第二部
夢小説設定
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それからまた一年が過ぎて、私は三年生に進級した。
「ねえ晶、本当に行くの?その体じゃ……」
「大丈夫。行ってきます」
「やっぱりやめた方がいいわよ……一昨日から微熱が続いてるし、まだ気分も悪いんでしょう?もし転んで手に怪我をしたら……」
「大丈夫だから。始業式休むと面倒臭いし。行ってきます」
運転席で眉を顰める母を置いて、私は勢いをつけて車から降りた。途端にくらりと回りかけた世界を何とか止め、足を前に進める。
あの発表会が終わって二年に上がった時から、私は体調を一気に崩すようになった。
目の痒み、くしゃみ、鼻水、頭痛、喉の痒み、吐き気、めまい、謎の息苦しさ、微熱。
何とか毎日体を動かしてピアノと通学は頑張っていたけれど、それでもどんどん苦しくなっていく。元々なかった筋力がさらに落ちて、夏休みでは暑さにバテて入院までする事態になってしまった。しかもどれだけ検査をしても原因はわからずじまいで、まるで花粉症と貧血が混ざりあって悪化したような症状に、医者も首を傾げている。
だというのに髪が伸びるスピードはどんどん速くなり、切ってももう追いつかないから何とか編んで纏めてやり過ごしている。肌は青ざめて痩せこけているくせに、唇だけがただ赤いのが少し怖い。
何とか三年のクラスまで上がり、出席番号順に並んだ席に座る。ピアノ科は一クラスしかないから、クラス替えはない。その分一度浮いてしまうともう取り返しがつかず、居ずらくなって退学していった子もいた。
私もどんどん弱る体と変わらずに投げつけられる無遠慮な視線や陰口に疲弊していたが、「もう仕方ない」と割り切ってなんとか通っている。
「……はぁ」
ふらりと傾きかけた体を持ち直して、窓の外を見た。散りかけた桜は、果たして何と形容すれば月の裏側に届くだろうか。
考えてももう声すら思い出せなくなってしまったことが酷く悲しい。記憶にあるのは匂いと、皮肉の中に混じった優しさと好意、それにあの甘すぎたシュガーだけだ。
一年なんて、そんなもんなのかな。
どうしようもないことばかりがぐるぐる回る自分がなんだが酷く女々しく思えて、机の上に突っ伏して睡眠をとることにした。
「……真木さん、真木さん」
トントンと肩が軽く叩かれる。顔をぼんやりと上げると、目の前で先生が酷く心配そうな顔をしてこちらを見ている。
「大丈夫?顔色が悪いようだけど……」
「大丈夫です。すみません」
「そう?これから修学旅行についての話をするから、きちんと聞いていてね」
「はい。ありがとうございます」
私は体を持ち上げて前を見据える。黒板には『修学旅行について』と綺麗な字で書かれている。
「では、修学旅行のしおりを配ります。最前列の人、お願いね」
「はーい」
パラパラと冊子が配られ、私の手元にもやや分厚めの紙束が置かれた。表紙はどこかのクラスの絵が得意な子がやったらしい。
「先生、飛行機の座席はどうなるんですか?」
「座席は当日の空港で配られるチケットによって決まります。つまりランダムです」
「えー!」
「うふふ、お友達の隣に座れるといいですね」
私はホテルの部屋割りのページを見た。私は「クラス関係なく自由に組んでいい」というルールが発表された途端こちらにすっ飛んできた黒川さんと二人一部屋だ。
「では皆さん、これから細かい持ち物に関する説明を始めます。しおりの三ページ目を開いてください。まず服装について……」
全てが終わった時には体力がゴッソリと減って、動くのに少し時間がかかりそうにな状態になっていた。
「真木さん、やっぱり保健室に行きましょう。あなたはそもそも体の状態が特殊だし……」
特殊、の部分を先生は明らかに濁した。彼女もまた、私が行方不明だった一年の間で無体を働かれて、その時についた傷が不可思議な形で未だに体に残っていると、そう思っているからだ。
本当はこれが唯一の彼が私といた証で、「特殊な事情」として許可されたピアスの僅かに重い感触が、今にもどこかに飛びそうな私の意識や感覚を保っている。でも、どうせそんなことを言っても信じてはもらえない。
「このまま大人しくしてれば回復します……。休みの間ゴロゴロしてたから体力戻ってないんですよ」
「そう?でも、顔色は悪いから」
結局先生の手を借りて保健室に行き、そのまま親が迎えに来ることになった。
やっぱり、修学旅行は行かない方がいいのかな。
私は自宅のピアノの鍵盤に触れながら、母にそう言った。
「でももう、お金払っちゃったし……。一年いなかったんだし、最後に思い出くらい作ったらどうかしら。あなたは特別だから、もう学校の子とも会えなくなるわよ」
