夜の向こう側
昼過ぎの学食はいつものように混んでいた。周りのテーブルから聞こえてくる話し声や笑い声をバックミュージックにラーメンを啜る。可もなく不可もなくといった味だけどれど、破格で提供される食事なのだから仕方がない。寧ろもっとありがたがるべきなのかもしれない。
具の少ないラーメンと込み合ったテーブル。向かいに座るいつもの友達。
そんないつも通りの光景の中、目の前の友達、ファンロンジュンはにやにやと笑っていた。
「えー、マクヒョン色んな女の人から誘われてたりしてんじゃないの?だから忙しくて会えないのかもよ?」
揶揄ってやろうという気持ちが透けて見える、そんな笑顔だったので握りしめた拳を構えてみせる。いつでも殴れるぞ、という意思表示は友達とのコミュニケーションに欠かせない。
「ドンヒョガ、慰めてあげようか〜?」
そうしても尚、ロンジュンの口元はにやけていた。手を伸ばして頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてくる様子から明らかに楽しんでいるのが分かる。儚く幸薄そうな見た目をしているロンジュンだが中身はそこら辺のクソガキと大して変わらない。人を揶揄うとき妙にいきいきとしているのだ。その対象が俺であるときはより一層である。大方、いつもの仕返しが出来て楽しいのだろう。本当にただのクソガキだ。鬱陶しく頭を撫でまわす手を掴んで引き離した。
「慰めて貰わなくて結構です。会えてないだけで俺ら超ラブラブ♡なので」
そう言うとロンジュンは「げぇ」と吐く素振りを見せた。傍から見たら永遠に喧嘩をしているように見えるかもしれない。しかしこれが俺たちのいつものノリで、こんなくだらない言い合いが楽しくて仕方なかった。遠慮なんて皆無な弄りをお互いに許し合える存在、それがロンジュンなのである。そして俺にはもうひとり、何でも許し合える人がいた。
「ま、あのマクヒョンが浮気ってのは確かに考えらんないな」
ロンジュンはそう言ってスプーンを手に取り、カレーライスを掬って食べた。一つ上のマクヒョンは大学の先輩で今年から社会人になった。ロンジュンはそんな彼の人柄と俺たちの関係をよく知る人物のひとりだ。
ロンジュンの言う通り、あの大真面目なマクヒョンが浮気なんて到底考えられないのだ。マクヒョンと浮気、かけ離れすぎた位置にあるふたつは並べるだけで少々違和感。じゃあなんで恋人と一ヶ月近くも会えていないの〜!?なんて声がどこからとも無く聞こえてくる。
それはとても簡単なことで、マクヒョンの"仕事が立て込んでる"から。ヒョンは入社したばかりの下っ端社員だし、それはどうしようも無いことなのだ。
「本当に普通だなこのカレー」
ロンジュンは誰に言うでもなくそう呟く。普通のラーメンと普通のカレーを俺たちはあっという間に平らげた。
別に昼間ロンジュンに揶揄われたせいではない。そういう訳ではないけれど、夜にバイトはなかったし、明日の授業は午後からだし。要するに都合が良かったということだ。
もうすぐ春になるというけれど夜はそこそこ寒かった。ホットの缶コーヒーを握りしめると手先がじんわりと温かくなった。コーヒーはここに来る途中のコンビニで適当に買った。少しだけ飲んでから、温かくなった手をポケットに突っ込んでスマホを取り出す。夜の中で明るく光る画面に表示される数字。いつもならこの時間に出てくる筈だけどマクヒョンは最近忙しいらしいから出てこないかもしれない。出てこなくてもあと30分くらいは粘ろう。それでも会えなかったら今日は諦めよう。そう自分の中で決めていた。
我ながらとても可愛い恋人だと思う。会社の前で待ち伏せだなんてこんな可愛いことをしたらマクヒョンは思わずその場でキスをしてしまうかもしれない。いや、あのヒョンは真っ先に俺を心配するか。
いつから待ってた?まだ寒いだろほら手もこんなに冷たい。
そう言って俺の手を取るんだ。
「ふふっ」
そんなことを考えて、思わず笑い声が零れた。
そこまで気温が低いわけでもなかった。しかしそれでもずっと同じ場所に留まっていると少しずつ体温が奪われていく。時間が経つにつれて熱々だったコーヒーもぬるくなっていった。ぬるくなったそれをひとくち飲んでもう一度スマホを確認する。先程確認した時間から20分が経過していた。あと10分。奥の自動ドアをもう一度見ると、丁度それが開いた。瞬間ドキリと胸が鳴って、それから肩の力が落ちる。マクヒョンよりずっと背が低い。何度目かの落胆、もう慣れてきていた。緊張が高まって、それがしゅんと緩まって。それの繰り返しだ。何度も繰り返しの末、ドアが開く瞬間見慣れたサイズ感の男が出てきたときは胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。青っぽいスーツ、黒い髪、程よく筋肉がついた身体、俺より少しだけ高い背。
「マクヒョン、」
ドアから出てきたその姿を見てすぐ、足が動いた。
もう、おっそい!俺、マクヒョンに会いたくてずっと待ってたんだよ。
そうやって悪態をついたらマクヒョンは驚いた顔をしてからあの特徴的な眉を下げて笑ってくれる。「こんなに寒いのに何やってんだよ」って言葉とは裏腹にその顔は照れくさそうに緩むんだ。
そんなマクヒョンの顔が見たくて足が早まった。そしてその足は動かなくなった。もう一度自動ドアが開いた瞬間だった。
「マークくん待ってよ〜」
女の人の声は俺の所まで届くのに十分な大きさだった。高いヒールを履いたその足は俺がマクヒョンに駆け寄るよりも早く、マクヒョンの隣に並んだ。女の人はマクヒョンに何か言っているみたいだった。女の人の話を聞いてマクヒョンは笑った。何を話しているのか、何が面白いのか、そこら中に溢れかえる雑音のせいで何も聞こえなかった。少しの間止まって喋っていたふたりが足並み合わせてこちらに歩いてくるのが見えて、咄嗟に走った。お互いを見つめ合いながら歩いていたから、気づかれていなかったと思う。走ると風が冷たく感じたけれど身体の中心は熱かった。マクヒョンをびっくりさせようなんて思わなければよかった。こんなことなら初めから連絡して迎えに行けば良かった。ああ、でも仮にそうしたとして"仕事が立て込んでる"って断られてしまうからどうせ一緒には帰れないのか。
自虐的に考えてなんでか笑ってしまった。余りの惨めさに笑うしかなかった。マクヒョンは今、女の人と歩いている。俺がひっそりと傷ついている中、そんなことはちっとも知らずに談笑しながら歩いている。そう考えて、途方もない孤独感に襲われた。ひとりだけ置き去りにされたような寂しさが胸の中を埋めつくしていく。
夜の中に浮かぶ沢山の明かりが滲んで揺れた。揺れて、重なって、ひとつひとつの形状が分からなくなった。まるでカラフルな抽象画でも見ているかのようで、俺は静かに目元を拭った。
マクヒョンから連絡が来たのはあの夜から数日経った日だった。あの日から毎日メッセージを送っていたのをやめた。そのことを気にして連絡をくれたんだと思う。
"元気か?"
