第二部
夢小説設定
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朝の六時に目が覚めた。
こちらに戻ってきてからというもの、起き上がることすら苦しい日々が続いていた私としては、まあ健康的な時間か。
「あら晶、おはよう」
「おはよう……ございます……」
「早いのね。体はどう?」
「うん……普通」
「朝ご飯は食べる?」
「いい。ピアノ弾いてくる」
「そう。頑張ってらっしゃい」
お母さんはキッチンでなにか作業をしていた。
幼い頃「おてつだいしたい」とねだったら「晶の手は特別な手。刃物や火になんて近づいちゃダメよ」と断られたことを思い出す。そのおかげで私はお湯すら自力で沸かしたことがない。
ピアノ室に入って、自分の手を見下ろした。
傷もささくれも無い、白くて長い手。男性のような節はなく、短く切られた爪は健康的なピンク色をして血が通っていることを私に知らせる。
「…………はぁ」
思えば私はあの世界でも、自力では何もしなかった。
料理も、裁縫も、いつだって快く引き受けてくれてしまう魔法使いがいたからだ。私を働かせたのは、オーエンだけ。
結局あの世界でやった事といえば、ピアノと魔力供給と恋だけだったのだ。そして私は、空っぽになった器だけを抱えている。
あの人はもう私を忘れた。月に愛された異世界には、きっともう代わりがいる。
いや、私も代わりなのかもしれないな。そうしてどんどん毎年違う世界人間を使い捨てて、歪んだ夢の国は続いていく。
ピアノの前に座って、既に書き込みだらけの楽譜を取り出した。
黒川さんが「この曲にしたい」と言った時、私はどんな顔をしていただろう。「いいよ」とすぐに伝えたつもりだけど、上手く取り繕えていたかはわからない。
好きだとすら、ちゃんと言えなかった。
一緒にいたいとも、言えなかった。
物分りのいい人間を装い続けた。あの人は私よりずっとずっと大人で、だからこそそれを見逃してくれていた。
世界に嫌われた魔法使い。でも、とてもやさしいひとだった。
鍵盤に手を置く。朝陽が音もなく差す。
なぜこんなこと気づかないでいたの。
気づいてた。きっと私たちは何もかもに気づいていて、だからこそ寄り添って。
探し続けた愛はとうに過ぎ去って、もう戻ってはこなくて。
木漏れ日も見上げた色違いの瞳も、もう、ずっと遠くにいってしまった。
こんな恋をするには、私はきっとあまりにも若すぎたんだと思う。異世界に飛んで一年間千二百歳の男性に恋をして帰ってきて思い返すだけなんて、そんなのはもっと大人の、経験値を積んだ人がやるくらいでいいのだ。これは決して十六歳の子供に背負えるような、軽いものではない。
これがいつか、やさしい昨日になるの?
わからない。まだ帰ってきて少しくらいしか経ってない。時間を無駄にしているような気もする。
「……晶」
弾き終えてまた楽譜に書き込みをしていると、そっと母が入ってきた。
彼女はいつもそうだ。神聖な音楽を奏でる場所に自分はふさわしくないと、何も穢すまいと、音を立てずに振舞おうとする。
「電話よ。オーストリアのおばあちゃんから」
「ああ……」
母は、日本とオーストリアの混血だ。
つまり私はクォーターということになる。やや彫りの深い顔や白い肌、日本の服が合いにくい頭身は、おそらくそちらから受け継いだものだろう。
「……Oma?」
『Akira!Ich bin froh zu reden!Wie fühlen Sie sich?』
「Es ist okay」
『Ist die Wunde immer noch nicht verheilt?』
「Jawohl. Nicht geheilt」
『Bist du zum Arzt gegangen? Der Verbrecher wurde noch nicht gefasst, oder?』
「Es scheint, dass Ärzte es auch nicht heilen können. Über den Täter scheint es keine Hinweise zu geben」
ウィーンに住む祖母は、帰ってきてから毎週電話をかけてくるようになった。
訊かれることは毎回同じだ。体は大丈夫か、体につけられた痕は治らないのか、私を攫った犯人はまだ捕まらないのか。
それを聞く度に、少しだけ悲しくなる。あの世界そのものが、まるで否定されているようで。
『Übrigens habe ich kandierte Veilchen geschickt.Ich denke, es wird bald ankommen』
「OK. Danke」
『Wir sehen uns!』
電話が切れた。
「なんて?」
「スミレの砂糖漬け送ったからそろそろ着くよって」
「あらそう。良かったじゃない」
スミレの砂糖漬けは私の好物だった。紅茶に入れたりソーダに入れたり、疲れている時はそのまま食べることもある。
そういえば、これはあっちにはなかった。
オーエンは気に入るだろうか。本当に本当に甘い食べ物だから、教えてあげられたら良かったんだけど。
「晶」
「なに?」
「紅茶、淹れようか?」
「あ、うん」
私は椅子から立ち上がった。
その瞬間にくらりと景色が回って、手をピアノの縁について耐える。
「やっぱり食べたら?朝ごはん」
「そうする……」
思えばあっちの世界ではなんだかんだきちんと三食摂取していた。やっぱりそっちの方がいいんだろうな。