プロのピアニスト。
それが私が初めてこのピアノの前に座った時に定められた目標であり、両親の悲願でもあった。特に母は音大を出たもののなかなか芽が出ず、ピアニストの夢を諦めた過去がある。かつての己よりも遥かに優れた才を持つ娘を前にして、彼女は浮き足立った。
私の心が色彩を失うのに気づかなかったのは、使命感が目を塞いでしまったからだろう。
「……音大に行く子はきっとたくさんいるよ」
「でも、あなたはあの子たちとは違うから。天才なのよ、自覚を持って」
「…………たくさん弾いただけだよ」
「お母さんは手が壊れるまで弾いても、中学生のあなたの足元にも及ばなかったわ。あなたには魔法がかかってる。音楽史に名を残す天才よ、そういう運命なの」
「…………うん……………」
「今日の練習が終わったらご飯にするわよ。体が治るように、お母さん頑張るから」
母が部屋を出ていき、静寂が耳を襲った。
私は鍵盤に手を置き、短く息を吸う。逃げ場はようどこにもないと解っているからだ。
体調は変わらず悪い。呼吸は苦しいし目は霞むし、頭もぼうっとする。目眩で倒れたことも何度もあった。
それでも、手を動かすことだけは欠かさない。それは「音楽を奏でる」という私の存在意義のためであり、かつての優しい時間を思い返すためでもあった。
賢者の記憶が失われても、賢者の言動の全ては彼らの身に習慣となって染みつく。
オーエンは、「一日でも動かさない日があると鈍るから、出来れば毎日弾いた方が良い」という私の言葉通り、毎日ピアノの練習をしていた。
私が居なくなってもなお彼がそれを続けているのなら、私たちはきっとどこかで繋がれる。
だから私は己を削るようにして、鍵盤に毎日食らいつくのだ。
きっとこの命は、あまり長くは保たない。
なんとなくわかっていることだった。もうきっと、長くは生きられないのだろう。着々と体を蝕んでいる原因不明の謎の病のおかげで、ほとんどを白と黒の譜面に埋め尽くされた人生はやっと終わりを迎える。
オーエンは、今思えば転調のようなものだったのだろう。短調から転じて一年の優しさをくれた彼はもういない。不在の温かさの名残と共に、ずっと音符だらけだった生涯は終わりへと突き進む。
私は狂ったように鍵盤を叩き続けた。
終末と月の裏側に向けて、ぐるぐると輪舞曲を奏でる。
「ねえ晶、本当に行くの?その体じゃ……」
「大丈夫。行ってきます」
「やっぱりやめた方がいいわよ……一昨日から微熱が続いてるし、まだ気分も悪いんでしょう?もし転んで手に怪我をしたら……」
「大丈夫だから。始業式休むと面倒臭いし。行ってきます」
運転席で眉を顰める母を置いて、私は勢いをつけて車から降りた。途端にくらりと回りかけた世界を何とか止め、足を前に進める。
あの発表会が終わって二年に上がった時から、私は体調を一気に崩すようになった。
目の痒み、くしゃみ、鼻水、頭痛、喉の痒み、吐き気、めまい、謎の息苦しさ、微熱。
何とか毎日体を動かしてピアノと通学は頑張っていたけれど、それでもどんどん苦しくなっていく。元々なかった筋力がさらに落ちて、夏休みでは暑さにバテて入院までする事態になってしまった。しかもどれだけ検査をしても原因はわからずじまいで、まるで花粉症と貧血が混ざりあって悪化したような症状に、医者も首を傾げている。
だというのに髪が伸びるスピードはどんどん速くなり、切ってももう追いつかないから何とか編んで纏めてやり過ごしている。肌は青ざめて痩せこけているくせに、唇だけがただ赤いのが少し怖い。
何とか三年のクラスまで上がり、出席番号順に並んだ席に座る。ピアノ科は一クラスしかないから、クラス替えはない。その分一度浮いてしまうともう取り返しがつかず、居ずらくなって退学していった子もいた。
私もどんどん弱る体と変わらずに投げつけられる無遠慮な視線や陰口に疲弊していたが、「もう仕方ない」と割り切ってなんとか通っている。
「……はぁ」
ふらりと傾きかけた体を持ち直して、窓の外を見た。散りかけた桜は、果たして何と形容すれば月の裏側に届くだろうか。
考えてももう声すら思い出せなくなってしまったことが酷く悲しい。記憶にあるのは匂いと、皮肉の中に混じった優しさと好意、それにあの甘すぎたシュガーだけだ。
一年なんて、そんなもんなのかな。
どうしようもないことばかりがぐるぐる回る自分がなんだが酷く女々しく思えて、机の上に突っ伏して睡眠をとることにした。
「……真木さん、真木さん」
トントンと肩が軽く叩かれる。顔をぼんやりと上げると、目の前で先生が酷く心配そうな顔をしてこちらを見ている。
「大丈夫?顔色が悪いようだけど……」
