第十五楽章「teneramente」
なんだかあたりが賑やかな気がして、目を覚ました。
どうやらあの後すっかり眠りこけてしまったらしい。そのおかげで多少は疲れが取れたのか、沈んだ気分もちょっとはましになった気がする。
そういえばレヴィはまだすぐ隣にいるのだろうか。重い頭をゆっくり膝の上から持ち上げれば、「あ、起きましたか」と声がした。
「ん…おはよ、レヴィ。僕寝てた?」
「おはようございます、先輩。それはそれはぐっすりっすよ!て言っても、そんなに時間は経ってないっすけど」
「そっか」
まだほんのりと眠気は残るが、さすがにずっとここで睡眠にうつつをぬかす訳にもいかない。仮眠としては及第点だろう。
おもむろに立ち上がり、腕をぐぐ…と前に伸ばす。凝り固まった個所をほぐせば次第に頭もさえてきて、僕を起こした喧騒の正体にも自然と理解が及ぶ。
「…これからなんか始める感じ?向こうの部屋がずいぶんと賑やかなようだけど」
「ん、はいっす。すこ~し話が聞こえてきたんすけど、荷物が到着したんでご飯にしよう、みたいな」
「あぁ…あのメモ書きの。……追いついたんだ、ちゃんと」
拾ったメモ書きに関する幼馴染との一件をぼんやりと思い返す。荷物が来たとなると、今は片付けだのなんだので忙しくしているといったところか。
…あれ、そういえば。
「ねぇレヴィ。てことは、もううちの指揮官も戻ってきてる?まさかどっかで転んでそのまま帰ってきてないとか」
「あぁ、それなんすけど…」
「誰が転んでそのままくたばってるって?」
レヴィの言葉を遮った声に、にやけ顔を一気に引きつらせながらドアの方を見やる。そこにはやはり、我らが指揮官スタッガルドがどんと立っているのだった。あはは、いたなら言ってよ、もう。
「ひえー…帰ってたんだね、おかえりなさーい」
「おかえりっす、指揮官」
「ったく……能天気なものだな、お前たちは」
呆れを含む台詞は、そりゃどうも、と苦笑いで流しておく。ともあれ、家族が何事もなく帰還してくれたことには安堵していた。
「あ、ねぇ。レヴィから聞いたよ、ご飯にするの?なら僕も手伝う。シヴォルタに任せっぱなしじゃいつ毒入れられるかもわかんないしさー」
「いや…、あぁ。それはそうなんだが、メロディア。その前にだな」
「ん?」
妙に歯切れの悪い返しに首を傾げる。いつもならすぐ手伝えって言われそうなものなのに。もしや何かあったのかと指揮官をじっと見やれば、その後ろに僕は小さな人影を見つける。
深くかぶった黒いフードの下に覗くその顔を確認して、僕は小さく息をのんだ。
「ソープ……?」
思わず目を見開く。
呼びかけに応じてか、おず、と前に出た少女は、確かに僕の親友で。憔悴しきった顔つき以外は確かに、ついこの間まで僕の隣で笑ってくれていたあの子だ。僕は眠気のことなどすっかり忘れてそちらに駆け寄った。指揮官は深く短い息をつき、僕に静かに話す。
「色々、あってな。…彼女にはしばらく、此処に居てもらうことになる。私が連れてきたんだ」
「な、んで…」
「……」
ソープは口を開かない。黙秘というよりも、言葉選びに時間をかけているようだった。
うちの指揮官は自分が連れてきた、と言ったか。今の状況を思えばそれはまるで連行なのだが、二人を見るにそんな様子でもない。さしずめ、介抱。大方、何か事情を汲んでのことなのは察しが付く。そしてその事情が、この少女を酷く苦しめていることも。…けど、そんなことよりも、先に。
「無事で、よかった……」
そっとソープの手を取って、そうつぶやく。
混乱に飲み込まれていた最中とはいえ、昨日のあの時に屋上で一人だけうずくまるソープを見つけてから、ずっと気がかりだった。本当に、本当に良かった。敵かもしれないだとかそんなことよりも先に、ソプラノ・リシフォンという人間は親友なのだ。他でもない、僕の。そんな大切な友の無事を前にして、よかった以外の言葉があるだろうか。
「メロディア、ちゃん…」
僕の言葉が予想外だったのか、ソープは驚いたようにこちらを見る。そうしてやっと、目が合う。それが僕はうれしくて、そのまま彼女の手をきゅっと握りしめた。こころなしか、ソープの表情もほんの少し和らいだ気がする。変わらず、そこに笑顔はないけれど。
「…さて。我々は食事の支度とやらに出向いてくるとしようか。彼女の相手はメロディア、君に頼むよ。おじさんと話すより気も楽になるだろうしな」
「我々…て、アタシもすか。ま、それがいいっすね。お邪魔もんは退席するんで、アンタも先輩も、また後で!」
そう言って、二人は理由を付けてかんたんに部屋を出て行ってしまう。…もしかして気を遣わせてしまったかな。ぱたんと戸の閉まる音がして、僕らが声を掛けるまでもなく部屋はがらんと静かになる。
「え、行っちゃうのー?……まぁいいか。ね、ソープ。話せそうなら、聞かせてよ」
そう言いながら、隅の方に重ねてあった椅子を引っ張り出し、腰かけた。隣り合うそれのもう片方をぽんぽんと軽く叩き、会話の外で此処に座ってと伝える。ソープはそれに従うまま、控えめに腰かけた。
「んーと…キツいんなら、無理には聞かないけど。……ソープさ、何があったの?」
君がここにいる理由。一体何があって、何がどう、苦しいのか。もちろん立場上ゆえ単純に気になるというのもあるんだけど、今のソープにはきっと、一人で背負いこむのに重すぎる何かがちらついて見えたから。優しく、静かにそう問えば、ようやく彼女は口を開いた。
