Good bye summer
下校途中のドンヒョクは自分の幸運さに驚いた。だって、まさかこんな所で会えると思っていなかったから。
目の前を歩く同じ制服を着た後ろ姿に確信があった。絶対にあの人だと思った。
「あの…!」
後ろから声を掛ければその人の足が止まる。靴先がくるりとこちらを向いて、初めての近さでその顔を見た。
猫っぽい目にシュッとしたフェイスライン。ほら思った通り、やっぱり彼だった。
男が不審そうにドンヒョクを見つめる。その視線を感じて、ドンヒョクの頭は一気に現実世界へと引き戻される。
その姿を見つけた嬉しさで、彼に伝える言葉を考えることもせず、思わず声をかけてしまった。
全然整理ができていない頭の中。その中に雑多に転がる言葉の中のひとつが口からぽろりとこぼれ落ちる。
「あの、すごくかっこよかったです」
彼の顔は尚も訝しげだ。だけどそれは正しい反応で、知らない人間に急にこんなことを言われれば誰だってそうなってしまう。
ドンヒョクは自分が言葉足らずだったことに気づき、慌てて付け足した。
「ヒョンのラップ、かっこよかったです」
脳を揺さぶるようなビート音が鳴り響く。ドンヒョクは薄暗い客席からライトが照らすステージを見ていた。
友達が突然ラップにハマったのはだいたい半年くらい前。まだ二人とも同じ中学に通っていた頃のことだった。季節は流れるように移り変わり、二人が別々の高校に入学してから一ヶ月が過ぎようとしている。
"今度ラップコンテスト出るんだよね"
"ドンヒョク見に来てよ"
細々と続いていたカカオトークにそんなメッセージが送られたのは一週間ほど前のことだった。
地元のライブハウスが企画した小さなコンテスト。初めての舞台には持ってこいの場所に思えた。
だけど、何事も初めから上手くいくなんてことは無いのだ。会場に着いてみればびっくり、出場者のレベルは思いのほか高かった。歴が長そうな大人の人もちらほら出場している。そんな人たちの中に放り込まれてラップを披露する友人が不憫に思えた。後からなんて声を掛けてやろうか。そんなことを考えた次の瞬間、ステージから聴こえるラップにドンヒョクの思考は掻き消された。
滞ることなく流れているのに、その言葉のひとつひとつが頭に打ち付けられているみたいだった。上手いサーファーが波に乗る時と同じように、彼のラップは気持ちいいくらいピタリとリズムに乗っていた。マイクを通したその声が肌をびりびりと刺激する。ラップのことはよく分からないけれど、彼が凄いことだけは分かった。
フロアが一斉に湧き上がる。波打つように揺れる群衆の中、彼の後ろ姿がステージの奥に消えていくのをただじっと見つめていた。
家に帰っても脳裏には彼の声が染み付いていた。あの人は誰なんだろう。そう考えて、ふと会場に入る時に貰ったパンフレットの存在を思い出した。暗いライブハウスの中では満足に読むことができなくて、すぐにしまったものだ。
ポケットの中ででぐちゃぐちゃになったパンフレットの皺を伸ばす。そうして開いたパンフレットの右下に記載される文字に思わず目を見開いた。
彼の名前はイ・マーク。同じ高校に通う二年生だった。
ドンヒョクの心は踊っていた。理由は単純、今日の放課後、マークと会えるから。
あの日、唐突に彼に声を掛けた日。ドンヒョクに話しかけられたマークはどことなく居心地が悪そうだった。ぎこちなく目が動いて、言葉を探すような素振りをした後、マークの口がおもむろに開かれる。
「このこと誰かに言った?」
ドンヒョクは驚いた。だって、目の前の彼はステージでの自信に溢れた姿から余りにもかけ離れているのだ。俺を見ろと言わんばかりのラップを披露した彼が人目を気にしている。
ラップをしていることは周りの人には秘密にしているのだろうか。俺がいくら考えたって確信には辿り着かない。しかし、そこには一つの事実があった。マークはこのことを他言されると困るのだ。つまり、今自分は彼の弱みを握っている。思わぬ形で到来したチャンス。賢くいこうぜ、ドンヒョク。
心の中でドンヒョクはそれはそれは悪い顔で笑っていた。
「まだ言ってないけど、俺そんなに口が堅い方じゃないです」
ドンヒョクの丸い瞳が試すみたいにマークを見上げる。
「…なにが望みなの」
少しの間を置いて、マークの口からため息らしいため息がひとつ。そんな様子にドンヒョクの口角が上がった。
「見せてください。ヒョンが書いたリリック」
マークから見たドンヒョクはほとんど悪魔だった。なんなら薄らと頭の上に小さなツノまで見える。だけど、悪魔に等しいやり口をしておきながら、ドンヒョクの目は汚れなんか知らないみたいにきらきらと輝いていた。
放課後の生徒会室はマークの言うように誰もいなかった。今日は生徒会の活動が無いらしい。
マークは生徒会に所属している。そのことを聞いて、頭の片隅にある入学したばかりの頃の記憶が引きずり出された。初めての全校集会の日、体育館の前に一列で並ばされた生徒会役員。端の方で存在感なく立っていた人物は確かにマークだった。
生徒会所属のマークという字面はドンヒョクにとって解釈違いも甚だしい。だけど、マークの喋り方や仕草などを間近で見て、彼のことがなんとなく分かってきた。誰も寄せ付けない、孤高の存在だと思っていた彼は結構普通の高校生なのだ。ラッパーのマークと違い、学生のマークはどこか頼りない感じに見えた。
勇気を出して声をかけたあの日のことを思い出しながら、ドンヒョクは恐る恐るドアを開けてその部屋に足を踏み入れる。生徒会でもなんでもない自分がひとりでこの部屋に入るなんて。なんだか後ろめたく感じながら、部屋の隅にある椅子にちょこんと腰掛けた。それから時計の針が数歩進んだ頃、ガラリと音をたてて扉が開かれた。
「マクヒョン!」
ドンヒョクに名前を呼ばれた彼は気乗りしない顔で椅子を引き、ドンヒョクの隣に座った。
「はぁ…なんでこんなことに…」
マークは未だに納得できていない様子だった。誰にも見せたことの無いとてもプライベートな部分をどうして一度しか会っていない相手に晒さなければならないのか。心の中ではそう思うけれど、口には出さない。
「なんか言いました?」
「いや、何も…」
マークはしっかり警戒していた。目の前の男が何を考えているか分かったものではない。初対面であんな話しかけ方をしてくる人間がまともなわけがないのだ。
マークにとってラップは誰にも踏み荒らされたくない領域だった。周りの人間に知られて詮索されたり好奇の目で見られるのを何よりも恐れていた。ひとりで黙々と音楽と向き合いたいし、それについてとやかく言われたくない。
だから、マークはこうやって約束通りドンヒョクの前に現れたのだ。
リュックをがさごそと漁り、机の上に一冊のノートが置かれた。
「…見ていいですか」
「どーぞ」
マークの言葉を合図に、ドンヒョクは表紙を捲る。
ノートの中身はとてもじゃないけど綺麗とは言えない代物だった。何度も書いて消した跡があったり、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされている所があったり。こうやってあのラップが作られているんだ。そう思えば眺めているだけで胸が高鳴る。自分じゃ絶対に思いつけないような言葉、韻の踏み方。こんな世界があるなんて。
ページの端から端まで目を通して、ぱらりと捲る。そのページを開いてドンヒョクの目が止まった。
「これ、知ってる…」
ドンヒョクが開くノートをマークが覗き込む。肩同士がぶつかっているのを気にも留めず、マークの目がノートを走る。
「あーこれ。good bye summerのサンプリングしたやつ」
「サンプリングって?」
「うーん、もともとある曲の一部を抜粋して新しく曲を作るって感じ」
マークが挙げるサンプリング曲の中にはドンヒョクも知っているような有名な曲も含まれていた。そういうヒップホップの文化があることをドンヒョクは知らなかった。
再度ノートに視線を落とせば、原曲の歌詞と完全なるオリジナルの歌詞が入り交じっていることに気づく。だけど、全体の雰囲気は原曲を色濃く残していて、ありもしない懐かしい恋の記憶が蘇る。
「俺、この曲好きなんです」
そう言って、ドンヒョクの唇がゆっくりと歌い出す。甘くて切ないこの歌のような声が紡ぎ出される。静かな部屋にゆったりと響く歌声。掛け合いの所に差し掛かった時、気づけばマークの唇もその歌を口ずさんでいた。
お互いを確かめるみたいな掛け合いの後に重なる旋律。ぴったりと寄り添って、少しだけ離れて。心地よく調和する音楽。
サビの後のラップの部分でドンヒョクはマークに目配せをした。ヒョン、歌って。
マークは少し躊躇った後、あのフレーズを口ずさんだ。何度も聴いたこの曲のラップ。マークはこんな風に歌うんだと、知れたことがとても嬉しかった。
最後まで歌った後、二人の視線がぎこちなく絡まる。お互いのことを何も知らない状態で、気持ちよくなって一曲歌いきってしまった。なんでこうなったのかもよく分からない。おかしな状況に、先にドンヒョクが吹き出した。それにつられて、我慢できなくなったマークも笑い出す。
マークにとってドンヒョクはただの不審人物だった。だけど歌う姿を見て、一緒に歌って、ドンヒョクはただ純粋に音楽が好きなのだとなんとなく分かったから。ラップの感想を言ってきたドンヒョクは冷やかしにしか見えなかったけれど、あれはそういう事ではなかったのかもしれない。
マークとドンヒョクは音楽について沢山話をした。驚くことに、二人はお互いの話す曲やアーティストのことをほとんど知っていた。プレイリストには同じ曲がいくつか入っていて盛り上がった。二人の音楽の趣味はかなり近かった。
それからというもの、二人で学校帰りにCDショップに行ったり、お気に入りのアーティストのコンサートに行くようになった。気になる歌を共有して、感想を言い合ったり一緒に歌ったり。その時間が信じられないくらい楽しかった。
マークとドンヒョク、二人の仲は確実に深まっていった。
生徒会の無い日は一緒に帰ることが二人の日課になっていた。二人の家はたまたま同じ方向にあったし、マークもドンヒョクも部活に入っていなかった。春、ドンヒョクは軽音楽部の体験入部に行ったけれど、結局入部はしなかった。同級生たちの会話は好きなバンドを使って歪んだ自己顕示欲を満たそうとしているようにしか見えなくて。これなら家に帰ってひとりで歌った方がまだ楽しそうだ。そう思ったから、入部届けの用紙はぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
電子音のチャイムがホームルームの終わりを告げる。リュックを背負った生徒が行き交う廊下を進み、ドンヒョクは二年生のクラスの前で立ち止まった。開いたままのドアから見えるマークは数人の男子生徒と何やら話している。
しばらくその様子を見ていると、ふたりの目がばっちりと合った。
マークは慌てたように立ち上がって、周りの男子生徒に言う。
「ごめん俺友達と帰るから」
マークの口から出た友達という言葉に思わず頬が緩む。
「ねぇ、ヒョンのことマクって呼んじゃだめ?」
ドンヒョクが聞けばマークはあからさまに嫌そうな顔をする。マークはドンヒョクの前になると取り繕うことを忘れる。嬉しい時は頬をめいっぱい持ち上げて笑うし、嫌な時はわかりやすく顔を顰める。
「なんでよ!さっき俺のこと友達って言ったくせに!」
「…や、あれは言葉のあやで、」
苦し紛れの言い訳を並べるマークの目は宙を泳いでいる。ドンヒョクと目を合わせたくないのだ。目を合わせてしまえばドンヒョクがしつこく追及してくるのは目に見えていた。
出会ってから二ヶ月と少しでドンヒョクの敬語は跡形もなく姿を消した。
高校生における学年の差はとても大きい。たった一歳しか違わない年齢でも、そこには超えることの出来ない巨大な壁が存在している。それなのに、マークに対するドンヒョクの態度は同級生に対するそれとほとんど変わらない。唯一違いは、ドンヒョクがまだ辛うじてマークをヒョンと呼んでいるところ。ふたりの間にあるのはいつでも破ることが出来そうな薄い布一枚だけ。
「お前って誰にでもこんな感じなの?」
マークは一度、ドンヒョクにそんな質問をしたことがあった。
「そんなわけないじゃん!ヒョンが特別なだけだよ」
そう言ってウィンクをするドンヒョクを眺めながらマークは思った。
一見聞こえは良いけれど、それってつまり俺が特別になめられているという事では?
