、ここ二百年は常に発揮しているようだった。
そんな彼女は人間時代はファウストを遥かに凌ぐ引きこもりで、賢者時代は大きな任務の時にしか魔法使い全員の前に姿を現すことはなかった。
でも今は立派に花屋として人前に立って、接客をしている。ファウストに対する対応はそれに輪をかけて柔和で、何だか勘違いしてしまいそうになるのだ。二百年越しの想いは、叶っているのではないかと。
そんなはずはない。彼女はその気の毒な生い立ちや生来の気質のせいで、他者からの愛情を受け取る器が欠損している。
それは自分に自信のないヒースクリフや四百年間引きこもったファウストを大きく超える、感情を持つ生き物としての問題だった。
にしても本当に可愛かった。あのワンピースはこの前も着ていたから多分お気に入りなんだろう。
少し癖のある黒い髪に、細いシルエットのリボンがよく映えていた。散る花のようなふわりとした歩き方は、まるで羽が生えたように軽い。
あそこまで明るくなるのに、二百年かかった。
それをすぐだと片付けられるほど、ファウストはまだ歳をとってはいない。六百歳からしてみても、人生の三分の一だ。
長い時を経て、彼女は変わった。
それでも、想いを伝える決心がつかない。
目の前に立つと、まずそのガーベラの花のように見開かれた目に吸い寄せられてしまう。
次にピンクの薔薇のような唇に、蔓のようにしなやかな髪に。かつては引っかき傷や切り傷が点在していた手足は、今はすっかり綺麗になっていた。見える範囲のことしかわからないけど。
話し出せばあの日の花畑のように華やかで優しくて、どこか鈴が鳴るような澄んだ音色が鼓膜を揺らす。あの声が、あの子の命を救うきっかけにもなった。
「言えない、か……」
言えるわけがない。好きだなんて。一緒に谷にきてくれないかなんて、口が裂けても。
次に彼女に会えるのは、一ヶ月後の第二水曜日。
遠い。
二百年も燻らせた想いは雰囲気や言葉や光になって、きっともう溢れ出している。
彼女が人一倍鈍感、というか他者からの好意を受け取れないタイプだからなんとかなっているだけだ。普通ならもうとっくにバレてる頃だ。
「自分のこと好きになる人とか、気持ち悪くてちょっと……」と、遥か昔の声が蘇る。
彼女はこんなことを言ってしまうくらいには、何も信用していないのだ。もうその時のファウストは、彼女に対して夢のような感情を抱えていたというのに。
いっそ夢なら良かった。人嫌いの魔法使いが恋をしているなんて、きっと笑いものになる。それだけで済むならいいけど、彼女は自分に対して「気持ち悪い」という考えを持つだろう。それが耐えられなかった。
優しくて頼りになる年上の魔法使い。決して敵ではない存在。困った時は相談相手にしてもいい。そう思わせるまでに、どれほどの時間がかかったか。アーサーに頼み込んで戸籍を作らせたのも、中央の国の一等地に家を用意したのも、花屋をやるように進言したのも、そこに通うのも、全てはそのためだった。
信頼されたい。愛されたい。自分から捧げる愛を、どうか受け止めてほしい。その上で、隣で笑ってほしい。
随分と欲しがりになったものだ、とファウストは笑う。でも仕方がなかった。恋は落ちるものだからだ。その重力には、たとえ建国の英雄だろうと逆らえない。
「……次は」
エルダーフラワーの季節はまだ始まったばかりだ。ブランシェットに行って、何か綺麗なものでも買って持っていこうか。いっそのこと自作する?
