没分暁漢
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ぼつぶんぎょう-かん〔ボツブンゲウ-〕【没分暁漢】
ものの道理がわからない男。わからずや。
「すみません、帝国図書情報資産管理局の者です!」
私は手にしていた辞典をパタンと閉じた。
店の奥に置かれた椅子から立ち上がり、気持ち早めに入口まで歩いて彼を迎える。
お洒落に切られた黒髪、すらりとした体躯、整った顔立ち、利発な声。
「尾崎さん」
「夏目さん、いつもお世話になってます」
「いえいえ」
尾崎さんは、何時でも朗らかな微笑みを浮かべている。
最近このトウキョウ府は物騒な事件だらけで、お国に仕えるその身は疲弊している筈なのに。
「和綴じ本は、今日は入っていないんです……御免なさい」
「近年どんどん少なくなってますし、仕方ないですよ。それに、夏目さんが危険な目に遭って無いってことですから」
この人は、直ぐそういうことを言うのだ。
書店の人間である私との関係性を良くしておきたいのは解るけれど、此方も女学校を出たばかりの娘。思わず勘違いしてしまいそうになる。
「じゃあ、俺はこれで失礼します」
「ええ、また」
チリンチリン、と鳴った鈴の音を聴き届け、私はそっと溜息を着いた。
書店を経営する両親の元に生まれた私にとって、帝国図書情報資産管理局は身近な存在だった。
「稀モノ」という開くと精神が狂ってしまうという本を回収し、研究するための機関。彼らの普段の仕事は、私の家のような書店を回って条件に当て嵌る和綴じ本を調べることと、万が一の時の取扱の指導だ。
年老いた両親から店を引き継いだ頃から、彼らはとにかく頻繁に此方に訪ねてくるようになった。
最近この帝都では「稀モノ」絡みと思われる事件が多発し、見回りの強化が必要になったらしい。
そして何故か、この店には尾崎さんがよく当たる。
尾崎隼人さん。年齢はわからないけど恐らく二十歳前後、帝国図書情報資産管理局の中でも優秀で、信頼されているお方なのだということは、お仲間の方からのお話で直ぐに解った。
見目麗しく折り目正しく、かといって嫌味にならない程度に砕けている彼は、近所の女の子達から絶大な人気を誇っているようで。街にいる時はお仕事中のことが多いから皆話し掛けはしないけれど、カフェや書店、お洋服屋さんの窓越しに彼を苦しげに見詰める視線は日に日に増えていた。
私も悔しいことにその一人なのだけれど、果たしてあの方は気づいておられるのかしら。
このまま彼は帝都中の女の子の心を奪って、そして何処かの……ああ、多分最近入ったという新人のあのお嬢様と結婚してしまうのかしら。
久世ツグミさんと仰るあの方は可愛らしくて上品で、華族の血筋であるというのも頷けた。
これはただの勘だけれど、尾崎さんはああいう女の子を好みそうだ。
私なんかでは、特に何の取り柄もない平民の娘では、到底太刀打ちなんて出来ない。
私はきっと、父が何処からか見つけてきた名も知らぬ男性の元へお嫁に行くのだろう。
新しい時代だ、これからは女性も自由に恋愛をする時代だと叫ばれているとはいえ、古風な考え方をする両親はそんなことを認めやしない。
「……仕事をしなきゃ」
はたきを持って本棚の掃除をしていると、チリンチリンとまた鈴がなった。
「響子、今日はもう尾崎さんはいらっしゃった?」
駆け込んできたのは近所に住む深雪だ。彼女も尾崎さんに憧れて、こうして毎日私の所に来ては彼が来たか確認する。
「本当だわ、まだ彼の匂いが残ってるみたい」
「よく分かるわね」
「ええ、シトラスムスクの香りがするもの」
「……そう」
時刻はもうお昼近い。
「ねえ響子、一緒にフラマンローズに行きましょ。尾崎さんが来た記念でパフェでも食べに」
