武梨静
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「…修業、ですか?」
「うん、取り敢えず来週でここで働くのは終わり」
この人は何を言ってるのだろうか。
「再来週の初めにヨーロッパに行く」
「ヨーロッパ……」
静さんがいなくなってしまう。その簡単な言葉すらも飲み込めない私は子どもなのだろうか。
ひょんなことから芽衣ちゃんの誘いでプティフールでバイトをすることになった。個性的で破天荒なこの仲間たちに最初は冷や汗しかかかなかったが、次第に仲を深めることができて最後の日にはちょっぴりどころではない涙が溢れたのも記憶に新しい。
このかけがえのない仲間たちとずっと働いていけると思っていた。
「ワイン修業って、どのくらいかかるんですか?」
「未定。自分が満足するまで帰らないつもりだし」
静さんが店を辞める。何度この簡単な言葉を頭の中で復唱しようが、頑なに認められなかった。
止める言葉を思いつく前に、止める理由がないことを悟ってしまった私は一言「そうですか」と伝えて、掃除に戻った。
頑張ってください、なんて心にも思っていない言葉も添えて。
それから特に用事もなければ、話すこともなかったので、静さんと業務上の会話以外を交わすことはなかった。
「静さーーん」
そう彼の名前を呼ぶ芽衣ちゃんの姿を目で追えば、いつものように振り向いて会話を続ける静さんがいる。どうやら、彼はギリギリまで誰にも言わずに店を辞めるみたいだ。
なんで私だけに言ってくれたのだろうか、と考えても特に答えは見つからなかった。分かりやすくヒントが転がっているわけでも、わざわざ彼が答え合わせをしてくれるわけでもないのだ。
だから、意味のない、それでいて気持ちの悪い期待はどこかに吐き捨ててきた。
「な、武梨さん、店、辞めるらしい」
そう告げた和樹の言葉に、ようやく皆に伝えたのだと察して、私も今知ったかのような反応を見せる。
「そっかぁ……寂しくなるねぇ」
そんなありきたりな言葉にも和樹は同調してくれて、改めて優しい子だなと感じる。それでいて、静さんのお見送り会をしようと言い出すものだから、彼の底抜けのない愛情を感じて、思わず和樹にヘラヘラと笑いかけてしまった。
「ね、姉ちゃん……?」
「……あ、ごめん、思い出し笑い」
そんな誤魔化しにも騙されてくれて、彼は本当に優しい子だった。
静さんのお見送り会という名のお食事会は無事終わり、勇さんの腕を振るったご馳走はほぼ静さんの胃の中に収まったと言っても過言ではないだろう。
いつもより少しご機嫌で、それとなく口元に笑みを浮かべている静さんを視界の隅にいれながら、パーティーの後片付けを済ます。
ふと誰かが言い出した、静さんを空港まで見送ろうという言葉には同調せずに。
早くいなくなって欲しい。
いつか私の前から消えるなら、もうそれは今がいい。
まだ気温の高い9月、冷房をつけずに夕日の差し掛かる部屋でだらだらと汗を流して寝ていた。目を覚ませば、一気に息の詰まるような熱気を感じられるが、今の私にはこれが心地よくてたまらなかった。
ずっと落としていた携帯の電源を入れれば、次々と更新されていくLINEの通知がうざったくて目で追うを止めた。手に握ったまま、枕に顔を埋める。
「____」
ふるりと揺れだした携帯の着信名を見れば、そこには芽衣ちゃんの名前が表示されていた。どうにも出る気はないが、何か仕事のことで連絡があるとすれば話は違うので、2コールほどぼーっと聞き流してから、通話開始ボタンを押した。
「もしもし?」
「芽衣ちゃん本当にいいの?!」
芽衣ちゃんにしては大きい声にびくりと体を震わせる。
「本当にいいって……そもそも大学の授業があるし」
「だってまだ夏休みでしょ!?」
私の嘘を暴くかのような彼女の言葉にうぐ、と詰まりかけるも、言葉を返そうと必死に抗った。
「オリエンテーションだよ」
「シフト、今日は◯で提出されてたけど」
「…変更になったの、先生が予定ズラして」
「……本当?」
「本当。今電車待ってるから切ってもいい?」
「………わかった。でも、これだけは伝えさせて?」