世話焼きのドンヒョクと不器用なマーク。ただでさえ、どちらが年上なのか分からないような関係だった。敬語もない上でさらに呼び捨てで呼ばれてしまったらいよいよ立場が逆転してしまう。それだけは何としても阻止しなければ。
「ふん、マクのばか」
ぐるぐると思考をめぐらせるマークにそんな言葉が投げられる。
「あ、おい!俺いいって言ってないけど」
「だめとも言われてないもんね〜」
マークを煽るようにドンヒョクが大袈裟な表情を作る。いくら自分の方が年上だろうと、マークはその顔を可愛いとは到底思えなかった。ただただ憎たらしいだけである。
減らず口を黙らせるようにマークがドンヒョクに絞め技を仕掛けた。一歳という歳の差は本当にささやかで、ふたりの精神レベルは同じくらいだった。
「ううう…ヒョン、ギブ…ギブ!」
マークの腕の中で抵抗を続け、とうとうドンヒョクは解放された。呼吸を乱すドンヒョクを気にすることなくマークはすたすたと歩いていく。
「暴力反対…」
小さく呟かれた後、後ろからバタバタと足音が近づいてくる。聞こえてくるその音にマークは密かに表情を緩ませた。
「今日さ、ずっと考えてたんだ。夏休みにやりたい事」
いつもの帰り道、マークの横でドンヒョクが言う。いつもよりも少し歩くスピードが遅いのはドンヒョクの荷物が多いことに起因している。今日は水泳の授業があったらしい。出会った時から褐色だったその肌はさらにこんがりと焼けた。シャツの白と肌の色とのコントラストがマークには少しだけ眩しかった。
期末テスト後、数日授業を行った後に夏休みは訪れる。数日の授業はなんだかオマケのようでやる気が出ない。気づいたら別のことを考えてしまう、なんていうのはマークにもよくある事だった。
授業そっちのけで考えていたというドンヒョクのやりたい事は二つ。海に行くことと曲を作ること。向こう側の太陽のせいだろうか、語っているドンヒョクの目は光をいっぱいに含んでいた。
「というワケだから、よろしくね」
ドンヒョクはマークの目を見てそう言った。よろしくって…マークは暫く考えてからハッとしてドンヒョクを見た。
「え、ドンヒョクのやりたい事じゃないの?!」
「そうだよ、俺がヒョンとやりたい事」
どうせヒョン夏休みは生徒会もなくて暇でしょ、なんてドンヒョクが続ける。今までの話が途端に自分自身のこととして伸しかかって、だけどそんなに嫌な気持ちはしない。
ドンヒョクとなら何をしたって楽しいことは目に見えている。それに、ドンヒョクの言う通りマークの夏休みの予定はかなりスカスカだった。やることと言えば課題をするのとギターを弾くこと、リリックを書くこと、あとは数人の友達と遊ぶことくらいしか思い浮かばない。
「いいよ、やろう」
どうせ暇なのだから、ドンヒョクの唐突な思いつきに付き合ってやろう。
「あ〜楽しみだな〜!」
マークがそう言えば、ドンヒョクが嬉しそうに声を上げた。
それから時が経つこと二週間。マークとドンヒョクは夏休みを謳歌していた。
二十七度という微妙な温度に設定された冷房からそよそよと穏やかな風が吹く。
「まくひょん〜俺もう飽きた〜」
ドンヒョクの間延びした声が響く。机の上に開かれている数学の課題。その右側はほとんど手をつけられていない。
「まだ一時間も経ってないけど」
マークは顔を顰めてそう言った。そんなマークを見てドンヒョクの口が捲し立てるみたいに動く。
「あと五分したら一時間だけど?誤差じゃん」
「はぁ…分かったって…」
「うぅ、せっかく夏休みなのに…」
泣く真似をするドンヒョクをマークは冷めた目で見ていた。
曲作りを口実に、マークとドンヒョクは毎日のように会っていた。ノートに歌詞を書いては消して、歌詞に合わせてメロディを考えて。
息が詰まったら他のことをして遊んだ。マークのギターに合わせて色んな歌を歌ったし、外に出てお気に入りのMVを真似した動画を撮ったりもした。カラオケでジュース片手に七時間ぶっ続けで歌い通して、次の日、お互いのガサガサ声に息もできないくらい笑った。暑さも吹き飛ぶくらい毎日が楽しくて、時間があっという間に過ぎていく。
だけどそこには弊害もあった。机の上に積み上げられた夏休みの課題たちだ。二人の課題は汚れひとつ付けられていない。開かれてすらいないのだ。
昼ごろから夕方、親が帰ってくるまで遊んだ後、家に帰ってご飯を食べる。風呂に入ってから少し携帯をいじれば時計の針はすぐに十二時を回ってしまう。勉強をする時間なんてどこにあるのだろう。
このままではあっという間に夏が終わる。マークにはその確信があった。
虚ろな目で朝食を食べている時、ドンヒョクの携帯が鳴った。トーストを齧ったまま画面を覗いたドンヒョクの顔が歪む。
"今日は一緒に課題しよう。流石にやばい気がする"
液晶画面に映るのは目を背けたくなるような文字だった。トーストを飲み込んでからトーク画面を開く。
"やだ"
"遊ぼうよ"
それだけ打って携帯を置き、大きくあくびをした。ジャムの瓶に手を伸ばし、追いでトーストに塗りつけて頬張る。香ばしく焼けた表面がざくりと音を立てた時、暗くなった画面が再び光ってマークのメッセージが表示された。
"俺は課題するから"
並べられた文字はあまりに冷たい。ドンヒョクは泣いているクマのスタンプを送信した。ドンヒョクの可愛らしいスタンプは当然のように既読無視された。
歌詞ノート、五線譜、筆箱、それからお菓子。全て入れてから、しぶしぶ問題集をリュックに詰めてドンヒョクは家を出た。
そうして今に至る。ドンヒョクはスライムのようにでろんと机にへばりついている。
ドンヒョクが何を言っても、マークは構ってくれなかった。聞いているのかいないのか分からないような返事が返ってくるだけ。そうと分かっていながら話しを続けられるほどドンヒョクのメンタルは頑丈ではなかった。眉間に皺を寄せ問題集と参考書を交互に見ているマークをしばらく見ていた。だけど、その視線がドンヒョクの方に向けられることはなくて。少し携帯を触った後、ドンヒョクは再度自らの課題に視線を落とす。
問題集を開いてからゆうに二時間は経過し、ドンヒョクの身体は溶けてスライムになった。ベタベタの物体と化したドンヒョクの目の前で、マークのシャーペンが机に置かれる音がする。
「なにしてんの」
あれだけ適当にあしらっておいて、自分が一段落着いたら話しかけてくるのかよ。
さっきの仕返しのようにドンヒョクはマークを無視した。机の上に顔をくっつけたまま。
そうしていると椅子が床を擦る音がして、マークが立ち上がったのが分かる。バタリとドアが閉まる音がして、次第に汗が滲み出す。
ちょっとした意地悪のつもりだったのに、マークは無言で部屋を出ていってしまった。心臓の音が嫌にはっきりと聞こえる。部屋の中では冷房だけが何事もなかったような顔で風を吹かせている。
どうしよう。本気で無視したかったわけではないけれど、こんな態度を取ってしまった手前、引くに引けない。
未だに机にひっつけたままの頭を回転させていると、遠くから近づく足音が聴こえた。ガチャリとドアノブが捻る音がした後、机の上にごとりと何かが置かれる。
おそるおそる顔を上げれば、目の前には大きなペットボトル。冷気を放つファミリーサイズのサイダーがそびえ立っていた。
「疲れただろ。休憩しよ」
「…うん」
二つのコップを机に置いたマークがサイダーの蓋に手をかける。プシュリと子気味いい音をたてて、ペットボトルが開けられた。
いつも通りの顔のマクヒョンを見て、とてつもない敗北感に襲われる。圧倒的な負けだ。コップが透明な液体で満たされていくのを安心と不満の入り交じる心持ちで眺めていた。泡をたてながら揺れる表面は海みたいだ、なんて思いながら。
自分の前に置かれたなみなみに注がれたサイダーを流し込む。なんだか喉が乾いていたようだ。喉をぱちぱち刺激されるのも全然気にならず、身体を潤そうとコップを高く傾ける。
マークを見れば、自分と変わらない勢いでサイダーを飲んでいた。ごくごくと喉が動いて、その後コップが机に置かれる。中の液体は半分よりちょっと少ないくらい。
「海のことだけどさぁ」
マークがそうやって話し出したことがちょっとだけ嬉しかった。マークも揺れるサイダーを見て同じように海を思い浮かべたのかもしれない、なんて思えて。
「家から電車で行くと一時間以上かかるみたい」
マークの言う通りここから海は少し遠い。車でしか行ったことがなかったけれど、電車で行くとなると乗り換えが多くなってしまう。
「泳ぐってなるとしんどくない?正直。水着とかタオルとかで荷物もかさばるし、ちゃんとシャワーも浴びられないまま長時間の電車に乗らなきゃじゃん」
理路整然とした説明が次々と並べられていく。マーク言う通り、それは確かに現実的ではなかった。反論のしようもない程に。だけど。
「そうだけど…去年は受験だったから行けてないし今年は絶対行きたいって思ってたのに…」
語尾に向かって声がしぼんでいく。これは感情論でしかなくて、有益な提案も、彼を納得させる説得力も何もないことは自分で一番分かっていた。さっきマークから海の話をしてくれたのが嬉しかった分、落差で余計悲しくて下を向くことしかできない。
「待て待て、行かないなんて言ってないじゃん」
目に見えてテンションが下がるドンヒョクにマークは慌ててそう言った。
「…え?」
「見に行こうよ、海。調べてみたら海の近くにでっかいかき氷食べれるお店あったからそこも行きたい」
そう言ってマークはドンヒョクにスマホの中のかき氷を見せる。スイカ味が気になる、なんて言いながらメニュー表を拡大して見せたりして。
マークも海を楽しみにしているみたいだった。強引に誘ってしまった分、色々と調べていてくれたことがかなり嬉しい。
「夕日が沈むとこ見たいなぁ…」
マークがそんなことを言うから、ドンヒョクはつい笑ってしまった。
「ヒョンって結構ロマンチストだよね」
「えぇ、そんなことないと思うけど?