「大丈夫です。すみません」
「そう?これから修学旅行についての話をするから、きちんと聞いていてね」
「はい。ありがとうございます」
私は体を持ち上げて前を見据える。黒板には『修学旅行について』と綺麗な字で書かれている。
「では、修学旅行のしおりを配ります。最前列の人、お願いね」
「はーい」
パラパラと冊子が配られ、私の手元にもやや分厚めの紙束が置かれた。表紙はどこかのクラスの絵が得意な子がやったらしい。
「先生、飛行機の座席はどうなるんですか?」
「座席は当日の空港で配られるチケットによって決まります。つまりランダムです」
「えー!」
「うふふ、お友達の隣に座れるといいですね」
私はホテルの部屋割りのページを見た。私は「クラス関係なく自由に組んでいい」というルールが発表された途端こちらにすっ飛んできた黒川さんと二人一部屋だ。
「では皆さん、これから細かい持ち物に関する説明を始めます。しおりの三ページ目を開いてください。まず服装について……」
全てが終わった時には体力がゴッソリと減って、動くのに少し時間がかかりそうにな状態になっていた。
「真木さん、やっぱり保健室に行きましょう。あなたはそもそも体の状態が特殊だし……」
特殊、の部分を先生は明らかに濁した。彼女もまた、私が行方不明だった一年の間で無体を働かれて、その時についた傷が不可思議な形で未だに体に残っていると、そう思っているからだ。
本当はこれが唯一の彼が私といた証で、「特殊な事情」として許可されたピアスの僅かに重い感触が、今にもどこかに飛びそうな私の意識や感覚を保っている。でも、どうせそんなことを言っても信じてはもらえない。
「このまま大人しくしてれば回復します……。休みの間ゴロゴロしてたから体力戻ってないんですよ」
「そう?でも、顔色は悪いから」
結局先生の手を借りて保健室に行き、そのまま親が迎えに来ることになった。
やっぱり、修学旅行は行かない方がいいのかな。
私は自宅のピアノの鍵盤に触れながら、母にそう言った。
「でももう、お金払っちゃったし……。一年いなかったんだし、最後に思い出くらい作ったらどうかしら。あなたは特別だから、もう学校の子とも会えなくなるわよ」
プロのピアニスト。
それが私が初めてこのピアノの前に座った時に定められた目標であり、両親の悲願でもあった。特に母は音大を出たもののなかなか芽が出ず、ピアニストの夢を諦めた過去がある。かつての己よりも遥かに優れた才を持つ娘を前にして、彼女は浮き足立った。
私の心が色彩を失うのに気づかなかったのは、使命感が目を塞いでしまったからだろう。
「……音大に行く子はきっとたくさんいるよ」
「でも、あなたはあの子たちとは違うから。天才なのよ、自覚を持って」
「…………たくさん弾いただけだよ」
「お母さんは手が壊れるまで弾いても、中学生のあなたの足元にも及ばなかったわ。あなたには魔法がかかってる。音楽史に名を残す天才よ、そういう運命なの」
「…………うん……………」
「今日の練習が終わったらご飯にするわよ。体が治るように、お母さん頑張るから」
母が部屋を出ていき、静寂が耳を襲った。
私は鍵盤に手を置き、短く息を吸う。逃げ場はようどこにもないと解っているからだ。
体調は変わらず悪い。呼吸は苦しいし目は霞むし、頭もぼうっとする。目眩で倒れたことも何度もあった。
それでも、手を動かすことだけは欠かさない。それは「音楽を奏でる」という私の存在意義のためであり、かつての優しい時間を思い返すためでもあった。
賢者の記憶が失われても、賢者の言動の全ては彼らの身に習慣となって染みつく。
オーエンは、「一日でも動かさない日があると鈍るから、出来れば毎日弾いた方が良い」という私の言葉通り、毎日ピアノの練習をしていた。
私が居なくなってもなお彼がそれを続けているのなら、私たちはきっとどこかで繋がれる。
だから私は己を削るようにして、鍵盤に毎日食らいつくのだ。
きっとこの命は、あまり長くは保たない。
なんとなくわかっていることだった。もうきっと、長くは生きられないのだろう。着々と体を蝕んでいる原因不明の謎の病のおかげで、ほとんどを白と黒の譜面に埋め尽くされた人生はやっと終わりを迎える。
オーエンは、今思えば転調のようなものだったのだろう。短調から転じて一年の優しさをくれた彼はもういない。不在の温かさの名残と共に、ずっと音符だらけだった生涯は終わりへと突き進む。
私は狂ったように鍵盤を叩き続けた。
終末と月の裏側に向けて、ぐるぐると輪舞曲を奏でる。
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