「なに?」
「18時50分、これが静さんの乗る飛行機で、静さんは18時20分には検査場に行っちゃうから」
そう言って、プツリと音をたてた携帯をまた置いて、また同じように眠ろうと枕に顔を埋めた。
どうせ、どうせ行ったって、何も変わりやしない。今寝たら、また明日が来て、プティフールに行って、働いて、眠って、大学に行って、眠って。
静さんが今後予定に埋め込まれることなんてないのだから、後悔することなんてない。いつか忘れて、何も気にしないで済む日がくる。
本当に、忘れられるだろうか。
ずっと、ずっと高校生の時からこの恋を引きずっているというのに、今更私は忘れることなんてできるのだろうか。
答えは出ているけど、認めたくはなかった。認めれば、これから先、彼に思い悩ませられる日々がまたやってくるのだと思えば、この重い体にムチを打って動かなくてはならない。
なにを伝えるか、考えるために頭も使わなくてはならない。
現在時刻16時48分。
ここから空港まで1時間とちょっと。
空港なんて縁遠いもの、絶対迷子になるから15分はかかると予想する。
会えても、5分あるかないかだ。
ぐるぐると考えている間にも、時間は進んでいて、それに比例して身体から汗がどばどばと溢れ出てくる。
次の電車が来るまであと10分。ここから駅まで徒歩5分。
最後に会えるっていうのに、こんな姿は見せたくはなかった。なんだかんだ、静さんと会う日はいつもよりまつげを上げたり、アイシャドウのグラデーション頑張ったり、髪の毛のクセも直していた。
部屋着から走りやすい、いつもの楽な格好に着替えて、履き慣れたすぐに履ける小汚い靴を履いて。
適当に物をカバンに突っ込んで家を出た。
私の行動力だけは一級品だ。
空港までのバスに乗り、空港内の地図を調べようが全く分からない。方向音痴ではないから、恐らく大丈夫だとは思うが、なにせ彼の便すら知らない。検査場も分からない。
怖い。彼に会えずに、家に帰る自分が想像できてしまって、怖い。
飛行機の時間からなんとか便を見つけるも、もう何がどうだかよくわからなくなってくる。無駄に手汗をかいて、タオルで手を拭こうにも急いで家を出たものだから仕方なく履いているスカートで手を拭いた。
バスをいの一番に出たいから一番前の席を陣取っているし、停車駅が近くなれば急に立ち上がってずっと出口をたむろしている。幸い平日のこの時間のこの方向のバスは人が少なく、特に人に迷惑がかからなかったことが救いだった。
予定通り停車駅につくなり、いの一番にバスから降りた私は、とにかく地図がある場所まで走って現在地と目的地を確認する。
数分で叩き込んだ知識はスルスルと抜け落ちていて、とにかく検査場に無我夢中で走った。時刻は18時5分。それなりに人の行き交いがあるこの場で、私は彼を見つけられるのだろうか。
検査場付近について、キョロキョロと辺りを見渡しても彼の姿は見えなかった。
そもそも、彼がもう検査を通った後かもしれない。
そう思えば、急に脱力感がやってきて、彼にまだ会ってすらないのに鼻がツンと痛みだした。深呼吸にもなっていない速さで息を整え、視界の滲みをなくした。
待合室のような椅子がずらりと並んでいる空間を覗いても、近くの売店を覗いても、静さんはいなかった。きっとこう探しているうちにもすれ違ってしまっている可能性は高かった。
現在時刻18時10分。
諦めて、最後の賭けに出ることにした。
検査場の入り口を張ることだ。
「………いない」
携帯に表示されている時刻とにらめっこしながら、検査場へ入っていく人を眺める。
これほどに静さんと連絡先を交換しておけばよかったと願ったのは初めてだった。連絡先があれば、今どこですか?とか、少しだけ寂しいですとか言えたのに。
そんな勇気、あっただろうか。
学生時代からそうだ。ずっとずっと、結局は逃げてばっかりだった。
彼の思いを知りたくないから、突き離されてしまうのも、何事もなかったかのようにされてしまうのも、どれもこれもが嫌だったから逃げた。
こんな、自分、だいきら
「アンタ、いたの」