…綺麗なんだよ、昔家族で見に行ったんだ」
マークは懐かしむように呟いた。その日見た景色は彼の胸の内にしまってある大切な思い出だった。
「へぇ〜夕方はクラゲ出るからいつも日が沈む前に帰るんだよね」
そんなことはつゆ知らず、現実的なことを言ってから、ドンヒョクはコップの中のサイダーを飲み干した。ぷはーっと息をつくドンヒョクにマークはげんなりとした顔をする。
「マクヒョンの彼女は大変だ〜お祝いの度に真っ赤なバラなんか貰っちゃったりして」
ドンヒョクの言葉の節々からいじってやろうという魂胆が透けている。ドンヒョクはこの可愛いヒョンをいじるのが大好きだった。今日はどんな反応が返ってくるのだろう。口をつぐんでちょっと怒ってしまうだろうか。マークには申し訳ないけれど、拗ねたように怒る顔が可愛くて可愛くて仕方ない。こんなに可愛いヒョンがらいて良いのかと疑問になるくらい。
「なんだよ、好きな人にはそれくらいしたって良いだろ…」
マークが小さな声でそっぽを向きながらそんなことを言う。その反応は予想外なんだけど。ていうか、その反応…
「えええ?!マクヒョンほんとにやる気なの?!あはははは!」
大袈裟なことを言って、「…そこまでしないし」なんて返ってくることを想定していたのに。やっぱりマークは想像の範疇をいとも簡単に飛び越えてくる。ドンヒョクは完全にツボに入って、そこから抜けら出せなくなった。
「なんだよ!そんなにおかしい?」
大真面目に抗議してくるマークが追い討ちをかけてくるものだから、ドンヒョクの笑い声が大きくなる。
「あーもう知らない!」
そんなセリフを吐いてマークが机の上にリリックノートを出す。二人で考えた歌詞で埋まっているそのページを開き、壁に立てかけてあったギターを腕に抱える。そうしてノートのページを見ながら、まだ未完成の歌を口ずさむ。
歌詞はマークが考えた方がいいんじゃないかと思った。だって、間違いなくマークの方が作詞に関して長けている。だけど、彼は首を横に振った。
「せっかく二人で作るんだから歌詞も一緒に考えようよ。それに、一人より二人の方が色んな言葉とか表現とか出てくると思うんだ」
だから、この歌詞は二人で考えた。自分の可能性と未来への夢。不確定で不安定な今の自分たちにとってのこれからをありのままに書いた。
マークが歌うのに合わせて、ドンヒョクは旋律を重ねた。
待ちわびたその日、空は青く澄み渡っていた。駅のホームで待っているマークを見つけ、ドンヒョクが駆け寄る。打ち合わせたわけでもないのに、マークとドンヒョクは揃って丈の短いパンツを履いていた。
「ドンヒョガ…ビーチサンダルで来たの?分かりやすい奴だな…」
「ヒョンだって半ズボンじゃん」
出会い頭にそんな会話を交わし、いかにもな格好をした二人が改札を抜ける。いつもと違う路線に乗り込めば、それだけでワクワクした。見慣れない景色、型の違う列車。それら全てが冒険譚のプロローグのようで、自然と気持ちが高まっていく。
迷うことなく乗り換えた電車はしばらくの間トンネルを走っていた。暗く長いトンネル。そこを抜ければ青く輝く海が一面に広がっていた。駅名がアナウンスされ、ドアが開く。その瞬間、懐かしい磯の香りがした。
マークの言うかき氷の店は海が見渡せる小高い所にあった。斜面を登って目当ての場所に辿り着いた頃、二人の額には大粒の汗が浮いていた。
その店は木目調の落ち着いた店構えをしていて、ドアを押すとカラカラと可愛い鈴の音がした。注文をしてしばらくするとテーブルに二つのかき氷が運ばれてきた。赤い表面にチョコチップが気まぐれに散りばめられたスイカのかき氷と、とろりとしたシロップのマンゴーのかき氷。どちらもてっぺんにはふわふわのクリームが乗っている。雪山のようなそれを口にして、マークの瞳が大きく見開かれた。食リポばりの表情だが、勿論本人は無自覚だ。かき氷の美味しさについて力説しだすマークをドンヒョクがなだめていると、マークのかき氷が雪崩を起こした。スプーンの刺し所が悪かったらしい。どさりと音を立ててトレーに氷が落ちる。マークとドンヒョクはゆっくりと顔を見合わせて、それから揃って盛大に吹き出した。
あんなに大きかったかき氷を難なく食べ終えた二人は海の方へ下っていく。この町はちょっとした観光地で、道の端にはいくつか店が並んでいた。デニムが沢山置いてある古着屋、昔懐かしいレトロな雑貨屋。店の外で干物を作っている由緒ありそうな乾物屋なんかもあった。色々な店を覗いて、ドンヒョクは結局貝殻の加工品の店で見つけたキーホルダーを買った。店を出て、買ったものをすぐさまショルダーバッグに付ける。ドンヒョクが歩く度、キーホルダーは涼しげに揺れていた。
コンクリートの階段を下っていると下から吹き上げるように風が吹いた。鼻をかすめる海の香りに足が早まる。
辺りを散策していたらあっという間に時間は流れて、空はいつの間にか赤く色付いていた。階段を降りきると一気に視界が開けた。
「わぁ…」
いつもよりずっと高くて広い空の下、ドンヒョクの口から感嘆の声が漏れる。
砂を踏みしめて水際まで出ると、揺れる海面の輝きがはっきりと見えた。マークは靴と靴下を乱雑に脱いで、裸足でドンヒョクの方に歩いた。
波に洗われた砂浜が足元でサラサラと流れていく。指の間を冷たい海水が流れていくのが気持ち良かった。
「人少ないね」
前を歩くドンヒョクがこちらを振り返ってそう言った。打ち寄せられる波によって足元で小さく水飛沫が立つ。
「うん、夕方なのもあるけどこの時期になると人も少なくなるなぁ」
夏休みはとうに後半に差し掛かっていて、気づけば暑さのピークも過ぎていた。
「あ〜夏が終わる〜!やだ〜!」
人がまだらなのを良いことにドンヒョクが海に向かって叫んだ。その声は遠くから押し寄せる波の音にすぐにかき消される。
「へへ、入らない海も良いもんだね」
ドンヒョクがそう言えば、だろ?とマークは得意げに笑ってみせた。
水平線の近くまで降りてきた太陽の光が海に一本の道をつくる。赤く、キラキラと光る道、空に広がる赤と紫のグラデーション。マークは家族のことを思い出した。カナダに転勤した父にはしばらく会えていない。海で夕焼けを見た時が思えば最後の家族旅行だった。
そんな思い出に浸っていると、パシャリと水の音がして、マークのTシャツが少し濡れた。
「おいっ!何すんだよ!」
「あはは!マクヒョン全然気付かないんだもん!」
そう言ってもう一度、ドンヒョクがマークに水を掛けた。反撃と言わんばかりにマークも水を掛け返す。飛んでくる水を避けて、隙を見ては手の中の海水を投げつけた。大きな声を出して、子供みたいにはしゃいだ。
太陽が海に飲み込まれていく。燃えさかっていた空も海も、あっという間に夜の色に変わった。停戦協定を結んだマークとドンヒョクは砂浜から少し登った階段で、全てが暗闇に沈んでいくのを眺めていた。
「ヒョンのせいで濡れた」
「自業自得だろ」
そんなことを言い合いながらタオルで足を拭く。拭いた後もべたべたすると文句を垂れながら、タオルを丸めてバッグに押し込んだ。
「もう夜になるね」
紫と黒の入り混ざる空を見て、ドンヒョクが言う。
「帰りたくないなぁ…」
ドンヒョクの小さな頭がマークの肩にのせられる。いつもだったら払いよけている所をマークはそうしなかった。理由は分からないけれど、その時は頭ひとつ分の重みを受け止めていたいと思った。
今日は夏を全て詰め込んだみたいな日だった。息を着く暇もなく、始まりから今の今までずっと楽しかった。
「うん、俺も」
だから、マークもドンヒョクと同じ気持ちだった。このまま時が止まったらいいと本気で思った。
今年の夏がこんなに沢山の思い出で埋め尽くされるなんて思ってもみなかった。ドンヒョクとの奇妙な出会いは、言ってみれば数ヶ月前の話だ。それなのに、長年の友達と錯覚するくらいドンヒョクの隣は落ち着く場所になっていた。ドンヒョクといる時は無言だって怖くない。むしろ、それさえも心地よかった。
生きていると不思議なことが起きる。マークは左肩にかかる重みを感じながらそんなことを考えた。
帰りたくないと言いながら、日が沈んで少し経って二人は駅に向かって歩いた。ドンヒョクの歩くスピードがいつもより遅いことに気づいたマークが足を止める。
「ドンヒョガ、どうした?疲れた?」
「…足、痛くて」
ドンヒョクは一日中ビーチサンダルで歩いていたから、鼻緒の部分が擦れてしまっていた。だけど、そんなのダサいしマークに笑われたくなかったから。隠そうとしたけれど結局バレてしまった。
マークの方を見ないでそう言うと、突然、ドンヒョクの肩に腕が回された。ほら、お前も、なんて言われて、ドンヒョクがマークの背中に手を回す。
「こっちのが歩きやすいだろ」
「…恥ずかしいよ、ヒョン」
「暗くて見えないって」
そんな風に説得されて、ドンヒョクはマークに寄りかかりながら歩いた。マークの言う通り、辺りはすっかり暗くなっていたから、ドンヒョクの顔がほんのり赤くなっているのにマークは全然気づかない。
そうして駅について、時間通りにやって来た電車に乗った。真っ暗な海を見つめながら電車に揺られ、来た道を戻る。
ドンヒョクは自分の足に視線を落とした。足の親指と人差し指の間はやっぱり赤くなっていた。まじまじと見つめていると、足の甲にいくつか砂粒が付いているのに気が付いた。その砂粒は確かに海にいた事を物語っていた。
「じゃ、また」
「うん、バイバイ」
寂しいのを悟られないように、軽く交わされる挨拶。
マークの背中を見送った後、ドンヒョクは駅前のバス停に向かった。足の痛みに負けて自転車で帰るという選択肢は早々に捨て去った。
イヤホンを耳に差し込んで、適当なプレイリストを選ぶ。耳から流れ込む音楽を聞きながら人の少ないバスに乗り込んだ。
後ろから二番目の座席に座るとすぐにバスは発車した。ガタゴトと揺れる車内で、ドンヒョクは窓の外を流れる真っ暗な景色を見ていた。よく知る駅から家への道はずっと楽しみにしていた今日が終わっていくことを残酷に告げる。目を閉じれば楽しかった思い出がいくつも頭をよぎった。今日の記憶だけでなく、夏休みに作ったマークとの沢山の記憶がドンヒョクの頭に次々と浮かんでは消えていく。長いようで短い夏だった。眩しい日差しが照りつける大好きな季節がもう少しで終わりを迎えると思うと少しセンチメンタルになった。
その時、ひとつの曲が終わった。少しの空白の後、ランダムに選ばれた曲が流れ出す。
なんてタイミングなんだろうとドンヒョクは思った。それは今一番流れるべき曲であり、今一番聴きたくない曲だった。そのイントロを聴いた瞬間、生徒会室で心を通わせた日の記憶が昨日のことみたいに思い出された。
あの時、ドンヒョクは少なからずショックを受けていた。ステージで憧れた人は正直言って全然かっこよくなかったのだ。彼のことを知った今でもそう思う。頼りがいのある男という感じは全くなく、むしろ彼はちょっぴり抜けている可愛いヒョンだった。彼を形容する言葉は言うまでもなくカリスマのイメージからはかけ離れたものだった。
だけど、彼はその要領の悪さを覆すくらいの努力家で、音楽を誰よりも愛する人だった。出会った時よりもかなり分厚くなったリリックノートが努力と愛の証明だった。何かを突き詰めたことがなかったドンヒョクから見る彼は光り輝いていた。
