内戦後
並び歩き
昼前のユバは、乾いた風の中にかすかな湿り気を含んでいた。掘り返された土の匂いと、炊き出しの煙が混ざって生活の気配をつくっている。
崩れかけた壁を修復する音が、どこか遠くで響いている。作業の手は止まらず、誰もがそれぞれの場所で、同じように“戻す”ことに向き合っていた。
その中で、トトのもとに一通の通達が届いた。
読み終えたあと、トトはしばらく何も云わず、風の向きを確かめるように空を見上げた。それからようやく、知らせておくべき人物はどこにいるだろうかと歩き出す。まだ治りきらない身体のくせに、常に外へ出る。
「コーザ」
材木の検分をしていた背中は、作業の端にいた。顔を上げて、眼鏡のレンズ越しに父親の顔を読む。
「王女が来る。視察だ」
コーザは一瞬だけ目を細めたが、驚きは見せなかった。
「ああ、来るか」
それだけを返し、また手元に視線を落とす。
家に戻ったときではなく、ここまで出向いての知らせだということに、逃げ場のない現実を、拒むでもなく、迎えるでもなく、ただそのまま受け取っていた。親しんだ呼び名を使わずにコーザへ伝えたことに意味は詰まっていた。
それから特別な号令はかからない。だが、その言葉はゆるやかな風のように広がっていく。
井戸端で、桶を担いだ女が「ビビちゃん来るらしいよ」と。聞いた隣の男が、手を止めて「ほんとか」と笑う。炊き出しの番をしていた老婆が目を細め「大きくなったかね」と独り言のように呟く。断片が重なっていく。
ユバの者たちは、どこか懐かしさを帯びて笑い合う。
同じ言葉でも、笑いを含む声と、少しだけ固くなる声がある。
他所から来た者は、その名を量るように口数を減らす。王女、という言葉の重さを、自分の知っている形で受け取る。
それでも、誰も特別な準備をしようとはせずに、焚き火は燃え続け、桶は運ばれ続け、壁の修復の音は止まらない。ユバはユバのままだった。
通達はやがて空気になり、誰もそれを改めて確かめることはなくなって数日が過ぎた。
◇
砂煙が来たのは、正午を少し回った頃だった。
列をなすラクダの影。風に翻る布。
陽炎の中で輪郭が滲み、近づくにつれて少しずつ形になる。
気づいたのはユバ育ちの者だった。青い帽子をかぶった黄色い生き物が見えた瞬間、数人の若い女たちが言葉にならない声を上げ、駆け出した。「ビビだ」と、誰が云うでもなく伝わる。
近づくにつれ、中心の姿がはっきりする。淡い青と白の布を重ねた装いは軽やかで、外套の裾にはうっすらと砂が付いていた。飾りは控えめで、それでも目を引くのは、清潔さと、ここまで歩いてきた痕跡が同居しているからだった。
予期せぬ住民集団の接近に、護衛は一歩前に出る。しかしビビは静かに手を上げてそれを止めた。
「ビビィ!!」
次の瞬間には、走り寄ってきた彼女たちと手を取り合い、遮るものは何もない乾いた青空へと笑い声が上がった。
「久しぶり!」
弾むように抱き合う姿は、王女ではなく、ただの「ビビ」だった。
「生きてたぁ!」
「あんたもうどこ行ってたのっ」
重いはずの台詞も軽い調子で飛び交う。
「クエ~!」
団子のようになってしまったその外側を、カルーが包み込むように大きな翼を広げて鳴いた。
視界の端で記録官が戸惑っている様子が映り、ちょっと気の毒でますます笑えた。
手を取られ、引かれ、肩に腕が回されるのを受け取っている中で、抱きついた一人がビビの肩に顔を伏せながら「……ごめん」と、小さな羽虫が震えるような声を出した。
砂砂団のメンバー。すなわち、反乱軍に参加していた。
周りの数人が、目元をぬぐっていた。
「……うん」
様々な思惑が行き交った過去とこの瞬間の感情を、ビビは見下ろす位置ではなく、同じ目線でただそれだけを呟いた。
このぬくもりだけで、あとは何もいらないと思えるような一瞬を享受できることが、嬉しかった。
今を瞳に閉じ込めるようにゆっくりと瞬きをするビビの視界へ、小さく縮こまった肩、頭にかぶったショールの乱れが目に留まる。
ショールの隙間から覗く髪が、短かった。
ビビは顔を上げて、改めて自分と同年代の女たちを見渡した。数人はショールの下で髪を短く切っている。
アラバスタの習いの中で、髪は長さも含めて女の美しさのひとつとされる。だから、ビビは一瞬、目を丸くした。
「ああこれ?」
ビビの目線が首元で固定されていた女が、さっとショールを解く。
「切っちゃった」
ビビは息をのみ、そして、大声が出た。
「似合ってる!! すごく可愛い!」
取り繕っての言葉ではないと、ビビの目がきらきら輝いて証明していて、それでまた笑いがもう一度広がった。
「王都とかさあ、港街ではけっこういるよね」
「流行ってんでしょ?」
「流行らす?」
「いいね」
戦争で変わったものを、理由も意味も問わず、そのまま受け入れる声だった。
わちゃわちゃと人の輪の中に引き込まれるように、ビビはユバの町へと入っていった。周囲にも人が集まっている。
町の中心に近づくにつれ、人の流れが自然とひとつにまとまる。整えられた形はあるが、公式の謁見と明らかに違って遠くない距離。
「……トトおじさん」
先頭で待っているトトの姿に、ビビは歩み寄り、抑えきれないように抱きついた。
「やあ。来たかビビちゃん」