それだけでも嬉しかった。こちらから連絡を絶ってしまったら二度と連絡は来ないのかもしれないと頭のどこかで思っていたから。マクヒョンは連絡がマメな方ではなかったから俺からのメッセージの有無なんか気にならないのかも。むしろ毎日送られて鬱陶しく思っていたりして。そう思って少しの間送るのを我慢していた。スマホに表示されたのは本当に素っ気ないひとことだったけれど、それが無性に嬉しかった。
マクヒョンが会社に勤め初めてから、学生だった頃よりも格段に会う機会が減った。連絡をしてもあまり返ってこないから、離れてしまうとマクヒョンとの繋がりを感じることができなかった。マクヒョンと違って俺は繊細なんだよ。そんなことを言ってもしょうがないことは分かっているので口に出したことはない。言ったとして、「どういう意味だよ」と言われるのがオチだ。俺の恋人は人よりも鈍感なのだ。それでも俺はマクヒョンが好きだったし、マクヒョンも俺を愛してくれた。たぶんまだ愛してくれていると思う。会えない時間が続くほど、自信が持てなくなっていた。マクヒョンが俺を愛しているという確証が持てなくなっていった。マクヒョンは大学の時から人気があったし、その上人がいいから。そこにつけこまれてしまうかもしれない。綺麗な女の人に狙われているかも。そんな不安がずっとあった。
"マクヒョン会いたいよ"
いつの間にか打たれた文字にハッとして、タッタッタッとその文字を消す。忙しいマクヒョンの迷惑になりたくなかった。駄々をこねるように"会いたい"なんて、そんなガキ臭いことしたくない。俺はたぶんマクヒョンにつり合う大人になりたいのだと思う。
"元気だよ!
ヒョン忙しいんでしょ?
仕事頑張って〜"
大好きな人が目の前にいないからこそ物分りのいい自分を演じられた。ちょっと会えないくらいでへこたれない余裕たっぷりの理想の姿でいられた。
メッセージを送信してからスマホを充電器にさしてベッドにダイブする。目を閉じて、ハーフパンツと下着を一緒に脱いだ。マクヒョンと最後にしたのは何日前だろう。結構時間は経っていたけれど、それから今日まで一人でする時はいつも思い出していたからその記憶は鮮明だ。
その日はとても寒かった。暖房をガンガンにつけた部屋の中で行為をしたため、いつもより肌が汗ばんだ。熱く濡れた肌と肌は重なったところから蕩けてひとつになってしまいそうだった。向かい合うように寝そべって、マクヒョンのものと俺のものがまとめて擦られた。マクヒョンの手の感触とそれよりも熱いマクヒョンの性器の感触。ごつごつと硬いそれと擦れる度に自分の硬度も上がった。丁寧さなんてない荒っぽい動きとマクヒョンの男らしい息遣い。いつもはえっちなことになんか興味ありませんみたいな顔をしているのにさ。その眉が気持ちよさで歪められるのが色っぽくて堪らない。
自分自身の性器を慰める手の速度が早まる。この手がマクヒョンのものだったら。目を開ければ目の前に意地悪そうに笑うマクヒョンがいたのなら。
「ドンヒョガ…かわいい…」
頭の中のマクヒョンがそう言った。その瞬間、お腹の中でじわっと熱が広がった。
「ふっ、ぁ…」
自分の手の中を見ると白くどろっとした液体で汚れていた。ふーっと息を吐いてベッドに沈む。寝返りを余裕で打てるような広いベッドに切なくなった。今日はいつもよりずっと誰かに頭を撫でてもらいたい気分なのに。余韻に浸りながらマクヒョンの顔を思い浮かべた。
こんなに寂しいことさせて、本当に最低だよ。そう思うのに俺はやっぱりマクヒョンのことが好きで、だからこんな寂しい日常から抜け出せない。
"金曜の夜暇?久しぶりに会いたいんだけど"
そう連絡が来た時は飛び跳ねて喜んだ。
「な、言っただろロンジュナ〜本当にただ忙しかっただけなんだよ!」
「この前までマクヒョン女と出てきたってテンション下げまくってたのに…」
「うるさい!」
呆れた顔をしながら笑うロンジュンも内心心配してくれていたことは知っていた。女の人に見間違えられるような容姿をしているが、情に厚い男っぽいところがある。
「よかったなドンヒョガ」
ロンジュンはそう言って俺の肩を軽く叩いた。
連絡が来てからは瞬く間に時が過ぎた。あの夜の出来事にもやもやすることもあったけれど、それ以上にマクヒョンからのデートのお誘いが嬉しかった。
俺は何だかんだ言いつつマクヒョンを信じている。マクヒョンが後ろめたいことをする筈ない。大層な自信を持ってそう言えるのはマクヒョンがそれだけ誠実な人で、俺はヒョンのそういう所に心惹かれているからだ。
「ドンヒョガ」
後ろから名前を呼ぶ声がして振り返るとそこには待ち望んだ姿があった。青っぽいスーツ、黒い髪、程よく筋肉がついた身体、俺より少しだけ高い背。
「おっそい」
「ごめんもうちょい早く片付くと思ったんだけど…」
申し訳なさそうに頭を搔くのは紛れもない大好きな人だった。久しぶりに会えたのが嬉しいのに、素直にそれを表現してしまったら負けな気がしてふてぶてしい態度をとってしまう。
駅前の大きな時計の前は自分たち以外にも沢山の人がいた。目印になるここは多くの人が待ち合わせに使っている。時計の針は待ち合わせ時間を15分ほど過ぎたところをさしていた。
「もう俺お腹ぺこぺこだよ〜」
「俺も…今日昼食べてないんだよね」
俺の顔色を伺っているのはいつも俺に怒られているからだ。マクヒョンは食べることに興味がないため食事を抜く癖がある。見ないうちに顔周りの肉がすっかりなくなってしまったこともあった。
「身体に悪いから食べてって言ってるのに…」
気まずそうに目線を動かすその顔は前見た時よりも少し痩せているように見えた。俺がお弁当を作ることを提案したこともあったけれど、朝から来てもらうのは申し訳ないって理由で断られた。
「お弁当断ったなら自分でしっかり食べてくださいよ。俺は別にお弁当作りたいんじゃないの、マクヒョンが健康的な食生活をしてくれればそれでいいんだから」
「…わかったよ」
そう言ってもこのヒョンが食事を疎かにするのは目に見えていた。こんなやり取りだって何度もしたのだ。
「あーあ俺たち一緒に住めたらいいのにね」
お弁当だって作ってあげられるし、毎日一緒にいられるし。そう思って言った言葉にマクヒョンは分かりやすく動揺していた。
「あ、一緒に住むとか、そんな簡単に…」
「わかってるよ言ってみただけじゃん。言うだけタダだよ」
そう言って覗き込んだマクヒョンの顔は余りにも間抜けで、口角が自然と上がってしまった。マクヒョンは人の悪戯心にスイッチを入れるのが上手い。そんな顔されたらもっと困らせたくなるものだ。
「てかヒョン顔赤くない?」
マクヒョンの腕に身体を押し付けて、それから耳元に唇を近づけた。
「えっちなこと考えた?」
周りに聞こえないよう小声で囁くと、マクヒョンの顔がぶわっと赤く染まった。