彼のそんな一面を知ることが出来て嬉しい。友達になれたことが嬉しかった。それなのに、いつからだろう。今はその関係が切ない。頭の中に刻まれた歌詞はドンヒョクの抱くマークへの想いそのものだった。
ドンヒョクと海に行った次の日、マークは久々に目覚ましをかけずに眠りについた。今日と明日の二日間、ドンヒョクは家族で出かける予定があるらしい。だから今日は鳴り響くインターホンに備える必要はない。自然と目が覚めたのは、カーテンの隙間から眩しい光が降り注ぐ昼頃のことだった。
しばらく布団でもぞもぞしてから顔を洗うため起き上がった。それから空腹を紛らわそうと冷蔵庫へ向かい、昨日の晩の残りと冷凍ご飯を順番に電子レンジへ放り込む。昨日より少し味の濃い煮付けを噛んでいれば次第に脳が冴えてきた。
時計を見て、ドンヒョクがとっくに遊びに来ている時間だと気づく。初めて家に来た日、ドンヒョクはキョロキョロと辺りを見回して落ち着かない様子だった。そんなドンヒョクを可愛いと思っていたのに。自分の家同然にくつろぐ最近のドンヒョクを思い出して夏休みになったばかりの頃が少し恋しくなった。
ここ最近、ドンヒョクとは連日会っていた。だから、目の前の椅子にドンヒョクが座っていないことを不思議に感じてしまうのだ。
そんなことを考えながら遅めの朝食を食べた後、図書館のある駅前に向かった。まだ残っている課題を片付けたいのと、久しぶりに本を読みたくなった。
図書館はキンキンに冷えていて、汗が一気に引いていく。高い天井とズラリと並ぶ本棚。ここらの図書館の中で一番大きなその場所はお気に入りの場所だった。
窓際の区切られた自習スペースで課題をしていると、すっかり日は暮れて夜になった。解き初めてから五時間が経過している。長期休みの度に受験でもするのかという勢いで勉強をしている気がする。しかし、その甲斐あって今日で課題はかなり進んで、終わりの兆しが見えてきた。
ふぅ、息を吐いて問題集を閉じた。閉館時間まであまり無いけれど、ようやく本を読むことができる。
昔から本を読むのが好きだった。本の中には世界が無限に広がっている。自分とは縁のないような壮大な世界に思いを馳せることができるし、はたまた誰かの日常を垣間見ているような気持ちにもなれる時もある。言葉の海を浮遊して様々な表現に触れる時間は心地が良かった。
本棚の高いところにある本を手に取り、続きのページを開く。図書館に中々来れていなかったこともあり、この本を開くのは久々だったけれど、そのページを開けばそれまでのストーリーをすぐに思い出すことができた。
その本は所謂恋愛小説だ。色々な本を読む方ではあるけれど、このジャンルを読むのはこの本が初めてだった。恋愛小説の良さは人の心の細やかな動きにあると思う。人物の行動や心理に共感し、より文章に引き込まれていく。
離れていても頭の中にはいつも彼女がいた。彼女はこの味が好きだろうか、彼女と一緒だったらこの景色はどんな風に見えただろうか。一人でいても傍らにはいつも彼女がいて、それが恋なのだろうと思った。
その一節を読んで、マークは息を飲んだ。
朝、部屋を見渡した時、カフェの新作ドリンクのチラシを見た時、課題をしている時。今日はずっと、頭の中にあの生意気で可愛い弟がいた。いや、今日だけじゃない。大分前からあの弟はマークの頭の中に遠慮なく居座り続けている。
それが恋なのだろう
断定的な言葉から、主人公はそう確信しているのだと分かる。だけど本当にそうなのだろうか。
ふと、夏休み前のある日の出来事を思い出した。昼休みに廊下でドンヒョクとすれ違った時のこと。ドンヒョクは同じ色の上履きを履いた男子生徒と壁にもたれてじゃれ合っていた。ドンヒョクがキスする素振りをすると、相手はドンヒョクの身体を押し返しながら笑っていた。仲が良いんだな、なんて思うと同時になんでか心がざわめいた。友達が他の友達と仲良さげなのがムカつくなんて、そんな重ため女子みたいなことを思ったことなんてなかったから、本当に不思議だった。大体、ドンヒョクがキスする素振りをする時はいつも強めに肩を叩いたりして自分から拒否していたくせに。心がざわざわと音をたてて揺れる理由が自分でも分からなかった。
マークとドンヒョク、二人の課題はとうとう大詰めを迎えていた。夏の初めの頃は全く身が入っていなかったドンヒョクも、近頃は真面目に課題に取り組んでいた。
「量が多すぎる、これじゃ全然休みじゃないよ」
なんて時折文句を垂れながら。
そうして課題をして、集中力が切れたら歌を歌った。そう、ついに二人の曲は完成したのだ。
初めての作曲の作業は一筋縄では行かなかった。歌詞をなんとか作るまでは良かったが、問題はそこから先だった。具体的に何から始めればいいのか分からず、当然作業は低迷した。曲の作り方なんて今まで誰からも教わってこなかったのだ。当然である。
しかし、手持ちの武器が何も無いわけではなかった。マークはギターのコードを理解していたし、ドンヒョクにはピアノで培った音感があった。
初めにネットで作曲に関する色々な情報を集めた。"初心者でも簡単!"なんて安易な文字につられてサイトをクリックすれば、作曲の手順が分かりやすく纏められていた。
曲を作るといってもやり方は色々あるらしい。様々な例を見て、コードから曲を作っていく方法を採用した。調べてみれば、様々なコード進行と、それが生み出す効果について、これまた色々な記事が見つかった。それらに一通り目を通してから、実在する曲のコード進行を分析した。二人がよく歌う曲から最近流行りの曲まで、使われているコードを書き出した。ドンヒョクは耳のいい方だったから、メロディの後ろで鳴る和音を大体聴き当てることができた。ドンヒョクが細々と続けていたピアノは思わぬ形で役立った。
そうしている内に様々なことが分かるようになった。作曲者にはお気に入りの進行があること。和音の音が一音隣に動くだけで全然違う世界が広がること。
曲を作りは冒険だった。知らない世界を覗き見するドキドキとワクワク。二人は年相応な男の子だから勿論、冒険をするのが楽しかった。
マークが奏でるギターの音から、その歌は始まる。一生懸命作った曲は所々不格好だけど、そんな所さえも愛おしい。短い前奏の後、マークとドンヒョク、二人の声が小さな部屋を満たしていく。
ドンヒョクは自分のことを成功したオタクだ、なんて思った。憧れた人と作った曲を一緒に歌えるなんて、これ以上の幸せがあるのだろうか。マークと仲良くなって何でも言い合えるようになっても、ドンヒョクはずっとマークのファンだった。彼の声が大好きだった。マークはドンヒョクの友達であり、憧れであり、好きな人だった。マクヒョンさぁ、いくらなんでも欲張りすぎだよ、なんてドンヒョクは心の中で悪態をつく。
ギターで奏でられた最後の音。音の余韻も消えて部屋がしんと静かになる。
「ドンヒョガ、」
「ん〜?」
「あ〜…うん、あのさ、俺お前のこと好きみたい」
「…え」
青天の霹靂とは正にこの事で、ドンヒョクは言葉を失った。いつもペラペラとよく回る口は言葉を忘れてしまったかのように動かない。
「や、待って、何言ってんだろうな、俺。ごめん、忘れて」
ドンヒョクがそうしていると、マークは慌てて訂正した。途切れ途切れの言葉で零れ落ちた告白の言葉を誤魔化そうとしているが、無理があることは本人もよく分かっていた。
お喋りなドンヒョクが黙りこくっているのを見てマークの身体に嫌な汗が滲む。すると、ドンヒョクの瞳がマークの瞳を捕らえた。思わず逸らそうとした時、ドンヒョクが言った。
「やだ、忘れない…」
「…え?」
その言葉を瞬時に理解することができなかった。先程のドンヒョクと同じようにマークが声を漏らした。
「マクヒョンのことが、好きだから。その、初めて見た時から…」
「そっか…」
だんだんと下を向いていくドンヒョクにマークはそんな相槌を打つことしかできなかった。
あの日の本の一節が頭の中に印象深く刻み込まれてから、色々と考えていた。ドンヒョクは男で自分も男で、だけどドンヒョクと海で見た夕日は家族との綺麗な思い出を軽く上回るくらい途方もなく美しくて。意識してからというもの、さらにドンヒョクのことばかり考えるようになってしまって、そもそも恋とはなんだろう、なんて哲学に足を踏み入れそうになって。
頭はまだぐちゃぐちゃだった。だけど、幸せそうに歌うドンヒョクの横顔を見た時、綺麗だと思ってしまった。それと同時に自分のものにしたいなんて気持ちがふつふつと湧き上がってきて、ああ、これが恋なのだろう。そう思った時には既にドンヒョクに告白していた。全く計画にない告白、そして予想だにしなかったドンヒョクからの返事。
「付き合うってことで、いいんだよね?」
ドンヒョクが遠慮がちにそう言う。
マークは抱えていたギターを床に置いた。もうなんだかドンヒョクの全てが愛おしくなってきて、マークは堪らずドンヒョクに抱きついた。びくりと身体を震わせてから、おずおずと背中に回されるドンヒョクの腕。
「うん、ドンヒョガ、よろしく…」
「こちらこそ…」
ドンヒョクの身体は薄くて自分の身体よりもずっと柔らかかった。首筋に顔を埋めるとドンヒョクの匂いが濃く香ってドキリとした。首に鼻の先が掠めるとドンヒョクは吐息混じりの声を出し、マークの身体を抱く腕に力を込めた。
ドンヒョクの熱や香りを感じて、マークの心は浮き足立っていた。目を逸らしていただけで、ドンヒョクはとっくの前からただの弟ではなかったのかもしれない。身体を密着させただけでこんなに幸せなのだから、きっとそうだ。ドンヒョクも同じ気持ちなのだと思えば幸せは何倍にも膨れ上がった。
「行ってきます」
前日の夜に荷物を詰めておいたリュックサックを背負い、マークは家を出た。早い時間の澄んだ空気、登り始めたばかりの新しい太陽。この時間に起きるのは殆ど一ヶ月ぶりで、快適に歩ける丁度いい気温に秋を感じた。
夏の終わりは決まっていつも切ない気持ちになる。今年もそれは同じで、振り返っては夏休みに入ったばかりの時期に戻りたいと思ってしまう。だけど、マークにはこれからはやりたい事が沢山できた。ドンヒョクともっと色々な曲を作りたいし、行ったことのない場所に出かけたい。もう一度、あの美しい海を見に行きたい。だから、終わりゆく夏に笑顔で手を振るくらいの気持ちだった。今日からまたなんてことない学校生活が始まる。不思議とそこまで憂鬱にならないのはドンヒョクのお陰でもあるのかも、なんて思いながらマークは清々しい気持ちで一日を迎えたのだった。
目の前を歩く同じ制服を着た後ろ姿に確信があった。絶対にあの人だと思った。
「あの…!」
後ろから声を掛ければその人の足が止まる。靴先がくるりとこちらを向いて、初めての近さでその顔を見た。
猫っぽい目にシュッとしたフェイスライン。ほら思った通り、やっぱり彼だった。
男が不審そうにドンヒョクを見つめる。その視線を感じて、ドンヒョクの頭は一気に現実世界へと引き戻される。
その姿を見つけた嬉しさで、彼に伝える言葉を考えることもせず、思わず声をかけてしまった。
全然整理ができていない頭の中。その中に雑多に転がる言葉の中のひとつが口からぽろりとこぼれ落ちる。
「あの、すごくかっこよかったです」
彼の顔は尚も訝しげだ。だけどそれは正しい反応で、知らない人間に急にこんなことを言われれば誰だってそうなってしまう。
ドンヒョクは自分が言葉足らずだったことに気づき、慌てて付け足した。
