第一部
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オーエンは、それから定期的に私にピアノ演奏を求めるようになった。そしてその度に、彼は必ず小箱を持ってくる。
手のひらに乗るサイズの、小さな小さな箱。濃紺に銀色の装飾がついた凝った意匠のものだ。この前行った街で彼が買った、わりといいお値段するやつ。
おそらく本来はアクセサリーなんかを入れる用途のものだろうけど、オーエンはその通りには使っていない。私が演奏を始めると、ピアノの上にその箱の蓋を開けて置くだけなのだ。
「ねえ、あれ弾いて。あのレモン輪切りにするやつ」
「あ、はい」
彼は自分が買い与えた楽譜の曲以外にも、私の世界の音楽を聴きたがる。お気に入りはクラシックと日本にいた頃に流行っていたいくつかのポップス。後者は、歌詞を教えたら少し歌うようになった。
そして、彼の前でピアノを弾く時は必ずあの時のワンピースを着るように言われている。オーエン以外に私の姿が見えなくなる魔法の服。
どうやら私の声も聞こえなくなるようで、一度弾いてる時に他のひとに呼ばれて返事をしても通じなかったことがあった。オーエンが部屋に結界を張ってしまうからかもしれないけど。
本当にふたりぼっちの世界を作りあげてしまうとは恐れ入った。さすが魔法使い、有言実行。
「次はあの、心中する曲」
「わかりました」
私がいた世界の曲を弾く時には歌詞の意味を少し教えることにしている。そしたら彼はそっちを覚えてしまったようで、こんな感じで少し物騒な頼み方をしてくる。まあ、通じるからいいんだけど……。
しかも、彼が好む曲は何気に高難易度のものが多い。過去に殴られながら弾かされ続けた経験がこんなところで生きるなんて、皮肉な話だと思う。
頭の中で音を再生して、原曲を知らないオーエンになるべくわかりやすく伝わるように弾いていく。最近の邦楽は音が多くて大変だ。
「ねえ賢者様」
「はい」
「他に弾ける楽器はあるの?」
「バイオリンとフルートくらいですよ」
「へえ」
オーエンは顎に手を当てた。
「たくさん弾けるんだね」
「たくさん弾かされましたからね」
才能があるように見られたものだから大変だった。あれもこれもと注ぎ込まれ、手だけは命よりも大切にするように教わった。
今でもそれが癖づいているから水仕事は避けがちだしハンドクリームは手放せないし爪の手入れも欠かせない。それでも指が長くて細くて美しい魔法使いたちには敵わないけど。
「……ねえ、どの曲が一番好きなの?」
「好きな曲、ですか」
技量やギミックが洒落ていて楽しい曲はある。
でも、好きな曲は一つもない。
「……ないですよ」
訊かれたことには素直に答える。それが私が魔法使いたちと関わる時に心がけていることだ。
「そう」
彼は静かに頷いた。
「音楽は好き?」
「あんまり」
「そう」
オーエンは、基本的にこの部屋ではとても穏やかだ。
ピアノを聴き、こちらの話に相槌を打ち、甘いものを食べて紅茶を飲む。
部屋の戸棚には彼が持ち込んだお菓子や茶葉なんかが置いてあるし、たまにネロに何かを作ってもらって持ってくることもあった。そして結界を張って閉じこもる。
きっとその結界はオズやミスラには解かれてしまうものだけど、彼らはここに踏み込もうとはしなかった。
部屋を出て服を着替えればミチルやリケが「どこに行ってたんですか」と駆け寄ってくるから、探されてはいるんだと思う。
でも「オーエンと二人きりでピアノ弾いてお菓子食べて談笑してました」なんて言ったら心配されてしまうし、今後はやめろと言われてしまうかもしれない。そして、オーエンはそれを快く思わないだろう。
だから私は黙って微笑むしかない。
普段はそうして笑うしかないから、私もオーエンのそばにいる時は気が楽なのだ。
そして彼は、嘘の微笑みを許さない。
「なあ、賢者様」
いつも通りオーエンと閉じこもって、服を着替え終わったあと。
カインが部屋を訪ねてきた。ドアを開けると、「やっぱり」と彼は呟いて眉を顰める。
「オーエンの気配がする」
「え、あ、そうでしょうね」
オーエンと毎日あんなにいればそりゃ気配の一つや二つ移るだろう。着ている服も魔法も、全て彼のものだから。
「なにかされてないか?」
「特に何も」
むしろお菓子をたくさんくれるのでありがたいです。
「……賢者様からオーエンの気配がすると、ミチルやリケやヒースが心配してるんだ。ファウストも気にしてる」
「そうですか……」