散々やる事やっているのに、マクヒョンはこんな風に揶揄うだけで顔を真っ赤にしてくれる。歳を重ねたら新鮮な気持ちでドキドキした物にだって慣れてしまう。それなのにマクヒョンはいつになっても出会った頃のまま、ずっと純粋なまま。そういうところ、好きだな、なんて。何気ない瞬間に好きが溢れて、どうってことのない日常が愛おしく思えるのはこの人が特別だからだろうか。
「ほら、お腹空いたんだろ。近くのとこ予約してあるから。行くぞ」
そう言って自分から俺の手をとって数歩歩いてから慌てたように離した。ばーか、こんな人混みなら目立たないよ。そう言おうと思ったけれど耳の後ろを赤くしたマクヒョンが可愛かったからやめておいた。
「ねぇ何のお店なの?」
「イタリアン」
そう言った顔は照れているのを隠しているつもりだろうけど、耳の後ろはまだ赤いままなのが面白い。俺たちなんでこんなに意地っ張りになってしまうんだろう。お互いにもっと素直に言えたらいいのかも。あまり会えていなかったからか俺もマクヒョンもいつもより意地っ張りだ。一本路地に入れば手なんて繋ぎ放題なのに、頑なにどちらからも言い出せなかった。とても懐かしい感じがした。付き合いたてのとき、お互い探りあっていたことを思い出した。マクヒョンも久しぶりに会えたことを意識してくれているのだ。そう思うとこの空気がより一層こそばゆく感じた。
「ここだよ」
木造の小さな扉の前でマクヒョンの足が止まった。隠れ家みたいな佇まいだがその扉には確かな貫禄があった。ドアを開けるとガーリックやチーズのいい匂いが鼻を擽った。黒い壁にはワインが何本も並んでいて、天井からは小さなシャンデリアがいくつかぶら下がっていた。シンプルだけど高級感が漂うそんなお店だった。
マクヒョンにお洒落な場所に連れてきて貰う時はいつも照れくさい気持ちになる。マクヒョンに大人扱いされたような気がするのだ。
「仕事が一段落ついたんだ」
一通りの注文が終わって店員が厨房へ戻った後
マクヒョンはそう言った。
「ずっと会えなくてごめんな」
外にいた時には暗くて分からなかったけれど、マクヒョンの目の下には薄らと隈がある。顔も少しだけやつれた。こんなになるまで頑張っていたんだ、そう思うと心が痛くなって、だけどそれ以上に俺はほっとしていた。もう飽きちゃったんじゃないか、面倒くさくなったんじゃないか。心の片隅にそんな不安がチラついていた。
何でそんな事を考えていたのだろう。メッセージの返信は遅いものの、マクヒョンはいつだって俺を大事にしてくれていたのに。申し訳なさそうに眉を下げる彼が、俺を裏切るような事をする筈がないのに。
「本当だよ、こんな可愛い俺をほったらかしにしといてさ〜」
わざとらしく文句を連ねると、マクヒョンはいつもみたいに笑った。
「うん、本当にごめん」
こんな風にとやかく言ってはいるものの、本当は会えなかった時のことなんてどうだって良かった。久しぶりに会えたことが、不安なんか帳消しにするくらい嬉しくて幸せ。
マクヒョンはやっぱりずるい。俺をこんな風にさせておいて、その自覚はさっぱり無いなんて。
俺、今凄く幸せだよ
伝えてみたらどんな反応をするか気になる、なんて建前で。ただ伝えてみたくなっただけ。滑り落ちるみたいに唇がヒョンを呼んだ。
「ねぇマクヒョン、」
「あれ?マークくん?」
俺の声に被さる形でマクヒョンを呼んだ声は女の人のものだった。マクヒョンは女の人を見て驚いたように声を上げた。
「うわぁびっくりした…」
「あはは、お疲れ様〜」
気楽な感じの会話が繰り広げられる。女の人もスーツを着ているから、会社の人なのかもしれない。そんなことを考えて、はっと頭に過ぎったのはあの夜のことだった。足元を見ると見覚えのあるヒールの靴。瞬間、あの日の出来事がフラッシュバックした。冷たい風を浴びながら逃げるように帰った時のこと。どうしようもないくらいに独りだった暗闇の中の自分がこちらを見ている。
目の前で繰り広げられる会話はまだ続いている。会話の様子はしゃべり慣れた人間同士のそれで、決して乱れることがない。
仲が良いんだ。
何でかグサリと刺されたような痛みを感じる。隣で恋人が痛がっているのに、マクヒョンは全然気づいていないみたいだ。何食わぬ顔で話し続けている。
「そっちの子は?」
そう言って女の人が俺の方を見つめた。その一瞬、会話に微かなラグが生じた。マクヒョンの瞳が揺れて、あ、たぶん俺、今から傷つく。
「えーっと…大学の時の後輩…」
「そうなんだ、初めまして、マークくんにはいつもお世話になってます…」
「あ、ドンヒョク…?」
顔色を伺うような声色で名前を呼ばれて、意識が引き戻される。女の人は居なくなっていて、テーブルの上にはお皿が運ばれてきていた。
「…冷めるから食べな」
そう言ったマクヒョンには、他に何か言いたいことがあるようだった。でもここは外だ。人目が多すぎるから、言えない。それは暗黙の了解で、言われるがままにスープを口に運んだ。優雅な音楽の中色鮮やかなスープを啜る。
その後次々に運ばれてきた料理たちはどれも普段食べることが出来ないお店の味で、本当に美味しかった。美味しいものを好きな人と食べるなんて一番幸せな時間の筈なのに、早く終われと思っていた。食べている間にも余計なことを考える頭のせいで胸の中のもやもやが膨れ上がる。それがとてももどかしくて、全ての料理を食べ終わったあと、すぐに店を出た。
外に出ると涼しい風が通り抜けた。夜が段々と深まっているからか、さっきよりも少しだけ寒い。
「美味しかったね」
「うん、そうだな」
ぽつりぽつりと言葉を並べるみたいな会話。それが何とも気まづくて、お互い喋ることをやめた。息を吸いずらい、微妙な空気感が流れる。それに耐えかねたのか、マクヒョンが少しだけ大きく息を吸う音が聞こえた。
「あのさ、さっきはごめん」
意を決したようにマクヒョンはそう言った。その声はとても真剣だった。食べている間も、ずっと謝ろうとしてくれていたんだろう。それなのに、俺は。
「いーよいーよ、だって俺マクヒョンの大学時代の後輩だもん」
口から出てしまったのは誠実な謝罪にはとてもつり合わない茶化すような言葉。
何言ってんだ、俺。こんなこと言いたいんじゃなかったのに。言いながら思ったところでそれはもう手遅れで、マクヒョンは悲しみと怒りを混ぜたみたいな顔をしていて。
「…なんで、そんな風に言うんだよ」
絞り出すように発せられた言葉にはやるせなさが滲んでいた。
ごめん、一言そう言えれば良かったのに。自分が間違った言葉を言ってしまったと謝れば良かったのに。
「ヒョンが言ったんじゃん」
普段ならいくらでも取り繕えるのに、全くというほどそれが出来なかった。駄目だ、止まれ。頭では分かっているのに、口が勝手に動いているような感じ。
