第十四楽章「con dolore」〈前編〉
あたたかな楽園。そこは、私を拒まない。やわらかい風は私の頬を撫で、するすると金色の髪の間をくぐって抜けていく。耳をすませば軽やかで明るく、きれいな音楽も聞こえる。
優しい世界に来た、と思った。そして、私は口を開く。
「どうすれば、いいのかしら」
その言葉は、まるで私の意思の外から出されたようだった。つっかかることもなく、はきはきとした、声。自分の声なのに、そうじゃないみたい。少し待てばそこにいた何かが私に応じる。
「 …… … ………」
確かに、私の言葉に返事をした。
「…………、………____」
「わかったわ。…きっと、そうする。約束よ」
そして私も、応えたのだ。
♪
「あ、カステラちゃんが起きた」
おもむろに目を開けると、真っ先に目に入ったのは赤い髪と漆黒の瞳。…と、その後ろに白い天井。どうやら私は、意識を失っていたらしかった。
「へっ、えっ、フローラさんっ…!よ、よかった…てちょっとアルフィーネの方は近づかないでくださいフローラさんに!」
「えー、いいじゃん別に。寝落ちちゃった君の代わりにカステラちゃん見てたのは僕なんだよ?」
「そ、それは…」
賑やかな会話をBGMに部屋を見渡す。そうか、ここが指揮官の言っていた仮の拠点か。隣には敵組織の人がおそらく私のそれと似たようなベッドで寝ている。医務室、なんだろうか。
「フローラさん、体調の方はいかがですか?苦しいところとか…あっ無理に起きなくて大丈夫ですよ!それと水ならここに」
「わ、…ネリネ。大丈夫、よ。少し頭は痛む…けど。眩暈もないし、さっきよりかなり、安定してると思うわ。でも、そうね…水、すこしちょうだい」
あんまり慌ただしく喋るネリネがなんだかおかしくて、笑みがこぼれる。たしなめるように言えば彼女ははいっ!と元気よく返事をした後に一秒でこちらに水を渡してくれる。そのきびきびした様はまるで私たちが出会って間もないころのようで、なんだか懐かしさを覚える。でも、私たちの仲はもうそんなに堅苦しいものではないんだけどな。心配してくれているだけなのも、もちろん分かっているけれど。飲み終わった容器をネリネに返す。
「ありがとう、助かるわ。…ずっと、ここにいたの?」
「え!あ、はい…やっぱり様子は心配だったので…。それに、看病ならわたしにも出来ることあるかもって思って!」
「ま、疲れて途中から寝ちゃってたみたいだけどね?」
「あっあなたは黙っていてください!!」
会話に割って入った少年にぷりぷり怒るネリネに、もう一度ありがとうと言えば、えへへ、と一転して笑顔を咲かせてくれた。
…と、寝起きのぼんやりした頭で一連の流れに身を任せていたわけだが、よく考えればこの部屋にはこの通りアルフィーネ(の中でも特に私にとっては厄介な人)がいるのである。じわじわと目が覚めてくると同時に心臓もどきどきと鼓動が速くなる。どうにも、この赤い髪の…ペトラ、の前では平静を保てないことが多すぎるのだ。などとぐるぐる考えていれば、当の本人はさも楽しそうにこちらに話しかけてくる。
「ねっカステラちゃん?さっきなんだか夢を見ているようだったけど、何の夢?おっきなカステラに追いかけられる夢?」
「……ゆ、め?」
黒い瞳がじっと私だけを見る。それにひるんでしまったのと、記憶の奥底を揺さぶられた感覚ですぐにはうまく言葉が出せなかった。
「…夢、見てたんですか?フローラさん」
「え、…う、覚えて、ないわ…。見たような、見てない、ような……」
そういえばペトラは、「ま、そんなもんか~」と大して興味もなさそうに言う。聞いておいてこれなんだから、もう。微妙な気分になりつつも、とはいえ自分の中に妙な引っ掛かりがあるのが気になった。何か大事なことを忘れてしまっている…ような、気がした。しかし思い出せないものはどうしようもない。
「…あの。ところで、そっちの人は大丈夫なんですか」
考え込んでいると、ふいにネリネがペトラに問いかける。そっちの人…というのは、私の隣のベッドに寝ている彼のことだろう。…ヴァン、といっただろうか。
「んー?お兄ちゃんはさっき君が寝ている間に一回目を覚ましたんだけど、あんまり調子が良くなさそうだったからもう一度寝かせたんだ!」
「へぇ…って何回もそんなに寝てた寝てたって言うことないじゃないですか!」
「事実じゃん?」
憤慨して再び顔を赤くするネリネをよそに、ペトラは話を続ける。
「あと、これはついさっき気が付いたことなんだけどね?お兄ちゃん、ここんとこしばらく体調が微妙っぽかったんだよねぇ。なんかぼんやりしてたし、らしくないっていうか。今の状態と関係あるのかな~って。ね、どう思う?」
「……よくわからない、わ。私には特に何もなかった、もの…」
前兆、ということだろうか。正直私は特にその手のことは思い当たらないが、どうなんだろうか。
「そっかー。カステラちゃんもお兄ちゃんも似たような感じだから、君にも何かあるかと思ったんだけどな~」
「つまり、単に体調が優れなかったというだけ…てこと、ですか」
「いや、案外そうじゃないかもしんねーぞ」
ネリネの言葉を遮るようにして、青年ばかりの空間に突如大人の男の声が響く。驚いて声のした方を見れば、そこには我らが指揮官、副指揮官が肩を並べて立っていた。
「し、指揮官にメルヴィンさん…!」
ネリネが声をあげると、二人とも人の好い笑みを浮かべて応じる。
「やぁ。…君たちは、随分仲良しになったみたいだね?」
「それと、フローラも元気そうだな。よかったよ」
仲良しというワードに反応して、なんとなく若年三人で顔を合わせる。揃いも揃って似たような表情をしているのがなんだか自分でもおかしかった。ニ秒だけそうしてから、ネリネが「別にフローラさんとしか仲良しじゃないです!」と言えばペトラが豆鉄砲をくらった鳩のような顔になるものだから、ついにおかしくて吹き出してしまう。
「…それより、二人とも。さっき、言ってたこと、…どういう意味?」
笑いをこらえながら促せば、満を持して指揮官シューツェは本題を口にした。顔つきはあまり明るくない。
「あぁ。それなんだがな。少しわかったことがある」
よく見ると、彼らの腕には重量感のある資料が抱えられている。そのことが、先ほどまでのどこか和やかな空気のせいですっかり忘れていた出来事たちを私に思い出させたのだった。