君のいる春を手放せない
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朝起きたら、まず窓際の花に水をやる。
その時カーテンと窓を開けて、その日の天気を知る。ああ今日は晴れなんだな。
そしてカレンダーを見て、今日の予定を確認。黒いインクで書き込まれたその字を見て、私はそっと頬を綻ばせた。
あの人が来る。
遠い東の国の奥地からわざわざ来てくれる彼は、一体何を考えてここの戸を叩くんだろう。
いや注文の品のお届けのためですよ。知ってます。ええ。
でも魔法でポンと送れば済むものをわざわざ箒に乗って足を運んで届けるところが生真面目な彼らしいというか、なんというか。
洗面台で顔を洗い、化粧水と乳液で保湿。今日の肌のコンディションはまあまあかな。そろそろ生理だから荒れやすくなってる気がする。
クローゼットを開いて、白いシンプルなワンピースを取り出した。肘辺りで留まるパフスリーブの袖がかわいくて気に入っている服だ。エプロンとの親和性が高いのもポイント。靴は焦げ茶のブーツで、これはいつも通り。
腰ほどまである髪は右から左に編んで、耳の下でリボンで纏めた。ウェーブのかかった髪にはこのくらいがちょうどいい。
台所でソーセージを焼き、卵をフライパンに落とす。トロリと落ちるくらいの完熟が好みだから、すぐに皿に引き取った。
パンはお気に入りのベーカリーで買った食パンにバターを塗り、トースターに突っ込んだ。ほかほかのパンほど美味しいものは無いと、私は胸を張って言える。
沸騰したお湯をポットに注ぎ、そのまま一分。そうすれば、美味しい紅茶が出来上がる。
窓際に置いたテーブルでそれらを口に入れた。一人でご飯を食べるようになってもう数百年経つし、この景色にももう慣れたけど、やっぱり少し寂しい。でも私は人と過ごすことが向いていないから、諦めるしかない。
私がもっと素直になれる人だったら、もう少し違ったんだろうな。
食器を洗ったら洗面台に移動。眉を描いて、睫毛をビューラーで上げて、肌は軽く日焼け止めとパウダー程度。アイラインは控えめに、アイシャドウとチークは淡いピンクで揃えてぼかす。
「……よし」
これで人前に出られる見た目にはなった。
一階に降りて、それぞれの花の様子を見ながらメンテナンスをしていく。この子は元気、この子はもうそろそろ寿命かな。今までお疲れ様でした。
そしてその後には掃除。お客さんも来るし、お店柄植物が多いので常に清掃は必須だ。あと手の保湿も。
そこまでやると九時なので、店を開ける。
これが私の朝。賢者という役割を終え、人間すらやめて生きる、私の日々の始まりだ。
十二時。
普段なら奥に行って昼食の準備をするんだけど、今日は違う。
小さな蝶が飛んできた。私の鼻先でふっと消えて、香りをふわりと撒いていく。ホワイトムスク、オリスルート、桜。
あのひとはいつも、自分が来る前にこの蝶を飛ばす。弾けさせて、香りで存在を知らせるのだ。
「…… 晶」
控えめにかけられた声。耳障りの良い音は、開いた窓からきちんと私の耳に入った。
「ファウスト」
私はその名を呼ぶ。故郷では戯曲の題、そしてその主人公、またはその元となったドイツの伝説上の人物、または実在した錬金術師の名。
でもこの世界では、この国を建国した聖なる魔法使いで、世界を救った元賢者の魔法使いの名。
ドアを開けた。
「こんにちは、ファウスト」
「ああ」
サングラスを外した菫が、少し高いところから私を見る。繊細な口元が綻んで、まるで真昼の木漏れ日のような声で要件を告げた。
「いつもの、持ってきた」
手に持つ花束を私に差し出す。
「ありがとうございます」
クラフト紙に包まれたそれを受け取り、様子を確認した。うん、今回も素晴らしい出来。さすがファウスト。
「お金払うので、二階に行っててください。あと、お昼ご飯どうします?」
「もう作ってきた。きみがいいなら……」
「有難く頂戴します。お茶淹れますね」
