第十五楽章「teneramente」
ふと外の空気を吸おうと窓を開けて顔を出せば、ふわと風がやさしく頬を撫でた。
そのありふれた感覚に小さく安堵して、まぶしい日差しに目を細めながら空を仰ぐ。あんな悲惨な出来事の後とは思えないほどさわやかな朝だ。それでもいい朝だと言い切れないのは、指の数じゃ足りないほどある後ろめたさのせいだろう。
窓枠にかけていた手をおろし、ほんのすこし目を伏せ、薄くらい廊下へと向き直る。すると、そこには我らが指揮官の姿があった。
開けたままの窓から入り込む風は、そのひとの髪もふわりと持ち上げ、うつくしい海原のように揺らしている。目が合って、俺は何の気なしに微笑んだ。
「おはようございます、…セイレーン指揮官。ちょうど貴方にお話をしに行こうと思っていたところでして、手短にしますので少しお時間よろしいでしょうか」
呼び慣れない名前を声に出してから一息にそう言えば、まず指揮官はおはようとだけ返し、その後になんだと応えてくれる。
「ありがとうございます。明日に、外出の許可をいただけないかと思いまして…。一日のうちの数時間で構いません。勿論こんな国の渦中に無理を言っていることは承知の上ですが、どうしても、必要な時間があるのです」
指揮官は、以前とは全く異なる静かな眼差しでこちらの表情や物言いを窺った後、台詞未満の相槌を俺に寄越した。窓から入る風は俺たちの真ん中を通り抜ける。
そうして少し間をおいてから、会話が続く。
「…何か用事か」
「そうですね。用事…はい。話をしたい人がいるのです」
「つまり、私用か。状況が状況だ、本来ならあまり許可を出せる話ではないな。…して、どうしても必要というのは?答えはそれを聞いてからだ。答えられないようであれば話にすらならないが」
必要な、理由。
厳しそうな関門を用意されるとつい身構えてしまうものがあるが、どう答えよう。…いや、何もそのまま話せばいい。一呼吸おいて、指揮官の赤い瞳を見やる。
吸った息を、言葉に変えていく。
「ドミナントになるべくして生まれた俺が、これから最期までずっと、ちゃんとドミナントで在るために、必要な時間なのです」
指揮官の瞳が少しだけ大きく開かれる。それを確認してから、跪くようにしてそっと身をかがめて、俺は話を続けた。
「指揮官ならばご存じでしょうが、俺もドミナントになるべくして生まれた人間です。そんな俺が、ひとりの人間としてほんの少しだけ逸れてしまった、一つの道。恥ずかしながら、そちらに未だ抱く感情があるのです。未練とでも言うべきでしょうか、それを断ちに行かせてほしいのです。…無論、不要な話は致しません。そこについては分別を弁えております」
なのでどうか、お許しを。
そう言って、頭をさらに低い位置へと下げる。ふ、と指揮官の息がした。顔を上げろと指示されたので、そうする。依然冷たい表情は変わらないが、その口はこういった。
「…いいだろう。お前の覚悟に免じて許可を出す。余計なことはするな、長居もならない。…しかし、そうだな」
話しながら俺に背を向けた指揮官は、カツ、とヒールを鳴らして足を止め、目線だけでこちらを見る。
「今は我々も大きく動くタイミングではない。かの二組織もしばらくは怯み、鳴りを潜めることだろう。その日は夕刻までに戻ってこい。いいな」
「……!ありがとうございます!!」
「ん。くれぐれも莫迦な真似はしてくれるな」
そう言い残し、指揮官はセレナータさんの部屋の方へと去っていく。廊下にこだまするヒールの音に鳥のさえずりが調和して、妙な心地よさを奏でていた。
とはいえ無事に許可をもらえた安心と、いよいよ本当に覚悟を決めなければならないという迫りくる不安は入り混じり、不協和音となって俺の心を占拠する。
果たしてうまくいくだろうか。二人の幼馴染に対する未練を、俺は上手に切り離せるだろうか。そもそも二人は来てくれるのか。
換気もできたところで、窓の戸をそっと閉める。白い雲は風のままに流れていく。
「鳩さん、無事に届けてくれましたかね」
そっと透明な窓に手を当てて、人には届かぬ程度の声でつぶやいた。
もし約束の地に二人が現れなければ、哀しくはあるがそれはそういうことなのだ。元より生まれた世界が違うのだから、俺がここで何を思おうが仕方のないこと。
…それでも、それでも。二人には伝えたいけれど。どうしたって幸せを、平和な未来を願ってしまうけれど。
あぁまったく、だれに似たんだこんなとこ。
俺はドミナントとして、メジア側でない人間として、やるべきことがある。腹を決めなくてはいけない。大勢の人をすでに巻き込んでいる。今更後になど引いていいはずないだろう。
……だからこそ、今。これ以上奥地に俺たちが進んでしまう前に、…これ以上二人と離れてしまう前に、伝えよう。
どうか待っていてくださいね、二人とも。
そしてどうか、俺のことをずっと。ゆるさないでいてね。