第十二楽章「tenuto」〈前編〉
どうやら相当まずいことになっているらしい。走りながら戻ってきた指揮官たちに告げられたのは、先ほど群がっていた民衆たちの大半が苦しそうな様子であるということ。それも、まるで全員が同じ病気にかかったかのような状態らしいのだ。
「…やっぱり、最後の教会が壊されたことが原因、なんでしょうか…?」
依然回復しないフローラの様子を看ながら、不安げにネリネは問う。
「……その可能性は大いにあるが、今はまだ何とも言えない。ドミナントがまだ何かを隠しているというのもありえる」
「そ、う…ですよね…」
ドミナントという単語が出た途端、ネリネは一層表情を曇らせる。…たしか、ドミナントの黒髪の…セレナータさんと言っただろうか。彼女とネリネはそこそこに仲が良かったはずだ。フォルテも。心苦しく感じてしまうのも当然だろう。辛そうな彼女の姿に胸が痛んだので、そっとネリネの頭に手を乗せ、撫でる。柔らかい髪を、出来る限り精一杯のやさしさで。大丈夫、と念を込めるみたいに。
「…メルヴィン、さん……?」
「…え、あぁ……ごめん。迷惑だったかい?」
そっと手を離すと、ネリネはいえ、と小さく笑う。心なしか表情が楽になったようにも見えた。今の僕に出来ることなんてこのくらいだ。それでも、少しずつ誰かの力になれたらいい。
…なんてぼんやり考えていたのだが、シューツェのよし、という声で現実に引き戻される。
「よし、ひとまず場所を変えよう。もう日没も近いし病人だっている。一旦室内に移動しようと思うんだが構わないか?」
それもそうだ。このまま夜になってしまっては色々と大変だろう。暗闇の中では身動きだって取りにくくなる。そんな中で何か仕掛けられてはたまったものじゃない。
「…移動は構わないけど、それってアルフィーネも一緒に行く感じなの、シュー兄さん?」
「あぁ、そのつもりだ。この状況じゃ二組織が離れるのもかえって危険なのでスタッガルドとは先ほど話をつけておいた。こればっかりは許容してもらいたい」
シューツェがそういうとフォルテは、多少不服そうではあるが納得はしたようだった。
「…む、まあそういう訳であるのでお前たちもしばらくはシヴォルタ諸君と一緒に行動してもらうぞ。いいな?」
むこうの指揮官もそう言えば、敵対組織の彼らも返事をする。不満そうな声と楽しそうな声が入り混じった返事。揃ってタイミングよく返事をした彼らがなんだかまるで家族みたいだなんて、平和ボケもいいところかもしれない。
「…あの。でも今、フローラさんが歩けるような状況とは思えないんですけど、どうしましょう…?」
「あ!それだったら僕が負ぶってくから心配いらないよ!ね、任せてくれない?」
ネリネがそう言えば、アルフィーネの赤髪の少年がはい、と挙手して応える。あの子は…たしか、以前シューツェが捕らえて地下に入れられていた子、だったはずだ。自分の組織が行ったことではあるが、誘拐だなんて酷い仕打ちをされた組織に対して協力的な態度を見せるとはなかなかの度胸の持ち主ではないだろうか。そもそも敵対することに興味がない、というふうにもとれるけれど。
「いやでも、それなら同組織の俺かメルヴィン、メトロあたりが運べばいいかと思うんだが…」
「いーっていーって!これでも結構鍛えたりしてるし、カステラちゃんとは仲良しだよー?」
「ぺ、ペトラ…?本気で言ってんの?」
彼の突飛な発言にはどうやらこちらの指揮官、むこうの副指揮官さんともにお手上げのようだった。まぁでも協力してくれるというのなら悪いことではないんじゃないだろうか。
「僕は賛成だよ。せっかく名乗り出てくれたんだ。これからしばらくは一緒にドミナントへの対策を練らなければならない仲のようだし…任せてもいいんじゃないかな?」
僕がそういうと、シューツェはいささか困ったような顔をしながら少しばつが悪そうに「そうだな、任せようか」と言ってくれた。うん、よかったよ。向こうの副指揮官さんが呆れたように何か言ったようにも見えたけど…それはまぁ、いいか。
「よーし!じゃあカステラちゃーん、僕の背に…ってそんな嫌そうなカオしないでよー!ほらほら、日が暮れちゃうからはやく!」
「……う、うるさいわよ…。今回は仕方なく、ってこと…忘れないで、ちょうだい………」
「はいはい、体調悪いなら無理しないでいいから。あ、なんなら寝てていいよ~」
「…………」
いつの間に仲良くなったのだろうか。敵対組織とは思えないほどフランクな雰囲気の会話にひとり和む。…さて、斜め下を見やるとネリネがすこし不安げに彼らを見つめているのが目に入った。
「どうしたんだい、ネリネ?」
声を掛けるとネリネはハッとしたあと、おずおずと不安そうな表情でこちらを見上げる。
「…な、なんでもないんです。ただ……やっぱり敵組織相手だし、もしフローラさんが何かされたらって思うと、なんかその…心配で」
「…そっか、ネリネは優しいね。大丈夫、ほら…フォルテとかもすぐ傍を歩くみたいだし、きっと心配いらないよ。」
フローラに変なことするなよ、なんて言いながら彼らの方に駆け寄っていくフォルテを指しながら言えば、ネリネも少し安心できたようだった。本当に頼りになる副指揮官だ、フォルテは。
でもまだネリネはどこか怯えているというか、何か不安そうなふうに見えたので、僕はネリネの手のひらをそっとすくうことにした。するとネリネは驚いた顔をして僕を見る。
「手を繋いでいれば、少しの間だけでもネリネの不安を拭えるんじゃないかと思ったんだ。…いやだったかな」
どこかいい訳みたいにそんなことを口にすれば、ネリネはぶんぶんと首を横に振ったあとでちょっと俯き、もごもごと喋った。
「そ、そういうことじゃなくって…。その、照れくさ………い、いや…えっと」
途切れ途切れに言葉を紡いだあと、こちらに向き直ってネリネは「あ、りがとう…ございます」とやはりぎこちなく言葉を並べ、そして頬を朱に染めながらもふわりと笑ってくれた。
目的地に着くまでこのままでもいいですか、なんて言うものだから、僕はそれにもちろん、と答えた後でその手をしっかりと握りなおす。言われなくとも、最初からそのつもりだったのだ。
まだ、小さな手のひら。愛おしいこの手のひらの持ち主の少女の笑顔を、出来るだけ長く守ることができたなら、どれほど幸せだろうか。今ある幸せだけでも手離したくはなくて、僕はこの手をもう一度つよく、やさしく握りなおした。