第二部
夢小説設定
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生理が来ない。
この非常に重大な問題に、私は頭を抱えた。
帰ってきて約二ヶ月。
ストレスや環境の変化諸々で遅れたとはいえ、そろそろ来てほしいところだ。
親も首を傾げている。「無体を働かれた」とはいえ、妊娠はしていないはずなのに。
妊娠検査薬も試したし、病院にも行った。でも結果は変わらず陰性。
首元にあるキスマークも消えない。皮膚の治癒能力が死んだかと思ったけど、この前腕にできた蚯蚓脹れは治ったからそうでもない。
髪が伸びるのが早くなった。帰ってきた時は胸上程だったのに、もう胸下に届いている。
私自体は心当たりがありすぎるから毎夜月に向かって「ちょっとオーエンさん?」とクレームをつけるけど、その度にもう声も忘れかけていることにショックを受けて、また泣いて。
でもあの日々を夢と片付けるには、あまりにも私の体に残骸が残りすぎていた。外れないアクセサリーも、体に起こった異変も。
あの人が私に未練を残したことはわかりすぎるほど解るのに、きっと彼は私を忘れた。
学校が始まった。
昼間に見える白い月にさえ気を取られなければ、忙しない日々というのは私にとってまあまあ有難いことでもある。
まあ全然ダメなんですけどね!!あー今日も月が綺麗だなー!!
「次、真木さん」
「はい」
そして今は二ヶ月後に開かれる学校主催のコンサート用のオーディションである。これに選ばれると父兄のみならず学外の偉い方の目にも留まりやすくなるということで、わりと競走は熾烈だ。
オーディションそのものへの参加は必須だけど、ガチ勢と既に諦めた勢の力の入り方が違う。私は前までは前者であることを強要されてきたし、それに応え続けてきた。
でも、今は。
「楽曲名をどうぞ」
「『夜に駆ける』」
みんな技術発表の意味も兼ねてクラシックの高難易度曲を弾こうとするけど、私は今回少しそこから外れることにした。
このコンサートは、父兄が幼い子供を連れてくることも多い。それなのに知らない小難しい曲ばかりでは疲れてしまうし、実際に泣き出したり寝付いてしまう子供たちが多かった。それに、うちの学校を志望する子達もくる。
そういう人たちが、楽しめればいい。
だから今回はまさかの最新J-popを選択した。でも、難易度は完全に鬼。
この曲の作者であるAyaseは、元はボーカロイドを使用していたクリエイターだから歌う難易度も高い。
そして、その打ち込みを基本としたピアノ譜面は、人間が弾くことを前提とされていない。
まあつまり「これ人間が弾くもんじゃねえよ!」という楽曲が非常に多いのだ。『夜に駆ける』もその一つである。
息を吸う。
オーエンに何度この曲をせがまれたかわからない。彼本人は題名ではなく「心中する曲」と言ってはいたけど。まあ確かにその通りなんだけど。
指の動きはとにかく速い。その中に強弱をつけて、全体の背景に味をつけていく。
ビルの屋上、吹き抜ける風、落ちていく男女、落ちるまでの過程。
原作小説も読んだ。その流れを踏襲しつつ、お手本のような演奏にはならないように。
最後の音は優しく短く切った。
拍手はない。この学校のオーディションはいつもそうだった。
「はい、よろしい」
「ありがとうございました」
審査員の先生方に向かって一礼して、部屋から出た。
「ふー……」
肩を回しながら渡り廊下を歩く。今日はこのまま自習だからなあ。数学でもやるか。
「あ、あの……」
「はい?」
後ろからパタパタ走って話しかけてきたのは、黒いくせっ毛を二つにまとめた女の子だった。
そのちょっとつり目の顔と少しおどおどとした優しいオーラはクロエを彷彿とさせる。そういえば元気かな。
「真木さん、だよね」
「ええ、まあ……」
「まあ」ってなんだよ「まあ」って。正真正銘真木さんだよ。
コミュ障のお手本のような返ししかできない自分に嫌気が差していると、彼女はその瞳をキラキラと輝かせてこちらを見上げた。ちょっと小柄な子なのだ。
「私、声楽科の黒川ほなみって言います。あの、真木さんにコンサートの伴奏をお願いしたくて……!」
「伴奏を?」
「うん!」
黒川さんは元気に頷いた。
声楽科はピアノ科の生徒に発表やテストの際の伴奏を頼むことがある。
ただ、私の所属するこの学校は後者より前者の方が人数が多い。その都合上、常に何人かのピアノ科所属が余るのだ。
私は中一から基本余り組。「なんか合わせにくい」とか「怖い」という理由で、声楽科の人から依頼が来ることは無かった。先生方にも「あなたは一人で弾く方が向いてる」と言われ続けている。
その私に、何故?