体勢を立て直して、今度こそ部屋を後にした。
こちらに戻ってきてからというもの、起き上がることすら苦しい日々が続いていた私としては、まあ健康的な時間か。
「あら晶、おはよう」
「おはよう……ございます……」
「早いのね。体はどう?」
「うん……普通」
「朝ご飯は食べる?」
「いい。ピアノ弾いてくる」
「そう。頑張ってらっしゃい」
お母さんはキッチンでなにか作業をしていた。
幼い頃「おてつだいしたい」とねだったら「晶の手は特別な手。刃物や火になんて近づいちゃダメよ」と断られたことを思い出す。そのおかげで私はお湯すら自力で沸かしたことがない。
ピアノ室に入って、自分の手を見下ろした。
傷もささくれも無い、白くて長い手。男性のような節はなく、短く切られた爪は健康的なピンク色をして血が通っていることを私に知らせる。
「…………はぁ」
思えば私はあの世界でも、自力では何もしなかった。
料理も、裁縫も、いつだって快く引き受けてくれてしまう魔法使いがいたからだ。私を働かせたのは、オーエンだけ。
結局あの世界でやった事といえば、ピアノと魔力供給と恋だけだったのだ。そして私は、空っぽになった器だけを抱えている。
あの人はもう私を忘れた。月に愛された異世界には、きっともう代わりがいる。
いや、私も代わりなのかもしれないな。そうしてどんどん毎年違う世界人間を使い捨てて、歪んだ夢の国は続いていく。
ピアノの前に座って、既に書き込みだらけの楽譜を取り出した。
黒川さんが「この曲にしたい」と言った時、私はどんな顔をしていただろう。「いいよ」とすぐに伝えたつもりだけど、上手く取り繕えていたかはわからない。
好きだとすら、ちゃんと言えなかった。
一緒にいたいとも、言えなかった。
物分りのいい人間を装い続けた。あの人は私よりずっとずっと大人で、だからこそそれを見逃してくれていた。
世界に嫌われた魔法使い。でも、とてもやさしいひとだった。
鍵盤に手を置く。朝陽が音もなく差す。
なぜこんなこと気づかないでいたの。
気づいてた。きっと私たちは何もかもに気づいていて、だからこそ寄り添って。
探し続けた愛はとうに過ぎ去って、もう戻ってはこなくて。
木漏れ日も見上げた色違いの瞳も、もう、ずっと遠くにいってしまった。
こんな恋をするには、私はきっとあまりにも若すぎたんだと思う。異世界に飛んで一年間千二百歳の男性に恋をして帰ってきて思い返すだけなんて、そんなのはもっと大人の、経験値を積んだ人がやるくらいでいいのだ。これは決して十六歳の子供に背負えるような、軽いものではない。
これがいつか、やさしい昨日になるの?
わからない。まだ帰ってきて少しくらいしか経ってない。時間を無駄にしているような気もする。
「……晶」
弾き終えてまた楽譜に書き込みをしていると、そっと母が入ってきた。
彼女はいつもそうだ。神聖な音楽を奏でる場所に自分はふさわしくないと、何も穢すまいと、音を立てずに振舞おうとする。
「電話よ。オーストリアのおばあちゃんから」
「ああ……」
母は、日本とオーストリアの混血だ。
つまり私はクォーターということになる。やや彫りの深い顔や白い肌、日本の服が合いにくい頭身は、おそらくそちらから受け継いだものだろう。
「……Oma?」
『Akira!Ich bin froh zu reden!Wie fühlen Sie sich?』
「Es ist okay」
『Ist die Wunde immer noch nicht verheilt?』
「Jawohl. Nicht geheilt」
『Bist du zum Arzt gegangen? Der Verbrecher wurde noch nicht gefasst, oder?』
「Es scheint, dass Ärzte es auch nicht heilen können. Über den Täter scheint es keine Hinweise zu geben」
ウィーンに住む祖母は、帰ってきてから毎週電話をかけてくるようになった。
訊かれることは毎回同じだ。体は大丈夫か、体につけられた痕は治らないのか、私を攫った犯人はまだ捕まらないのか。
それを聞く度に、少しだけ悲しくなる。あの世界そのものが、まるで否定されているようで。
『Übrigens habe ich kandierte Veilchen geschickt.Ich denke, es wird bald ankommen』
「OK. Danke」
『Wir sehen uns!』
電話が切れた。
「なんて?」
「スミレの砂糖漬け送ったからそろそろ着くよって」
「あらそう。良かったじゃない」
スミレの砂糖漬けは私の好物だった。紅茶に入れたりソーダに入れたり、疲れている時はそのまま食べることもある。
そういえば、これはあっちにはなかった。
オーエンは気に入るだろうか。本当に本当に甘い食べ物だから、教えてあげられたら良かったんだけど。
「晶」
「なに?」
「紅茶、淹れようか?」
「あ、うん」
私は椅子から立ち上がった。
その瞬間にくらりと景色が回って、手をピアノの縁について耐える。
「やっぱり食べたら?朝ごはん」
「そうする……」
思えばあっちの世界ではなんだかんだきちんと三食摂取していた。やっぱりそっちの方がいいんだろうな。
体勢を立て直して、今度こそ部屋を後にした。