第十四楽章「con dolore」〈前編〉
「あぁ、くそ……」
むずむずと出てくる欠伸を噛み殺しきれずに口は酸素を取り込もうとする。それを見てか、セレナータは眠そうですねと声を掛けてくる。くそ、お前は全く眠気など知らなそうな風だな。というか、いつからそこにいたんだ。
「まぁ、な。…珈琲でも淹れてくれないか。まだ作業が終わらなくてな」
「えぇ。そう言うと思いまして、ついさっき淹れたところでしたので…はい、どうぞ。遅くにお疲れ様です」
注文してわずか五秒で出てくるという奇妙なまでの気の利かせ方には思わず面食らってしまった。加えて、すぐ近くで用意されていたであろうその珈琲の香りにすら気が付かなかった自分にほとほと呆れてしまう。それなりの頃合いで俺も小休止を挟むべきかもしれない。ラルシェの奴に休息も大事だなんだと言っておいてこれなんだから情けない。礼を言ってからそのマグに口を付ける。
「…どうなりますかね、これから」
窓の外を見ながら話すセレナータのそれはまるで独り言みたいで、放っておいても勝手に喋るような気がしたのでしばらく黙りながら黒い液体を啜ることにする。
「正体を明かしてしまった私たちは、晴れてすっかり悪役です。中立を装って真の黒幕だなんて、まるで何かの物語みたいですね。勿論、黒幕にもそれなりのストーリーはありますが…そこにうっかり巻き込まれてしまったソプラノさんは、主人公といったところでしょうか」
ほとんど一息で、顔色も声色も抑揚をつけずセレナータは話す。依然窓の外を見つめながら話すその真意は今一つ掴めない。うっかり、など、こちらから引き入れておいてよくいうものだ。
「…何が言いたい」
「さぁ、なんでしょう。…酷いことをしてしまったなぁと、思いまして。ほんの少し」
「それは向こうも大概だろう」
「えぇ、何も否定はできませんね」
…いつもこうだ。妙な肩透かしばかり食らうような会話のせいで、声には苛立ちが滲む。酷いことをした、などと言うくせにこいつの表情は何一つ変わりやしない、なんでもなさそうなのだ。もう一度ため息を吐きながら珈琲をまた少し、啜る。ですが、と続けられたので目線だけそちらに流す。
「ですが、これからは攻撃を食らっても何も言えないな、と。そうされるだけのことはしてきていますから」
そう言ってから、セレナータはようやく俺の方へと向き直る。
「そうされるまでにこちらが仕掛けるまでだ」
声にはやはり、苛立ちが滲む。
「……そうですね。さて、そろそろ民衆は動き出すのではないでしょうか」
「ん…もうそんな時間か」
えぇ、と言って飲み干されたマグをごく自然な流れで回収される。……あれ、そういえば。
「……なぁ、待て。こんなところで話し込んでお前、自分の仕事はどうした」
ふと思ったのだ。俺にお疲れ様ですと言って珈琲を差し出してきたはいいが、こいつ自身だってそれなりの仕事量を抱え込んでいたはずである。それがなぜここにいる?思ったままのことを口にすれば、先ほどまでは一ミリも変わらなかった表情が見る見るうちにばつの悪そうなそれになっていく。
「や…ほら、その。………バレちゃいましたか~…」
「………」
「違うんです!違う!ほら私、不眠症なものですから、この一晩の間に明けるまで徹夜で終わらせられるなと。だからほんの少しの休息を取りに来たら眠そうな副指揮官を見かけたという訳でし…て……」
と、言い訳のようなサボり文句を垂らされているこの空間にさらなる刺客が訪れる。
「おいセレナータ。頼んでいた資料、出来たのか」
「し、指揮官!!や、はは…すみません、眠気であまり捗っておらず~…」
「不眠症が何を言うんだ……」
「なんだまだなのか?一刻も早く寄越せ、いいな」
「は、はい…」
次はないぞ、と黒一色に身を包んだ指揮官は鋭い視線と共に冷たく言い放ち去っていく。ヒールのカツカツという音が随分とよく響いた。
「……で、なんで急ぎの仕事をサボるような真似してたんだお前は」
「はは…眠気はもちろん冗談でしたけど、作業に集中出来ずあまり捗らなかったのは本当です」
「そうかよ…そういうことならさっさと戻って進めるのが吉だな」
「そうします。でもいい気分転換になりました、珈琲は香りだけでもリラックス出来るものですね」
そう言ってセレナータは足早に別室へと向かっていく。扉が閉まれば、そこは俺一人だけの空間となった。指揮官も前とは雰囲気も何もかも別物だが、発言の節々にはアリア指揮官の面影が感じられる…ような、気がする。
「さて、俺は少し仮眠でもとるか…」
少し崩した楽な体勢になり、机に突っ伏す。起きた時に身体を痛めそうな気もしたが、またすぐに作業に取り掛かりたいのでこうすることにする。
ふう、と深呼吸をして目を閉じた。想像する以上に疲労は溜まっていたらしく、驚くほどすとんと眠りに落ちた。…が、その俺がそう時間も経たずに朝の挨拶に来たラルシェに起こされるのはまた別の話である。