君のいる春を手放せない
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僕の家に晶がくるのは二百年振りだ。
きちんと毎日綺麗にしておいて良かったと内心ほっとしながらドアを開け、彼女を招き入れる。
「お邪魔します」
それにしてもさっきから精霊が大騒ぎで少しうるさい。彼女が谷に足を踏み入れた瞬間に猫が何匹も寄ってきたし、花は光るし風は吹くし、外のエルダーは満開だ。またカゴを持って拾い集めないと。
いつも白いワンピースしか着ない彼女は、今日だけは黒い喪服を着て静かに椅子に座っている。
シンプルな黒地のロングワンピースにヒール、可愛らしい顔の半分近くを覆うベール。この国伝統の略式喪服だ。
この格好の彼女を見るのは初めてではない。二百年もやっていれば葬式の依頼は何件もくるし、晶はその度にきちんとこなしていた。こんな風に死者の念に引っ張られることもなかったのだ。
それなのに、何故。
外では精霊が「大丈夫?」とでも言いたげに騒いでいる。晶がいるだけでこんなになるのか。
「……体調は?」
「特には何も……少しだるいだけで」
「そうか」
まだそこまで侵されてはいないようだ。
「ここにきてからの方が少し息がしやすいとは思います」
「きみの魂は精霊のものだからな。ここは仲間がたくさんいる土地だし」
戸棚から月桂樹の葉と薔薇の香油、銀の鍋を取り出して並べていく。必要な道具も少ないし難しい手順もないけど、精神を集中させないと失敗してしまうから、息を整えて彼女の方を見た。
「……あと、服なんだが」
「脱ぎます?」
「…………そうだな」
この時声を震わせなかった僕は褒められるべきだと思う。本当に、そのくらい緊張しているのだ。
「家に客間なんて気の利いたものはないから、僕の寝室を貸すよ。そこで服を全部脱いで」
「はい」
「脱いだら僕が準備を整えて全部差し入れる。口に月桂樹の葉を入れて、蒸気を浴びるだけだ」
「はい。すいません、色々と」
「いや、いいんだ。きみが穢れたままになる方がずっと苦しい」
銀の鍋に水を入れて暖める。
「喪服は僕が別で浄化するから、着ないで置いておいてくれ。着替えは用意する」
口の中で呪文を唱えて、寝室の箪笥から僕の予備の寝間着を取り出した。それしか彼女に合いそうな服がなかったのだ。
下着は見ないように洗浄するしかないだろう。
沸騰した湯に薔薇の香油を二滴いれた銀の鍋、よく洗った月桂樹の葉。
それらを寝室に転送したあと、僕はため息をついて椅子にドカッと腰掛けた。いつの間にか入っていた猫がぴょんと膝に飛び乗ってきたから撫でておく。もふもふとした毛の長い白猫だ。
「はあ……」
緊張した。この数年の中で一番と言ってもいいくらいには。
だって彼女が、あの子が、僕の寝室で服を脱ぐなんて。穢れを払うためだし下心なんて欠けらも無いけど、どうしたって心臓が震えてしまう。
「はああ……」
「にゃあ」
猫が鳴く。落ち着きなよとでも言いたげに、僕の手に頭を擦りつけてきた。かわいい。
「彼女が、猫だったら……」
こうして触れることも、躊躇せずにできるのに。
「にゃあ」
「そうだな。……そんなこと考えても意味がない」
すりすりすりすり。本当に懐っこい猫だ。
「ファウスト!鍋空になりました!」
「わかった!」
よく通る声が僕を呼ぶ。
それだけのことがどうしようもなく嬉しくて、僕はつい笑ってしまった。
「少し長いですね」なんて言って僕の寝間着を着た彼女を直視できるようになるまで三分。
空いた首元からふわふわした胸元のラインが見え隠れするのを、僕のショールをかけて隠してから一分。
僕は精神統一も兼ねて一心不乱に包丁を握っていた。
「手伝いましょうか?」
「大丈夫だ」
ダメだ。自分の寝間着なんて着せるんじゃなかった。余ってる布で何かこしらえてやれば良かった。あまりにも目の毒すぎる。
「……ファウスト」
「な、なに」
いつの間にか彼女がすぐ後ろに来ていた。生花の香りがする。
「随分細かく切るんですね?」
「……その方がいいかと思って」
手元を見たら玉ねぎが恐ろしい目の細さでみじん切りされていた。無意識だ。
「……私スープ作りますね」
「…………頼んだ」