抱きつかれた方のトトの声は穏やかで、ビビの背中をぽんとひとつ叩き返して、顔をほころばせた。
ビビの目には涙が滲んでいたが、こぼすことはなく、王女の姿のまま、娘のような表情で微笑んだ。
側近が小さく合図を送り、ビビは頷いた。空気がわずかに締まった。笑い声が引き、視線が整い、中心にあった柔らかさが一段だけ引き締まる。
ビビはその変化を受け取り、笑顔を収めたわけではないが、目の焦点を変えた。周囲を見る視線になった。
ゆっくりと視線を巡らせる。水の配置、組み上げられたばかりの住居、人の流れ。
隣にカルー。空いた反対側で視界確保した護衛官が半歩前気味。後方には側近と、記録官は会話を邪魔しない位置に。書記官は報告用のため時々前に出て確認するが、それ以外はまた後ろに控える。それから何故か、最後尾に一頭のラクダを引き連れる。
隊列のラクダたちは厩へ移動させたというのに、その一頭だけは何か悠然と睫毛を瞬かせながら王女の列を追う。側近が厩へ追いやろうとするも、王女はそのラクダの成すがままを許容した。
人々は何か意味があるのかと眺めたが、わからないまま当然とその数人でビビはユバの町中を歩いた。
復興の中にある町というのは、完成した町とも、壊れた町とも違う顔をしている。
積み上げられた途中の石材。仮設のまま使われ続けている構造物。修復の跡が新しい壁と古い壁を繋いでいる場所。ユバの水道は元から各家庭に備わってはおらず農業区間にだけ通っていたものだが、まだ放置のままだ。
それらを、ビビは順に目で辿った。
人の流れ。崩れたものを片づけ、足りないものを運び、使える場所から少しずつ生活を戻している。行き交う人々の服についた砂も、すべてがこの町の現在を形作っていた。
道の脇に立っていた男へ声をかける。ユバで暮らしてきた者だった。顔を見ればわかる、昔から知っている顔。記録官は入らない間で言葉を交わすうち、男の表情が少しずつほころんでいく。
その隣では、見慣れない顔が働いていた。
戦後の復興のために、この町へやってきた者だという。どこから来たのか、何をしているのか。ビビは足を止め、短い時間でも話を聞く。
その中には、元反乱軍の者たちも多かった。
王女に身を硬くする。けれどビビは、同じ町で土を運び、水を汲み、壊れたものを直して暮らす人と接するだけだった。
相手は戸惑いを拭えないでいたが、ビビは話しかけるのを止めなかった。線はどこにもない。ただ頷き、話を聞き、必要なところで言葉を返す。
その中から、シルクハットの男が自然と前に出た。ビビに目を合わせる。
王族に対峙して初めから正面を切れない人間も少なくないというのに、一瞬、やや無遠慮と紙一重なほど見つめられた。ただそれは王女という珍しさへの野次馬根性とは違うような、ビビ個人を見たいのだろうかと思える意思が滲んで感じられた。
口調は砂漠の市井特有の荒っぽさはあるものの礼儀知らずではなかった。そして特別な気負いもなく、ビビから振る話だけではなく、復興中の町として必要なことを、しかし無理な要求にはならない事実として伝えてきた。話し方は明瞭で、内容はわかりやすかい。集団でリーダー格なのだと思った。
少し先では、懐かしい顔がまた見つかった。
砂砂団の仲間たちだった。その後、反乱軍として戦った者たち。
先ほど出会い頭の女子のノリはできない男子たちは、ビビの記憶より背が高くなっている。遠慮を含んだ目線をこちらに向けていた。それでも顔を見れば、昔の記憶がわずかに重なる。
ビビは笑った。
その笑顔を見て、相手は一瞬だけ目を見開き、そしてぎこちなくも、笑った。苦いような笑いと云えたが、笑顔は確かに笑顔だった。
ビビは声をかけた。切り出したのは復興の話だ。そして復興の話をしていたはずなのに、ほんの一瞬だけ昔の調子に戻る。そのあとまた、今の話へ戻っていく。
王女としてこの地を記憶に収めるための会話に、ふと自然に私情が顔を出す。ユバだ。これがユバの視察だったと、ビビは胸に懐かしいような感情が浮き上がる。
ユバの空気を吸いながら、町を歩く。今はまだオアシスの湿度は薄い。でも人の声は途切れない。
その歩みの中で、不意にひとつの姿が引っかかる。
特別な場所にいたわけではない。人の中に混じる一人。
使い込まれた衣服に補修の跡がある。その下にまだ包帯が巻かれているはずではと、考えずにいられない。袖をまくった腕が、作業の手振りで動いている。
その顔に細い眼鏡がある。
わずかに光を反射するそれが、他の何よりも異質に見えた。記憶の中にはないものだ。その下の左眉に走る傷は忘れ得ないというのに。だからこそますます、生活の色に染まった全体の中で、眼鏡だけが少しだけ別の時間から来たもののように見えた。
ビビは王女の顔のまま、すぐには近づかなかった。歩みを崩さず、しかし視線だけが確かにそこへ向かう。
探していたわけではないのに、見つける。
呼ばなくても、そこにいるとわかる距離。
互いが互いを意識下に収めた中、コーザは動こうとして、わずかに止まる。
周囲で、わずかなざわめきが生まれ始める。ユバの者たちは気づき、他所から来た者はまだ気づかない。その差が、言葉にならないまま空気を揺らす。
誰も口を出さない。声をかける者もなく、場が自然に、少しずつ空間が空く。
