内戦後

砂が水を吸う音

 雨が降っていた。
 怒号と銃声と刃の音が満ちていたアルバーナの広場に、静かに、しかし確かに雨が降っていた。
 終結宣言を成した国王が側近に身を固められ用意された輿に押し込まれて宮殿へと立ち去れば、まだそこに佇む人は多いというのに、世界は沈殿していた。
 誰かのしわぶきと雨粒が砂に吸い込まれていく音が、ビビの耳に届いた。乾いた地面に流れた血も混え薄めて一緒に吸い込んでいく、その小さな音が。
 広場には、さっきまでの戦闘の痕跡がそのまま残っていた。砕けた石畳。折れた得物。引きずられた跡。座り込んだままの者。壁に背を預けなければ立っていられない者。そして、もう二度と動かなくなった者。
 雨はそのすべてに等しく降り注ぎ続けている。
 そこへ水色の髪が揺れたとき、周囲の空気がわずかに変わった。
 王国軍の兵士が目を向けた。反乱軍の者が動きを止めた。誰かが小さく声を上げた。
 約二年、行方の知れなかった王女が、埃と所々に血の付いた姿で、そこに歩いていた。視線が集まった。しかしビビはそれに気づいているのかいないのか、すっと踏み出していく。
 ビビが最初に声をかけたのは、たまたま一番近くにいた王国軍の一兵卒だった。兵士は驚いたように背筋を伸ばし、何か云いかけて、言葉を飲み込んだ。王女に気遣われることへの戸惑いが、その顔にそのまま出ていた。ビビは彼の身体に重篤はないか確かめると、また隣にいる者に声をかけた。
 しばらく誰もが呆然としていた。しかし、やっと周囲がはっとした気配に満ちた。
 焼け野が原を行く王女のその姿に、まず王国軍が立ち返ったように動き出して、無事な兵士は近くで倒れている者のそばに膝をついた。元反乱軍の者が、仲間の身体を抱き起こした。
 治療を求める声が響き渡った。おのおのが、慌てて、またはゆっくり、ある者は足を引きずりながら、身体を引きずりながら、それでも動き始めた。
 ビビはさらに、さっきまで敵同士だった人たちであり、ビビの愛する国の人たちの間を歩いた。
 懐かしい顔を見た。ケビがいた。地面に膝をついて、仲間の傷に布を当てていた。ビビが名前を呼ぶと、顔を上げたケビと目が合って、無言うなずき合った。
 オカメがいた。背中の刀を今は地面に置いて、誰かの手を握っていた。ビビが駆け寄って声をかけると、疲れ果てた顔に薄く笑みを浮かべた。
 生きている。生きている人がいる。
 ビビは確認しながら進んだ。名前を呼んで、返事をもらうたびに、あるいは名も知らぬ怪我人から声をもらうたび、あるいは、声も上がらない横たわる人を見たときに、胸の奥で何かが積み重なっていった。それが何なのか、立ち止まって確かめる余裕はなかった。
 重傷人が優先的に担架に乗せられている様子は、もう視界の先で捉えていた。ひとつひとつ確かめながら進みたいと思う足取りが早まっていく。そこに向かって走り出したい衝動がビビの胸を突き、抑えられなかった。
 雨に濡れた外套が足にまとわりき、転びかけ、踏みとどまって前のめった勢いのままにビビは進んだ。それぞれが今できることを見つけた周囲に、ビビを引き留める者はいなかった。
 担架はすでに広場の端まで運ばれていた。
 二人の兵士に運ばれるそれが、人垣の隙間から見えた瞬間、ビビの足が止まった。
 通常なら光を反射する砂色の髪が、雨に濡れて色が鈍くなっている。
 仰向けに寝かされて、重傷だとわかった。横たわったまま動かない身体に、切り裂いただけらしい布に滲む赤。それでもわずかに顔の向きがビビのいる方向へと動いた。雨粒をそのまま受けるしかない眼鏡が静かに反射した。
 左の眉に走る傷が、昔と変わらない場所にあった。