隣にふわりと移動する。腰ほどまである長い髪は細いリボンで一括りにされていた。ただ結んでいるだけじゃなくて、後頭部を緩く編み込んでいるようだ。
こうして見ると彼女は全体的なバランスを整えるのが上手い。本来サイズが合わないはずの男性物の寝巻きを元々そういう服かのように着こなし、僕がぐるぐる巻いたショールは上手い具合に胸元を隠しつつ綺麗に整えられている。
「ファウスト、今日は晩酌の予定は?」
「すると言ったら?」
「お付き合いしますよ。私、お酒強いんです」
「確かに、きみはあまり酔わないな。飲んでるところも見ないけど」
「普段はお昼ですから」
窓の外は仄暗い。嵐の谷の、静かな夜だ。
「ファウストはどちらかというと薄味好みですか?」
「そうだな。自分ではあまり複雑な味は作らないよ」
「なるほど」
彼女は沈没草を鍋に入れて出汁をとっている。「おじやか?」と訊くと「違いますよ〜」と緩く微笑む。
「そういえば、賢者時代は一度皆さんにおじやを振舞ったきりでしたね」
晶は火加減を調節しながら呟いた。長い睫毛が伏せられる。
「基本指示は紙面のみなんて、酷いことしちゃったな」
「でもきみは立派に厄災を倒したじゃないか。賢者としては満点だ」
「ありがとうございます。……優しいですよね、ファウストは」
役目を終えた沈没草を引き上げ、一旦彼女はどこかに消えた。何かを持ってすぐに戻ってくる。
「なんだ、それ?」
「味噌です。旅行用に少しだけ持ってきてたのが功を奏しました」
聞けば、彼女の国の伝統的な調味料だという。大豆という豆を発酵させて作るらしい。
「私の故郷に「毎朝味噌汁を飲ませてほしい」っていうプロポーズの言葉があるんですよ。私は「いやお前もやれよ」って思っちゃって好きではないんですけど」
「まあ確かに、家事は分担すべきだな」
「でしょう?でもファウストは一人でなんでもこなせるから、いい旦那さんになりそう」
「そういうきみだって、器用だし努力家だろう。誰と一緒になってもちゃんとやれそうだ」
「僕と結婚したってきっとうまくいくよ」なんて、とても言えなかった。ただその白い手がキャベツを刻むのを見る。
僕の方はハンバーグというものを作っていた。晶がいた国の料理らしい。わりかし手間がかかるが、なかなか美味しそうだ。
「今日はちょっとこっち風にアレンジします」
キャベツとソーセージを出汁の中に投入しながら、彼女はそう言った。「本当はいきなり祖国の味を再現してもいいけど、ファウストは初めてですもんね」と。
「本式の味はまた次回ということで」
「次回があるのか?」
「ふふ、どうでしょう」
僕の方もフライパンで焼く行程に移った。距離が近い。腕が触れて、その度に春の香りがして、胸が跳ねる。幸せなのに息苦しくて仕方がない。
「ここに味噌を溶かします」
「ちょっとだけそのまま食べてみますか」と、彼女は余ったキャベツに少し味噌をつけてくれた。
口元まで持ってこられたからそのまま口を開くと、するりとそれが滑り込んできた。唇に触れた指は、今ばかりは知らぬふりだ。
「結構しょっぱいんだな」
「そうなんです。疲れてる時なんかにはいいんですよ。保存も効くし」
透き通った出汁がみるみるうちに味噌の色に染まっていく。彼女はそこにバターを落として溶かし、火を止めた。
味見をして頷く仕草がとてもかわいい。ふわりと肩にかかった髪を払ってやったら、「ありがとうございます」と微笑まれた。
ハンバーグを引っくり返し、火加減を調節する。
絶対に美味しいであろうことがわかる音だ。油の跳ねる音色は多分この世のみんなが好きだろう。
「こっち出来ました」
「ああ、そこの戸棚にスープ用の皿があるから……」
はるか昔に亡くなった母親を思い出した。父は不在の家庭だったが、いた頃はどうだったんだろうか。こんな風に、並んで料理をすることはあったのか。でも男性が家事をするなんて時代じゃなかったからな。
火を止めて皿を出し、ハンバーグを移す。ソースは作っておいたもの、付け合わせは精神統一のおかげか普段よりずっとなめらかに出来たマッシュポテト。
「ファウスト料理上手いですよね」
「きみだって相当な腕だろ」
「いえいえ」
なんでこの子はこういちいち可愛いんだろうか。少し肩を竦める仕草がこんなにも愛おしくてたまらない。
こうして始まった夕餉の味は、はっきり言ってよく分からなかった。