ビビが動いた。歩く速度は変わらない。走らない。視察の歩調と変わらない速さで、しかし向かう先はコーザだけだった。王女として歩いているのに、足は迷わなかった。そのまま、まっすぐに進む。
ビビの前をカルーが先に歩いた。
嘴を突き出してコーザの前で止まる。コーザは一度カルーを見て、それからビビを見た。
カルーを挟んで向かい合う形になった。
そして何故か、これまで最後尾にただ茫洋と付いてきていただけのラクダが、カルーと王女、その後ろに続いた側近たちの間に割り込んだ。リン、とラクダに下げた鈴が澄んで鳴った代わりに、周りの音が、少し遠のいた。
「リーダー、いつから眼鏡なの?」
ビビが云った。
場にそぐわない軽い声だった。けれど、その軽さがそのまま通る関係だった。
コーザは一拍遅れて、顔をしかめる。
「……リーダーって呼ぶな」
子供の頃を掘り返されただけの拒絶ではない、言葉の重さを知った上での拒否だった。
ビビは微笑んで、わずかに間を置き、呼び直す。
「コーザ」
その一音で、距離が静かに定まる。
「クエ!」
翼を広げたカルーは、まるでコーザに擦り寄るような仕草をする。ただコーザは腕を伸ばした距離で首元を軽く撫でた。指先が羽毛をかすめるだけで、それ以上は間にあるものを越えない距離の取り方だった。
それで控えていた護衛は、踏み込まずに引いた。記録官は一歩前へ出かけたが、ビビが片手を軽く上げた。それだけで、空気の判断は下った。
人の流れが、わずかにそこを避ける。正午の光の中で、二人の周囲だけが静かに切り取られた。護衛の視線は届いている。しかしカルーの存在をひとつの安心材料に、二人の声は、言葉は、従者たちへ届かない距離に遠のいた。
誰の邪魔も入らない空間。
「医者がかけろってうるせえんだ」
ぶっきらぼうな調子は昔と変わらない。コーザの表情からビビの視線が少しだけ下がった。服の合わせ目、布の重なり、その下にある包帯の位置を、目が探した。
「……ちゃんと歩けてるの?」
声は軽いけれど、目だけが笑っていない。
「その言い方だと歩けてないやつみたいだな」
「もう!」カルーの背に手をついて身の乗り出してくる。「撃たれたのよっ」
「……まあな」
ビビはため息を吐いた。
「なんで安静にしてないのよ」
責めるというより、呆れを含めたような声だった。
「おまえは、ずっと心配してるな」
そんなビビにコーザは目を細める。
「すげー泣いてたし」
ビビを見たまま、少しだけ遠い目。
「鼻水まで出てたし」
「……出てない」
即座に返る否定に、空気がわずかに揺れる。
その一言で、記憶が引き寄せられる。砂と雨と、あの場の温度。担架の上のコーザと、そのそばに膝をついたビビ。硝煙と血とそこへ降ってくる雨のにおいがした広場。それらが二人の間に、音もなく広がった。
「……まあ、死んだと思ったけど」
軽く云う。だが、その軽さは形だけだ。
「生きてるし」
風が吹き抜ける。砂が足元を撫で、カルーが小さく鳴いた。
「おまえは? 傷、作ってただろ」
ビビはわずかに口元を緩めた。
「砂漠で転んだ」
「らしいな」
短い応酬。けれどそれだけで、互いの無事が確認される。
空気が、ほんの少しだけ柔らぐ。それでも完全には軽くならない。あの戦いを知っている者同士だけが共有する、静かな重さが残る。
ビビはそのまま、ふっと息をつくように笑った。
「わたし、海賊になったの」
一瞬、時間が止まる。
「……は? おい」
コーザの顔に浮かぶのは、驚きと呆れと、理解しかけて、止まる表情だった。言葉が追いつかず、処理が間に合わない。
ビビは構わず続ける。
「色んなところに行ったの」
具体的な名も、出来事も語らない。
「いい仲間ができたの」
ただ、それだけで十分な熱が滲んでいる。
コーザはその様子に、自然と頭の中に立位式で流れた言葉も重なり、やがて短く息を吐いた。
「……そうか」
それ以上は問わない。聞かなくても、そこにあるものを受け取るだけで足りている。
会話は続かない。けれど途切れても、終わった感じはしない。
側近が、小さく合図を送った。視察の続きを促す合図だった。ビビは頷いた。踵を返しかけて、コーザに向かってにっこりと笑った。
「続きを聞きに、また次はわたしの部屋に遊びに来て」
軽く云われたその一言が、静かに重みを持つ。
コーザは視線をわずかに逸らし、短く応じた。
「……ああ」
曖昧で、けれど拒まない声音だった。未来を決めきらず、それでも否定はしない。
ビビは向き直り、歩き出した。クワっ。カルーはコーザに向かって一つ鳴いてから続いた。視察の列が、また動き始める。澄まし顔のラクダは最後尾に付いた。
日が傾くと、ユバの中心に火が灯った。乾いた木とわずかな燃料がぱちぱちと音を立て、鍋の底をゆっくりと温めていく。煙は昼よりも低く、町の高さに沿って漂った。
鍋の中では穀物が静かに煮えている。とろみの薄い粥に、細かく裂かれた肉がわずかに混ざっているのが見えた。匂いは淡く、贅沢とは言えない。それでも、火を囲む人の数だけ、温かさは確かにそこにあった。
「今日はちょっと豪華か」
「王女様いるからな」
誰かが笑いながら云い、別の誰かが肩をすくめる。大げさにする者はいない。気遣いは冗談に紛れて、軽く流される。
ビビも同じ輪の中に座っていた。