「俺だって心配だ。オーエンに心を許すなって、気をつけろって言ってるだろ?」
「そうですねえ」
彼の前髪に隠れた赤い瞳が、光を微かに反射した。それはそのまま、オーエンの過去の凶行を示している。
恐ろしい、最悪の北の魔法使い。全ての不幸を引き起こす悪魔の子。
「でも、私といる時は怖くないですよ。とても落ち着いてる」
ピアノを聴きながら寝ることすらあるのだ。
窓を開けて動物を招き入れることも多い。そんな時の彼は、御伽噺の王子様のような華やかさすらある。まるで日向のように美しく、穏やかだ。
「でも、あのオーエンだぞ?」
「「悪い魔法使い」だからですか?」
「そうだ」
「私、彼のそういうところ、嫌いじゃないんですよ」
あの言葉は私には通じない。彼の狂気は、私もよく慣れ親しんだものだ。
「賢者様……」
カインは私の手を握った。剣を握る騎士の手。
「賢者様は、本当に優しいんだな」
違う。私は優しくなんてない。ただ相性のいい人と一緒にいるに過ぎない。
「毎日二時間ほどいなくなるけど、その時間はオーエンといるんだろ?」
「そうですよ」
「どこにいるんだ?」
「それは言えません。多分、言わない方がいい」
「なんでだ?」
「あの時間は、多分お互いにとって必要なんです。だからオーエンは厳重に魔法をかける」
彼は多分、あの箱に私の音をしまっているのだ。
何も起きない、誰も何も彼のせいにしない空間。私が笑わなくていい空間。
きっとそれは大切で繊細なもので、少しでも壊れればもう戻ってはこない。
「でも賢者様、その他の時間はほぼ全部俺たちといるだろう。自分の時間とかないんじゃないか?」
「そこをオーエンといる時間で補充してます」
「そうなのか?!」
そんな驚くことか?いや驚くのか。常識的に考えたら、オーエンはきっと悪い魔法使いだもんな。
「皆さんが思うほど、彼は酷くないですよ」
いや酷いけど。酷いけど、心の奥底には踏み込んでこない。お互いがそれをしないように、ギリギリのところで線を引いている。
「知らなくても、そばにいることはできます」
「そうか……」
私も彼も、知られたくないことがあるのだ。
それなら知らなければいい。そこを見て見ぬふりして一緒にいることは、決して不可能ではない。
「……何かされたら言ってくれ」
「はい」
そろそろ夕食の時間だ。
食べたらお風呂に入って寝て、またオーエンといる明日がくる。
手のひらに乗るサイズの、小さな小さな箱。濃紺に銀色の装飾がついた凝った意匠のものだ。この前行った街で彼が買った、わりといいお値段するやつ。
おそらく本来はアクセサリーなんかを入れる用途のものだろうけど、オーエンはその通りには使っていない。私が演奏を始めると、ピアノの上にその箱の蓋を開けて置くだけなのだ。
「ねえ、あれ弾いて。あのレモン輪切りにするやつ」
「あ、はい」
彼は自分が買い与えた楽譜の曲以外にも、私の世界の音楽を聴きたがる。お気に入りはクラシックと日本にいた頃に流行っていたいくつかのポップス。後者は、歌詞を教えたら少し歌うようになった。
そして、彼の前でピアノを弾く時は必ずあの時のワンピースを着るように言われている。オーエン以外に私の姿が見えなくなる魔法の服。
どうやら私の声も聞こえなくなるようで、一度弾いてる時に他のひとに呼ばれて返事をしても通じなかったことがあった。オーエンが部屋に結界を張ってしまうからかもしれないけど。
本当にふたりぼっちの世界を作りあげてしまうとは恐れ入った。さすが魔法使い、有言実行。
「次はあの、心中する曲」
「わかりました」
私がいた世界の曲を弾く時には歌詞の意味を少し教えることにしている。そしたら彼はそっちを覚えてしまったようで、こんな感じで少し物騒な頼み方をしてくる。まあ、通じるからいいんだけど……。
しかも、彼が好む曲は何気に高難易度のものが多い。過去に殴られながら弾かされ続けた経験がこんなところで生きるなんて、皮肉な話だと思う。
頭の中で音を再生して、原曲を知らないオーエンになるべくわかりやすく伝わるように弾いていく。最近の邦楽は音が多くて大変だ。
「ねえ賢者様」
「はい」
「他に弾ける楽器はあるの?」
「バイオリンとフルートくらいですよ」
「へえ」
オーエンは顎に手を当てた。
「たくさん弾けるんだね」
「たくさん弾かされましたからね」
才能があるように見られたものだから大変だった。あれもこれもと注ぎ込まれ、手だけは命よりも大切にするように教わった。