再び滲み出していた視界に、いつもより歪んでいる彼が映った。瞬きすれば、それも次第に直ってきていつもの彼の姿が映った。
「し、静さ……」
「みんな見送りにきたけど、オリエンテーションって聞いてたから来ないと思ってた」
「………」
上手く言葉が出てこない。
何かを言わなきゃ、言わなきゃなのに。
何も思いつかない。
「…………芽衣?」
そう声をかけられて、下がっていた視線を彼へと戻すと、少しの困惑が混じったような彼の瞳とぶつかった。
はっと我に返って、スマホの時刻を覗けば18時15分。私が彼をここで止めている暇などないことがわかった。
震えてきた手でぎゅっと拳を作り、言葉を吐き出すことのない口ははくはくと動いた。
もう、本心を伝えたほうが楽だってそう思った。高校生の時も言えなかった、あの一言さえ言えればいいと思った。
「………い、」
その言葉を発そうとした瞬間、彼の便のアナウンスが流れた。告げられる到着先の国名と、時刻。ずっと彼がいなくなることは現実だと分かっていたはずなのに、今ようやく、やっと、彼が本当にいなくなるのだと理解した。
行かないで、なんて。
そんなこと言えるわけがなかった。
なにを言ったって、どう言ったって、彼がいなくなることは変わらないのだから。
むしろ、この言葉は彼にとってマイナスでしかないのだ。こんなことを言われて、彼はなんと言えばいいのだろうか。いつもみたいに、「いや、行かなきゃいけないし」だとか言ってくれるのだろうか。
いや、彼はやっぱり優しい人だから、きっと「ごめん」と謝ってくるだけなのだろう。だとしたら、前者のように突き放してくれたほうがマシだ。
ぐるぐると考えた後、私の口から出た言葉は謝罪だった。
「ごめんなさい、なんか、言葉がでなくて」
また滲み出してきた視界を誤魔化すようにヘラリと笑えば、静さんは見透かしたかのように私をじっと見つめた。
彼のことだから、ヘラリと笑う=嘘をついているという癖を見抜いているのだろう。高校生の、初めて会ったときから、ずっとあなたには全てお見通しだった。
でも、でも言葉が出ないのは本当だ。
「ようやく今、本当に静さんがいなくなるって理解して」
本当だ。
「もう、なんかよくわかんなくなっちゃって」
嘘じゃない。
「言葉が、なにも思いつかないです」
嘘だ。
思いついてるけど、そんなことは言えなかった。
「すみません、ギリギリのくせに言いたいこともまとまってなくて」
「もう検査場通る時間ですよね、すみません」
ずーっと、ずっとヘラヘラとあの嘘の笑顔を貼り付けていれば、彼には何が本当で何が嘘かわからなくなってくれないだろうか。その期待も込めて、ずっとそうやって笑っていれば、諦めたのか溜息をついて彼は答えた。
「………アンタ、ずっと変わってない」
「人間、簡単には変わりませんよ」
「アンタって、猫みたい」
「は?」
相も変わらず突拍子のない静さんの発言には慣れたと思っていたが、それは私の思い違いだったらしく、いつも通り私の口からは聞き返すような言葉が出てきた。
「顔に出やすいくせに、こういうときは何考えてるかわかんないし」
「そうですか?私、女優とかいけますかね」
「そう、それ。すぐに笑いに空気を変えてくるし。正直、今アンタの考えてることがわからない」
「…褒め言葉って受け取りますよ?」
先程のヘラリとした笑い方ではなく、いつもの笑みを浮かべれば、彼は少しだけ口角を上げて不意に見せる、私の好きで好きで堪らない笑みで返してくれた。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
その言葉に、一瞬だけれど呼吸が止まった。
けれど、もう彼の時間をとるわけには行かなかった。
精一杯の、もはや作ってるのかも自分でわからなくなるぐらいのグシャグシャな笑みを浮かべる。
「行ってらっしゃい、静さん」
そう言って、片手を振れば静さんもゆるりと返してくれた。
少しだけ並んでいる検査場の列へ並ぼうと足を進める彼の姿に、また胸が苦しくなってきた。また言わないままなのだと言われているような気がして気持ち悪かった。
言わないほうが、綺麗に終われる。
静さんはきっと、このほうがいい。
私は?