ファウスト・ラウィーニア。
元革命軍、建国の聖者、元賢者の魔法使い。
そして今は、私の取引相手。
奥で紅茶を淹れて戻ってくると、ファウストがどこからかバスケットを出して中身をテーブルに広げていた。
「サンドイッチだ」
「好きだろ、きみ」
「大好きです。ありがとうございます」
私はポットとカップを載せたお盆を置いて、レジから取って封筒に入れておいたお金を取り出した。
「はい、今回の分です」
手袋を外した手がパラパラとお札を捲る。
「確かに」
「はい」
そして二人で席に着く。
窓際に咲くのはスイートピー。少し空いた窓から流れる風に、ふわふわと桃色が揺れている。
「最近の店の様子はどうだ?」
「一ヶ月前も同じこと聞いてきましたよね」
「一ヶ月でガラッと変わることもあるだろ」
「そうですね」
紅茶を飲んで「きみは淹れるのが上手いな」と彼は呟く。それに礼を言ってから、私は問いに答えた。
「変わりません。お花を買うお客様が来て、売って。相変わらずファウストのエルダーフラワーは人気ですし」
「今流行ってるんだっけ?」
「はい。エルダーフラワーのシロップが」
「そうか。きみの体の方は?」
「大丈夫です。人間やめてもう二百年経ちましたけど、不都合なことは何も」
「なら良かった。君の種族を変えてしまったのは僕だから」
「そうでもないって聞きましたよ」
「でも、言い出したのは僕だ」
ファウストは真面目だ。
だから、未だに私の体に精霊の力を移したことを謝ってくる。植物が早く育つようになったとか不老不死になったとか、私への影響はそのくらいなのに。
「あの時は緊急事態だったんでしょう。仕方ないですよ。そんなことより、嵐の谷の猫ちゃんはどうしてますか?」
アメジストが陽の光を浴びて輝いた。いつの日からか彼は、私の目の前ではサングラスを外すようになった。
「見てくれ」
魔道具の鏡が子猫の姿を写す。
「かわいい」
「少し大きくなったんだ」
そうして、私たちはサンドイッチを食べ、紅茶を飲み、猫の話をする。
もう二百年間も、第二水曜日はこうして過ごしていた。
その時カーテンと窓を開けて、その日の天気を知る。ああ今日は晴れなんだな。
そしてカレンダーを見て、今日の予定を確認。黒いインクで書き込まれたその字を見て、私はそっと頬を綻ばせた。
あの人が来る。
遠い東の国の奥地からわざわざ来てくれる彼は、一体何を考えてここの戸を叩くんだろう。
いや注文の品のお届けのためですよ。知ってます。ええ。
でも魔法でポンと送れば済むものをわざわざ箒に乗って足を運んで届けるところが生真面目な彼らしいというか、なんというか。
洗面台で顔を洗い、化粧水と乳液で保湿。今日の肌のコンディションはまあまあかな。そろそろ生理だから荒れやすくなってる気がする。
クローゼットを開いて、白いシンプルなワンピースを取り出した。肘辺りで留まるパフスリーブの袖がかわいくて気に入っている服だ。エプロンとの親和性が高いのもポイント。靴は焦げ茶のブーツで、これはいつも通り。
腰ほどまである髪は右から左に編んで、耳の下でリボンで纏めた。ウェーブのかかった髪にはこのくらいがちょうどいい。
台所でソーセージを焼き、卵をフライパンに落とす。トロリと落ちるくらいの完熟が好みだから、すぐに皿に引き取った。
パンはお気に入りのベーカリーで買った食パンにバターを塗り、トースターに突っ込んだ。ほかほかのパンほど美味しいものは無いと、私は胸を張って言える。
沸騰したお湯をポットに注ぎ、そのまま一分。そうすれば、美味しい紅茶が出来上がる。
窓際に置いたテーブルでそれらを口に入れた。一人でご飯を食べるようになってもう数百年経つし、この景色にももう慣れたけど、やっぱり少し寂しい。でも私は人と過ごすことが向いていないから、諦めるしかない。
私がもっと素直になれる人だったら、もう少し違ったんだろうな。
食器を洗ったら洗面台に移動。眉を描いて、睫毛をビューラーで上げて、肌は軽く日焼け止めとパウダー程度。アイラインは控えめに、アイシャドウとチークは淡いピンクで揃えてぼかす。