でもスープが美味しかったことだけは、きちんと覚えている。
きちんと毎日綺麗にしておいて良かったと内心ほっとしながらドアを開け、彼女を招き入れる。
「お邪魔します」
それにしてもさっきから精霊が大騒ぎで少しうるさい。彼女が谷に足を踏み入れた瞬間に猫が何匹も寄ってきたし、花は光るし風は吹くし、外のエルダーは満開だ。またカゴを持って拾い集めないと。
いつも白いワンピースしか着ない彼女は、今日だけは黒い喪服を着て静かに椅子に座っている。
シンプルな黒地のロングワンピースにヒール、可愛らしい顔の半分近くを覆うベール。この国伝統の略式喪服だ。
この格好の彼女を見るのは初めてではない。二百年もやっていれば葬式の依頼は何件もくるし、晶はその度にきちんとこなしていた。こんな風に死者の念に引っ張られることもなかったのだ。
それなのに、何故。
外では精霊が「大丈夫?」とでも言いたげに騒いでいる。晶がいるだけでこんなになるのか。
「……体調は?」
「特には何も……少しだるいだけで」
「そうか」
まだそこまで侵されてはいないようだ。
「ここにきてからの方が少し息がしやすいとは思います」
「きみの魂は精霊のものだからな。ここは仲間がたくさんいる土地だし」
戸棚から月桂樹の葉と薔薇の香油、銀の鍋を取り出して並べていく。必要な道具も少ないし難しい手順もないけど、精神を集中させないと失敗してしまうから、息を整えて彼女の方を見た。
「……あと、服なんだが」
「脱ぎます?」
「…………そうだな」
この時声を震わせなかった僕は褒められるべきだと思う。本当に、そのくらい緊張しているのだ。
「家に客間なんて気の利いたものはないから、僕の寝室を貸すよ。そこで服を全部脱いで」
「はい」
「脱いだら僕が準備を整えて全部差し入れる。口に月桂樹の葉を入れて、蒸気を浴びるだけだ」
「はい。すいません、色々と」
「いや、いいんだ。きみが穢れたままになる方がずっと苦しい」
銀の鍋に水を入れて暖める。
「喪服は僕が別で浄化するから、着ないで置いておいてくれ。着替えは用意する」
口の中で呪文を唱えて、寝室の箪笥から僕の予備の寝間着を取り出した。それしか彼女に合いそうな服がなかったのだ。
下着は見ないように洗浄するしかないだろう。
沸騰した湯に薔薇の香油を二滴いれた銀の鍋、よく洗った月桂樹の葉。
それらを寝室に転送したあと、僕はため息をついて椅子にドカッと腰掛けた。いつの間にか入っていた猫がぴょんと膝に飛び乗ってきたから撫でておく。もふもふとした毛の長い白猫だ。
「はあ……」
緊張した。この数年の中で一番と言ってもいいくらいには。
だって彼女が、あの子が、僕の寝室で服を脱ぐなんて。穢れを払うためだし下心なんて欠けらも無いけど、どうしたって心臓が震えてしまう。
「はああ……」
「にゃあ」
猫が鳴く。落ち着きなよとでも言いたげに、僕の手に頭を擦りつけてきた。かわいい。
「彼女が、猫だったら……」
こうして触れることも、躊躇せずにできるのに。
「にゃあ」
「そうだな。……そんなこと考えても意味がない」
すりすりすりすり。本当に懐っこい猫だ。
「ファウスト!鍋空になりました!」
「わかった!」
よく通る声が僕を呼ぶ。
それだけのことがどうしようもなく嬉しくて、僕はつい笑ってしまった。
「少し長いですね」なんて言って僕の寝間着を着た彼女を直視できるようになるまで三分。
空いた首元からふわふわした胸元のラインが見え隠れするのを、僕のショールをかけて隠してから一分。
僕は精神統一も兼ねて一心不乱に包丁を握っていた。
「手伝いましょうか?」
「大丈夫だ」
ダメだ。自分の寝間着なんて着せるんじゃなかった。余ってる布で何かこしらえてやれば良かった。あまりにも目の毒すぎる。
「……ファウスト」
「な、なに」
いつの間にか彼女がすぐ後ろに来ていた。生花の香りがする。
「随分細かく切るんですね?」
「……その方がいいかと思って」
手元を見たら玉ねぎが恐ろしい目の細さでみじん切りされていた。無意識だ。
「……私スープ作りますね」
「…………頼んだ」
隣にふわりと移動する。腰ほどまである長い髪は細いリボンで一括りにされていた。ただ結んでいるだけじゃなくて、後頭部を緩く編み込んでいるようだ。