「ヒョンのラップ、かっこよかったです」
脳を揺さぶるようなビート音が鳴り響く。ドンヒョクは薄暗い客席からライトが照らすステージを見ていた。
友達が突然ラップにハマったのはだいたい半年くらい前。まだ二人とも同じ中学に通っていた頃のことだった。季節は流れるように移り変わり、二人が別々の高校に入学してから一ヶ月が過ぎようとしている。
"今度ラップコンテスト出るんだよね"
"ドンヒョク見に来てよ"
細々と続いていたカカオトークにそんなメッセージが送られたのは一週間ほど前のことだった。
地元のライブハウスが企画した小さなコンテスト。初めての舞台には持ってこいの場所に思えた。
だけど、何事も初めから上手くいくなんてことは無いのだ。会場に着いてみればびっくり、出場者のレベルは思いのほか高かった。歴が長そうな大人の人もちらほら出場している。そんな人たちの中に放り込まれてラップを披露する友人が不憫に思えた。後からなんて声を掛けてやろうか。そんなことを考えた次の瞬間、ステージから聴こえるラップにドンヒョクの思考は掻き消された。
滞ることなく流れているのに、その言葉のひとつひとつが頭に打ち付けられているみたいだった。上手いサーファーが波に乗る時と同じように、彼のラップは気持ちいいくらいピタリとリズムに乗っていた。マイクを通したその声が肌をびりびりと刺激する。ラップのことはよく分からないけれど、彼が凄いことだけは分かった。
フロアが一斉に湧き上がる。波打つように揺れる群衆の中、彼の後ろ姿がステージの奥に消えていくのをただじっと見つめていた。
家に帰っても脳裏には彼の声が染み付いていた。あの人は誰なんだろう。そう考えて、ふと会場に入る時に貰ったパンフレットの存在を思い出した。暗いライブハウスの中では満足に読むことができなくて、すぐにしまったものだ。
ポケットの中ででぐちゃぐちゃになったパンフレットの皺を伸ばす。そうして開いたパンフレットの右下に記載される文字に思わず目を見開いた。
彼の名前はイ・マーク。同じ高校に通う二年生だった。
ドンヒョクの心は踊っていた。理由は単純、今日の放課後、マークと会えるから。
あの日、唐突に彼に声を掛けた日。ドンヒョクに話しかけられたマークはどことなく居心地が悪そうだった。ぎこちなく目が動いて、言葉を探すような素振りをした後、マークの口がおもむろに開かれる。
「このこと誰かに言った?」
ドンヒョクは驚いた。だって、目の前の彼はステージでの自信に溢れた姿から余りにもかけ離れているのだ。俺を見ろと言わんばかりのラップを披露した彼が人目を気にしている。
ラップをしていることは周りの人には秘密にしているのだろうか。俺がいくら考えたって確信には辿り着かない。しかし、そこには一つの事実があった。マークはこのことを他言されると困るのだ。つまり、今自分は彼の弱みを握っている。思わぬ形で到来したチャンス。賢くいこうぜ、ドンヒョク。
心の中でドンヒョクはそれはそれは悪い顔で笑っていた。
「まだ言ってないけど、俺そんなに口が堅い方じゃないです」
ドンヒョクの丸い瞳が試すみたいにマークを見上げる。
「…なにが望みなの」
少しの間を置いて、マークの口からため息らしいため息がひとつ。そんな様子にドンヒョクの口角が上がった。
「見せてください。ヒョンが書いたリリック」
マークから見たドンヒョクはほとんど悪魔だった。なんなら薄らと頭の上に小さなツノまで見える。だけど、悪魔に等しいやり口をしておきながら、ドンヒョクの目は汚れなんか知らないみたいにきらきらと輝いていた。
放課後の生徒会室はマークの言うように誰もいなかった。今日は生徒会の活動が無いらしい。
マークは生徒会に所属している。そのことを聞いて、頭の片隅にある入学したばかりの頃の記憶が引きずり出された。初めての全校集会の日、体育館の前に一列で並ばされた生徒会役員。端の方で存在感なく立っていた人物は確かにマークだった。
生徒会所属のマークという字面はドンヒョクにとって解釈違いも甚だしい。だけど、マークの喋り方や仕草などを間近で見て、彼のことがなんとなく分かってきた。誰も寄せ付けない、孤高の存在だと思っていた彼は結構普通の高校生なのだ。ラッパーのマークと違い、学生のマークはどこか頼りない感じに見えた。
勇気を出して声をかけたあの日のことを思い出しながら、ドンヒョクは恐る恐るドアを開けてその部屋に足を踏み入れる。生徒会でもなんでもない自分がひとりでこの部屋に入るなんて。なんだか後ろめたく感じながら、部屋の隅にある椅子にちょこんと腰掛けた。それから時計の針が数歩進んだ頃、ガラリと音をたてて扉が開かれた。
「マクヒョン!」
ドンヒョクに名前を呼ばれた彼は気乗りしない顔で椅子を引き、ドンヒョクの隣に座った。
「はぁ…なんでこんなことに…」
マークは未だに納得できていない様子だった。誰にも見せたことの無いとてもプライベートな部分をどうして一度しか会っていない相手に晒さなければならないのか。心の中ではそう思うけれど、口には出さない。
「なんか言いました?」
「いや、何も…」
マークはしっかり警戒していた。目の前の男が何を考えているか分かったものではない。初対面であんな話しかけ方をしてくる人間がまともなわけがないのだ。
マークにとってラップは誰にも踏み荒らされたくない領域だった。周りの人間に知られて詮索されたり好奇の目で見られるのを何よりも恐れていた。ひとりで黙々と音楽と向き合いたいし、それについてとやかく言われたくない。
だから、マークはこうやって約束通りドンヒョクの前に現れたのだ。
リュックをがさごそと漁り、机の上に一冊のノートが置かれた。
「…見ていいですか」
「どーぞ」
マークの言葉を合図に、ドンヒョクは表紙を捲る。
ノートの中身はとてもじゃないけど綺麗とは言えない代物だった。何度も書いて消した跡があったり、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされている所があったり。こうやってあのラップが作られているんだ。そう思えば眺めているだけで胸が高鳴る。自分じゃ絶対に思いつけないような言葉、韻の踏み方。こんな世界があるなんて。
ページの端から端まで目を通して、ぱらりと捲る。そのページを開いてドンヒョクの目が止まった。
「これ、知ってる…」
ドンヒョクが開くノートをマークが覗き込む。肩同士がぶつかっているのを気にも留めず、マークの目がノートを走る。
「あーこれ。good bye summerのサンプリングしたやつ」
「サンプリングって?」
「うーん、もともとある曲の一部を抜粋して新しく曲を作るって感じ」
マークが挙げるサンプリング曲の中にはドンヒョクも知っているような有名な曲も含まれていた。そういうヒップホップの文化があることをドンヒョクは知らなかった。
再度ノートに視線を落とせば、原曲の歌詞と完全なるオリジナルの歌詞が入り交じっていることに気づく。だけど、全体の雰囲気は原曲を色濃く残していて、ありもしない懐かしい恋の記憶が蘇る。
「俺、この曲好きなんです」
そう言って、ドンヒョクの唇がゆっくりと歌い出す。甘くて切ないこの歌のような声が紡ぎ出される。静かな部屋にゆったりと響く歌声。掛け合いの所に差し掛かった時、気づけばマークの唇もその歌を口ずさんでいた。
お互いを確かめるみたいな掛け合いの後に重なる旋律。ぴったりと寄り添って、少しだけ離れて。心地よく調和する音楽。
サビの後のラップの部分でドンヒョクはマークに目配せをした。ヒョン、歌って。
マークは少し躊躇った後、あのフレーズを口ずさんだ。何度も聴いたこの曲のラップ。マークはこんな風に歌うんだと、知れたことがとても嬉しかった。
最後まで歌った後、二人の視線がぎこちなく絡まる。お互いのことを何も知らない状態で、気持ちよくなって一曲歌いきってしまった。なんでこうなったのかもよく分からない。おかしな状況に、先にドンヒョクが吹き出した。それにつられて、我慢できなくなったマークも笑い出す。
マークにとってドンヒョクはただの不審人物だった。だけど歌う姿を見て、一緒に歌って、ドンヒョクはただ純粋に音楽が好きなのだとなんとなく分かったから。ラップの感想を言ってきたドンヒョクは冷やかしにしか見えなかったけれど、あれはそういう事ではなかったのかもしれない。
マークとドンヒョクは音楽について沢山話をした。驚くことに、二人はお互いの話す曲やアーティストのことをほとんど知っていた。プレイリストには同じ曲がいくつか入っていて盛り上がった。二人の音楽の趣味はかなり近かった。
それからというもの、二人で学校帰りにCDショップに行ったり、お気に入りのアーティストのコンサートに行くようになった。気になる歌を共有して、感想を言い合ったり一緒に歌ったり。その時間が信じられないくらい楽しかった。
マークとドンヒョク、二人の仲は確実に深まっていった。
生徒会の無い日は一緒に帰ることが二人の日課になっていた。二人の家はたまたま同じ方向にあったし、マークもドンヒョクも部活に入っていなかった。春、ドンヒョクは軽音楽部の体験入部に行ったけれど、結局入部はしなかった。同級生たちの会話は好きなバンドを使って歪んだ自己顕示欲を満たそうとしているようにしか見えなくて。これなら家に帰ってひとりで歌った方がまだ楽しそうだ。そう思ったから、入部届けの用紙はぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
電子音のチャイムがホームルームの終わりを告げる。リュックを背負った生徒が行き交う廊下を進み、ドンヒョクは二年生のクラスの前で立ち止まった。開いたままのドアから見えるマークは数人の男子生徒と何やら話している。
しばらくその様子を見ていると、ふたりの目がばっちりと合った。
マークは慌てたように立ち上がって、周りの男子生徒に言う。
「ごめん俺友達と帰るから」
マークの口から出た友達という言葉に思わず頬が緩む。
「ねぇ、ヒョンのことマクって呼んじゃだめ?」
ドンヒョクが聞けばマークはあからさまに嫌そうな顔をする。マークはドンヒョクの前になると取り繕うことを忘れる。嬉しい時は頬をめいっぱい持ち上げて笑うし、嫌な時はわかりやすく顔を顰める。
「なんでよ!さっき俺のこと友達って言ったくせに!」
「…や、あれは言葉のあやで、」
苦し紛れの言い訳を並べるマークの目は宙を泳いでいる。ドンヒョクと目を合わせたくないのだ。目を合わせてしまえばドンヒョクがしつこく追及してくるのは目に見えていた。
出会ってから二ヶ月と少しでドンヒョクの敬語は跡形もなく姿を消した。
高校生における学年の差はとても大きい。たった一歳しか違わない年齢でも、そこには超えることの出来ない巨大な壁が存在している。それなのに、マークに対するドンヒョクの態度は同級生に対するそれとほとんど変わらない。唯一違いは、ドンヒョクがまだ辛うじてマークをヒョンと呼んでいるところ。ふたりの間にあるのはいつでも破ることが出来そうな薄い布一枚だけ。
「お前って誰にでもこんな感じなの?」
マークは一度、ドンヒョクにそんな質問をしたことがあった。
「そんなわけないじゃん!ヒョンが特別なだけだよ」
そう言ってウィンクをするドンヒョクを眺めながらマークは思った。
一見聞こえは良いけれど、それってつまり俺が特別になめられているという事では?