「良いけれど、そんなにお金を使ったら破産するわよ?」
「いいのいいの。私達なんてどうせこの恋に勝ち目なんて無いんだから、少しくらいお金使ったって大丈夫よ」
「どうせこの恋に勝ち目なんて無い」か。
そうね。決して叶うはずのないもの。
深雪は微かな溜息には気づかずにカラカラと笑って、私の手を引いた。
お昼時のフラマンローズは混み合っていたけれど、運良く早めに席に通して貰うことが出来た。
「私はオムライスとパフェとミルクセーキにするけど、響子は?」
「ハヤシライスでいいわ」
「分かったわ。あ、すみません」
深雪は速やかに注文を終え、間も無く運ばれてきたミルクセーキを一口飲んだ。
「ああぁああ……」
「どうしたの」
「いや、響子でも無理なんだなあと思って」
「尾崎さんのこと?」
「ええ」
彼女はこくんと頷いた。
「大人っぽくて落ち着いてて尾崎さんと接する機会が多い響子ですら落とせないなんて……」
「私は別に大人っぽい訳でも無いわ。接する機会が多いのはお互い仕事だからよ」
「でも……」
「それに、こんな根暗で地味で陰気な女に、あんなに素敵な人が振り向くなんて有り得るはずが無いでしょう」
自分で言い切ってから、心の柔らかい部分が静かに涙を流すのを感じた。私は慌てて運ばれてきたハヤシライスを口に入れる。
「響子……」
深雪は少し憐れむような顔でこちらを見た。
ええそうよ、私が昔からこんななの、貴女ならよく知ってるでしょう。
「ま、まあ、あんなに格好良い人を眺められるだけでも役得だわ。結婚はどうせお互い親が見つけてきた人とするんだから、今のうちに恋しといて損は無いわね」
彼女はオムライスを完食してパフェに手をつけた。
何時もの通り一口だけ貰い、「甘い」と笑う。
そう、私はこれで良い。
このまま幼い憧憬の恋をして、何時か何処かへ消えていく様な生き方で。
この時は、本当にそう思っていたのだ。
ものの道理がわからない男。わからずや。
「すみません、帝国図書情報資産管理局の者です!」
私は手にしていた辞典をパタンと閉じた。
店の奥に置かれた椅子から立ち上がり、気持ち早めに入口まで歩いて彼を迎える。
お洒落に切られた黒髪、すらりとした体躯、整った顔立ち、利発な声。
「尾崎さん」
「夏目さん、いつもお世話になってます」
「いえいえ」
尾崎さんは、何時でも朗らかな微笑みを浮かべている。
最近このトウキョウ府は物騒な事件だらけで、お国に仕えるその身は疲弊している筈なのに。
「和綴じ本は、今日は入っていないんです……御免なさい」
「近年どんどん少なくなってますし、仕方ないですよ。それに、夏目さんが危険な目に遭って無いってことですから」
この人は、直ぐそういうことを言うのだ。
書店の人間である私との関係性を良くしておきたいのは解るけれど、此方も女学校を出たばかりの娘。思わず勘違いしてしまいそうになる。
「じゃあ、俺はこれで失礼します」
「ええ、また」
チリンチリン、と鳴った鈴の音を聴き届け、私はそっと溜息を着いた。
書店を経営する両親の元に生まれた私にとって、帝国図書情報資産管理局は身近な存在だった。
「稀モノ」という開くと精神が狂ってしまうという本を回収し、研究するための機関。彼らの普段の仕事は、私の家のような書店を回って条件に当て嵌る和綴じ本を調べることと、万が一の時の取扱の指導だ。
年老いた両親から店を引き継いだ頃から、彼らはとにかく頻繁に此方に訪ねてくるようになった。
最近この帝都では「稀モノ」絡みと思われる事件が多発し、見回りの強化が必要になったらしい。
そして何故か、この店には尾崎さんがよく当たる。
尾崎隼人さん。年齢はわからないけど恐らく二十歳前後、帝国図書情報資産管理局の中でも優秀で、信頼されているお方なのだということは、お仲間の方からのお話で直ぐに解った。