同じ鍋から注がれた、同じ一杯を受け取り、他の者と同じように口をつける。味は淡く、肉は少し固い。それでも、喉を通るたびにじんわりと沁みる温もりがあった。
笑い声が上がり、誰かが話を引き継ぎ、また別の声が重なる。どこかで低い唄が生まれる。湯気が揺れ、影が火に合わせて形を変える。
人の流れが、自然にビビの周りへ集まってくる。かしましい女子たち。懐かしさをそのまま言葉にする大人たち。様子を窺うように少し離れて座る他所の者たち。
次々に話しかけられる、その輪の外から、少しだけ間を測るように人影が近づいてくる。砂砂団の男子たちの気配。ビビは顔を上げないで、相手が決めるのを待っていると、最初にケビが口を開いた。
「……久しぶりだな」
短い挨拶だった。あの内戦、広場でのことには触れないまま。共有していることはわかっている。
「うん、久しぶり」
わずかな間のあと、ビビが、ちょっと身をかがめるようにした。ここにはいない人物を話題に出すことへの秘密のように。
「ねえ、コーザの怪我……ほんとに大丈夫なの?」
問いは軽く投げられたが、視線はまっすぐだった。
動いたケビの口元は、笑いになる手前の顔に見えた。
「アスワおばちゃん帰ってきたらさ、熱出してぶっ倒れてよ。しばらく寝込んだ」
周囲から小さく笑いが漏れる。
「だからまあ、大丈夫だべ」
ビビの表情が一瞬だけ止まる。母親の帰宅。熱。倒れた。その言葉が順番に入ってきて、意味として像を結ぶまでに、わずかに時間がかかった。その遅れで、力が抜けた。
「……そっか」
周囲はそのやり取りを、うんうんと頷くだけで特別なものとして扱わない。それがユバの温度だった。
会話が別の話題へ移りかけたとき、ぽつりと別の声が落ちる。
「……おれんとこも、井戸やられてさ」
一瞬だけ、空気の質が変わる。他所から来た者の現状だ。
ビビはすぐに顔を上げ、その声の主を見る。王女としてではなく、ただ話を聞く者として。
「生まれはどこなの?」
静かな問いに、男は少し驚いたように目を瞬かせる。それでも、言葉を続ける。
その様子を見ていた近くの女が、自然に声を挟んだ。
「あんたのとこも大変だったねぇ」
別の誰かが頷く。
「こっちも最初は似たようなもんだったよ」
いつの間にか、その話は輪の中に引き込まれていく。境界が曖昧になり、よそ者だったはずの声が、同じ場所の言葉になる。
男は戸惑いながらも、少しずつ言葉を重ねていく。
火は変わらず燃えている。笑い声と、現実の話が、同じ高さで混ざり合う。話題は途切れずに続いていく。
ビビはその一つ一つに応じながら、輪の中心に座っていた。王女でありながら、ただの一人として鍋を囲んでいる。
火の揺れが、顔を明るく照らす。影が揺れ、笑い声が少しだけ大きくなる。
ふと、ビビは視線を上げた。
昼に見た景色が、今の光景と重なる。途中の町、途切れたままの生活、その中で再び繋がろうとする人の輪。
同じ場所にいる。
その中で、コーザは輪の外縁にいた。何か別の話をしながら、火から少し距離を取って座っている。笑ってはいるが、中心には入らない位置。ビビが囲まれていた輪の熱から、離れたところ、焚き火の光が届く端で、ユバの夜に溶け込んでいた。
同じ空気を吸っている。けれど、同じ時間を過ごしてはいない。
火のはぜる音が、わずかに強くなる。誰かが薪を足し、炎が一瞬だけ高く上がった。
その明かりの中で、距離はそのまま保たれていた。
笑い声が続く中で、また誰かに話しかけられ、ビビは顔を向けて答えた。
夜は静かに降りてきた。焚き火の熱が遠のくと、砂の冷えが足元からゆっくりと上がってくる。
ユバに残された宿はどれも簡素で、その中でも整えられた一室に、ビビはひとりで入った。正確に言えば先客の一羽はいる。護衛兼任のカルーは、長旅の後のブラッシングを終えて、部屋の隅ですでに肢を畳んでいた。
扉を閉めると、外の音がやわらかく遮られる。遠くで人の声が混じり合い、風が壁を撫でていく気配だけが残る。
清拭の用意のために随行官は席をはずしているうちに、自身で外套を外し、腰を下ろす。指先に、まだ砂のざらつきが残っていた。
無意識の脳裏に、海の仲間たちとこの地に一泊した記憶が差した。宿も部屋も違う。人も違う。それは頭の後ろへと流していく。戻らない過去ではなく、戻さなくてはならない昼の光景が、ゆっくりと浮かび上がる。
再会の声。短い髪。抱きついたときの温度。短く交わされた言葉。壁の修復跡。煙の匂い。人々の顔。どれもが強く残るというより、静かに重なっていく。
思い出すというより、ひとつずつを受け取っていくような感覚だった。
コーザの立ち位置。輪の外縁にいた姿。近くにいるのに、同じ時間を歩いていない距離。
それでも、言葉は届いた。交わしたものは、確かにそこにあった。
ビビはゆっくりと息を吐いた。粥の温かさがまだどこかに残っている気がする。薄い味が、それでも沁みた。あの感覚が、言葉にならないまま胸のあたりにあった。
復興の途中というのは、こういうことだと思った。
完成していない。しかし壊れてもいない。その間にある時間を、人がただ生きて動いて、積み上げている。
昼に見た景色の中に、それがそのまま入っていた。
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ形を整えていく。