「真木さん、さっき『夜に駆ける』弾いてたでしょ?」
「う、うん」
「私ね、人を楽しませる歌手になりたいの」
「うん」
「真木さんも、そうなのかなって思って」
黒川さんの目はキラキラしている。希望に満ちた、若者の瞳。
「クラシックも大好きだけど、私は今回はポップス歌いたいなって思ってて。それで」
「私が弾いてたから、伴奏を?」
「うん!そうなの」
斜め下から注がれる期待に満ちた視線。てかこの子、コンサートに選ばれたってことは相当上手い子なんだ。
「私ね、今年この学校に転入したんだ」
「え、転入なの?」
マジで?転入して一年目で選抜に勝ったの?化け物じゃん。
「親の反対とかようやく説き伏せて、何とかここまで来たの。だから、ピアノ科で一番上手くて相性が良さそうな真木さんと組んでみんなをびっくりさせてみたいっていうのもある」
ほお。なかなか野心的なところがある子のようだ。行動力も申し分ない。
「でも、私まだコンサートに出るのが決定したわけじゃないよ」
「うん。でも、真木さん、絶対受かるよ」
「ど、どうして」
「格が違った」
淡い菫色の瞳が私を貫く。
「演奏のレベルもだし、聴く人のことを誰よりも考えてた。真木さんは受かるよ」
めちゃくちゃ強気だ。まあこのくらいじゃないとこんな所までこないか。
「……いいよ。伴奏、引き受ける」
「ほんと?!ありがとう!」
小柄な体が跳ねた。鈴が鳴るような声が転がる。
「じゃあ私、次授業あるから……」
「あ、うん、ありがとう!またね!」
一週間後。
ざわつくピアノ科の掲示板前、泣く声とそれを慰める声、喜ぶ声がひしめき合っている。
「真木さん!」
声楽科のはずの黒川さんが私に手を振っていた。よく通る、華やかな声が告げる。
「受かってるよ!」
貼られた紙には確かに『真木 晶』の文字がある。
「よろしくね」
挑戦的で、それでもどこか優しい菫色。
「こちらこそ」
差し出された華奢な手を、私は握った。
この非常に重大な問題に、私は頭を抱えた。
帰ってきて約二ヶ月。
ストレスや環境の変化諸々で遅れたとはいえ、そろそろ来てほしいところだ。
親も首を傾げている。「無体を働かれた」とはいえ、妊娠はしていないはずなのに。
妊娠検査薬も試したし、病院にも行った。でも結果は変わらず陰性。
首元にあるキスマークも消えない。皮膚の治癒能力が死んだかと思ったけど、この前腕にできた蚯蚓脹れは治ったからそうでもない。
髪が伸びるのが早くなった。帰ってきた時は胸上程だったのに、もう胸下に届いている。
私自体は心当たりがありすぎるから毎夜月に向かって「ちょっとオーエンさん?」とクレームをつけるけど、その度にもう声も忘れかけていることにショックを受けて、また泣いて。
でもあの日々を夢と片付けるには、あまりにも私の体に残骸が残りすぎていた。外れないアクセサリーも、体に起こった異変も。
あの人が私に未練を残したことはわかりすぎるほど解るのに、きっと彼は私を忘れた。
学校が始まった。
昼間に見える白い月にさえ気を取られなければ、忙しない日々というのは私にとってまあまあ有難いことでもある。
まあ全然ダメなんですけどね!!あー今日も月が綺麗だなー!!