見目麗しく折り目正しく、かといって嫌味にならない程度に砕けている彼は、近所の女の子達から絶大な人気を誇っているようで。街にいる時はお仕事中のことが多いから皆話し掛けはしないけれど、カフェや書店、お洋服屋さんの窓越しに彼を苦しげに見詰める視線は日に日に増えていた。
私も悔しいことにその一人なのだけれど、果たしてあの方は気づいておられるのかしら。
このまま彼は帝都中の女の子の心を奪って、そして何処かの……ああ、多分最近入ったという新人のあのお嬢様と結婚してしまうのかしら。
久世ツグミさんと仰るあの方は可愛らしくて上品で、華族の血筋であるというのも頷けた。
これはただの勘だけれど、尾崎さんはああいう女の子を好みそうだ。
私なんかでは、特に何の取り柄もない平民の娘では、到底太刀打ちなんて出来ない。
私はきっと、父が何処からか見つけてきた名も知らぬ男性の元へお嫁に行くのだろう。
新しい時代だ、これからは女性も自由に恋愛をする時代だと叫ばれているとはいえ、古風な考え方をする両親はそんなことを認めやしない。
「……仕事をしなきゃ」
はたきを持って本棚の掃除をしていると、チリンチリンとまた鈴がなった。
「響子、今日はもう尾崎さんはいらっしゃった?」
駆け込んできたのは近所に住む深雪だ。彼女も尾崎さんに憧れて、こうして毎日私の所に来ては彼が来たか確認する。
「本当だわ、まだ彼の匂いが残ってるみたい」
「よく分かるわね」
「ええ、シトラスムスクの香りがするもの」
「……そう」
時刻はもうお昼近い。
「ねえ響子、一緒にフラマンローズに行きましょ。尾崎さんが来た記念でパフェでも食べに」
「良いけれど、そんなにお金を使ったら破産するわよ?」
「いいのいいの。私達なんてどうせこの恋に勝ち目なんて無いんだから、少しくらいお金使ったって大丈夫よ」
「どうせこの恋に勝ち目なんて無い」か。
そうね。決して叶うはずのないもの。
深雪は微かな溜息には気づかずにカラカラと笑って、私の手を引いた。
お昼時のフラマンローズは混み合っていたけれど、運良く早めに席に通して貰うことが出来た。
「私はオムライスとパフェとミルクセーキにするけど、響子は?」
「ハヤシライスでいいわ」
「分かったわ。あ、すみません」
深雪は速やかに注文を終え、間も無く運ばれてきたミルクセーキを一口飲んだ。
「ああぁああ……」
「どうしたの」
「いや、響子でも無理なんだなあと思って」
「尾崎さんのこと?」
「ええ」
彼女はこくんと頷いた。
「大人っぽくて落ち着いてて尾崎さんと接する機会が多い響子ですら落とせないなんて……」
「私は別に大人っぽい訳でも無いわ。接する機会が多いのはお互い仕事だからよ」
「でも……」
「それに、こんな根暗で地味で陰気な女に、あんなに素敵な人が振り向くなんて有り得るはずが無いでしょう」
自分で言い切ってから、心の柔らかい部分が静かに涙を流すのを感じた。私は慌てて運ばれてきたハヤシライスを口に入れる。
「響子……」
深雪は少し憐れむような顔でこちらを見た。
ええそうよ、私が昔からこんななの、貴女ならよく知ってるでしょう。
「ま、まあ、あんなに格好良い人を眺められるだけでも役得だわ。結婚はどうせお互い親が見つけてきた人とするんだから、今のうちに恋しといて損は無いわね」
彼女はオムライスを完食してパフェに手をつけた。
何時もの通り一口だけ貰い、「甘い」と笑う。
そう、私はこれで良い。
このまま幼い憧憬の恋をして、何時か何処かへ消えていく様な生き方で。
この時は、本当にそう思っていたのだ。
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