すぐに答えが出るものではない。けれど、急ぐ必要もないとわかっている。
夜は深く、静かに続いていった。
翌朝、早くから空気はすでに動き始めていた。砂を踏む音。荷を整える手の動き。ラクダの並び。低く交わされる声。出発の準備は、無駄なく進められている。
まだ夜の冷たさが残る活動開始の重要な時間帯。人だかりとはいかないが、それでも見送りが集まる。
形式的な挨拶が並ぶ。カルーが隣にぴったりとついた。トトと短く、簡潔に、必要な言葉を交わした。
出発の前、ビビは周囲に視線を巡らせた。空気がまだ冷たいから、ビビに手を振る人の声もよく通る。
いない。
探すほどではないまま、ただ、いないことには気づく。
王女の隊列が動き出す。足音が規則的に砂を踏む。わずかな引っかかりが一瞬だけビビの第一歩を崩しかけたが、心に別のものが追いついてきて足を前に動かした。
ああ、そういう人だ。
必要な距離を、自分で決めて守る人間だと、知っている。
無理に顔を出すことも、ここまで別れを言いに来ることもない。
進みながら、ビビは一度だけ後ろを振り返った。
ユバの人たちの輪郭はすでに小さく、人影はひとつひとつ判別できない。そこにいるかもしれないし、いないかもしれない。
それ以上は確かめるすべもない。
カルーがビビの顔を覗き込むかのように嘴を近づけてきたので、羽を撫でた。風が横から吹き抜け、隊列の布が揺れる。
空の高いところで、鳶の鳴き声が響き渡った。
その鳶の視線の下で、ユバは再び日常へと戻っていく。
コーザは作業の手を止めた。何気なく、顔を上げる。
鳶が、静かに円を描いている。
しばらくそれを見てから、再び日常のために手を動かした。
同じ空の下で、別々の場所へと、それぞれが進んでいく。
昼前のユバは、乾いた風の中にかすかな湿り気を含んでいた。掘り返された土の匂いと、炊き出しの煙が混ざって生活の気配をつくっている。
崩れかけた壁を修復する音が、どこか遠くで響いている。作業の手は止まらず、誰もがそれぞれの場所で、同じように“戻す”ことに向き合っていた。
その中で、トトのもとに一通の通達が届いた。
読み終えたあと、トトはしばらく何も云わず、風の向きを確かめるように空を見上げた。それからようやく、知らせておくべき人物はどこにいるだろうかと歩き出す。まだ治りきらない身体のくせに、常に外へ出る。
「コーザ」
材木の検分をしていた背中は、作業の端にいた。顔を上げて、眼鏡のレンズ越しに父親の顔を読む。
「王女が来る。視察だ」
コーザは一瞬だけ目を細めたが、驚きは見せなかった。
「ああ、来るか」
それだけを返し、また手元に視線を落とす。
家に戻ったときではなく、ここまで出向いての知らせだということに、逃げ場のない現実を、拒むでもなく、迎えるでもなく、ただそのまま受け取っていた。親しんだ呼び名を使わずにコーザへ伝えたことに意味は詰まっていた。
それから特別な号令はかからない。だが、その言葉はゆるやかな風のように広がっていく。
井戸端で、桶を担いだ女が「ビビちゃん来るらしいよ」と。聞いた隣の男が、手を止めて「ほんとか」と笑う。炊き出しの番をしていた老婆が目を細め「大きくなったかね」と独り言のように呟く。断片が重なっていく。
ユバの者たちは、どこか懐かしさを帯びて笑い合う。
同じ言葉でも、笑いを含む声と、少しだけ固くなる声がある。
他所から来た者は、その名を量るように口数を減らす。王女、という言葉の重さを、自分の知っている形で受け取る。
それでも、誰も特別な準備をしようとはせずに、焚き火は燃え続け、桶は運ばれ続け、壁の修復の音は止まらない。ユバはユバのままだった。
通達はやがて空気になり、誰もそれを改めて確かめることはなくなって数日が過ぎた。
◇
砂煙が来たのは、正午を少し回った頃だった。
列をなすラクダの影。風に翻る布。
陽炎の中で輪郭が滲み、近づくにつれて少しずつ形になる。
気づいたのはユバ育ちの者だった。青い帽子をかぶった黄色い生き物が見えた瞬間、数人の若い女たちが言葉にならない声を上げ、駆け出した。「ビビだ」と、誰が云うでもなく伝わる。
近づくにつれ、中心の姿がはっきりする。淡い青と白の布を重ねた装いは軽やかで、外套の裾にはうっすらと砂が付いていた。飾りは控えめで、それでも目を引くのは、清潔さと、ここまで歩いてきた痕跡が同居しているからだった。
予期せぬ住民集団の接近に、護衛は一歩前に出る。しかしビビは静かに手を上げてそれを止めた。
「ビビィ!!」
次の瞬間には、走り寄ってきた彼女たちと手を取り合い、遮るものは何もない乾いた青空へと笑い声が上がった。
「久しぶり!」
弾むように抱き合う姿は、王女ではなく、ただの「ビビ」だった。
「生きてたぁ!」
「あんたもうどこ行ってたのっ」
重いはずの台詞も軽い調子で飛び交う。
「クエ~!」
団子のようになってしまったその外側を、カルーが包み込むように大きな翼を広げて鳴いた。
視界の端で記録官が戸惑っている様子が映り、ちょっと気の毒でますます笑えた。
手を取られ、引かれ、肩に腕が回されるのを受け取っている中で、抱きついた一人がビビの肩に顔を伏せながら「……ごめん」と、小さな羽虫が震えるような声を出した。
砂砂団のメンバー。すなわち、反乱軍に参加していた。