「俺、この前マクヒョンの会社の前で待ち伏せしてたんだ」
ああ、これ以上言うな。
「さっきの女の人、その時ヒョンの横にいた人だった」
言ったってどうしようもないことが、次々と口から零れ落ちていく。
「…何が言いたいの」
「別に」
流れる沈黙。バレないようにマクヒョンの方を見ると、彼はもう俺の方を見ていなかった。
あーあやっちゃった。ドンヒョク、今度こそ終わりかもね。心の中の悪魔が嬉しそうに囁く声なんかが聞こえてきて、あ、俺やってしまったんだ、全てが急に現実味を帯びてきて。
「…明日バイトだから帰るわ」
返事なんか聞かずに、一方的にそう言って駅と反対方向に歩いた。俺の家はこっちじゃないことなんかマクヒョンも知っている。分かりきった嘘をついてでも一人になりたくて、早足でマクヒョンの元から逃げ出した。当たり前だけど、追いかけてきてなんかくれなかった。俺の方なんか見向きもしないで歩いているかもしれない、そんなマクヒョンを目の当たりにするのが怖くて決して振り返ることなんて出来なかった。一歩一歩踏みしめる度に後悔が重なっていく。
その部屋の前に着いた時、まるでそれを予期していたかのようにドアが開かれた。
「うわ、タイミングすご。上がれよ」
部屋着姿のロンジュンの頭は少しだけ濡れていた。風呂から出たばかりなのかもしれない。
「…こんな遅くにごめん」
「そんなこといいから」
ロンジュンはそう言って俺を部屋の中に入れた。何度か来たことがある友達の部屋は今日も小綺麗に片付いていた。小さめのテーブルの前に置かれているソファに座る。柔らかな布がいつもより深く沈むような気がした。
「お茶飲む?」
「うん」
俺が頷くとロンジュンはキッチンの方に歩いていった。陶器同士が当たる音がした後、電気ポットからお湯を入れる音がした。それからテーブルに運ばれてきたのは大層な中国茶器たちだった。
「お前こんなのいつ使うんだよ」
ついつい茶化したくなるほど立派なものだった。ロンジュンはそれを聞き流しながらお茶を湯のみに注いでいる。
「お茶いれる時に使うんだよ」
言いながらロンジュンはこちらをちらりとも見ていない。余りにも適当な返しで笑ってしまった。変に気を遣ったり慰めたりしない、普段通りのロンジュンだ。こんな時にもそんなふうに振る舞ってくれることが嬉しかった。
ロンジュンがいれてくれたお茶は香ばしい香りがして、ひとくち飲むと身体の力が緩んでいく。
「なんかあったんだろ」
お茶を飲み干したロンジュンは眉根を下げて俺の方を見た。ああ、また心配させている。いつもいつも面倒くさいだろうに、それでもロンジュンは毎回律儀に俺の事を心配してくれる。
「ロンジュナ、いつもありがと…」
柄にもないことを言っている自覚はあった。笑われるかなとも思ったけれど、ロンジュンは優しい顔で一言、「気にすんな」とだけ言う。お前ってやっぱりかっこいいな。
「うーん、気持ちは分からなくないけど・・・まぁ、それはお前が悪いな」
ロンジュンがあっけからんとしているものだから、感情的だった自分もすっかり冷静さを取り戻していた。
「だよなー…どうしよ」
「さっきの事とかこれまで思ってたこととか全部含めてさ、話したらいいじゃん」
「簡単に言うけどさぁ、今からどうやって…」
俺の言葉を遮るようにチャイムの音が鳴り響いた。
「はーい」
そう言ってロンジュンは俺の手をとった。ソファから立ち上がらせ、掴んだ手をそのままに玄関の方歩いていく。
「待ってロンジュナ、おい、」
「待てないよもうマクヒョン来ちゃったんだから」
ロンジュンは何も躊躇うことなくガチャリとドアノブを捻った。そこには夜の色を背景に佇むマクヒョンが申し訳なさそうに立っていた。
「マクヒョン久しぶりですね」
「ごめんな夜遅くに」
「いえいえ、ほらドンヒョガ!お迎え!」
俺はロンジュンの背中に身を隠した。ロンジュンの細い身体には隠れきれないことも分かっていた。それでも頑なにロンジュンの部屋着を掴んでいたのはマクヒョンに合わせる顔がなかったからだ。
「ドンヒョガ…」
困ったみたいな声色。それだけでどんな顔をしているか分かってしまう。マクヒョンの顔を想像するのは得意だ。会えない時、何度も顔を思い浮かべて気を紛らわせていたのだから。
どうすればいいか分からないといった風に眉が下がっている。俺を怒らせたと思って距離をはかりかねている。
「帰ろう」
そう言って手が伸ばされた。不安そうな顔をして、だけどこのヒョンは俺がその手を握り返すことを確信している。何でそんなに自信満々なんだよ、それとも無意識なのか?頭の中で文句を言い連ねながら自分の手をマクヒョンの手に重ねていた。
ネオンの光から少し離れた人通りがほとんど無い道。人の顔も満足に見えないくらい辺りは真っ暗だ。そのせいなのか、はたまた先程の出来事に負い目を感じているからなのか、繋がれた手がほどかれることはなかった。
「最近ドンヒョクの目が腫れてたってロンジュンから言われた」
繋がれた手に力が込められて、骨が微かに軋むような感じがした。
「ごめん、全然気づいてやれなくて」
項垂れるマクヒョンは大真面目に自分を責め立てているようで、そんな姿を見てちくりと胸が痛くなる。こんな風に思ってくれている人に対して、酷い態度をとってしまった。忙しかったのだって、俺の事をああ言うしかなかったのだって、マクヒョンのせいじゃなかったのに。
「俺の方こそ…嫌な態度とってごめんなさい」
自分でも驚いてしまうくらい弱々しい声だった。
項垂れていたマクヒョンの頭が上がって、見つめられる。何だか久しぶりにマクヒョンに見つめられた気がして、心臓が軋む。真っ直ぐな瞳は、マクヒョンを形成しているパーツの中で一番好きだ。丸くて可愛い、少しつり上がった猫っぽい目に見つめられている。ドキドキと重く身体に響く音を感じていると、俺を見つめるマクヒョンの顔が少しだけ歪む。歩いていた足はいつの間にか止まっていて、繋いでいない方の手で目元を撫でられる。
「あー…俺また泣かせた…」
柔かに行き来する指先は気温のせいもあっていつもよりひんやり冷たい。まだ熱の引かない目元をなぞられるのは心地よくて、つい、頬に置かれた手に顔を擦り寄せた。そうすると、その手は俺の頬を包みあげて、あ、これキスする流れじゃない?そう思った時にはとても近くにマクヒョンの顔があった。ゆっくりと瞼を閉じると、そのまま唇が重なる。お互いの唇の感触を確かめて、顔を離した。
「ヒョン、ここ外…」
「誰も見てないよ」
マクヒョンがそんな風に言う日が来るなんて、思ってもみなかったな。そんなことを考えて再び目を閉じた。遠慮がちに舌が差し込まれるのを、静かに受け入れた。舌と舌が重なり合って、絡み合って。遠くから車のクラクションの音が聞こえる。ここは路上でいつ人が来てもおかしくないのに、お互いの息遣い、匂い、味、その全てが懐かしくて俺たちは夢中でキスをしていた。
