君の隣にいたいだけ
水泳の授業は好きか嫌いかで言えば嫌いだった。移動やら着替えやら、事前の準備がとにかく面倒くさい。それに、そんなことに短い休み時間を削られるのが何よりも嫌だ。
そんなことを言うと、友達が女子の方を見て言う。あんなのが見れるんだから最高の授業だろ。離れたコースを使っている彼女たちは辛うじて顔を判別できるくらいで、正直よく見えない。だけど、ちょっと前まではドンヒョクも目の前の友人と同様に大して見えもしない女子の水着姿に一喜一憂していたのだ。
自分とは違う丸みを帯びた身体の線。興味が無いと言ったら嘘になる。だけど、それ以上にドンヒョクの視線を奪う人物がすぐ近くにいる。今日のその人は残念ながら体操服を着ているにも関わらず、ドンヒョクの視線は問答無用で奪われる。列から外れた所で先生の話を聞いているんだかいないんだか分からないジェミンの姿はよく言えばアンニュイ、悪く言えば無気力。その姿を誰にも邪魔されずに好きなだけ眺めていられるのだから、先生のなんて事のない話も悪くない。
その笛の音は水中にいるドンヒョクにもしっかりと届いた。その音を合図にビチャビチャに濡れた身体がプールサイドに並ぶ。
プールから上がると急に疲れが襲ってきて、次の授業は大抵眠ってしまう。毎度かなり体力を削られているのだなと思うけれど泳いでいる時はなぜかそれを感じないから不思議だ。だけどこの授業は六限だから、この後の授業を心配する必要は無い。文化祭が終わって、実行委員の仕事からも解放されたドンヒョクを縛るものは今や何も無い。本当の自由を手に入れたのである。
曇りガラスによって陽の光まで遮断された更衣室は塩素の匂いと緩んだ空気が充満していた。皆同じように疲れているから、一様に少しだけ動きが緩慢だ。水泳のあとは大抵決まってこうだから気にすることもなく適当に髪を拭いていると、隣から妙に視線を感じた。勘違いだと思いしばらく無視していたが、その視線は尚もドンヒョクに絡み付いてきて、なんだか息苦しい。
「おい、なんだよ」
いい加減耐え難くなって、じとりと隣を睨みつけた。そうしていると、そいつは少しの間の後に思いもよらない言葉を発した。
「…なぁドンヒョガ、それってキスマ?」
「…は?」
視線が落とされた辺りを見てもそこには何の痕跡も無い。
「なんの話?」
「いや、そこじゃなくて…」
ここ。
指を指されたのはもっと背中側の場所。体を捩ってそこを見れば、腰の辺り、水着にギリギリ隠れない所に鬱血痕がひとつ。
「っや、これは…」
否定の言葉はさらに隣からの野次馬に掻き消される。そうしている内にドンヒョクの身体に刻まれた鬱血痕の存在はあっという間にクラス中の男子に知れ渡った。
ホームルームが終わってすぐにドンヒョクは数人の男子に囲まれた。集まった男たちの目的はただひとつ、キスマークの真相を暴くことである。
「…マジで虫刺され掻いた痕だって」
そんなふうにあしらっても彼らはドンヒョクを解放してはくれない。この場から逃れられるためにはもっと面白い話が必要なのだ。
いつもならこいつらが飽きるまで付き合ってそれからしれっと帰れば良かった。だけど、この時のドンヒョクは気が気でなかった。だって、もうすぐ体育の見学レポートを提出しに行ったジェミンが戻ってきてしまう。
夏風邪を拗らせたらしいジェミンは二日間学校を休んでいた。風邪で休むことがしっくりくる風貌、なんて言ったらおかしいけれど事実ドンヒョクはジェミンの欠席連絡を聞きながらそんなことを思ってしまった。ジェミンとは対照的に、風貌通りにタフな自分に笑えてくる。いつも一緒にいるのに、なんならジェミンが休む日の二日前に舌を絡めるキスだってしたのに、ドンヒョクが風邪を貰うことはなかったのだ。
ジェミンは今日プールにはいっていないから、更衣室での出来事は知らない。だからジェミンに伝わってしまう前に事を収めたいというのがドンヒョクの願望だった。そして、その望みは呆気なく散ることになるのだが。
「なんの話?」
ドンヒョクの背後からなんの前触れもなくひょこりとジェミンが会話の輪に入り込んだ。水に濡れていないさらりとした髪が視界の端に映る。
「あ、ジェミナはいなかったんだっけ。ドンヒョクのキスマの話してんの。こいつ全然口割んなくてさぁ、」