周りの数人が、目元をぬぐっていた。
「……うん」
様々な思惑が行き交った過去とこの瞬間の感情を、ビビは見下ろす位置ではなく、同じ目線でただそれだけを呟いた。
このぬくもりだけで、あとは何もいらないと思えるような一瞬を享受できることが、嬉しかった。
今を瞳に閉じ込めるようにゆっくりと瞬きをするビビの視界へ、小さく縮こまった肩、頭にかぶったショールの乱れが目に留まる。
ショールの隙間から覗く髪が、短かった。
ビビは顔を上げて、改めて自分と同年代の女たちを見渡した。数人はショールの下で髪を短く切っている。
アラバスタの習いの中で、髪は長さも含めて女の美しさのひとつとされる。だから、ビビは一瞬、目を丸くした。
「ああこれ?」
ビビの目線が首元で固定されていた女が、さっとショールを解く。
「切っちゃった」
ビビは息をのみ、そして、大声が出た。
「似合ってる!! すごく可愛い!」
取り繕っての言葉ではないと、ビビの目がきらきら輝いて証明していて、それでまた笑いがもう一度広がった。
「王都とかさあ、港街ではけっこういるよね」
「流行ってんでしょ?」
「流行らす?」
「いいね」
戦争で変わったものを、理由も意味も問わず、そのまま受け入れる声だった。
わちゃわちゃと人の輪の中に引き込まれるように、ビビはユバの町へと入っていった。周囲にも人が集まっている。
町の中心に近づくにつれ、人の流れが自然とひとつにまとまる。整えられた形はあるが、公式の謁見と明らかに違って遠くない距離。
「……トトおじさん」
先頭で待っているトトの姿に、ビビは歩み寄り、抑えきれないように抱きついた。
「やあ。来たかビビちゃん」
抱きつかれた方のトトの声は穏やかで、ビビの背中をぽんとひとつ叩き返して、顔をほころばせた。
ビビの目には涙が滲んでいたが、こぼすことはなく、王女の姿のまま、娘のような表情で微笑んだ。
側近が小さく合図を送り、ビビは頷いた。空気がわずかに締まった。笑い声が引き、視線が整い、中心にあった柔らかさが一段だけ引き締まる。
ビビはその変化を受け取り、笑顔を収めたわけではないが、目の焦点を変えた。周囲を見る視線になった。
ゆっくりと視線を巡らせる。水の配置、組み上げられたばかりの住居、人の流れ。
隣にカルー。空いた反対側で視界確保した護衛官が半歩前気味。後方には側近と、記録官は会話を邪魔しない位置に。書記官は報告用のため時々前に出て確認するが、それ以外はまた後ろに控える。それから何故か、最後尾に一頭のラクダを引き連れる。
隊列のラクダたちは厩へ移動させたというのに、その一頭だけは何か悠然と睫毛を瞬かせながら王女の列を追う。側近が厩へ追いやろうとするも、王女はそのラクダの成すがままを許容した。
人々は何か意味があるのかと眺めたが、わからないまま当然とその数人でビビはユバの町中を歩いた。
復興の中にある町というのは、完成した町とも、壊れた町とも違う顔をしている。
積み上げられた途中の石材。仮設のまま使われ続けている構造物。修復の跡が新しい壁と古い壁を繋いでいる場所。ユバの水道は元から各家庭に備わってはおらず農業区間にだけ通っていたものだが、まだ放置のままだ。
それらを、ビビは順に目で辿った。
人の流れ。崩れたものを片づけ、足りないものを運び、使える場所から少しずつ生活を戻している。行き交う人々の服についた砂も、すべてがこの町の現在を形作っていた。
道の脇に立っていた男へ声をかける。ユバで暮らしてきた者だった。顔を見ればわかる、昔から知っている顔。記録官は入らない間で言葉を交わすうち、男の表情が少しずつほころんでいく。
その隣では、見慣れない顔が働いていた。
戦後の復興のために、この町へやってきた者だという。どこから来たのか、何をしているのか。ビビは足を止め、短い時間でも話を聞く。
その中には、元反乱軍の者たちも多かった。
王女に身を硬くする。けれどビビは、同じ町で土を運び、水を汲み、壊れたものを直して暮らす人と接するだけだった。
相手は戸惑いを拭えないでいたが、ビビは話しかけるのを止めなかった。線はどこにもない。ただ頷き、話を聞き、必要なところで言葉を返す。
その中から、シルクハットの男が自然と前に出た。ビビに目を合わせる。
王族に対峙して初めから正面を切れない人間も少なくないというのに、一瞬、やや無遠慮と紙一重なほど見つめられた。ただそれは王女という珍しさへの野次馬根性とは違うような、ビビ個人を見たいのだろうかと思える意思が滲んで感じられた。
口調は砂漠の市井特有の荒っぽさはあるものの礼儀知らずではなかった。そして特別な気負いもなく、ビビから振る話だけではなく、復興中の町として必要なことを、しかし無理な要求にはならない事実として伝えてきた。話し方は明瞭で、内容はわかりやすかい。集団でリーダー格なのだと思った。
少し先では、懐かしい顔がまた見つかった。
砂砂団の仲間たちだった。その後、反乱軍として戦った者たち。
先ほど出会い頭の女子のノリはできない男子たちは、ビビの記憶より背が高くなっている。遠慮を含んだ目線をこちらに向けていた。それでも顔を見れば、昔の記憶がわずかに重なる。
ビビは笑った。