具の少ないラーメンと込み合ったテーブル。向かいに座るいつもの友達。
そんないつも通りの光景の中、目の前の友達、ファンロンジュンはにやにやと笑っていた。
「えー、マクヒョン色んな女の人から誘われてたりしてんじゃないの?だから忙しくて会えないのかもよ?」
揶揄ってやろうという気持ちが透けて見える、そんな笑顔だったので握りしめた拳を構えてみせる。いつでも殴れるぞ、という意思表示は友達とのコミュニケーションに欠かせない。
「ドンヒョガ、慰めてあげようか〜?」
そうしても尚、ロンジュンの口元はにやけていた。手を伸ばして頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてくる様子から明らかに楽しんでいるのが分かる。儚く幸薄そうな見た目をしているロンジュンだが中身はそこら辺のクソガキと大して変わらない。人を揶揄うとき妙にいきいきとしているのだ。その対象が俺であるときはより一層である。大方、いつもの仕返しが出来て楽しいのだろう。本当にただのクソガキだ。鬱陶しく頭を撫でまわす手を掴んで引き離した。
「慰めて貰わなくて結構です。会えてないだけで俺ら超ラブラブ♡なので」
そう言うとロンジュンは「げぇ」と吐く素振りを見せた。傍から見たら永遠に喧嘩をしているように見えるかもしれない。しかしこれが俺たちのいつものノリで、こんなくだらない言い合いが楽しくて仕方なかった。遠慮なんて皆無な弄りをお互いに許し合える存在、それがロンジュンなのである。そして俺にはもうひとり、何でも許し合える人がいた。
「ま、あのマクヒョンが浮気ってのは確かに考えらんないな」
ロンジュンはそう言ってスプーンを手に取り、カレーライスを掬って食べた。一つ上のマクヒョンは大学の先輩で今年から社会人になった。ロンジュンはそんな彼の人柄と俺たちの関係をよく知る人物のひとりだ。
ロンジュンの言う通り、あの大真面目なマクヒョンが浮気なんて到底考えられないのだ。マクヒョンと浮気、かけ離れすぎた位置にあるふたつは並べるだけで少々違和感。じゃあなんで恋人と一ヶ月近くも会えていないの〜!?なんて声がどこからとも無く聞こえてくる。
それはとても簡単なことで、マクヒョンの"仕事が立て込んでる"から。ヒョンは入社したばかりの下っ端社員だし、それはどうしようも無いことなのだ。
「本当に普通だなこのカレー」
ロンジュンは誰に言うでもなくそう呟く。普通のラーメンと普通のカレーを俺たちはあっという間に平らげた。
別に昼間ロンジュンに揶揄われたせいではない。そういう訳ではないけれど、夜にバイトはなかったし、明日の授業は午後からだし。要するに都合が良かったということだ。
もうすぐ春になるというけれど夜はそこそこ寒かった。ホットの缶コーヒーを握りしめると手先がじんわりと温かくなった。コーヒーはここに来る途中のコンビニで適当に買った。少しだけ飲んでから、温かくなった手をポケットに突っ込んでスマホを取り出す。夜の中で明るく光る画面に表示される数字。いつもならこの時間に出てくる筈だけどマクヒョンは最近忙しいらしいから出てこないかもしれない。出てこなくてもあと30分くらいは粘ろう。それでも会えなかったら今日は諦めよう。そう自分の中で決めていた。
我ながらとても可愛い恋人だと思う。会社の前で待ち伏せだなんてこんな可愛いことをしたらマクヒョンは思わずその場でキスをしてしまうかもしれない。いや、あのヒョンは真っ先に俺を心配するか。
いつから待ってた?まだ寒いだろほら手もこんなに冷たい。
そう言って俺の手を取るんだ。
「ふふっ」
そんなことを考えて、思わず笑い声が零れた。
そこまで気温が低いわけでもなかった。しかしそれでもずっと同じ場所に留まっていると少しずつ体温が奪われていく。時間が経つにつれて熱々だったコーヒーもぬるくなっていった。ぬるくなったそれをひとくち飲んでもう一度スマホを確認する。先程確認した時間から20分が経過していた。あと10分。奥の自動ドアをもう一度見ると、丁度それが開いた。瞬間ドキリと胸が鳴って、それから肩の力が落ちる。マクヒョンよりずっと背が低い。何度目かの落胆、もう慣れてきていた。緊張が高まって、それがしゅんと緩まって。それの繰り返しだ。何度も繰り返しの末、ドアが開く瞬間見慣れたサイズ感の男が出てきたときは胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。青っぽいスーツ、黒い髪、程よく筋肉がついた身体、俺より少しだけ高い背。
「マクヒョン、」
ドアから出てきたその姿を見てすぐ、足が動いた。
もう、おっそい!俺、マクヒョンに会いたくてずっと待ってたんだよ。
そうやって悪態をついたらマクヒョンは驚いた顔をしてからあの特徴的な眉を下げて笑ってくれる。「こんなに寒いのに何やってんだよ」って言葉とは裏腹にその顔は照れくさそうに緩むんだ。
そんなマクヒョンの顔が見たくて足が早まった。そしてその足は動かなくなった。もう一度自動ドアが開いた瞬間だった。
「マークくん待ってよ〜」
女の人の声は俺の所まで届くのに十分な大きさだった。高いヒールを履いたその足は俺がマクヒョンに駆け寄るよりも早く、マクヒョンの隣に並んだ。女の人はマクヒョンに何か言っているみたいだった。女の人の話を聞いてマクヒョンは笑った。何を話しているのか、何が面白いのか、そこら中に溢れかえる雑音のせいで何も聞こえなかった。少しの間止まって喋っていたふたりが足並み合わせてこちらに歩いてくるのが見えて、咄嗟に走った。お互いを見つめ合いながら歩いていたから、気づかれていなかったと思う。走ると風が冷たく感じたけれど身体の中心は熱かった。マクヒョンをびっくりさせようなんて思わなければよかった。こんなことなら初めから連絡して迎えに行けば良かった。ああ、でも仮にそうしたとして"仕事が立て込んでる"って断られてしまうからどうせ一緒には帰れないのか。
自虐的に考えてなんでか笑ってしまった。余りの惨めさに笑うしかなかった。マクヒョンは今、女の人と歩いている。俺がひっそりと傷ついている中、そんなことはちっとも知らずに談笑しながら歩いている。そう考えて、途方もない孤独感に襲われた。ひとりだけ置き去りにされたような寂しさが胸の中を埋めつくしていく。
夜の中に浮かぶ沢山の明かりが滲んで揺れた。揺れて、重なって、ひとつひとつの形状が分からなくなった。まるでカラフルな抽象画でも見ているかのようで、俺は静かに目元を拭った。
マクヒョンから連絡が来たのはあの夜から数日経った日だった。あの日から毎日メッセージを送っていたのをやめた。そのことを気にして連絡をくれたんだと思う。
"元気か?"