そうやって周りが口々に説明するものだから、事の運びはすっかりジェミンの知る所となった。
「へぇ〜」
妙に落ち着いた、なんとも言えない声色が怖くてドンヒョクがジェミンの方を見れないでいる間に、ジェミンに質問が降りかかる。何か知っていることはないか、と。
これこそドンヒョクが恐れていたことだった。こういう時、ジェミンは変にふざける所がある。思わず冷や汗が出るようなことを平気な顔をして言ってのけるのだ。
ドンヒョクは喉の奥が乾いているのを感じてこくりと唾を飲み込む。周りの奴らに何を言うつもりなのか、気が気でないドンヒョクの方にジェミンが振り返った。
「ドンヒョガ、ホントにキスマあるの?」
ジェミンはドンヒョクをからかおうとする周りの人間たちと同じような顔をしてそんなことを言う。
ドンヒョクは眉間に皺が寄りそうになるのを必死に抑えていた。
本当も何も、お前がつけたんだろ。反射的に出そうになる言葉を喉の奥にしまいこむ。
「…違うって言ってんじゃん」
絞り出されたその言葉には余計な事を言うなと釘を刺す意味も含まれていた。そのお陰か、ジェミンはその後特にアクションを起こすこともせず、輪の中で静かにしていた。平静を装えなくなると思ったから、ジェミンの方を見ないようにしていた。だから、あいつがその時がどんな顔をしていたかは分からない。
ドンヒョクが頑なにキスマークの存在を認めなかったことで、その話題は数日で忘れ去られた。話題の賞味期限なんて所詮はそんなものだ。今の一番熱い話題は隣のクラスでカップルが誕生したことだけど、この話題だってどうせすぐに飽きられる運命だろう。
勿論、その日の帰りはジェミンを問い詰めながら歩いた。勝手に付けられたキスマークのせいで恥ずかしい思いをしたし、無駄にハラハラさせられたのだから当然だ。
「ギリギリ見えないとこに付けたつもりだったけどギリギリ見えちゃったんだね、ごめんね」
謝るジェミンは、謝っているのにも関わらずどこか楽しげに見えた。また何かを企んでいるのかもしれないけれど、とりあえずスルーを決め込んだドンヒョクは後日、もっと内側の誰にも見せない場所に沢山キスマークを付けられるなんて、その時は全く想像もしていなかった。
水泳の授業は好きか嫌いかで言えば嫌いだ。髪が塩素でバサバサするのが鬱陶しいし、なんと言っても授業の後の疲労感が半端じゃない。それに、そもそも泳ぐことに対して興味がない。
だからジェミンにとってこの授業を休めるのはラッキーだった。
バチャバチャと飛び散る水の音を聴きながらプールを一歩引いた所から眺めていると、だんだんと絵画でも見ているような気持ちになってくる。喋り声や塩素の匂い、日差しの暑さなんかをモロに感じられるタイプの絵画。
ぼうっとその絵を見ていると、ジェミンはドンヒョクを見つけた。手前のコースからプールサイドに上がろうとしている、こんがりと焼けた薄い身体を。その首筋に鼻を近づけた時の匂いも、汗ばんだ時の肌の質感も全部知っている。それなのに、何度でも触れたくなるし、今もこうして目で追ってしまう。その無防備な姿を本当は他人の目に晒したくない。だけど今日はいつもより幾分心穏やかだった。見えないけれど、ドンヒョクの腰の辺りに確かに存在しているだろう印のお陰で。
行為を終えた後、眠るドンヒョクの腰にキスをして痕を残した。眠りこけている間、ドンヒョクは絶対に起きない。目尻から頬にかけての涙の痕を擦っても、ほっぺたをびよんと引っ張ってみても起きないのだから確実だ。だからドンヒョクの身体に模様をひとつ増やすのはとても容易いことだった。
ドンヒョクが自身の身体に刻まれたその存在に気づいた時、きっと語尾を強めて俺の名前を呼ぶだろう。だけど、知っているよ。怒ったような顔をしながら、照れ隠しをしているんだって。
たまにアプローチを間違えて本気で怒らせてしまう時もあるけれど、それはまあお互い様だ。
再び泳ぎ出したドンヒョクを太陽が照りつけている。マドレーヌみたいな色の肌がチョコレートになる日もそう遠くはないだろう。甘くとろけるチョコレート色のドンヒョクを想像して、それもまた良いなんて思っていると、ピピーッという笛の音によって現実世界に引き戻された。
授業の終わりを告げる笛の音は、同時に今日の全ての授業が終わったことを告げる。空高く鳴り響くその音は解放感に満ち溢れていた。