その笑顔を見て、相手は一瞬だけ目を見開き、そしてぎこちなくも、笑った。苦いような笑いと云えたが、笑顔は確かに笑顔だった。
ビビは声をかけた。切り出したのは復興の話だ。そして復興の話をしていたはずなのに、ほんの一瞬だけ昔の調子に戻る。そのあとまた、今の話へ戻っていく。
王女としてこの地を記憶に収めるための会話に、ふと自然に私情が顔を出す。ユバだ。これがユバの視察だったと、ビビは胸に懐かしいような感情が浮き上がる。
ユバの空気を吸いながら、町を歩く。今はまだオアシスの湿度は薄い。でも人の声は途切れない。
その歩みの中で、不意にひとつの姿が引っかかる。
特別な場所にいたわけではない。人の中に混じる一人。
使い込まれた衣服に補修の跡がある。その下にまだ包帯が巻かれているはずではと、考えずにいられない。袖をまくった腕が、作業の手振りで動いている。
その顔に細い眼鏡がある。
わずかに光を反射するそれが、他の何よりも異質に見えた。記憶の中にはないものだ。その下の左眉に走る傷は忘れ得ないというのに。だからこそますます、生活の色に染まった全体の中で、眼鏡だけが少しだけ別の時間から来たもののように見えた。
ビビは王女の顔のまま、すぐには近づかなかった。歩みを崩さず、しかし視線だけが確かにそこへ向かう。
探していたわけではないのに、見つける。
呼ばなくても、そこにいるとわかる距離。
互いが互いを意識下に収めた中、コーザは動こうとして、わずかに止まる。
周囲で、わずかなざわめきが生まれ始める。ユバの者たちは気づき、他所から来た者はまだ気づかない。その差が、言葉にならないまま空気を揺らす。
誰も口を出さない。声をかける者もなく、場が自然に、少しずつ空間が空く。
ビビが動いた。歩く速度は変わらない。走らない。視察の歩調と変わらない速さで、しかし向かう先はコーザだけだった。王女として歩いているのに、足は迷わなかった。そのまま、まっすぐに進む。
ビビの前をカルーが先に歩いた。
嘴を突き出してコーザの前で止まる。コーザは一度カルーを見て、それからビビを見た。
カルーを挟んで向かい合う形になった。
そして何故か、これまで最後尾にただ茫洋と付いてきていただけのラクダが、カルーと王女、その後ろに続いた側近たちの間に割り込んだ。リン、とラクダに下げた鈴が澄んで鳴った代わりに、周りの音が、少し遠のいた。
「リーダー、いつから眼鏡なの?」
ビビが云った。
場にそぐわない軽い声だった。けれど、その軽さがそのまま通る関係だった。
コーザは一拍遅れて、顔をしかめる。
「……リーダーって呼ぶな」
子供の頃を掘り返されただけの拒絶ではない、言葉の重さを知った上での拒否だった。
ビビは微笑んで、わずかに間を置き、呼び直す。
「コーザ」
その一音で、距離が静かに定まる。
「クエ!」
翼を広げたカルーは、まるでコーザに擦り寄るような仕草をする。ただコーザは腕を伸ばした距離で首元を軽く撫でた。指先が羽毛をかすめるだけで、それ以上は間にあるものを越えない距離の取り方だった。
それで控えていた護衛は、踏み込まずに引いた。記録官は一歩前へ出かけたが、ビビが片手を軽く上げた。それだけで、空気の判断は下った。
人の流れが、わずかにそこを避ける。正午の光の中で、二人の周囲だけが静かに切り取られた。護衛の視線は届いている。しかしカルーの存在をひとつの安心材料に、二人の声は、言葉は、従者たちへ届かない距離に遠のいた。
誰の邪魔も入らない空間。
「医者がかけろってうるせえんだ」
ぶっきらぼうな調子は昔と変わらない。コーザの表情からビビの視線が少しだけ下がった。服の合わせ目、布の重なり、その下にある包帯の位置を、目が探した。
「……ちゃんと歩けてるの?」
声は軽いけれど、目だけが笑っていない。
「その言い方だと歩けてないやつみたいだな」
「もう!」カルーの背に手をついて身の乗り出してくる。「撃たれたのよっ」
「……まあな」
ビビはため息を吐いた。
「なんで安静にしてないのよ」
責めるというより、呆れを含めたような声だった。
「おまえは、ずっと心配してるな」
そんなビビにコーザは目を細める。
「すげー泣いてたし」
ビビを見たまま、少しだけ遠い目。
「鼻水まで出てたし」
「……出てない」
即座に返る否定に、空気がわずかに揺れる。
その一言で、記憶が引き寄せられる。砂と雨と、あの場の温度。担架の上のコーザと、そのそばに膝をついたビビ。硝煙と血とそこへ降ってくる雨のにおいがした広場。それらが二人の間に、音もなく広がった。
「……まあ、死んだと思ったけど」
軽く云う。だが、その軽さは形だけだ。
「生きてるし」
風が吹き抜ける。砂が足元を撫で、カルーが小さく鳴いた。
「おまえは? 傷、作ってただろ」
ビビはわずかに口元を緩めた。
「砂漠で転んだ」
「らしいな」
短い応酬。けれどそれだけで、互いの無事が確認される。
空気が、ほんの少しだけ柔らぐ。それでも完全には軽くならない。あの戦いを知っている者同士だけが共有する、静かな重さが残る。
ビビはそのまま、ふっと息をつくように笑った。
「わたし、海賊になったの」
一瞬、時間が止まる。
「……は? おい」
コーザの顔に浮かぶのは、驚きと呆れと、理解しかけて、止まる表情だった。言葉が追いつかず、処理が間に合わない。
ビビは構わず続ける。