それだけでも嬉しかった。こちらから連絡を絶ってしまったら二度と連絡は来ないのかもしれないと頭のどこかで思っていたから。マクヒョンは連絡がマメな方ではなかったから俺からのメッセージの有無なんか気にならないのかも。むしろ毎日送られて鬱陶しく思っていたりして。そう思って少しの間送るのを我慢していた。スマホに表示されたのは本当に素っ気ないひとことだったけれど、それが無性に嬉しかった。
マクヒョンが会社に勤め初めてから、学生だった頃よりも格段に会う機会が減った。連絡をしてもあまり返ってこないから、離れてしまうとマクヒョンとの繋がりを感じることができなかった。マクヒョンと違って俺は繊細なんだよ。そんなことを言ってもしょうがないことは分かっているので口に出したことはない。言ったとして、「どういう意味だよ」と言われるのがオチだ。俺の恋人は人よりも鈍感なのだ。それでも俺はマクヒョンが好きだったし、マクヒョンも俺を愛してくれた。たぶんまだ愛してくれていると思う。会えない時間が続くほど、自信が持てなくなっていた。マクヒョンが俺を愛しているという確証が持てなくなっていった。マクヒョンは大学の時から人気があったし、その上人がいいから。そこにつけこまれてしまうかもしれない。綺麗な女の人に狙われているかも。そんな不安がずっとあった。
"マクヒョン会いたいよ"
いつの間にか打たれた文字にハッとして、タッタッタッとその文字を消す。忙しいマクヒョンの迷惑になりたくなかった。駄々をこねるように"会いたい"なんて、そんなガキ臭いことしたくない。俺はたぶんマクヒョンにつり合う大人になりたいのだと思う。
"元気だよ!
ヒョン忙しいんでしょ?
仕事頑張って〜"
大好きな人が目の前にいないからこそ物分りのいい自分を演じられた。ちょっと会えないくらいでへこたれない余裕たっぷりの理想の姿でいられた。
メッセージを送信してからスマホを充電器にさしてベッドにダイブする。目を閉じて、ハーフパンツと下着を一緒に脱いだ。マクヒョンと最後にしたのは何日前だろう。結構時間は経っていたけれど、それから今日まで一人でする時はいつも思い出していたからその記憶は鮮明だ。
その日はとても寒かった。暖房をガンガンにつけた部屋の中で行為をしたため、いつもより肌が汗ばんだ。熱く濡れた肌と肌は重なったところから蕩けてひとつになってしまいそうだった。向かい合うように寝そべって、マクヒョンのものと俺のものがまとめて擦られた。マクヒョンの手の感触とそれよりも熱いマクヒョンの性器の感触。ごつごつと硬いそれと擦れる度に自分の硬度も上がった。丁寧さなんてない荒っぽい動きとマクヒョンの男らしい息遣い。いつもはえっちなことになんか興味ありませんみたいな顔をしているのにさ。その眉が気持ちよさで歪められるのが色っぽくて堪らない。
自分自身の性器を慰める手の速度が早まる。この手がマクヒョンのものだったら。目を開ければ目の前に意地悪そうに笑うマクヒョンがいたのなら。
「ドンヒョガ…かわいい…」
頭の中のマクヒョンがそう言った。その瞬間、お腹の中でじわっと熱が広がった。
「ふっ、ぁ…」
自分の手の中を見ると白くどろっとした液体で汚れていた。ふーっと息を吐いてベッドに沈む。寝返りを余裕で打てるような広いベッドに切なくなった。今日はいつもよりずっと誰かに頭を撫でてもらいたい気分なのに。余韻に浸りながらマクヒョンの顔を思い浮かべた。
こんなに寂しいことさせて、本当に最低だよ。そう思うのに俺はやっぱりマクヒョンのことが好きで、だからこんな寂しい日常から抜け出せない。
"金曜の夜暇?久しぶりに会いたいんだけど"
そう連絡が来た時は飛び跳ねて喜んだ。
「な、言っただろロンジュナ〜本当にただ忙しかっただけなんだよ!」
「この前までマクヒョン女と出てきたってテンション下げまくってたのに…」
「うるさい!」
呆れた顔をしながら笑うロンジュンも内心心配してくれていたことは知っていた。女の人に見間違えられるような容姿をしているが、情に厚い男っぽいところがある。
「よかったなドンヒョガ」
ロンジュンはそう言って俺の肩を軽く叩いた。
連絡が来てからは瞬く間に時が過ぎた。あの夜の出来事にもやもやすることもあったけれど、それ以上にマクヒョンからのデートのお誘いが嬉しかった。
俺は何だかんだ言いつつマクヒョンを信じている。マクヒョンが後ろめたいことをする筈ない。大層な自信を持ってそう言えるのはマクヒョンがそれだけ誠実な人で、俺はヒョンのそういう所に心惹かれているからだ。
「ドンヒョガ」
後ろから名前を呼ぶ声がして振り返るとそこには待ち望んだ姿があった。青っぽいスーツ、黒い髪、程よく筋肉がついた身体、俺より少しだけ高い背。
「おっそい」
「ごめんもうちょい早く片付くと思ったんだけど…」
申し訳なさそうに頭を搔くのは紛れもない大好きな人だった。久しぶりに会えたのが嬉しいのに、素直にそれを表現してしまったら負けな気がしてふてぶてしい態度をとってしまう。
駅前の大きな時計の前は自分たち以外にも沢山の人がいた。目印になるここは多くの人が待ち合わせに使っている。時計の針は待ち合わせ時間を15分ほど過ぎたところをさしていた。
「もう俺お腹ぺこぺこだよ〜」
「俺も…今日昼食べてないんだよね」
俺の顔色を伺っているのはいつも俺に怒られているからだ。マクヒョンは食べることに興味がないため食事を抜く癖がある。見ないうちに顔周りの肉がすっかりなくなってしまったこともあった。
「身体に悪いから食べてって言ってるのに…」
気まずそうに目線を動かすその顔は前見た時よりも少し痩せているように見えた。俺がお弁当を作ることを提案したこともあったけれど、朝から来てもらうのは申し訳ないって理由で断られた。
「お弁当断ったなら自分でしっかり食べてくださいよ。俺は別にお弁当作りたいんじゃないの、マクヒョンが健康的な食生活をしてくれればそれでいいんだから」
「…わかったよ」
そう言ってもこのヒョンが食事を疎かにするのは目に見えていた。こんなやり取りだって何度もしたのだ。
「あーあ俺たち一緒に住めたらいいのにね」
お弁当だって作ってあげられるし、毎日一緒にいられるし。そう思って言った言葉にマクヒョンは分かりやすく動揺していた。
「あ、一緒に住むとか、そんな簡単に…」
「わかってるよ言ってみただけじゃん。言うだけタダだよ」
そう言って覗き込んだマクヒョンの顔は余りにも間抜けで、口角が自然と上がってしまった。マクヒョンは人の悪戯心にスイッチを入れるのが上手い。そんな顔されたらもっと困らせたくなるものだ。
「てかヒョン顔赤くない?」
マクヒョンの腕に身体を押し付けて、それから耳元に唇を近づけた。
「えっちなこと考えた?」
周りに聞こえないよう小声で囁くと、マクヒョンの顔がぶわっと赤く染まった。