「……よし」
これで人前に出られる見た目にはなった。
一階に降りて、それぞれの花の様子を見ながらメンテナンスをしていく。この子は元気、この子はもうそろそろ寿命かな。今までお疲れ様でした。
そしてその後には掃除。お客さんも来るし、お店柄植物が多いので常に清掃は必須だ。あと手の保湿も。
そこまでやると九時なので、店を開ける。
これが私の朝。賢者という役割を終え、人間すらやめて生きる、私の日々の始まりだ。
十二時。
普段なら奥に行って昼食の準備をするんだけど、今日は違う。
小さな蝶が飛んできた。私の鼻先でふっと消えて、香りをふわりと撒いていく。ホワイトムスク、オリスルート、桜。
あのひとはいつも、自分が来る前にこの蝶を飛ばす。弾けさせて、香りで存在を知らせるのだ。
「…… 晶」
控えめにかけられた声。耳障りの良い音は、開いた窓からきちんと私の耳に入った。
「ファウスト」
私はその名を呼ぶ。故郷では戯曲の題、そしてその主人公、またはその元となったドイツの伝説上の人物、または実在した錬金術師の名。
でもこの世界では、この国を建国した聖なる魔法使いで、世界を救った元賢者の魔法使いの名。
ドアを開けた。
「こんにちは、ファウスト」
「ああ」
サングラスを外した菫が、少し高いところから私を見る。繊細な口元が綻んで、まるで真昼の木漏れ日のような声で要件を告げた。
「いつもの、持ってきた」
手に持つ花束を私に差し出す。
「ありがとうございます」
クラフト紙に包まれたそれを受け取り、様子を確認した。うん、今回も素晴らしい出来。さすがファウスト。
「お金払うので、二階に行っててください。あと、お昼ご飯どうします?」
「もう作ってきた。きみがいいなら……」
「有難く頂戴します。お茶淹れますね」
ファウスト・ラウィーニア。
元革命軍、建国の聖者、元賢者の魔法使い。
そして今は、私の取引相手。
奥で紅茶を淹れて戻ってくると、ファウストがどこからかバスケットを出して中身をテーブルに広げていた。
「サンドイッチだ」
「好きだろ、きみ」
「大好きです。ありがとうございます」
私はポットとカップを載せたお盆を置いて、レジから取って封筒に入れておいたお金を取り出した。
「はい、今回の分です」
手袋を外した手がパラパラとお札を捲る。
「確かに」
「はい」
そして二人で席に着く。
窓際に咲くのはスイートピー。少し空いた窓から流れる風に、ふわふわと桃色が揺れている。
「最近の店の様子はどうだ?」
「一ヶ月前も同じこと聞いてきましたよね」
「一ヶ月でガラッと変わることもあるだろ」
「そうですね」
紅茶を飲んで「きみは淹れるのが上手いな」と彼は呟く。それに礼を言ってから、私は問いに答えた。
「変わりません。お花を買うお客様が来て、売って。相変わらずファウストのエルダーフラワーは人気ですし」
「今流行ってるんだっけ?」
「はい。エルダーフラワーのシロップが」
「そうか。きみの体の方は?」
「大丈夫です。人間やめてもう二百年経ちましたけど、不都合なことは何も」
「なら良かった。君の種族を変えてしまったのは僕だから」
「そうでもないって聞きましたよ」
「でも、言い出したのは僕だ」
ファウストは真面目だ。
だから、未だに私の体に精霊の力を移したことを謝ってくる。植物が早く育つようになったとか不老不死になったとか、私への影響はそのくらいなのに。
「あの時は緊急事態だったんでしょう。仕方ないですよ。そんなことより、嵐の谷の猫ちゃんはどうしてますか?」
アメジストが陽の光を浴びて輝いた。いつの日からか彼は、私の目の前ではサングラスを外すようになった。
「見てくれ」
魔道具の鏡が子猫の姿を写す。
「かわいい」
「少し大きくなったんだ」
そうして、私たちはサンドイッチを食べ、紅茶を飲み、猫の話をする。
もう二百年間も、第二水曜日はこうして過ごしていた。