今でもそれが癖づいているから水仕事は避けがちだしハンドクリームは手放せないし爪の手入れも欠かせない。それでも指が長くて細くて美しい魔法使いたちには敵わないけど。
「……ねえ、どの曲が一番好きなの?」
「好きな曲、ですか」
技量やギミックが洒落ていて楽しい曲はある。
でも、好きな曲は一つもない。
「……ないですよ」
訊かれたことには素直に答える。それが私が魔法使いたちと関わる時に心がけていることだ。
「そう」
彼は静かに頷いた。
「音楽は好き?」
「あんまり」
「そう」
オーエンは、基本的にこの部屋ではとても穏やかだ。
ピアノを聴き、こちらの話に相槌を打ち、甘いものを食べて紅茶を飲む。
部屋の戸棚には彼が持ち込んだお菓子や茶葉なんかが置いてあるし、たまにネロに何かを作ってもらって持ってくることもあった。そして結界を張って閉じこもる。
きっとその結界はオズやミスラには解かれてしまうものだけど、彼らはここに踏み込もうとはしなかった。
部屋を出て服を着替えればミチルやリケが「どこに行ってたんですか」と駆け寄ってくるから、探されてはいるんだと思う。
でも「オーエンと二人きりでピアノ弾いてお菓子食べて談笑してました」なんて言ったら心配されてしまうし、今後はやめろと言われてしまうかもしれない。そして、オーエンはそれを快く思わないだろう。
だから私は黙って微笑むしかない。
普段はそうして笑うしかないから、私もオーエンのそばにいる時は気が楽なのだ。
そして彼は、嘘の微笑みを許さない。
「なあ、賢者様」
いつも通りオーエンと閉じこもって、服を着替え終わったあと。
カインが部屋を訪ねてきた。ドアを開けると、「やっぱり」と彼は呟いて眉を顰める。
「オーエンの気配がする」
「え、あ、そうでしょうね」
オーエンと毎日あんなにいればそりゃ気配の一つや二つ移るだろう。着ている服も魔法も、全て彼のものだから。
「なにかされてないか?」
「特に何も」
むしろお菓子をたくさんくれるのでありがたいです。
「……賢者様からオーエンの気配がすると、ミチルやリケやヒースが心配してるんだ。ファウストも気にしてる」
「そうですか……」
「俺だって心配だ。オーエンに心を許すなって、気をつけろって言ってるだろ?」
「そうですねえ」
彼の前髪に隠れた赤い瞳が、光を微かに反射した。それはそのまま、オーエンの過去の凶行を示している。
恐ろしい、最悪の北の魔法使い。全ての不幸を引き起こす悪魔の子。
「でも、私といる時は怖くないですよ。とても落ち着いてる」
ピアノを聴きながら寝ることすらあるのだ。
窓を開けて動物を招き入れることも多い。そんな時の彼は、御伽噺の王子様のような華やかさすらある。まるで日向のように美しく、穏やかだ。
「でも、あのオーエンだぞ?」
「「悪い魔法使い」だからですか?」
「そうだ」
「私、彼のそういうところ、嫌いじゃないんですよ」
あの言葉は私には通じない。彼の狂気は、私もよく慣れ親しんだものだ。
「賢者様……」
カインは私の手を握った。剣を握る騎士の手。
「賢者様は、本当に優しいんだな」
違う。私は優しくなんてない。ただ相性のいい人と一緒にいるに過ぎない。
「毎日二時間ほどいなくなるけど、その時間はオーエンといるんだろ?」
「そうですよ」
「どこにいるんだ?」
「それは言えません。多分、言わない方がいい」
「なんでだ?」
「あの時間は、多分お互いにとって必要なんです。だからオーエンは厳重に魔法をかける」
彼は多分、あの箱に私の音をしまっているのだ。
何も起きない、誰も何も彼のせいにしない空間。私が笑わなくていい空間。
きっとそれは大切で繊細なもので、少しでも壊れればもう戻ってはこない。
「でも賢者様、その他の時間はほぼ全部俺たちといるだろう。自分の時間とかないんじゃないか?」
「そこをオーエンといる時間で補充してます」
「そうなのか?!」
そんな驚くことか?いや驚くのか。常識的に考えたら、オーエンはきっと悪い魔法使いだもんな。
「皆さんが思うほど、彼は酷くないですよ」
いや酷いけど。酷いけど、心の奥底には踏み込んでこない。お互いがそれをしないように、ギリギリのところで線を引いている。
「知らなくても、そばにいることはできます」
「そうか……」
私も彼も、知られたくないことがあるのだ。
それなら知らなければいい。そこを見て見ぬふりして一緒にいることは、決して不可能ではない。
「……何かされたら言ってくれ」
「はい」
そろそろ夕食の時間だ。
食べたらお風呂に入って寝て、またオーエンといる明日がくる。