こうして見ると彼女は全体的なバランスを整えるのが上手い。本来サイズが合わないはずの男性物の寝巻きを元々そういう服かのように着こなし、僕がぐるぐる巻いたショールは上手い具合に胸元を隠しつつ綺麗に整えられている。
「ファウスト、今日は晩酌の予定は?」
「すると言ったら?」
「お付き合いしますよ。私、お酒強いんです」
「確かに、きみはあまり酔わないな。飲んでるところも見ないけど」
「普段はお昼ですから」
窓の外は仄暗い。嵐の谷の、静かな夜だ。
「ファウストはどちらかというと薄味好みですか?」
「そうだな。自分ではあまり複雑な味は作らないよ」
「なるほど」
彼女は沈没草を鍋に入れて出汁をとっている。「おじやか?」と訊くと「違いますよ〜」と緩く微笑む。
「そういえば、賢者時代は一度皆さんにおじやを振舞ったきりでしたね」
晶は火加減を調節しながら呟いた。長い睫毛が伏せられる。
「基本指示は紙面のみなんて、酷いことしちゃったな」
「でもきみは立派に厄災を倒したじゃないか。賢者としては満点だ」
「ありがとうございます。……優しいですよね、ファウストは」
役目を終えた沈没草を引き上げ、一旦彼女はどこかに消えた。何かを持ってすぐに戻ってくる。
「なんだ、それ?」
「味噌です。旅行用に少しだけ持ってきてたのが功を奏しました」
聞けば、彼女の国の伝統的な調味料だという。大豆という豆を発酵させて作るらしい。
「私の故郷に「毎朝味噌汁を飲ませてほしい」っていうプロポーズの言葉があるんですよ。私は「いやお前もやれよ」って思っちゃって好きではないんですけど」
「まあ確かに、家事は分担すべきだな」
「でしょう?でもファウストは一人でなんでもこなせるから、いい旦那さんになりそう」
「そういうきみだって、器用だし努力家だろう。誰と一緒になってもちゃんとやれそうだ」
「僕と結婚したってきっとうまくいくよ」なんて、とても言えなかった。ただその白い手がキャベツを刻むのを見る。
僕の方はハンバーグというものを作っていた。晶がいた国の料理らしい。わりかし手間がかかるが、なかなか美味しそうだ。
「今日はちょっとこっち風にアレンジします」
キャベツとソーセージを出汁の中に投入しながら、彼女はそう言った。「本当はいきなり祖国の味を再現してもいいけど、ファウストは初めてですもんね」と。
「本式の味はまた次回ということで」
「次回があるのか?」
「ふふ、どうでしょう」
僕の方もフライパンで焼く行程に移った。距離が近い。腕が触れて、その度に春の香りがして、胸が跳ねる。幸せなのに息苦しくて仕方がない。
「ここに味噌を溶かします」
「ちょっとだけそのまま食べてみますか」と、彼女は余ったキャベツに少し味噌をつけてくれた。
口元まで持ってこられたからそのまま口を開くと、するりとそれが滑り込んできた。唇に触れた指は、今ばかりは知らぬふりだ。
「結構しょっぱいんだな」
「そうなんです。疲れてる時なんかにはいいんですよ。保存も効くし」
透き通った出汁がみるみるうちに味噌の色に染まっていく。彼女はそこにバターを落として溶かし、火を止めた。
味見をして頷く仕草がとてもかわいい。ふわりと肩にかかった髪を払ってやったら、「ありがとうございます」と微笑まれた。
ハンバーグを引っくり返し、火加減を調節する。
絶対に美味しいであろうことがわかる音だ。油の跳ねる音色は多分この世のみんなが好きだろう。
「こっち出来ました」
「ああ、そこの戸棚にスープ用の皿があるから……」
はるか昔に亡くなった母親を思い出した。父は不在の家庭だったが、いた頃はどうだったんだろうか。こんな風に、並んで料理をすることはあったのか。でも男性が家事をするなんて時代じゃなかったからな。
火を止めて皿を出し、ハンバーグを移す。ソースは作っておいたもの、付け合わせは精神統一のおかげか普段よりずっとなめらかに出来たマッシュポテト。
「ファウスト料理上手いですよね」
「きみだって相当な腕だろ」
「いえいえ」
なんでこの子はこういちいち可愛いんだろうか。少し肩を竦める仕草がこんなにも愛おしくてたまらない。
こうして始まった夕餉の味は、はっきり言ってよく分からなかった。
でもスープが美味しかったことだけは、きちんと覚えている。