 その瞬間、ビビの中で何かが崩れた。
 声も出なかった。相手も視線の先がビビだと捉えた反応を示し、淡い色のレンズの向こうで目が少し細められる。だがそれ以上の反応はなく、凪いだ様子の人間に対して泣くつもりもなかった。ただ次の瞬間に、何故か、向かい合った相手の目がびっくりしたように大きく開かれた。ビビの顔がぐしゃりと歪んだからだ。頬を滑る水滴が雨にしてはやけに熱くなっている。
 生きているとわかって、それだけで、もう止まらなかった。
 絶え間ない緊張の中にいた身体が浮くような心地になり、ビビはふらふらと担架に近づいた。担架を運ぶ兵士がビビを見る。この運び出される重傷者、反乱軍のリーダー、いや元反乱軍のリーダーはどうも王女の知り合いらしいとわかって立ち止まる。
 担架の縁まで辿り着くと、もっと涙が出た。大粒の涙がこぼれて、喉の奥は痙攣し、続いて鼻水まで垂れてきたのがわかったが止めどなく、みっともなく、まったく王女らしくない顔になって、泣いた。
 コーザは担架の上で、その顔を見ている。
 泣き出したことに最初おどろき、次いで、どこかで見たと思った。
 泣いているビビを見るのは初めてではなかった。泥だらけのかっこうで、近くで見ればすり傷もこしらえていて、鼻水まで垂らして、子供の頃のようだった。
 意識が薄れているのか痛みは遠く、だが耳は冴えていて、ビビの息遣いと雨の音だけがやけにはっきり聞こえた。泣いているので少し荒く、熱がこもった、生きている証と、それを包み込んでいる音だけが。
 コーザは銃弾に身体を貫かれ、なお意識が浮上したときに、まず思ったのは生き残ったのかということだ。正確に言えば、生き残ってしまったのかということ。
 自分が動かした反乱が、どれだけの命を奪ったか。
 立てなくなった身体の下で砂が血を吸っていた。
 頭の片隅に掠めるその思いは、しかしコーザにとってただの甘美な逃避でもあり、許されるわけがないとも知っていた。生き残ってしまったなどと、そんな陶酔に酔う資格のない、自分は生きなければならない人間だった。
 ケビがきつく結んでくれた布切れの下でどんなに血をこぼそうと、ついさっき命を交錯させた王国兵と同じ装備の王国兵に担架で運ばれようと、そうして生きなければならないと、それを思いながら、仰向けにされてしまえば真正面から受けるしかない雨を降らしてくれる天を見ていた。
 そこにビビが来た。
 なんとなく、来るとは思っていた。しかし、泣くとは思わなかった。
 だが、コーザはこの泣き方を知っていた。
 自分が傷ついたときではなく、他の誰かが傷つくと思ったとき、こいつは泣く。
 そうだった。誘拐されて、自分が怖い目に遭って、それよりも、友達が死ぬかもしれないと思って泣いてた。そういう泣き方をするやつだった。
 今も同じ泣き方をするんだなと思いながら、コーザは視線を外せなかった。
 ビビが泣いているのは、コーザが死ななかったからだ。それだけの理由で、これだけ泣いている。戦争への哀悼でも、生き延びた安堵よりもさらに深くより単純に、ただ、生きてそこにいるという事実に向かって泣いている。
 何万人もの命をこの内戦に引きずり込んで、それでもまだ生きているコーザのために、ビビは泣いていた。責めるのでも、許すのでもなく、ただ生きていることで、泣いていた。
 その涙の意味が、重傷で動けない身体に、じわりと沁みた。
 雨に濡れた眼鏡の向こうで、ビビの顔がにじんでいた。ビビは手の甲で顔をぐいっと拭いた。一度だけ、荒っぽく。それからコーザを見た。
「リーダー」
 声が少しだけ震えていた。
「傷は平気なの……? 死なないわよね……? あのね……トトおじさんが……ユバがね……」