私は、どうなるのだろうか。
幸い静さんの後ろに並ぶ人はいなければ、並ぼうとする人もいなかった。追いかけるなら、もう今しかないのだ。
追いかけて、行かないでと言えば、あなたは、あなたは。
答えの見つからない問いかけを自分に続ければ続けるほど、彼の並んでいる列が短くなっていく。
こうも勇気が出ない自分に腹が立った。
でも、腹が立ったところで手も足も、口すらも動くことはなかった。
「………」
ふと、静さんが後ろを振り向いた。
目が合った。
今しかないと口を開いても、肝心の言葉が出てこない。また、はくはくと口を動かすだけで、最初の一文字すらも言えなかった。
こんな無様な姿を見られたくはなくて、静さんから視線を逸らす。私がこうして視線を外している間にも、列は進んでいくのだろう。
いっそ、いなくなってほしい。
絶対、一生後悔するけれど、いなくなっててほしい。
そう願ってまた視線を戻せば、静さんは体ごとこちらを向いていた。
「あ………、え」
驚いて変な声が出たけれど、静さんは待ってくれていた。もう次の次には検査だというのに。そこまでして、待ってくれている彼にもう遠慮するのは辞めようと思った。
ごめんなさい、静さん。
私、あなたを笑わせたいのに、後味悪いお別れになるかもしれないです。
「…………い、」
「い、か…ないで、ください」
私の声の小ささに自分でも驚きながらも、言ってしまった恥ずかしさと後悔と、不安で視界を地面いっぱいにした。特に音沙汰もなく、ゆっくりと彼へと視線を戻す。
「………え、ちょ」
私が彼を視界に入れた時には、もう目の前にいた。
いつもすれ違った時に香っていた香水の匂いがいつもより強めに香って、背中と腰に手が回って、それはそれは強く抱きしめられた。
突然のことでどうすればいいかわからなくなったけれど、十数秒もすれば状況が理解できて、意外と力は強いだとか、思ったより筋肉があるだとか、脳が冷静に分析をし始めた。
腕、とか、回すものだろうか。
それもわからないけれど、ゆっくりと優しく彼の背中に手を回せば、彼の抱きしめる力が強くなった気がした。それに合わせて、私も力を強くする。
しばらくそうしていれば、突然静さんの検査場の事が気になり、回している手を緩めて問いかけた。
「…………あ、あの、検査じょ」
「うるさいし」
「え、えぇ………で、でも」
「ようやくアンタの本心が聞けたから、こっちはホッとしてるんだけど」
「う、あ、ほ、本心て……」
「事実だし。というか遅い。どれだけ待ったと思ってるの」
「………す、すみません」
畳み掛けるような静さんの言葉に少し怯えながらも、離れるように体を捻る。そんなことも意味がないくらい、彼の力は強かったが。
「で、でも本当に時間…」
「俺、アンタのことが好き」
「は?」
「だから離したくないし。時間はそろそろマズいけど、そんなこと言ってられない」
突然彼に投下された爆弾に、脳の処理が追いつかないまま口が動き出す。
抱き締めてくれたときに好きだという気持ちは正直伝わってきたのだ。
いやでも、こんな急に言うことはないだろ。
「でも時間が………っ」
「これ以上うるさくすれば、その口塞ぐけど」
「っひ」
唇に親指を添えられてしまえば、その言葉の意味は安易に理解できてしまい、いつもはよく回る口もガチりと固まってしまった。
「まぁ、本当にマズいから手短に済ますし」
「連絡先は芽衣に聞けばいいし。というか、ここまで連絡先を聞かなかった俺が悪い。あと、時差とか考えなくていいから1日に1回は連絡すること」
「…………は、はい?」
「寂しくなったら電話すること。これも時差とか考えなくていいし、アンタが話したい時にいつでも言えばいい。寝てたらごめん」
次々と約束を取り付けていく静さんに若干引いてしまう。
静さんって、こんな喋るっけ…?
「最後に。
浮気は許さないし。俺から逃げるつもりなら容赦はしない………みたいな?」
冗談とは言えなさそうな彼の言葉に、「わ、わかりました」と答えれば満足そうに微笑んで「いい子」と頭を撫でられた。
「じゃ、そろそろ行くし」
「え、あ、は、はい…いってらっしゃい?」
先程までの力はどこへ行ったのか、するりと私を解放して、荷物を持って検査場を通過していく彼を呆然と見送った。
え、一度も振り返らないとかある?