世話焼きのドンヒョクと不器用なマーク。ただでさえ、どちらが年上なのか分からないような関係だった。敬語もない上でさらに呼び捨てで呼ばれてしまったらいよいよ立場が逆転してしまう。それだけは何としても阻止しなければ。
「ふん、マクのばか」
ぐるぐると思考をめぐらせるマークにそんな言葉が投げられる。
「あ、おい!俺いいって言ってないけど」
「だめとも言われてないもんね〜」
マークを煽るようにドンヒョクが大袈裟な表情を作る。いくら自分の方が年上だろうと、マークはその顔を可愛いとは到底思えなかった。ただただ憎たらしいだけである。
減らず口を黙らせるようにマークがドンヒョクに絞め技を仕掛けた。一歳という歳の差は本当にささやかで、ふたりの精神レベルは同じくらいだった。
「ううう…ヒョン、ギブ…ギブ!」
マークの腕の中で抵抗を続け、とうとうドンヒョクは解放された。呼吸を乱すドンヒョクを気にすることなくマークはすたすたと歩いていく。
「暴力反対…」
小さく呟かれた後、後ろからバタバタと足音が近づいてくる。聞こえてくるその音にマークは密かに表情を緩ませた。
「今日さ、ずっと考えてたんだ。夏休みにやりたい事」
いつもの帰り道、マークの横でドンヒョクが言う。いつもよりも少し歩くスピードが遅いのはドンヒョクの荷物が多いことに起因している。今日は水泳の授業があったらしい。出会った時から褐色だったその肌はさらにこんがりと焼けた。シャツの白と肌の色とのコントラストがマークには少しだけ眩しかった。
期末テスト後、数日授業を行った後に夏休みは訪れる。数日の授業はなんだかオマケのようでやる気が出ない。気づいたら別のことを考えてしまう、なんていうのはマークにもよくある事だった。
授業そっちのけで考えていたというドンヒョクのやりたい事は二つ。海に行くことと曲を作ること。向こう側の太陽のせいだろうか、語っているドンヒョクの目は光をいっぱいに含んでいた。
「というワケだから、よろしくね」
ドンヒョクはマークの目を見てそう言った。よろしくって…マークは暫く考えてからハッとしてドンヒョクを見た。
「え、ドンヒョクのやりたい事じゃないの?!」
「そうだよ、俺がヒョンとやりたい事」
どうせヒョン夏休みは生徒会もなくて暇でしょ、なんてドンヒョクが続ける。今までの話が途端に自分自身のこととして伸しかかって、だけどそんなに嫌な気持ちはしない。
ドンヒョクとなら何をしたって楽しいことは目に見えている。それに、ドンヒョクの言う通りマークの夏休みの予定はかなりスカスカだった。やることと言えば課題をするのとギターを弾くこと、リリックを書くこと、あとは数人の友達と遊ぶことくらいしか思い浮かばない。
「いいよ、やろう」
どうせ暇なのだから、ドンヒョクの唐突な思いつきに付き合ってやろう。
「あ〜楽しみだな〜!」
マークがそう言えば、ドンヒョクが嬉しそうに声を上げた。
それから時が経つこと二週間。マークとドンヒョクは夏休みを謳歌していた。
二十七度という微妙な温度に設定された冷房からそよそよと穏やかな風が吹く。
「まくひょん〜俺もう飽きた〜」
ドンヒョクの間延びした声が響く。机の上に開かれている数学の課題。その右側はほとんど手をつけられていない。
「まだ一時間も経ってないけど」
マークは顔を顰めてそう言った。そんなマークを見てドンヒョクの口が捲し立てるみたいに動く。
「あと五分したら一時間だけど?誤差じゃん」
「はぁ…分かったって…」
「うぅ、せっかく夏休みなのに…」
泣く真似をするドンヒョクをマークは冷めた目で見ていた。
曲作りを口実に、マークとドンヒョクは毎日のように会っていた。ノートに歌詞を書いては消して、歌詞に合わせてメロディを考えて。
息が詰まったら他のことをして遊んだ。マークのギターに合わせて色んな歌を歌ったし、外に出てお気に入りのMVを真似した動画を撮ったりもした。カラオケでジュース片手に七時間ぶっ続けで歌い通して、次の日、お互いのガサガサ声に息もできないくらい笑った。暑さも吹き飛ぶくらい毎日が楽しくて、時間があっという間に過ぎていく。
だけどそこには弊害もあった。机の上に積み上げられた夏休みの課題たちだ。二人の課題は汚れひとつ付けられていない。開かれてすらいないのだ。
昼ごろから夕方、親が帰ってくるまで遊んだ後、家に帰ってご飯を食べる。風呂に入ってから少し携帯をいじれば時計の針はすぐに十二時を回ってしまう。勉強をする時間なんてどこにあるのだろう。
このままではあっという間に夏が終わる。マークにはその確信があった。
虚ろな目で朝食を食べている時、ドンヒョクの携帯が鳴った。トーストを齧ったまま画面を覗いたドンヒョクの顔が歪む。
"今日は一緒に課題しよう。流石にやばい気がする"
液晶画面に映るのは目を背けたくなるような文字だった。トーストを飲み込んでからトーク画面を開く。
"やだ"
"遊ぼうよ"
それだけ打って携帯を置き、大きくあくびをした。ジャムの瓶に手を伸ばし、追いでトーストに塗りつけて頬張る。香ばしく焼けた表面がざくりと音を立てた時、暗くなった画面が再び光ってマークのメッセージが表示された。
"俺は課題するから"
並べられた文字はあまりに冷たい。ドンヒョクは泣いているクマのスタンプを送信した。ドンヒョクの可愛らしいスタンプは当然のように既読無視された。
歌詞ノート、五線譜、筆箱、それからお菓子。全て入れてから、しぶしぶ問題集をリュックに詰めてドンヒョクは家を出た。
そうして今に至る。ドンヒョクはスライムのようにでろんと机にへばりついている。
ドンヒョクが何を言っても、マークは構ってくれなかった。聞いているのかいないのか分からないような返事が返ってくるだけ。そうと分かっていながら話しを続けられるほどドンヒョクのメンタルは頑丈ではなかった。眉間に皺を寄せ問題集と参考書を交互に見ているマークをしばらく見ていた。だけど、その視線がドンヒョクの方に向けられることはなくて。少し携帯を触った後、ドンヒョクは再度自らの課題に視線を落とす。
問題集を開いてからゆうに二時間は経過し、ドンヒョクの身体は溶けてスライムになった。ベタベタの物体と化したドンヒョクの目の前で、マークのシャーペンが机に置かれる音がする。
「なにしてんの」
あれだけ適当にあしらっておいて、自分が一段落着いたら話しかけてくるのかよ。
さっきの仕返しのようにドンヒョクはマークを無視した。机の上に顔をくっつけたまま。
そうしていると椅子が床を擦る音がして、マークが立ち上がったのが分かる。バタリとドアが閉まる音がして、次第に汗が滲み出す。
ちょっとした意地悪のつもりだったのに、マークは無言で部屋を出ていってしまった。心臓の音が嫌にはっきりと聞こえる。部屋の中では冷房だけが何事もなかったような顔で風を吹かせている。
どうしよう。本気で無視したかったわけではないけれど、こんな態度を取ってしまった手前、引くに引けない。
未だに机にひっつけたままの頭を回転させていると、遠くから近づく足音が聴こえた。ガチャリとドアノブが捻る音がした後、机の上にごとりと何かが置かれる。
おそるおそる顔を上げれば、目の前には大きなペットボトル。冷気を放つファミリーサイズのサイダーがそびえ立っていた。
「疲れただろ。休憩しよ」
「…うん」
二つのコップを机に置いたマークがサイダーの蓋に手をかける。プシュリと子気味いい音をたてて、ペットボトルが開けられた。
いつも通りの顔のマクヒョンを見て、とてつもない敗北感に襲われる。圧倒的な負けだ。コップが透明な液体で満たされていくのを安心と不満の入り交じる心持ちで眺めていた。泡をたてながら揺れる表面は海みたいだ、なんて思いながら。
自分の前に置かれたなみなみに注がれたサイダーを流し込む。なんだか喉が乾いていたようだ。喉をぱちぱち刺激されるのも全然気にならず、身体を潤そうとコップを高く傾ける。
マークを見れば、自分と変わらない勢いでサイダーを飲んでいた。ごくごくと喉が動いて、その後コップが机に置かれる。中の液体は半分よりちょっと少ないくらい。
「海のことだけどさぁ」
マークがそうやって話し出したことがちょっとだけ嬉しかった。マークも揺れるサイダーを見て同じように海を思い浮かべたのかもしれない、なんて思えて。
「家から電車で行くと一時間以上かかるみたい」
マークの言う通りここから海は少し遠い。車でしか行ったことがなかったけれど、電車で行くとなると乗り換えが多くなってしまう。
「泳ぐってなるとしんどくない?正直。水着とかタオルとかで荷物もかさばるし、ちゃんとシャワーも浴びられないまま長時間の電車に乗らなきゃじゃん」
理路整然とした説明が次々と並べられていく。マーク言う通り、それは確かに現実的ではなかった。反論のしようもない程に。だけど。
「そうだけど…去年は受験だったから行けてないし今年は絶対行きたいって思ってたのに…」
語尾に向かって声がしぼんでいく。これは感情論でしかなくて、有益な提案も、彼を納得させる説得力も何もないことは自分で一番分かっていた。さっきマークから海の話をしてくれたのが嬉しかった分、落差で余計悲しくて下を向くことしかできない。
「待て待て、行かないなんて言ってないじゃん」
目に見えてテンションが下がるドンヒョクにマークは慌ててそう言った。
「…え?」
「見に行こうよ、海。調べてみたら海の近くにでっかいかき氷食べれるお店あったからそこも行きたい」
そう言ってマークはドンヒョクにスマホの中のかき氷を見せる。スイカ味が気になる、なんて言いながらメニュー表を拡大して見せたりして。
マークも海を楽しみにしているみたいだった。強引に誘ってしまった分、色々と調べていてくれたことがかなり嬉しい。
「夕日が沈むとこ見たいなぁ…」
マークがそんなことを言うから、ドンヒョクはつい笑ってしまった。
「ヒョンって結構ロマンチストだよね」
「えぇ、そんなことないと思うけど?