そんなことを言うと、友達が女子の方を見て言う。あんなのが見れるんだから最高の授業だろ。離れたコースを使っている彼女たちは辛うじて顔を判別できるくらいで、正直よく見えない。だけど、ちょっと前まではドンヒョクも目の前の友人と同様に大して見えもしない女子の水着姿に一喜一憂していたのだ。
自分とは違う丸みを帯びた身体の線。興味が無いと言ったら嘘になる。だけど、それ以上にドンヒョクの視線を奪う人物がすぐ近くにいる。今日のその人は残念ながら体操服を着ているにも関わらず、ドンヒョクの視線は問答無用で奪われる。列から外れた所で先生の話を聞いているんだかいないんだか分からないジェミンの姿はよく言えばアンニュイ、悪く言えば無気力。その姿を誰にも邪魔されずに好きなだけ眺めていられるのだから、先生のなんて事のない話も悪くない。
その笛の音は水中にいるドンヒョクにもしっかりと届いた。その音を合図にビチャビチャに濡れた身体がプールサイドに並ぶ。
プールから上がると急に疲れが襲ってきて、次の授業は大抵眠ってしまう。毎度かなり体力を削られているのだなと思うけれど泳いでいる時はなぜかそれを感じないから不思議だ。だけどこの授業は六限だから、この後の授業を心配する必要は無い。文化祭が終わって、実行委員の仕事からも解放されたドンヒョクを縛るものは今や何も無い。本当の自由を手に入れたのである。
曇りガラスによって陽の光まで遮断された更衣室は塩素の匂いと緩んだ空気が充満していた。皆同じように疲れているから、一様に少しだけ動きが緩慢だ。水泳のあとは大抵決まってこうだから気にすることもなく適当に髪を拭いていると、隣から妙に視線を感じた。勘違いだと思いしばらく無視していたが、その視線は尚もドンヒョクに絡み付いてきて、なんだか息苦しい。
「おい、なんだよ」
いい加減耐え難くなって、じとりと隣を睨みつけた。そうしていると、そいつは少しの間の後に思いもよらない言葉を発した。
「…なぁドンヒョガ、それってキスマ?」
「…は?」
視線が落とされた辺りを見てもそこには何の痕跡も無い。
「なんの話?」
「いや、そこじゃなくて…」
ここ。
指を指されたのはもっと背中側の場所。体を捩ってそこを見れば、腰の辺り、水着にギリギリ隠れない所に鬱血痕がひとつ。
「っや、これは…」
否定の言葉はさらに隣からの野次馬に掻き消される。そうしている内にドンヒョクの身体に刻まれた鬱血痕の存在はあっという間にクラス中の男子に知れ渡った。
ホームルームが終わってすぐにドンヒョクは数人の男子に囲まれた。集まった男たちの目的はただひとつ、キスマークの真相を暴くことである。
「…マジで虫刺され掻いた痕だって」
そんなふうにあしらっても彼らはドンヒョクを解放してはくれない。この場から逃れられるためにはもっと面白い話が必要なのだ。
いつもならこいつらが飽きるまで付き合ってそれからしれっと帰れば良かった。だけど、この時のドンヒョクは気が気でなかった。だって、もうすぐ体育の見学レポートを提出しに行ったジェミンが戻ってきてしまう。
夏風邪を拗らせたらしいジェミンは二日間学校を休んでいた。風邪で休むことがしっくりくる風貌、なんて言ったらおかしいけれど事実ドンヒョクはジェミンの欠席連絡を聞きながらそんなことを思ってしまった。ジェミンとは対照的に、風貌通りにタフな自分に笑えてくる。いつも一緒にいるのに、なんならジェミンが休む日の二日前に舌を絡めるキスだってしたのに、ドンヒョクが風邪を貰うことはなかったのだ。
ジェミンは今日プールにはいっていないから、更衣室での出来事は知らない。だからジェミンに伝わってしまう前に事を収めたいというのがドンヒョクの願望だった。そして、その望みは呆気なく散ることになるのだが。
「なんの話?」
ドンヒョクの背後からなんの前触れもなくひょこりとジェミンが会話の輪に入り込んだ。水に濡れていないさらりとした髪が視界の端に映る。
「あ、ジェミナはいなかったんだっけ。ドンヒョクのキスマの話してんの。こいつ全然口割んなくてさぁ、」
そうやって周りが口々に説明するものだから、事の運びはすっかりジェミンの知る所となった。
「へぇ〜」