今の現状を整理しようと、取り敢えず、すぐそこにあったソファーに腰を下ろし携帯を開く。すると、芽衣ちゃんから連絡が入っていた。
『静さんの連絡先だよー!』
武梨静、恐るべし。
この速さで連絡先が送られてくるとは予想していなかったが、手元にあるこの連絡先が彼との一瞬の出来事を現実だと証明してくれているようで嬉しかった。
「…………え?」
静さんがほんの2ヶ月で帰国してきたのは今では笑い話だ。
「うん、取り敢えず来週でここで働くのは終わり」
この人は何を言ってるのだろうか。
「再来週の初めにヨーロッパに行く」
「ヨーロッパ……」
静さんがいなくなってしまう。その簡単な言葉すらも飲み込めない私は子どもなのだろうか。
ひょんなことから芽衣ちゃんの誘いでプティフールでバイトをすることになった。個性的で破天荒なこの仲間たちに最初は冷や汗しかかかなかったが、次第に仲を深めることができて最後の日にはちょっぴりどころではない涙が溢れたのも記憶に新しい。
このかけがえのない仲間たちとずっと働いていけると思っていた。
「ワイン修業って、どのくらいかかるんですか?」
「未定。自分が満足するまで帰らないつもりだし」
静さんが店を辞める。何度この簡単な言葉を頭の中で復唱しようが、頑なに認められなかった。
止める言葉を思いつく前に、止める理由がないことを悟ってしまった私は一言「そうですか」と伝えて、掃除に戻った。
頑張ってください、なんて心にも思っていない言葉も添えて。
それから特に用事もなければ、話すこともなかったので、静さんと業務上の会話以外を交わすことはなかった。
「静さーーん」
そう彼の名前を呼ぶ芽衣ちゃんの姿を目で追えば、いつものように振り向いて会話を続ける静さんがいる。どうやら、彼はギリギリまで誰にも言わずに店を辞めるみたいだ。
なんで私だけに言ってくれたのだろうか、と考えても特に答えは見つからなかった。分かりやすくヒントが転がっているわけでも、わざわざ彼が答え合わせをしてくれるわけでもないのだ。
だから、意味のない、それでいて気持ちの悪い期待はどこかに吐き捨ててきた。
「な、武梨さん、店、辞めるらしい」
そう告げた和樹の言葉に、ようやく皆に伝えたのだと察して、私も今知ったかのような反応を見せる。
「そっかぁ……寂しくなるねぇ」
そんなありきたりな言葉にも和樹は同調してくれて、改めて優しい子だなと感じる。それでいて、静さんのお見送り会をしようと言い出すものだから、彼の底抜けのない愛情を感じて、思わず和樹にヘラヘラと笑いかけてしまった。
「ね、姉ちゃん……?」
「……あ、ごめん、思い出し笑い」
そんな誤魔化しにも騙されてくれて、彼は本当に優しい子だった。
静さんのお見送り会という名のお食事会は無事終わり、勇さんの腕を振るったご馳走はほぼ静さんの胃の中に収まったと言っても過言ではないだろう。
いつもより少しご機嫌で、それとなく口元に笑みを浮かべている静さんを視界の隅にいれながら、パーティーの後片付けを済ます。
ふと誰かが言い出した、静さんを空港まで見送ろうという言葉には同調せずに。
早くいなくなって欲しい。
いつか私の前から消えるなら、もうそれは今がいい。
まだ気温の高い9月、冷房をつけずに夕日の差し掛かる部屋でだらだらと汗を流して寝ていた。目を覚ませば、一気に息の詰まるような熱気を感じられるが、今の私にはこれが心地よくてたまらなかった。
ずっと落としていた携帯の電源を入れれば、次々と更新されていくLINEの通知がうざったくて目で追うを止めた。手に握ったまま、枕に顔を埋める。
「____」
ふるりと揺れだした携帯の着信名を見れば、そこには芽衣ちゃんの名前が表示されていた。どうにも出る気はないが、何か仕事のことで連絡があるとすれば話は違うので、2コールほどぼーっと聞き流してから、通話開始ボタンを押した。
「もしもし?」
「芽衣ちゃん本当にいいの?!」
芽衣ちゃんにしては大きい声にびくりと体を震わせる。
「本当にいいって……そもそも大学の授業があるし」
「だってまだ夏休みでしょ!?」
私の嘘を暴くかのような彼女の言葉にうぐ、と詰まりかけるも、言葉を返そうと必死に抗った。
「オリエンテーションだよ」