…綺麗なんだよ、昔家族で見に行ったんだ」
マークは懐かしむように呟いた。その日見た景色は彼の胸の内にしまってある大切な思い出だった。
「へぇ〜夕方はクラゲ出るからいつも日が沈む前に帰るんだよね」
そんなことはつゆ知らず、現実的なことを言ってから、ドンヒョクはコップの中のサイダーを飲み干した。ぷはーっと息をつくドンヒョクにマークはげんなりとした顔をする。
「マクヒョンの彼女は大変だ〜お祝いの度に真っ赤なバラなんか貰っちゃったりして」
ドンヒョクの言葉の節々からいじってやろうという魂胆が透けている。ドンヒョクはこの可愛いヒョンをいじるのが大好きだった。今日はどんな反応が返ってくるのだろう。口をつぐんでちょっと怒ってしまうだろうか。マークには申し訳ないけれど、拗ねたように怒る顔が可愛くて可愛くて仕方ない。こんなに可愛いヒョンがらいて良いのかと疑問になるくらい。
「なんだよ、好きな人にはそれくらいしたって良いだろ…」
マークが小さな声でそっぽを向きながらそんなことを言う。その反応は予想外なんだけど。ていうか、その反応…
「えええ?!マクヒョンほんとにやる気なの?!あはははは!」
大袈裟なことを言って、「…そこまでしないし」なんて返ってくることを想定していたのに。やっぱりマークは想像の範疇をいとも簡単に飛び越えてくる。ドンヒョクは完全にツボに入って、そこから抜けら出せなくなった。
「なんだよ!そんなにおかしい?」
大真面目に抗議してくるマークが追い討ちをかけてくるものだから、ドンヒョクの笑い声が大きくなる。
「あーもう知らない!」
そんなセリフを吐いてマークが机の上にリリックノートを出す。二人で考えた歌詞で埋まっているそのページを開き、壁に立てかけてあったギターを腕に抱える。そうしてノートのページを見ながら、まだ未完成の歌を口ずさむ。
歌詞はマークが考えた方がいいんじゃないかと思った。だって、間違いなくマークの方が作詞に関して長けている。だけど、彼は首を横に振った。
「せっかく二人で作るんだから歌詞も一緒に考えようよ。それに、一人より二人の方が色んな言葉とか表現とか出てくると思うんだ」
だから、この歌詞は二人で考えた。自分の可能性と未来への夢。不確定で不安定な今の自分たちにとってのこれからをありのままに書いた。
マークが歌うのに合わせて、ドンヒョクは旋律を重ねた。
待ちわびたその日、空は青く澄み渡っていた。駅のホームで待っているマークを見つけ、ドンヒョクが駆け寄る。打ち合わせたわけでもないのに、マークとドンヒョクは揃って丈の短いパンツを履いていた。
「ドンヒョガ…ビーチサンダルで来たの?分かりやすい奴だな…」
「ヒョンだって半ズボンじゃん」
出会い頭にそんな会話を交わし、いかにもな格好をした二人が改札を抜ける。いつもと違う路線に乗り込めば、それだけでワクワクした。見慣れない景色、型の違う列車。それら全てが冒険譚のプロローグのようで、自然と気持ちが高まっていく。
迷うことなく乗り換えた電車はしばらくの間トンネルを走っていた。暗く長いトンネル。そこを抜ければ青く輝く海が一面に広がっていた。駅名がアナウンスされ、ドアが開く。その瞬間、懐かしい磯の香りがした。
マークの言うかき氷の店は海が見渡せる小高い所にあった。斜面を登って目当ての場所に辿り着いた頃、二人の額には大粒の汗が浮いていた。
その店は木目調の落ち着いた店構えをしていて、ドアを押すとカラカラと可愛い鈴の音がした。注文をしてしばらくするとテーブルに二つのかき氷が運ばれてきた。赤い表面にチョコチップが気まぐれに散りばめられたスイカのかき氷と、とろりとしたシロップのマンゴーのかき氷。どちらもてっぺんにはふわふわのクリームが乗っている。雪山のようなそれを口にして、マークの瞳が大きく見開かれた。食リポばりの表情だが、勿論本人は無自覚だ。かき氷の美味しさについて力説しだすマークをドンヒョクがなだめていると、マークのかき氷が雪崩を起こした。スプーンの刺し所が悪かったらしい。どさりと音を立ててトレーに氷が落ちる。マークとドンヒョクはゆっくりと顔を見合わせて、それから揃って盛大に吹き出した。
あんなに大きかったかき氷を難なく食べ終えた二人は海の方へ下っていく。この町はちょっとした観光地で、道の端にはいくつか店が並んでいた。デニムが沢山置いてある古着屋、昔懐かしいレトロな雑貨屋。店の外で干物を作っている由緒ありそうな乾物屋なんかもあった。色々な店を覗いて、ドンヒョクは結局貝殻の加工品の店で見つけたキーホルダーを買った。店を出て、買ったものをすぐさまショルダーバッグに付ける。ドンヒョクが歩く度、キーホルダーは涼しげに揺れていた。
コンクリートの階段を下っていると下から吹き上げるように風が吹いた。鼻をかすめる海の香りに足が早まる。
辺りを散策していたらあっという間に時間は流れて、空はいつの間にか赤く色付いていた。階段を降りきると一気に視界が開けた。
「わぁ…」
いつもよりずっと高くて広い空の下、ドンヒョクの口から感嘆の声が漏れる。
砂を踏みしめて水際まで出ると、揺れる海面の輝きがはっきりと見えた。マークは靴と靴下を乱雑に脱いで、裸足でドンヒョクの方に歩いた。
波に洗われた砂浜が足元でサラサラと流れていく。指の間を冷たい海水が流れていくのが気持ち良かった。
「人少ないね」
前を歩くドンヒョクがこちらを振り返ってそう言った。打ち寄せられる波によって足元で小さく水飛沫が立つ。
「うん、夕方なのもあるけどこの時期になると人も少なくなるなぁ」
夏休みはとうに後半に差し掛かっていて、気づけば暑さのピークも過ぎていた。
「あ〜夏が終わる〜!やだ〜!」
人がまだらなのを良いことにドンヒョクが海に向かって叫んだ。その声は遠くから押し寄せる波の音にすぐにかき消される。
「へへ、入らない海も良いもんだね」
ドンヒョクがそう言えば、だろ?とマークは得意げに笑ってみせた。
水平線の近くまで降りてきた太陽の光が海に一本の道をつくる。赤く、キラキラと光る道、空に広がる赤と紫のグラデーション。マークは家族のことを思い出した。カナダに転勤した父にはしばらく会えていない。海で夕焼けを見た時が思えば最後の家族旅行だった。
そんな思い出に浸っていると、パシャリと水の音がして、マークのTシャツが少し濡れた。
「おいっ!何すんだよ!」
「あはは!マクヒョン全然気付かないんだもん!」
そう言ってもう一度、ドンヒョクがマークに水を掛けた。反撃と言わんばかりにマークも水を掛け返す。飛んでくる水を避けて、隙を見ては手の中の海水を投げつけた。大きな声を出して、子供みたいにはしゃいだ。
太陽が海に飲み込まれていく。燃えさかっていた空も海も、あっという間に夜の色に変わった。停戦協定を結んだマークとドンヒョクは砂浜から少し登った階段で、全てが暗闇に沈んでいくのを眺めていた。
「ヒョンのせいで濡れた」
「自業自得だろ」
そんなことを言い合いながらタオルで足を拭く。拭いた後もべたべたすると文句を垂れながら、タオルを丸めてバッグに押し込んだ。
「もう夜になるね」
紫と黒の入り混ざる空を見て、ドンヒョクが言う。
「帰りたくないなぁ…」
ドンヒョクの小さな頭がマークの肩にのせられる。いつもだったら払いよけている所をマークはそうしなかった。理由は分からないけれど、その時は頭ひとつ分の重みを受け止めていたいと思った。
今日は夏を全て詰め込んだみたいな日だった。息を着く暇もなく、始まりから今の今までずっと楽しかった。
「うん、俺も」
だから、マークもドンヒョクと同じ気持ちだった。このまま時が止まったらいいと本気で思った。
今年の夏がこんなに沢山の思い出で埋め尽くされるなんて思ってもみなかった。ドンヒョクとの奇妙な出会いは、言ってみれば数ヶ月前の話だ。それなのに、長年の友達と錯覚するくらいドンヒョクの隣は落ち着く場所になっていた。ドンヒョクといる時は無言だって怖くない。むしろ、それさえも心地よかった。
生きていると不思議なことが起きる。マークは左肩にかかる重みを感じながらそんなことを考えた。
帰りたくないと言いながら、日が沈んで少し経って二人は駅に向かって歩いた。ドンヒョクの歩くスピードがいつもより遅いことに気づいたマークが足を止める。
「ドンヒョガ、どうした?疲れた?」
「…足、痛くて」
ドンヒョクは一日中ビーチサンダルで歩いていたから、鼻緒の部分が擦れてしまっていた。だけど、そんなのダサいしマークに笑われたくなかったから。隠そうとしたけれど結局バレてしまった。
マークの方を見ないでそう言うと、突然、ドンヒョクの肩に腕が回された。ほら、お前も、なんて言われて、ドンヒョクがマークの背中に手を回す。
「こっちのが歩きやすいだろ」
「…恥ずかしいよ、ヒョン」
「暗くて見えないって」
そんな風に説得されて、ドンヒョクはマークに寄りかかりながら歩いた。マークの言う通り、辺りはすっかり暗くなっていたから、ドンヒョクの顔がほんのり赤くなっているのにマークは全然気づかない。
そうして駅について、時間通りにやって来た電車に乗った。真っ暗な海を見つめながら電車に揺られ、来た道を戻る。
ドンヒョクは自分の足に視線を落とした。足の親指と人差し指の間はやっぱり赤くなっていた。まじまじと見つめていると、足の甲にいくつか砂粒が付いているのに気が付いた。その砂粒は確かに海にいた事を物語っていた。
「じゃ、また」
「うん、バイバイ」
寂しいのを悟られないように、軽く交わされる挨拶。
マークの背中を見送った後、ドンヒョクは駅前のバス停に向かった。足の痛みに負けて自転車で帰るという選択肢は早々に捨て去った。
イヤホンを耳に差し込んで、適当なプレイリストを選ぶ。耳から流れ込む音楽を聞きながら人の少ないバスに乗り込んだ。
後ろから二番目の座席に座るとすぐにバスは発車した。ガタゴトと揺れる車内で、ドンヒョクは窓の外を流れる真っ暗な景色を見ていた。よく知る駅から家への道はずっと楽しみにしていた今日が終わっていくことを残酷に告げる。目を閉じれば楽しかった思い出がいくつも頭をよぎった。今日の記憶だけでなく、夏休みに作ったマークとの沢山の記憶がドンヒョクの頭に次々と浮かんでは消えていく。長いようで短い夏だった。眩しい日差しが照りつける大好きな季節がもう少しで終わりを迎えると思うと少しセンチメンタルになった。
その時、ひとつの曲が終わった。少しの空白の後、ランダムに選ばれた曲が流れ出す。
なんてタイミングなんだろうとドンヒョクは思った。それは今一番流れるべき曲であり、今一番聴きたくない曲だった。そのイントロを聴いた瞬間、生徒会室で心を通わせた日の記憶が昨日のことみたいに思い出された。
あの時、ドンヒョクは少なからずショックを受けていた。ステージで憧れた人は正直言って全然かっこよくなかったのだ。彼のことを知った今でもそう思う。頼りがいのある男という感じは全くなく、むしろ彼はちょっぴり抜けている可愛いヒョンだった。彼を形容する言葉は言うまでもなくカリスマのイメージからはかけ離れたものだった。