散々やる事やっているのに、マクヒョンはこんな風に揶揄うだけで顔を真っ赤にしてくれる。歳を重ねたら新鮮な気持ちでドキドキした物にだって慣れてしまう。それなのにマクヒョンはいつになっても出会った頃のまま、ずっと純粋なまま。そういうところ、好きだな、なんて。何気ない瞬間に好きが溢れて、どうってことのない日常が愛おしく思えるのはこの人が特別だからだろうか。
「ほら、お腹空いたんだろ。近くのとこ予約してあるから。行くぞ」
そう言って自分から俺の手をとって数歩歩いてから慌てたように離した。ばーか、こんな人混みなら目立たないよ。そう言おうと思ったけれど耳の後ろを赤くしたマクヒョンが可愛かったからやめておいた。
「ねぇ何のお店なの?」
「イタリアン」
そう言った顔は照れているのを隠しているつもりだろうけど、耳の後ろはまだ赤いままなのが面白い。俺たちなんでこんなに意地っ張りになってしまうんだろう。お互いにもっと素直に言えたらいいのかも。あまり会えていなかったからか俺もマクヒョンもいつもより意地っ張りだ。一本路地に入れば手なんて繋ぎ放題なのに、頑なにどちらからも言い出せなかった。とても懐かしい感じがした。付き合いたてのとき、お互い探りあっていたことを思い出した。マクヒョンも久しぶりに会えたことを意識してくれているのだ。そう思うとこの空気がより一層こそばゆく感じた。
「ここだよ」
木造の小さな扉の前でマクヒョンの足が止まった。隠れ家みたいな佇まいだがその扉には確かな貫禄があった。ドアを開けるとガーリックやチーズのいい匂いが鼻を擽った。黒い壁にはワインが何本も並んでいて、天井からは小さなシャンデリアがいくつかぶら下がっていた。シンプルだけど高級感が漂うそんなお店だった。
マクヒョンにお洒落な場所に連れてきて貰う時はいつも照れくさい気持ちになる。マクヒョンに大人扱いされたような気がするのだ。
「仕事が一段落ついたんだ」
一通りの注文が終わって店員が厨房へ戻った後
マクヒョンはそう言った。
「ずっと会えなくてごめんな」
外にいた時には暗くて分からなかったけれど、マクヒョンの目の下には薄らと隈がある。顔も少しだけやつれた。こんなになるまで頑張っていたんだ、そう思うと心が痛くなって、だけどそれ以上に俺はほっとしていた。もう飽きちゃったんじゃないか、面倒くさくなったんじゃないか。心の片隅にそんな不安がチラついていた。
何でそんな事を考えていたのだろう。メッセージの返信は遅いものの、マクヒョンはいつだって俺を大事にしてくれていたのに。申し訳なさそうに眉を下げる彼が、俺を裏切るような事をする筈がないのに。
「本当だよ、こんな可愛い俺をほったらかしにしといてさ〜」
わざとらしく文句を連ねると、マクヒョンはいつもみたいに笑った。
「うん、本当にごめん」
こんな風にとやかく言ってはいるものの、本当は会えなかった時のことなんてどうだって良かった。久しぶりに会えたことが、不安なんか帳消しにするくらい嬉しくて幸せ。
マクヒョンはやっぱりずるい。俺をこんな風にさせておいて、その自覚はさっぱり無いなんて。
俺、今凄く幸せだよ
伝えてみたらどんな反応をするか気になる、なんて建前で。ただ伝えてみたくなっただけ。滑り落ちるみたいに唇がヒョンを呼んだ。
「ねぇマクヒョン、」
「あれ?マークくん?」
俺の声に被さる形でマクヒョンを呼んだ声は女の人のものだった。マクヒョンは女の人を見て驚いたように声を上げた。
「うわぁびっくりした…」
「あはは、お疲れ様〜」
気楽な感じの会話が繰り広げられる。女の人もスーツを着ているから、会社の人なのかもしれない。そんなことを考えて、はっと頭に過ぎったのはあの夜のことだった。足元を見ると見覚えのあるヒールの靴。瞬間、あの日の出来事がフラッシュバックした。冷たい風を浴びながら逃げるように帰った時のこと。どうしようもないくらいに独りだった暗闇の中の自分がこちらを見ている。
目の前で繰り広げられる会話はまだ続いている。会話の様子はしゃべり慣れた人間同士のそれで、決して乱れることがない。
仲が良いんだ。
何でかグサリと刺されたような痛みを感じる。隣で恋人が痛がっているのに、マクヒョンは全然気づいていないみたいだ。何食わぬ顔で話し続けている。
「そっちの子は?」
そう言って女の人が俺の方を見つめた。その一瞬、会話に微かなラグが生じた。マクヒョンの瞳が揺れて、あ、たぶん俺、今から傷つく。
「えーっと…大学の時の後輩…」
「そうなんだ、初めまして、マークくんにはいつもお世話になってます…」
「あ、ドンヒョク…?」
顔色を伺うような声色で名前を呼ばれて、意識が引き戻される。女の人は居なくなっていて、テーブルの上にはお皿が運ばれてきていた。
「…冷めるから食べな」
そう言ったマクヒョンには、他に何か言いたいことがあるようだった。でもここは外だ。人目が多すぎるから、言えない。それは暗黙の了解で、言われるがままにスープを口に運んだ。優雅な音楽の中色鮮やかなスープを啜る。
その後次々に運ばれてきた料理たちはどれも普段食べることが出来ないお店の味で、本当に美味しかった。美味しいものを好きな人と食べるなんて一番幸せな時間の筈なのに、早く終われと思っていた。食べている間にも余計なことを考える頭のせいで胸の中のもやもやが膨れ上がる。それがとてももどかしくて、全ての料理を食べ終わったあと、すぐに店を出た。
外に出ると涼しい風が通り抜けた。夜が段々と深まっているからか、さっきよりも少しだけ寒い。
「美味しかったね」
「うん、そうだな」
ぽつりぽつりと言葉を並べるみたいな会話。それが何とも気まづくて、お互い喋ることをやめた。息を吸いずらい、微妙な空気感が流れる。それに耐えかねたのか、マクヒョンが少しだけ大きく息を吸う音が聞こえた。
「あのさ、さっきはごめん」
意を決したようにマクヒョンはそう言った。その声はとても真剣だった。食べている間も、ずっと謝ろうとしてくれていたんだろう。それなのに、俺は。
「いーよいーよ、だって俺マクヒョンの大学時代の後輩だもん」
口から出てしまったのは誠実な謝罪にはとてもつり合わない茶化すような言葉。
何言ってんだ、俺。こんなこと言いたいんじゃなかったのに。言いながら思ったところでそれはもう手遅れで、マクヒョンは悲しみと怒りを混ぜたみたいな顔をしていて。
「…なんで、そんな風に言うんだよ」
絞り出すように発せられた言葉にはやるせなさが滲んでいた。
ごめん、一言そう言えれば良かったのに。自分が間違った言葉を言ってしまったと謝れば良かったのに。
「ヒョンが言ったんじゃん」
普段ならいくらでも取り繕えるのに、全くというほどそれが出来なかった。駄目だ、止まれ。頭では分かっているのに、口が勝手に動いているような感じ。
「俺、この前マクヒョンの会社の前で待ち伏せしてたんだ」