「シフト、今日は◯で提出されてたけど」
「…変更になったの、先生が予定ズラして」
「……本当?」
「本当。今電車待ってるから切ってもいい?」
「………わかった。でも、これだけは伝えさせて?」
「なに?」
「18時50分、これが静さんの乗る飛行機で、静さんは18時20分には検査場に行っちゃうから」
そう言って、プツリと音をたてた携帯をまた置いて、また同じように眠ろうと枕に顔を埋めた。
どうせ、どうせ行ったって、何も変わりやしない。今寝たら、また明日が来て、プティフールに行って、働いて、眠って、大学に行って、眠って。
静さんが今後予定に埋め込まれることなんてないのだから、後悔することなんてない。いつか忘れて、何も気にしないで済む日がくる。
本当に、忘れられるだろうか。
ずっと、ずっと高校生の時からこの恋を引きずっているというのに、今更私は忘れることなんてできるのだろうか。
答えは出ているけど、認めたくはなかった。認めれば、これから先、彼に思い悩ませられる日々がまたやってくるのだと思えば、この重い体にムチを打って動かなくてはならない。
なにを伝えるか、考えるために頭も使わなくてはならない。
現在時刻16時48分。
ここから空港まで1時間とちょっと。
空港なんて縁遠いもの、絶対迷子になるから15分はかかると予想する。
会えても、5分あるかないかだ。
ぐるぐると考えている間にも、時間は進んでいて、それに比例して身体から汗がどばどばと溢れ出てくる。
次の電車が来るまであと10分。ここから駅まで徒歩5分。
最後に会えるっていうのに、こんな姿は見せたくはなかった。なんだかんだ、静さんと会う日はいつもよりまつげを上げたり、アイシャドウのグラデーション頑張ったり、髪の毛のクセも直していた。
部屋着から走りやすい、いつもの楽な格好に着替えて、履き慣れたすぐに履ける小汚い靴を履いて。
適当に物をカバンに突っ込んで家を出た。
私の行動力だけは一級品だ。
空港までのバスに乗り、空港内の地図を調べようが全く分からない。方向音痴ではないから、恐らく大丈夫だとは思うが、なにせ彼の便すら知らない。検査場も分からない。
怖い。彼に会えずに、家に帰る自分が想像できてしまって、怖い。
飛行機の時間からなんとか便を見つけるも、もう何がどうだかよくわからなくなってくる。無駄に手汗をかいて、タオルで手を拭こうにも急いで家を出たものだから仕方なく履いているスカートで手を拭いた。
バスをいの一番に出たいから一番前の席を陣取っているし、停車駅が近くなれば急に立ち上がってずっと出口をたむろしている。幸い平日のこの時間のこの方向のバスは人が少なく、特に人に迷惑がかからなかったことが救いだった。
予定通り停車駅につくなり、いの一番にバスから降りた私は、とにかく地図がある場所まで走って現在地と目的地を確認する。
数分で叩き込んだ知識はスルスルと抜け落ちていて、とにかく検査場に無我夢中で走った。時刻は18時5分。それなりに人の行き交いがあるこの場で、私は彼を見つけられるのだろうか。
検査場付近について、キョロキョロと辺りを見渡しても彼の姿は見えなかった。
そもそも、彼がもう検査を通った後かもしれない。
そう思えば、急に脱力感がやってきて、彼にまだ会ってすらないのに鼻がツンと痛みだした。深呼吸にもなっていない速さで息を整え、視界の滲みをなくした。
待合室のような椅子がずらりと並んでいる空間を覗いても、近くの売店を覗いても、静さんはいなかった。きっとこう探しているうちにもすれ違ってしまっている可能性は高かった。
現在時刻18時10分。
諦めて、最後の賭けに出ることにした。
検査場の入り口を張ることだ。
「………いない」
携帯に表示されている時刻とにらめっこしながら、検査場へ入っていく人を眺める。
これほどに静さんと連絡先を交換しておけばよかったと願ったのは初めてだった。連絡先があれば、今どこですか?とか、少しだけ寂しいですとか言えたのに。
そんな勇気、あっただろうか。
学生時代からそうだ。ずっとずっと、結局は逃げてばっかりだった。
彼の思いを知りたくないから、突き離されてしまうのも、何事もなかったかのようにされてしまうのも、どれもこれもが嫌だったから逃げた。
こんな、自分、だいきら