だけど、彼はその要領の悪さを覆すくらいの努力家で、音楽を誰よりも愛する人だった。出会った時よりもかなり分厚くなったリリックノートが努力と愛の証明だった。何かを突き詰めたことがなかったドンヒョクから見る彼は光り輝いていた。
彼のそんな一面を知ることが出来て嬉しい。友達になれたことが嬉しかった。それなのに、いつからだろう。今はその関係が切ない。頭の中に刻まれた歌詞はドンヒョクの抱くマークへの想いそのものだった。
ドンヒョクと海に行った次の日、マークは久々に目覚ましをかけずに眠りについた。今日と明日の二日間、ドンヒョクは家族で出かける予定があるらしい。だから今日は鳴り響くインターホンに備える必要はない。自然と目が覚めたのは、カーテンの隙間から眩しい光が降り注ぐ昼頃のことだった。
しばらく布団でもぞもぞしてから顔を洗うため起き上がった。それから空腹を紛らわそうと冷蔵庫へ向かい、昨日の晩の残りと冷凍ご飯を順番に電子レンジへ放り込む。昨日より少し味の濃い煮付けを噛んでいれば次第に脳が冴えてきた。
時計を見て、ドンヒョクがとっくに遊びに来ている時間だと気づく。初めて家に来た日、ドンヒョクはキョロキョロと辺りを見回して落ち着かない様子だった。そんなドンヒョクを可愛いと思っていたのに。自分の家同然にくつろぐ最近のドンヒョクを思い出して夏休みになったばかりの頃が少し恋しくなった。
ここ最近、ドンヒョクとは連日会っていた。だから、目の前の椅子にドンヒョクが座っていないことを不思議に感じてしまうのだ。
そんなことを考えながら遅めの朝食を食べた後、図書館のある駅前に向かった。まだ残っている課題を片付けたいのと、久しぶりに本を読みたくなった。
図書館はキンキンに冷えていて、汗が一気に引いていく。高い天井とズラリと並ぶ本棚。ここらの図書館の中で一番大きなその場所はお気に入りの場所だった。
窓際の区切られた自習スペースで課題をしていると、すっかり日は暮れて夜になった。解き初めてから五時間が経過している。長期休みの度に受験でもするのかという勢いで勉強をしている気がする。しかし、その甲斐あって今日で課題はかなり進んで、終わりの兆しが見えてきた。
ふぅ、息を吐いて問題集を閉じた。閉館時間まであまり無いけれど、ようやく本を読むことができる。
昔から本を読むのが好きだった。本の中には世界が無限に広がっている。自分とは縁のないような壮大な世界に思いを馳せることができるし、はたまた誰かの日常を垣間見ているような気持ちにもなれる時もある。言葉の海を浮遊して様々な表現に触れる時間は心地が良かった。
本棚の高いところにある本を手に取り、続きのページを開く。図書館に中々来れていなかったこともあり、この本を開くのは久々だったけれど、そのページを開けばそれまでのストーリーをすぐに思い出すことができた。
その本は所謂恋愛小説だ。色々な本を読む方ではあるけれど、このジャンルを読むのはこの本が初めてだった。恋愛小説の良さは人の心の細やかな動きにあると思う。人物の行動や心理に共感し、より文章に引き込まれていく。
離れていても頭の中にはいつも彼女がいた。彼女はこの味が好きだろうか、彼女と一緒だったらこの景色はどんな風に見えただろうか。一人でいても傍らにはいつも彼女がいて、それが恋なのだろうと思った。
その一節を読んで、マークは息を飲んだ。
朝、部屋を見渡した時、カフェの新作ドリンクのチラシを見た時、課題をしている時。今日はずっと、頭の中にあの生意気で可愛い弟がいた。いや、今日だけじゃない。大分前からあの弟はマークの頭の中に遠慮なく居座り続けている。
それが恋なのだろう
断定的な言葉から、主人公はそう確信しているのだと分かる。だけど本当にそうなのだろうか。
ふと、夏休み前のある日の出来事を思い出した。昼休みに廊下でドンヒョクとすれ違った時のこと。ドンヒョクは同じ色の上履きを履いた男子生徒と壁にもたれてじゃれ合っていた。ドンヒョクがキスする素振りをすると、相手はドンヒョクの身体を押し返しながら笑っていた。仲が良いんだな、なんて思うと同時になんでか心がざわめいた。友達が他の友達と仲良さげなのがムカつくなんて、そんな重ため女子みたいなことを思ったことなんてなかったから、本当に不思議だった。大体、ドンヒョクがキスする素振りをする時はいつも強めに肩を叩いたりして自分から拒否していたくせに。心がざわざわと音をたてて揺れる理由が自分でも分からなかった。
マークとドンヒョク、二人の課題はとうとう大詰めを迎えていた。夏の初めの頃は全く身が入っていなかったドンヒョクも、近頃は真面目に課題に取り組んでいた。
「量が多すぎる、これじゃ全然休みじゃないよ」
なんて時折文句を垂れながら。
そうして課題をして、集中力が切れたら歌を歌った。そう、ついに二人の曲は完成したのだ。
初めての作曲の作業は一筋縄では行かなかった。歌詞をなんとか作るまでは良かったが、問題はそこから先だった。具体的に何から始めればいいのか分からず、当然作業は低迷した。曲の作り方なんて今まで誰からも教わってこなかったのだ。当然である。
しかし、手持ちの武器が何も無いわけではなかった。マークはギターのコードを理解していたし、ドンヒョクにはピアノで培った音感があった。
初めにネットで作曲に関する色々な情報を集めた。"初心者でも簡単!"なんて安易な文字につられてサイトをクリックすれば、作曲の手順が分かりやすく纏められていた。
曲を作るといってもやり方は色々あるらしい。様々な例を見て、コードから曲を作っていく方法を採用した。調べてみれば、様々なコード進行と、それが生み出す効果について、これまた色々な記事が見つかった。それらに一通り目を通してから、実在する曲のコード進行を分析した。二人がよく歌う曲から最近流行りの曲まで、使われているコードを書き出した。ドンヒョクは耳のいい方だったから、メロディの後ろで鳴る和音を大体聴き当てることができた。ドンヒョクが細々と続けていたピアノは思わぬ形で役立った。
そうしている内に様々なことが分かるようになった。作曲者にはお気に入りの進行があること。和音の音が一音隣に動くだけで全然違う世界が広がること。
曲を作りは冒険だった。知らない世界を覗き見するドキドキとワクワク。二人は年相応な男の子だから勿論、冒険をするのが楽しかった。
マークが奏でるギターの音から、その歌は始まる。一生懸命作った曲は所々不格好だけど、そんな所さえも愛おしい。短い前奏の後、マークとドンヒョク、二人の声が小さな部屋を満たしていく。
ドンヒョクは自分のことを成功したオタクだ、なんて思った。憧れた人と作った曲を一緒に歌えるなんて、これ以上の幸せがあるのだろうか。マークと仲良くなって何でも言い合えるようになっても、ドンヒョクはずっとマークのファンだった。彼の声が大好きだった。マークはドンヒョクの友達であり、憧れであり、好きな人だった。マクヒョンさぁ、いくらなんでも欲張りすぎだよ、なんてドンヒョクは心の中で悪態をつく。
ギターで奏でられた最後の音。音の余韻も消えて部屋がしんと静かになる。
「ドンヒョガ、」
「ん〜?」
「あ〜…うん、あのさ、俺お前のこと好きみたい」
「…え」
青天の霹靂とは正にこの事で、ドンヒョクは言葉を失った。いつもペラペラとよく回る口は言葉を忘れてしまったかのように動かない。
「や、待って、何言ってんだろうな、俺。ごめん、忘れて」
ドンヒョクがそうしていると、マークは慌てて訂正した。途切れ途切れの言葉で零れ落ちた告白の言葉を誤魔化そうとしているが、無理があることは本人もよく分かっていた。
お喋りなドンヒョクが黙りこくっているのを見てマークの身体に嫌な汗が滲む。すると、ドンヒョクの瞳がマークの瞳を捕らえた。思わず逸らそうとした時、ドンヒョクが言った。
「やだ、忘れない…」
「…え?」
その言葉を瞬時に理解することができなかった。先程のドンヒョクと同じようにマークが声を漏らした。
「マクヒョンのことが、好きだから。その、初めて見た時から…」
「そっか…」
だんだんと下を向いていくドンヒョクにマークはそんな相槌を打つことしかできなかった。
あの日の本の一節が頭の中に印象深く刻み込まれてから、色々と考えていた。ドンヒョクは男で自分も男で、だけどドンヒョクと海で見た夕日は家族との綺麗な思い出を軽く上回るくらい途方もなく美しくて。意識してからというもの、さらにドンヒョクのことばかり考えるようになってしまって、そもそも恋とはなんだろう、なんて哲学に足を踏み入れそうになって。
頭はまだぐちゃぐちゃだった。だけど、幸せそうに歌うドンヒョクの横顔を見た時、綺麗だと思ってしまった。それと同時に自分のものにしたいなんて気持ちがふつふつと湧き上がってきて、ああ、これが恋なのだろう。そう思った時には既にドンヒョクに告白していた。全く計画にない告白、そして予想だにしなかったドンヒョクからの返事。
「付き合うってことで、いいんだよね?」
ドンヒョクが遠慮がちにそう言う。
マークは抱えていたギターを床に置いた。もうなんだかドンヒョクの全てが愛おしくなってきて、マークは堪らずドンヒョクに抱きついた。びくりと身体を震わせてから、おずおずと背中に回されるドンヒョクの腕。
「うん、ドンヒョガ、よろしく…」
「こちらこそ…」
ドンヒョクの身体は薄くて自分の身体よりもずっと柔らかかった。首筋に顔を埋めるとドンヒョクの匂いが濃く香ってドキリとした。首に鼻の先が掠めるとドンヒョクは吐息混じりの声を出し、マークの身体を抱く腕に力を込めた。
ドンヒョクの熱や香りを感じて、マークの心は浮き足立っていた。目を逸らしていただけで、ドンヒョクはとっくの前からただの弟ではなかったのかもしれない。身体を密着させただけでこんなに幸せなのだから、きっとそうだ。ドンヒョクも同じ気持ちなのだと思えば幸せは何倍にも膨れ上がった。
「行ってきます」
前日の夜に荷物を詰めておいたリュックサックを背負い、マークは家を出た。早い時間の澄んだ空気、登り始めたばかりの新しい太陽。この時間に起きるのは殆ど一ヶ月ぶりで、快適に歩ける丁度いい気温に秋を感じた。
夏の終わりは決まっていつも切ない気持ちになる。今年もそれは同じで、振り返っては夏休みに入ったばかりの時期に戻りたいと思ってしまう。だけど、マークにはこれからはやりたい事が沢山できた。ドンヒョクともっと色々な曲を作りたいし、行ったことのない場所に出かけたい。もう一度、あの美しい海を見に行きたい。だから、終わりゆく夏に笑顔で手を振るくらいの気持ちだった。今日からまたなんてことない学校生活が始まる。不思議とそこまで憂鬱にならないのはドンヒョクのお陰でもあるのかも、なんて思いながらマークは清々しい気持ちで一日を迎えたのだった。
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