ああ、これ以上言うな。
「さっきの女の人、その時ヒョンの横にいた人だった」
言ったってどうしようもないことが、次々と口から零れ落ちていく。
「…何が言いたいの」
「別に」
流れる沈黙。バレないようにマクヒョンの方を見ると、彼はもう俺の方を見ていなかった。
あーあやっちゃった。ドンヒョク、今度こそ終わりかもね。心の中の悪魔が嬉しそうに囁く声なんかが聞こえてきて、あ、俺やってしまったんだ、全てが急に現実味を帯びてきて。
「…明日バイトだから帰るわ」
返事なんか聞かずに、一方的にそう言って駅と反対方向に歩いた。俺の家はこっちじゃないことなんかマクヒョンも知っている。分かりきった嘘をついてでも一人になりたくて、早足でマクヒョンの元から逃げ出した。当たり前だけど、追いかけてきてなんかくれなかった。俺の方なんか見向きもしないで歩いているかもしれない、そんなマクヒョンを目の当たりにするのが怖くて決して振り返ることなんて出来なかった。一歩一歩踏みしめる度に後悔が重なっていく。
その部屋の前に着いた時、まるでそれを予期していたかのようにドアが開かれた。
「うわ、タイミングすご。上がれよ」
部屋着姿のロンジュンの頭は少しだけ濡れていた。風呂から出たばかりなのかもしれない。
「…こんな遅くにごめん」
「そんなこといいから」
ロンジュンはそう言って俺を部屋の中に入れた。何度か来たことがある友達の部屋は今日も小綺麗に片付いていた。小さめのテーブルの前に置かれているソファに座る。柔らかな布がいつもより深く沈むような気がした。
「お茶飲む?」
「うん」
俺が頷くとロンジュンはキッチンの方に歩いていった。陶器同士が当たる音がした後、電気ポットからお湯を入れる音がした。それからテーブルに運ばれてきたのは大層な中国茶器たちだった。
「お前こんなのいつ使うんだよ」
ついつい茶化したくなるほど立派なものだった。ロンジュンはそれを聞き流しながらお茶を湯のみに注いでいる。
「お茶いれる時に使うんだよ」
言いながらロンジュンはこちらをちらりとも見ていない。余りにも適当な返しで笑ってしまった。変に気を遣ったり慰めたりしない、普段通りのロンジュンだ。こんな時にもそんなふうに振る舞ってくれることが嬉しかった。
ロンジュンがいれてくれたお茶は香ばしい香りがして、ひとくち飲むと身体の力が緩んでいく。
「なんかあったんだろ」
お茶を飲み干したロンジュンは眉根を下げて俺の方を見た。ああ、また心配させている。いつもいつも面倒くさいだろうに、それでもロンジュンは毎回律儀に俺の事を心配してくれる。
「ロンジュナ、いつもありがと…」
柄にもないことを言っている自覚はあった。笑われるかなとも思ったけれど、ロンジュンは優しい顔で一言、「気にすんな」とだけ言う。お前ってやっぱりかっこいいな。
「うーん、気持ちは分からなくないけど・・・まぁ、それはお前が悪いな」
ロンジュンがあっけからんとしているものだから、感情的だった自分もすっかり冷静さを取り戻していた。
「だよなー…どうしよ」
「さっきの事とかこれまで思ってたこととか全部含めてさ、話したらいいじゃん」
「簡単に言うけどさぁ、今からどうやって…」
俺の言葉を遮るようにチャイムの音が鳴り響いた。
「はーい」
そう言ってロンジュンは俺の手をとった。ソファから立ち上がらせ、掴んだ手をそのままに玄関の方歩いていく。
「待ってロンジュナ、おい、」
「待てないよもうマクヒョン来ちゃったんだから」
ロンジュンは何も躊躇うことなくガチャリとドアノブを捻った。そこには夜の色を背景に佇むマクヒョンが申し訳なさそうに立っていた。
「マクヒョン久しぶりですね」
「ごめんな夜遅くに」
「いえいえ、ほらドンヒョガ!お迎え!」
俺はロンジュンの背中に身を隠した。ロンジュンの細い身体には隠れきれないことも分かっていた。それでも頑なにロンジュンの部屋着を掴んでいたのはマクヒョンに合わせる顔がなかったからだ。
「ドンヒョガ…」
困ったみたいな声色。それだけでどんな顔をしているか分かってしまう。マクヒョンの顔を想像するのは得意だ。会えない時、何度も顔を思い浮かべて気を紛らわせていたのだから。
どうすればいいか分からないといった風に眉が下がっている。俺を怒らせたと思って距離をはかりかねている。
「帰ろう」
そう言って手が伸ばされた。不安そうな顔をして、だけどこのヒョンは俺がその手を握り返すことを確信している。何でそんなに自信満々なんだよ、それとも無意識なのか?頭の中で文句を言い連ねながら自分の手をマクヒョンの手に重ねていた。
ネオンの光から少し離れた人通りがほとんど無い道。人の顔も満足に見えないくらい辺りは真っ暗だ。そのせいなのか、はたまた先程の出来事に負い目を感じているからなのか、繋がれた手がほどかれることはなかった。
「最近ドンヒョクの目が腫れてたってロンジュンから言われた」
繋がれた手に力が込められて、骨が微かに軋むような感じがした。
「ごめん、全然気づいてやれなくて」
項垂れるマクヒョンは大真面目に自分を責め立てているようで、そんな姿を見てちくりと胸が痛くなる。こんな風に思ってくれている人に対して、酷い態度をとってしまった。忙しかったのだって、俺の事をああ言うしかなかったのだって、マクヒョンのせいじゃなかったのに。
「俺の方こそ…嫌な態度とってごめんなさい」
自分でも驚いてしまうくらい弱々しい声だった。
項垂れていたマクヒョンの頭が上がって、見つめられる。何だか久しぶりにマクヒョンに見つめられた気がして、心臓が軋む。真っ直ぐな瞳は、マクヒョンを形成しているパーツの中で一番好きだ。丸くて可愛い、少しつり上がった猫っぽい目に見つめられている。ドキドキと重く身体に響く音を感じていると、俺を見つめるマクヒョンの顔が少しだけ歪む。歩いていた足はいつの間にか止まっていて、繋いでいない方の手で目元を撫でられる。
「あー…俺また泣かせた…」
柔かに行き来する指先は気温のせいもあっていつもよりひんやり冷たい。まだ熱の引かない目元をなぞられるのは心地よくて、つい、頬に置かれた手に顔を擦り寄せた。そうすると、その手は俺の頬を包みあげて、あ、これキスする流れじゃない?そう思った時にはとても近くにマクヒョンの顔があった。ゆっくりと瞼を閉じると、そのまま唇が重なる。お互いの唇の感触を確かめて、顔を離した。
「ヒョン、ここ外…」
「誰も見てないよ」
マクヒョンがそんな風に言う日が来るなんて、思ってもみなかったな。そんなことを考えて再び目を閉じた。遠慮がちに舌が差し込まれるのを、静かに受け入れた。舌と舌が重なり合って、絡み合って。遠くから車のクラクションの音が聞こえる。ここは路上でいつ人が来てもおかしくないのに、お互いの息遣い、匂い、味、その全てが懐かしくて俺たちは夢中でキスをしていた。
1/1ページ