「アンタ、いたの」
再び滲み出していた視界に、いつもより歪んでいる彼が映った。瞬きすれば、それも次第に直ってきていつもの彼の姿が映った。
「し、静さ……」
「みんな見送りにきたけど、オリエンテーションって聞いてたから来ないと思ってた」
「………」
上手く言葉が出てこない。
何かを言わなきゃ、言わなきゃなのに。
何も思いつかない。
「…………芽衣?」
そう声をかけられて、下がっていた視線を彼へと戻すと、少しの困惑が混じったような彼の瞳とぶつかった。
はっと我に返って、スマホの時刻を覗けば18時15分。私が彼をここで止めている暇などないことがわかった。
震えてきた手でぎゅっと拳を作り、言葉を吐き出すことのない口ははくはくと動いた。
もう、本心を伝えたほうが楽だってそう思った。高校生の時も言えなかった、あの一言さえ言えればいいと思った。
「………い、」
その言葉を発そうとした瞬間、彼の便のアナウンスが流れた。告げられる到着先の国名と、時刻。ずっと彼がいなくなることは現実だと分かっていたはずなのに、今ようやく、やっと、彼が本当にいなくなるのだと理解した。
行かないで、なんて。
そんなこと言えるわけがなかった。
なにを言ったって、どう言ったって、彼がいなくなることは変わらないのだから。
むしろ、この言葉は彼にとってマイナスでしかないのだ。こんなことを言われて、彼はなんと言えばいいのだろうか。いつもみたいに、「いや、行かなきゃいけないし」だとか言ってくれるのだろうか。
いや、彼はやっぱり優しい人だから、きっと「ごめん」と謝ってくるだけなのだろう。だとしたら、前者のように突き放してくれたほうがマシだ。
ぐるぐると考えた後、私の口から出た言葉は謝罪だった。
「ごめんなさい、なんか、言葉がでなくて」
また滲み出してきた視界を誤魔化すようにヘラリと笑えば、静さんは見透かしたかのように私をじっと見つめた。
彼のことだから、ヘラリと笑う=嘘をついているという癖を見抜いているのだろう。高校生の、初めて会ったときから、ずっとあなたには全てお見通しだった。
でも、でも言葉が出ないのは本当だ。
「ようやく今、本当に静さんがいなくなるって理解して」
本当だ。
「もう、なんかよくわかんなくなっちゃって」
嘘じゃない。
「言葉が、なにも思いつかないです」
嘘だ。
思いついてるけど、そんなことは言えなかった。
「すみません、ギリギリのくせに言いたいこともまとまってなくて」
「もう検査場通る時間ですよね、すみません」
ずーっと、ずっとヘラヘラとあの嘘の笑顔を貼り付けていれば、彼には何が本当で何が嘘かわからなくなってくれないだろうか。その期待も込めて、ずっとそうやって笑っていれば、諦めたのか溜息をついて彼は答えた。
「………アンタ、ずっと変わってない」
「人間、簡単には変わりませんよ」
「アンタって、猫みたい」
「は?」
相も変わらず突拍子のない静さんの発言には慣れたと思っていたが、それは私の思い違いだったらしく、いつも通り私の口からは聞き返すような言葉が出てきた。
「顔に出やすいくせに、こういうときは何考えてるかわかんないし」
「そうですか?私、女優とかいけますかね」
「そう、それ。すぐに笑いに空気を変えてくるし。正直、今アンタの考えてることがわからない」
「…褒め言葉って受け取りますよ?」
先程のヘラリとした笑い方ではなく、いつもの笑みを浮かべれば、彼は少しだけ口角を上げて不意に見せる、私の好きで好きで堪らない笑みで返してくれた。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
その言葉に、一瞬だけれど呼吸が止まった。
けれど、もう彼の時間をとるわけには行かなかった。
精一杯の、もはや作ってるのかも自分でわからなくなるぐらいのグシャグシャな笑みを浮かべる。
「行ってらっしゃい、静さん」
そう言って、片手を振れば静さんもゆるりと返してくれた。
少しだけ並んでいる検査場の列へ並ぼうと足を進める彼の姿に、また胸が苦しくなってきた。また言わないままなのだと言われているような気がして気持ち悪かった。
言わないほうが、綺麗に終われる。
静さんはきっと、このほうがいい。
私は?