「ビビ」
 コーザが呼んだ。
 ビビが息をのむ気配がした。
「……心配性はなおってねェらしいな」
 低く、かすれた声だった。息を継ぐのに少し間があった。
「……ユバは……どうか知らねェが……何が起きても……あのガンコ親父はくだばりゃしねェさ」
「リーダー……」
「……そしておれもその血を引いている」
 口の端を上げて見せる。担架がゆっくりと動いていた。重傷人であり、そして、重要人でもある。兵士たちは足を止めなかった。レンズの奥の目がビビを追っていた。
「手当を受けたらすぐに“ユバ”へ向かう。報告は入れる、心配するな」
 ビビは一度だけうなずいた。
「うん……」
 ビビが追いかけない担架は、すぐに人の波へと溶けていった。
 砂を踏みしめる音と、ざわめきのなかで、コーザの姿はあっけなく見えなくなった。雨はまだ降り続け、さっきまでそこにあったはずの輪郭だけが、ぼやけて残る。
 搬送する兵士の背を見送ったビビの肩を、荒い手つきで掴む者がいた。
「ビビッ!」
 振り向くより先に、切羽詰まった声がぶつかる。
 ケビ。
「コーザ捕まっちまうか!?」
 先ほどまでビビの背後に来て控えるようにコーザとの様子を見守っていたケビは、ビビが振り向いたときには鬼気迫ったような表情をしていて、その目で射貫くように問うた。
「罰、受けんのか?」
 掴まれたままの肩を固まらせて、ビビは動かなかった。
 短い問いの奥にある、ケビがもっとも聞きたい意図がわかった。
 反乱軍は、国家に対して武器を取った。戦争は終わった。では、残存兵は――責任者はどうなる。
 その先の言葉は、ケビの喉から出てこなかった。率いた者が、最も重い責任を背負う立場にあることを、ここにいる誰もが知っている。だからこそ、最悪の形だけは否定してほしい、その一心で、口にできない言葉が胸の奥に引っかかる。
「おれだ」
 ビビが何かを返す前に、ケビはさらに言葉を重ねた。
「コーザを担ぎ上げたのはおれだ」
 喉の奥を震わせながら、それでも言い切る。正面で向き合う顔は、雨で埃と血が流れても瞬きすら惜しんでビビの言葉を待っていた。
「おれたちだ」
 周囲でざわめきが起こった。
「おれたちがリーダーにした」
「なんならおれが言う、おれたちがやらせたって!!」
「武器を集めたのはおれだ!」
 誰かの声が続き、すぐにいくつも重なった。
 責任はひとりのものではないと、押し返すように。
 声があちこちから上がった。疲れ切った顔の男たちが、傷を押さえたまま、口々に言った。戦闘が終わったばかりの広場で、反乱軍の残った者たちが、そうやって立っていた。
 その声を、ビビはまっすぐに受け止めて聞いていた。
 誰かを庇うために、自分の罪を申し出ている。
 その言葉の重さが、胸に落ちた。コーザの周りには、こういう人間がいた。ずっと、そうだったのだと思った。
 戦場でぶつかり合ったはずの人間が、すれ違ったはずの人間が、こうして同じ方向を向いている。そのことが、ただ嬉しかった。
 ケビはまだビビを見ていた。肩を掴む手は離れていなかった。答えを待っている。
 ビビはすぐには口を開かなかった。視線だけをゆっくりと反乱軍らへ向け、そのひとりひとりを確かめるように見渡す。
「取り調べはされるだろうけど」 
 一度言葉を切り、静かに息を整える。
「……恐れるような罰を受けることにはならないわ。わたしが言える立場かどうかはわからないけど、それだけは言える」
 ケビの手が、わずかに緩んだ。
「今回のことは、王家も、国も、一方的に誰かを裁けるような話じゃないもの。そのことは、お父様もわかっていると思う。あなたたちの話は、ちゃんと聞かれる。誰が何のためにそうしたか。それは、なかったことにはならないから」