「次、真木さん」
「はい」
そして今は二ヶ月後に開かれる学校主催のコンサート用のオーディションである。これに選ばれると父兄のみならず学外の偉い方の目にも留まりやすくなるということで、わりと競走は熾烈だ。
オーディションそのものへの参加は必須だけど、ガチ勢と既に諦めた勢の力の入り方が違う。私は前までは前者であることを強要されてきたし、それに応え続けてきた。
でも、今は。
「楽曲名をどうぞ」
「『夜に駆ける』」
みんな技術発表の意味も兼ねてクラシックの高難易度曲を弾こうとするけど、私は今回少しそこから外れることにした。
このコンサートは、父兄が幼い子供を連れてくることも多い。それなのに知らない小難しい曲ばかりでは疲れてしまうし、実際に泣き出したり寝付いてしまう子供たちが多かった。それに、うちの学校を志望する子達もくる。
そういう人たちが、楽しめればいい。
だから今回はまさかの最新J-popを選択した。でも、難易度は完全に鬼。
この曲の作者であるAyaseは、元はボーカロイドを使用していたクリエイターだから歌う難易度も高い。
そして、その打ち込みを基本としたピアノ譜面は、人間が弾くことを前提とされていない。
まあつまり「これ人間が弾くもんじゃねえよ!」という楽曲が非常に多いのだ。『夜に駆ける』もその一つである。
息を吸う。
オーエンに何度この曲をせがまれたかわからない。彼本人は題名ではなく「心中する曲」と言ってはいたけど。まあ確かにその通りなんだけど。
指の動きはとにかく速い。その中に強弱をつけて、全体の背景に味をつけていく。
ビルの屋上、吹き抜ける風、落ちていく男女、落ちるまでの過程。
原作小説も読んだ。その流れを踏襲しつつ、お手本のような演奏にはならないように。
最後の音は優しく短く切った。
拍手はない。この学校のオーディションはいつもそうだった。
「はい、よろしい」
「ありがとうございました」
審査員の先生方に向かって一礼して、部屋から出た。
「ふー……」
肩を回しながら渡り廊下を歩く。今日はこのまま自習だからなあ。数学でもやるか。
「あ、あの……」
「はい?」
後ろからパタパタ走って話しかけてきたのは、黒いくせっ毛を二つにまとめた女の子だった。
そのちょっとつり目の顔と少しおどおどとした優しいオーラはクロエを彷彿とさせる。そういえば元気かな。
「真木さん、だよね」
「ええ、まあ……」
「まあ」ってなんだよ「まあ」って。正真正銘真木さんだよ。
コミュ障のお手本のような返ししかできない自分に嫌気が差していると、彼女はその瞳をキラキラと輝かせてこちらを見上げた。ちょっと小柄な子なのだ。
「私、声楽科の黒川ほなみって言います。あの、真木さんにコンサートの伴奏をお願いしたくて……!」
「伴奏を?」
「うん!」
黒川さんは元気に頷いた。
声楽科はピアノ科の生徒に発表やテストの際の伴奏を頼むことがある。
ただ、私の所属するこの学校は後者より前者の方が人数が多い。その都合上、常に何人かのピアノ科所属が余るのだ。
私は中一から基本余り組。「なんか合わせにくい」とか「怖い」という理由で、声楽科の人から依頼が来ることは無かった。先生方にも「あなたは一人で弾く方が向いてる」と言われ続けている。
その私に、何故?
「真木さん、さっき『夜に駆ける』弾いてたでしょ?」
「う、うん」
「私ね、人を楽しませる歌手になりたいの」
「うん」
「真木さんも、そうなのかなって思って」
黒川さんの目はキラキラしている。希望に満ちた、若者の瞳。
「クラシックも大好きだけど、私は今回はポップス歌いたいなって思ってて。それで」
「私が弾いてたから、伴奏を?」
「うん!そうなの」
斜め下から注がれる期待に満ちた視線。てかこの子、コンサートに選ばれたってことは相当上手い子なんだ。
「私ね、今年この学校に転入したんだ」
「え、転入なの?」
マジで?転入して一年目で選抜に勝ったの?化け物じゃん。
「親の反対とかようやく説き伏せて、何とかここまで来たの。だから、ピアノ科で一番上手くて相性が良さそうな真木さんと組んでみんなをびっくりさせてみたいっていうのもある」
ほお。なかなか野心的なところがある子のようだ。行動力も申し分ない。
「でも、私まだコンサートに出るのが決定したわけじゃないよ」
「うん。でも、真木さん、絶対受かるよ」
「ど、どうして」
「格が違った」
淡い菫色の瞳が私を貫く。
「演奏のレベルもだし、聴く人のことを誰よりも考えてた。真木さんは受かるよ」
めちゃくちゃ強気だ。まあこのくらいじゃないとこんな所までこないか。
「……いいよ。伴奏、引き受ける」
「ほんと?!ありがとう!」
小柄な体が跳ねた。鈴が鳴るような声が転がる。
「じゃあ私、次授業あるから……」
「あ、うん、ありがとう!またね!」
一週間後。
ざわつくピアノ科の掲示板前、泣く声とそれを慰める声、喜ぶ声がひしめき合っている。
「真木さん!」
声楽科のはずの黒川さんが私に手を振っていた。よく通る、華やかな声が告げる。
「受かってるよ!」
貼られた紙には確かに『真木 晶』の文字がある。
「よろしくね」
挑戦的で、それでもどこか優しい菫色。
「こちらこそ」
差し出された華奢な手を、私は握った。