私は、どうなるのだろうか。
幸い静さんの後ろに並ぶ人はいなければ、並ぼうとする人もいなかった。追いかけるなら、もう今しかないのだ。
追いかけて、行かないでと言えば、あなたは、あなたは。
答えの見つからない問いかけを自分に続ければ続けるほど、彼の並んでいる列が短くなっていく。
こうも勇気が出ない自分に腹が立った。
でも、腹が立ったところで手も足も、口すらも動くことはなかった。
「………」
ふと、静さんが後ろを振り向いた。
目が合った。
今しかないと口を開いても、肝心の言葉が出てこない。また、はくはくと口を動かすだけで、最初の一文字すらも言えなかった。
こんな無様な姿を見られたくはなくて、静さんから視線を逸らす。私がこうして視線を外している間にも、列は進んでいくのだろう。
いっそ、いなくなってほしい。
絶対、一生後悔するけれど、いなくなっててほしい。
そう願ってまた視線を戻せば、静さんは体ごとこちらを向いていた。
「あ………、え」
驚いて変な声が出たけれど、静さんは待ってくれていた。もう次の次には検査だというのに。そこまでして、待ってくれている彼にもう遠慮するのは辞めようと思った。
ごめんなさい、静さん。
私、あなたを笑わせたいのに、後味悪いお別れになるかもしれないです。
「…………い、」
「い、か…ないで、ください」
私の声の小ささに自分でも驚きながらも、言ってしまった恥ずかしさと後悔と、不安で視界を地面いっぱいにした。特に音沙汰もなく、ゆっくりと彼へと視線を戻す。
「………え、ちょ」
私が彼を視界に入れた時には、もう目の前にいた。
いつもすれ違った時に香っていた香水の匂いがいつもより強めに香って、背中と腰に手が回って、それはそれは強く抱きしめられた。
突然のことでどうすればいいかわからなくなったけれど、十数秒もすれば状況が理解できて、意外と力は強いだとか、思ったより筋肉があるだとか、脳が冷静に分析をし始めた。
腕、とか、回すものだろうか。
それもわからないけれど、ゆっくりと優しく彼の背中に手を回せば、彼の抱きしめる力が強くなった気がした。それに合わせて、私も力を強くする。
しばらくそうしていれば、突然静さんの検査場の事が気になり、回している手を緩めて問いかけた。
「…………あ、あの、検査じょ」
「うるさいし」
「え、えぇ………で、でも」
「ようやくアンタの本心が聞けたから、こっちはホッとしてるんだけど」
「う、あ、ほ、本心て……」
「事実だし。というか遅い。どれだけ待ったと思ってるの」
「………す、すみません」
畳み掛けるような静さんの言葉に少し怯えながらも、離れるように体を捻る。そんなことも意味がないくらい、彼の力は強かったが。
「で、でも本当に時間…」
「俺、アンタのことが好き」
「は?」
「だから離したくないし。時間はそろそろマズいけど、そんなこと言ってられない」
突然彼に投下された爆弾に、脳の処理が追いつかないまま口が動き出す。
抱き締めてくれたときに好きだという気持ちは正直伝わってきたのだ。
いやでも、こんな急に言うことはないだろ。
「でも時間が………っ」
「これ以上うるさくすれば、その口塞ぐけど」
「っひ」
唇に親指を添えられてしまえば、その言葉の意味は安易に理解できてしまい、いつもはよく回る口もガチりと固まってしまった。
「まぁ、本当にマズいから手短に済ますし」
「連絡先は芽衣に聞けばいいし。というか、ここまで連絡先を聞かなかった俺が悪い。あと、時差とか考えなくていいから1日に1回は連絡すること」
「…………は、はい?」
「寂しくなったら電話すること。これも時差とか考えなくていいし、アンタが話したい時にいつでも言えばいい。寝てたらごめん」
次々と約束を取り付けていく静さんに若干引いてしまう。
静さんって、こんな喋るっけ…?
「最後に。
浮気は許さないし。俺から逃げるつもりなら容赦はしない………みたいな?」
冗談とは言えなさそうな彼の言葉に、「わ、わかりました」と答えれば満足そうに微笑んで「いい子」と頭を撫でられた。
「じゃ、そろそろ行くし」
「え、あ、は、はい…いってらっしゃい?」
先程までの力はどこへ行ったのか、するりと私を解放して、荷物を持って検査場を通過していく彼を呆然と見送った。
え、一度も振り返らないとかある?
今の現状を整理しようと、取り敢えず、すぐそこにあったソファーに腰を下ろし携帯を開く。すると、芽衣ちゃんから連絡が入っていた。
『静さんの連絡先だよー!』
武梨静、恐るべし。
この速さで連絡先が送られてくるとは予想していなかったが、手元にあるこの連絡先が彼との一瞬の出来事を現実だと証明してくれているようで嬉しかった。
「…………え?」
静さんがほんの2ヶ月で帰国してきたのは今では笑い話だ。
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