 はっきりと、しかし過度に強くはない声音だった。断言しながらも、事実の範囲を越えない言い方で、線を引く。
 張り詰めていた空気がわずかに緩む。誰もすぐに言葉を発さないが、肩に入っていた力だけが抜けていく。
 ビビはケビを見た。子供の頃から知っている顔だった。雨に濡れそぼって、疲れ切っていて、それでも同じ顔だった。
「ケビも、怪我してるでしょ。ちゃんと手当てして」
 ケビは一瞬、きょとんとした顔をした。ビビの肩をつかんでいた手が落ちて、それから視線を逸らした。
「……わかってる」
 オカメが横から口を挟んだ。
「すぐ無茶するんだよこいつ」
「お前もだろ」
「うるさい」
 低い声で言い合う二人を、ビビは少しのあいだ見ていた。そしてほんの少しだけ、頬を緩めた。
 そこへ、宮殿の方角から慌ただしい足音が近づいてきた。ほぼ悲鳴に近い声を上げて人ごみを割るように駆けてくる者たちがいる。
「……ビビ王女様!!」
 宮殿の装束。
 涙を滲ませた侍女たちが、数人、息を切らしてビビの前に現れた。そのままその姿を確かめるように取り囲む。砂に汚れた衣や、雨に濡れっぱなしの肌、大きなすり傷を見て、息を呑む気配が伝わる。
「ご無事でしたか……お身体が……」
 差し出される手は震えていた。ビビの腕を取って、肩に触れて、顔を覗き込んで。約二年分の言葉が一度にあふれていた。どこかお怪我は、宮殿へお戻りを、お召し物が、と手が伸びた。連れ帰ろうとするその動きは、王女を守るため当然のものだった。
 ビビは侍女たちの顔を、一人ずつ見た。
「ありがとう。でも今は」
 広場を示した。
「先に手当てが必要な人がいるわ。手を貸して」
 一人の侍女の手を取り、そのまま近くの負傷者の方へ導く。
「宮殿から布と水を持ってきてくれる? 動ける人は、できる範囲でいいから手当てを」
 指示は短く的確で、すぐに動きへと変わっていく。
 戸惑いながらも、侍女たちは頷いた。涙を拭い、顔を上げた。王女の傍にいることだけが役目ではないと、その背で侍女たちは示す。人の流れの中へ踏み出し、やがて群衆の中に溶けていった。
 その姿が完全に見えなくなったとき、残された側に沈黙が落ちた。
 誰も言葉を探さず、砂が水を吸う音だけがあった。それまでずっと何かに向かって動き続けていた身体が、初めて止まった。遅れて、ようやく実感が胸に降りてくる――終わったのだと。
「……王女サマも泣くんだな」
 ぽつりと、エリックが云った。
「あ?」反応してケビが振り向く。
「いや」エリックは広場の端に目をやったまま「見てたから。泣いてたろ、あのじょーちゃん」
 ケビは何も言わなかった。
「あんたらが幼なじみって、ほんとだったんだな」
 ユバ出身の者たちは云った、子供の頃に王女と友達だったと。そんなもの戦場では絵空事のように聞こえていた話が、さっきの光景と重なって、急に輪郭を持って現実の関係として立ち上がる。
 同じように顔を前に向けたまま、ファラフラが云った。
「良かったな」
 それ以上は何も足さない。だが、その一言に、いくつもの意味が沈んでいる。
 ケビはすぐには答えなかった。唇を結び、奥歯を噛みしめる。喉の奥で何かが詰まり、それでもどうにか押し出すように、
「……ああ」
 短く、それだけを返す。
 次の瞬間、力が抜けたように肩が落ちた。顔を伏せたまま、こらえきれずに息が崩れる。
 雨と一緒に砂の上に落ちる涙は、すぐにわからなくなる。それでも確かに、そこにあった。

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