妙に落ち着いた、なんとも言えない声色が怖くてドンヒョクがジェミンの方を見れないでいる間に、ジェミンに質問が降りかかる。何か知っていることはないか、と。
これこそドンヒョクが恐れていたことだった。こういう時、ジェミンは変にふざける所がある。思わず冷や汗が出るようなことを平気な顔をして言ってのけるのだ。
ドンヒョクは喉の奥が乾いているのを感じてこくりと唾を飲み込む。周りの奴らに何を言うつもりなのか、気が気でないドンヒョクの方にジェミンが振り返った。
「ドンヒョガ、ホントにキスマあるの?」
ジェミンはドンヒョクをからかおうとする周りの人間たちと同じような顔をしてそんなことを言う。
ドンヒョクは眉間に皺が寄りそうになるのを必死に抑えていた。
本当も何も、お前がつけたんだろ。反射的に出そうになる言葉を喉の奥にしまいこむ。
「…違うって言ってんじゃん」
絞り出されたその言葉には余計な事を言うなと釘を刺す意味も含まれていた。そのお陰か、ジェミンはその後特にアクションを起こすこともせず、輪の中で静かにしていた。平静を装えなくなると思ったから、ジェミンの方を見ないようにしていた。だから、あいつがその時がどんな顔をしていたかは分からない。
ドンヒョクが頑なにキスマークの存在を認めなかったことで、その話題は数日で忘れ去られた。話題の賞味期限なんて所詮はそんなものだ。今の一番熱い話題は隣のクラスでカップルが誕生したことだけど、この話題だってどうせすぐに飽きられる運命だろう。
勿論、その日の帰りはジェミンを問い詰めながら歩いた。勝手に付けられたキスマークのせいで恥ずかしい思いをしたし、無駄にハラハラさせられたのだから当然だ。
「ギリギリ見えないとこに付けたつもりだったけどギリギリ見えちゃったんだね、ごめんね」
謝るジェミンは、謝っているのにも関わらずどこか楽しげに見えた。また何かを企んでいるのかもしれないけれど、とりあえずスルーを決め込んだドンヒョクは後日、もっと内側の誰にも見せない場所に沢山キスマークを付けられるなんて、その時は全く想像もしていなかった。
水泳の授業は好きか嫌いかで言えば嫌いだ。髪が塩素でバサバサするのが鬱陶しいし、なんと言っても授業の後の疲労感が半端じゃない。それに、そもそも泳ぐことに対して興味がない。
だからジェミンにとってこの授業を休めるのはラッキーだった。
バチャバチャと飛び散る水の音を聴きながらプールを一歩引いた所から眺めていると、だんだんと絵画でも見ているような気持ちになってくる。喋り声や塩素の匂い、日差しの暑さなんかをモロに感じられるタイプの絵画。
ぼうっとその絵を見ていると、ジェミンはドンヒョクを見つけた。手前のコースからプールサイドに上がろうとしている、こんがりと焼けた薄い身体を。その首筋に鼻を近づけた時の匂いも、汗ばんだ時の肌の質感も全部知っている。それなのに、何度でも触れたくなるし、今もこうして目で追ってしまう。その無防備な姿を本当は他人の目に晒したくない。だけど今日はいつもより幾分心穏やかだった。見えないけれど、ドンヒョクの腰の辺りに確かに存在しているだろう印のお陰で。
行為を終えた後、眠るドンヒョクの腰にキスをして痕を残した。眠りこけている間、ドンヒョクは絶対に起きない。目尻から頬にかけての涙の痕を擦っても、ほっぺたをびよんと引っ張ってみても起きないのだから確実だ。だからドンヒョクの身体に模様をひとつ増やすのはとても容易いことだった。
ドンヒョクが自身の身体に刻まれたその存在に気づいた時、きっと語尾を強めて俺の名前を呼ぶだろう。だけど、知っているよ。怒ったような顔をしながら、照れ隠しをしているんだって。
たまにアプローチを間違えて本気で怒らせてしまう時もあるけれど、それはまあお互い様だ。
再び泳ぎ出したドンヒョクを太陽が照りつけている。マドレーヌみたいな色の肌がチョコレートになる日もそう遠くはないだろう。甘くとろけるチョコレート色のドンヒョクを想像して、それもまた良いなんて思っていると、ピピーッという笛の音によって現実世界に引き戻された。
授業の終わりを告げる笛の音は、同時に今日の全ての授業が終わったことを告げる。空高く鳴り響くその音は解放感に満ち溢れていた。
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