叶いようもない恋なのに、彼女を想う時間はとても楽しい。
ファウストは窓を開けた。吹き込む風は、中央の彼女の指を撫でただろうか。
そうだといいな、なんて思いながら、彼は息を吸った。
ファウストは嵐の谷にある自宅のドアを開けて、玄関にズルズルとしゃがみ込んだ。
「はあ……」
帽子とサングラスを取って上を向く。ぽいと放り投げたそれらは、定位置にきちんと収まった。
懐にしまっていた封筒を取り出すと、受け取った時に触れた、ひんやりとした指を思い出した。水に触れることが多い仕事だから荒れていても不思議ではないが、彼女のその手はあかぎれもささくれもなく、するりと滑らかだった。精霊の力だ。
「はあ……」
またため息をついた。彼女にまとわりついた強すぎると言ってもいい精霊の気配は、元を正せばファウストが原因だった。
仕方がなかった。まだ人間だった彼女を救うためには、そうするしか無かった。
それでも、とファウストは考える。もっと他に方法があったんじゃないか、と。
いくら命を救うためとはいえ人の輪廻から外させ、元の世界に帰れる可能性を奪い、死の権利すら失わせてしまった。彼女は二十歳の姿のまま、永遠に生き続けていく。
その責任をとる必要があると、ファウストは常々思っている。元は異世界から強制的に召喚された、人嫌いの孤独な少女だったのだ。
二百二十歳となった彼女は、今や立派なレディーとなった。もう人を見て逃げ出すことも、幸せそうな家族連れやカップルを見て泣き出すこともない。
ただ、眩しげに伏せられた睫毛や桜貝のような可愛らしい爪、控えめでややぎこちない対人用の笑みが、まだ彼女が人間であった頃の面影を残している。
持ち帰ってきたバスケットをテーブルに置いた。あの子がサンドイッチを好むことを知ったのは、あの大事故の少し前だった。
それももう、二百年も前の話になる。
「……かわいかったな」
相変わらず器用な子だ。髪の編み込みも丁寧に施された化粧も、全てがよく似合っている。あの遠い春の日のような愛らしさの八割程度を、ここ二百年は常に発揮しているようだった。
そんな彼女は人間時代はファウストを遥かに凌ぐ引きこもりで、賢者時代は大きな任務の時にしか魔法使い全員の前に姿を現すことはなかった。
でも今は立派に花屋として人前に立って、接客をしている。ファウストに対する対応はそれに輪をかけて柔和で、何だか勘違いしてしまいそうになるのだ。二百年越しの想いは、叶っているのではないかと。
そんなはずはない。彼女はその気の毒な生い立ちや生来の気質のせいで、他者からの愛情を受け取る器が欠損している。
それは自分に自信のないヒースクリフや四百年間引きこもったファウストを大きく超える、感情を持つ生き物としての問題だった。
にしても本当に可愛かった。あのワンピースはこの前も着ていたから多分お気に入りなんだろう。
少し癖のある黒い髪に、細いシルエットのリボンがよく映えていた。散る花のようなふわりとした歩き方は、まるで羽が生えたように軽い。
あそこまで明るくなるのに、二百年かかった。
それをすぐだと片付けられるほど、ファウストはまだ歳をとってはいない。六百歳からしてみても、人生の三分の一だ。
長い時を経て、彼女は変わった。
それでも、想いを伝える決心がつかない。
目の前に立つと、まずそのガーベラの花のように見開かれた目に吸い寄せられてしまう。
次にピンクの薔薇のような唇に、蔓のようにしなやかな髪に。かつては引っかき傷や切り傷が点在していた手足は、今はすっかり綺麗になっていた。見える範囲のことしかわからないけど。
話し出せばあの日の花畑のように華やかで優しくて、どこか鈴が鳴るような澄んだ音色が鼓膜を揺らす。あの声が、あの子の命を救うきっかけにもなった。
「言えない、か……」
言えるわけがない。好きだなんて。一緒に谷にきてくれないかなんて、口が裂けても。
次に彼女に会えるのは、一ヶ月後の第二水曜日。
遠い。
二百年も燻らせた想いは雰囲気や言葉や光になって、きっともう溢れ出している。
彼女が人一倍鈍感、というか他者からの好意を受け取れないタイプだからなんとかなっているだけだ。普通ならもうとっくにバレてる頃だ。
「自分のこと好きになる人とか、気持ち悪くてちょっと……」と、遥か昔の声が蘇る。
彼女はこんなことを言ってしまうくらいには、何も信用していないのだ。もうその時のファウストは、彼女に対して夢のような感情を抱えていたというのに。
いっそ夢なら良かった。人嫌いの魔法使いが恋をしているなんて、きっと笑いものになる。それだけで済むならいいけど、彼女は自分に対して「気持ち悪い」という考えを持つだろう。それが耐えられなかった。
優しくて頼りになる年上の魔法使い。決して敵ではない存在。困った時は相談相手にしてもいい。そう思わせるまでに、どれほどの時間がかかったか。アーサーに頼み込んで戸籍を作らせたのも、中央の国の一等地に家を用意したのも、花屋をやるように進言したのも、そこに通うのも、全てはそのためだった。
信頼されたい。愛されたい。自分から捧げる愛を、どうか受け止めてほしい。その上で、隣で笑ってほしい。
随分と欲しがりになったものだ、とファウストは笑う。でも仕方がなかった。恋は落ちるものだからだ。その重力には、たとえ建国の英雄だろうと逆らえない。
「……次は」
エルダーフラワーの季節はまだ始まったばかりだ。ブランシェットに行って、何か綺麗なものでも買って持っていこうか。いっそのこと自作する?
叶いようもない恋なのに、彼女を想う時間はとても楽しい。
ファウストは窓を開けた。吹き込む風は、中央の彼女の指を撫でただろうか。
そうだといいな、なんて思いながら、彼は息を吸った。