「…うまく話せる自信、ないよ。……けど、嘘は言わない、から」
「うん」
元々嘘なんて言う子じゃないでしょ、君は。なんて、今の君の立場について考慮したうえでの言葉なのはわかってるから言わないけれど。そうしてソープが話してくれたのは、感情抜きの、伝記のような、ただただ彼女自身のすぐそばで起こった事実のことだった。僕はその静かな声を、何も言わずにじっと聞いていた。
やがてソープは話し終えて、僕たちの間には沈黙が流れる。
僕は話を聞いていた姿勢のまま何も言葉を口にできないでいた。なんて声を掛けるべきなのか、わからなかったから。部屋の外からは、がやがやと他の会話の声が音となって聞こえている。
間が流れて、結局僕が何も言えないうちにソープの方から再び言葉が発せられる。
「私ね、自分のしてることは正義なんだってずっと思ってたんよ。……けど、そうじゃなかった。それだけの、話」
「…ソープ……」
「何も知らないで、言われたままに動いて、動かして。それが正しいって、思ってた。なんかおかしいかもくらいはちょっと思ったこともあったけど、結局昨日、あんなことになるまで何もわかんなかった。…情けないよね、本当」
自分を責めてるみたいにそう言って、ソープは再び俯く。
よく見えなかったけど、その目には確かに涙が滲んでいた。それがつらくて、さっき感じた憤りをようやく僕は口にする。
「……ちがうよ、それは。たしかに、知らないままやらされてたことは、それは…よくないことだったのかもしれないけど。その事実は、変わらないものなのかもしれないけど。でもさ」
虚空を見つめるような目をするソープの頬に両手を伸ばし、その顔をぐいと持ち上げ無理やり目を合わす。ぎゅむ、とつぶされてちょっとこっけいな表情は、そのうえでさらに驚きを隠せない表情をする。それに反して僕の声色はずいぶんと真面目なんだから、ちぐはぐだ。
「それってソープが善意でしてきたことなんでしょ?正義だって思ってしたことが間違ってたって言ったって、ソープが正義をよしとして行動したのを僕は信じてるし、実際ソープ自身が意図してないところでそうさせられてたことも事実なんだろ!それって悪いのはソープなんかじゃないんだよ…!」
本当の悪は、お前の善意を利用した人間なんだよ。そこまで告げて、僕はソープの顔から指を一本ずつていねいに離していく。
そっと腕を引く直前に、指先にちいさな雫が落ちてそのまま下にこぼれていく。
「……戦争に加担してる身でこんなこと言うの、おかしいってわかってるけどさ。ソープの正義は、…優しい心はさ。なんにも間違っていないよ。だってお前は、いつだってこの国の平和を望んでいたんだろ」
「っ……う、ん………」
「なら、自信もってよ。お前が悪人なんかじゃないって、みんな、わかってるはずだから……」
椅子から立ち上がり、大切な親友のことを、壊れてしまわないように抱きしめる。知ってしまった悲しみは、そう簡単になくせるものではないけれど。でも、そんな中で少しでもこの優しい子の力になれたなら、それでいい。大丈夫、ソープならきっと、また笑えるようになる。静かに僕の肩を濡らす涙は、決して冷たいものじゃない。
……大丈夫、お前は根からの善人だろ。それが分かるから、僕だって安心してお前を信じてこれたんだよ。そうしてソープの背をさすりながら、ドミナントという組織に対して怒りの感情がふつふつとわき始める。同時に、なんでそんな組織にあいつが…ラルシェが、加担しているのかが分からなかった。
あいつだって、善性の塊みたいな人間だろ。……そんなやつが、どうして。
……手紙にあった場所に行けば、あいつはいるのだろうか。
そこで話を聞ければ、何かわかることがあるかもしれない。そもそもあいつから話をしたいと誘ってきたのだ。ひょっとするとあいつもソープと似たような境遇に置かれていて、SOSをこちらに出しているのかもしれない。
…だとしたら、その手を無視などしたくない。
散々ひどい態度をとってきて、今更合わせる顔があるのかと言われれば、正直全然ないけれど。……あぁでもその前に、僕はシヴォルタの面々やその周辺への拒絶反応もどうにかしなきゃならないんだ。というか、あれ?僕あの手紙どこにしまったんだっけ…。
弱気な思考は再び僕を占拠して、自業自得の問題の数々に胸がくるしくなる。…だけど、とりあえずは。
僕は、ソープの味方でいたい。僕の中にだってまだ整理しきれないものが多すぎるし、それを片付けるには時間もかかるかもしれないけれど。…というか、そうするには遅すぎるんだろうけれど。でも、それでも。…頑張ってみるよ。うまくやれる自信、ないけどさ。
ぱたぱたと靴音がする。
人の気配が近づいてきたのを感じて、僕はゆっくりソープを解放する。お父さんたち、そろそろ食事とやらの準備ができた頃合いなのかな。音のする扉の方を見やれば、ちょうどのタイミングでそれはがちゃりと音を立てたのだった。
「よ、嬢ちゃんズ。食事しながら談話といこうぜ」
そう言って顔を出したのはシヴォルタで、反射的に僕はうっかり顔を顰めてしまった。
さっそくうまくやれてなさすぎだな、なんて適当なことを思いながら僕は間延びした声で返事をする。ちらりと見れば、ソープの涙もすでにかわいたようだった。