「色んなところに行ったの」
具体的な名も、出来事も語らない。
「いい仲間ができたの」
ただ、それだけで十分な熱が滲んでいる。
コーザはその様子に、自然と頭の中に立位式で流れた言葉も重なり、やがて短く息を吐いた。
「……そうか」
それ以上は問わない。聞かなくても、そこにあるものを受け取るだけで足りている。
会話は続かない。けれど途切れても、終わった感じはしない。
側近が、小さく合図を送った。視察の続きを促す合図だった。ビビは頷いた。踵を返しかけて、コーザに向かってにっこりと笑った。
「続きを聞きに、また次はわたしの部屋に遊びに来て」
軽く云われたその一言が、静かに重みを持つ。
コーザは視線をわずかに逸らし、短く応じた。
「……ああ」
曖昧で、けれど拒まない声音だった。未来を決めきらず、それでも否定はしない。
ビビは向き直り、歩き出した。クワっ。カルーはコーザに向かって一つ鳴いてから続いた。視察の列が、また動き始める。澄まし顔のラクダは最後尾に付いた。
日が傾くと、ユバの中心に火が灯った。乾いた木とわずかな燃料がぱちぱちと音を立て、鍋の底をゆっくりと温めていく。煙は昼よりも低く、町の高さに沿って漂った。
鍋の中では穀物が静かに煮えている。とろみの薄い粥に、細かく裂かれた肉がわずかに混ざっているのが見えた。匂いは淡く、贅沢とは言えない。それでも、火を囲む人の数だけ、温かさは確かにそこにあった。
「今日はちょっと豪華か」
「王女様いるからな」
誰かが笑いながら云い、別の誰かが肩をすくめる。大げさにする者はいない。気遣いは冗談に紛れて、軽く流される。
ビビも同じ輪の中に座っていた。
同じ鍋から注がれた、同じ一杯を受け取り、他の者と同じように口をつける。味は淡く、肉は少し固い。それでも、喉を通るたびにじんわりと沁みる温もりがあった。
笑い声が上がり、誰かが話を引き継ぎ、また別の声が重なる。どこかで低い唄が生まれる。湯気が揺れ、影が火に合わせて形を変える。
人の流れが、自然にビビの周りへ集まってくる。かしましい女子たち。懐かしさをそのまま言葉にする大人たち。様子を窺うように少し離れて座る他所の者たち。
次々に話しかけられる、その輪の外から、少しだけ間を測るように人影が近づいてくる。砂砂団の男子たちの気配。ビビは顔を上げないで、相手が決めるのを待っていると、最初にケビが口を開いた。
「……久しぶりだな」
短い挨拶だった。あの内戦、広場でのことには触れないまま。共有していることはわかっている。
「うん、久しぶり」
わずかな間のあと、ビビが、ちょっと身をかがめるようにした。ここにはいない人物を話題に出すことへの秘密のように。
「ねえ、コーザの怪我……ほんとに大丈夫なの?」
問いは軽く投げられたが、視線はまっすぐだった。
動いたケビの口元は、笑いになる手前の顔に見えた。
「アスワおばちゃん帰ってきたらさ、熱出してぶっ倒れてよ。しばらく寝込んだ」
周囲から小さく笑いが漏れる。
「だからまあ、大丈夫だべ」
ビビの表情が一瞬だけ止まる。母親の帰宅。熱。倒れた。その言葉が順番に入ってきて、意味として像を結ぶまでに、わずかに時間がかかった。その遅れで、力が抜けた。
「……そっか」
周囲はそのやり取りを、うんうんと頷くだけで特別なものとして扱わない。それがユバの温度だった。
会話が別の話題へ移りかけたとき、ぽつりと別の声が落ちる。
「……おれんとこも、井戸やられてさ」
一瞬だけ、空気の質が変わる。他所から来た者の現状だ。
ビビはすぐに顔を上げ、その声の主を見る。王女としてではなく、ただ話を聞く者として。
「生まれはどこなの?」
静かな問いに、男は少し驚いたように目を瞬かせる。それでも、言葉を続ける。
その様子を見ていた近くの女が、自然に声を挟んだ。
「あんたのとこも大変だったねぇ」
別の誰かが頷く。
「こっちも最初は似たようなもんだったよ」
いつの間にか、その話は輪の中に引き込まれていく。境界が曖昧になり、よそ者だったはずの声が、同じ場所の言葉になる。
男は戸惑いながらも、少しずつ言葉を重ねていく。
火は変わらず燃えている。笑い声と、現実の話が、同じ高さで混ざり合う。話題は途切れずに続いていく。
ビビはその一つ一つに応じながら、輪の中心に座っていた。王女でありながら、ただの一人として鍋を囲んでいる。
火の揺れが、顔を明るく照らす。影が揺れ、笑い声が少しだけ大きくなる。
ふと、ビビは視線を上げた。
昼に見た景色が、今の光景と重なる。途中の町、途切れたままの生活、その中で再び繋がろうとする人の輪。
同じ場所にいる。
その中で、コーザは輪の外縁にいた。何か別の話をしながら、火から少し距離を取って座っている。笑ってはいるが、中心には入らない位置。ビビが囲まれていた輪の熱から、離れたところ、焚き火の光が届く端で、ユバの夜に溶け込んでいた。
同じ空気を吸っている。けれど、同じ時間を過ごしてはいない。
火のはぜる音が、わずかに強くなる。誰かが薪を足し、炎が一瞬だけ高く上がった。
その明かりの中で、距離はそのまま保たれていた。
笑い声が続く中で、また誰かに話しかけられ、ビビは顔を向けて答えた。
夜は静かに降りてきた。焚き火の熱が遠のくと、砂の冷えが足元からゆっくりと上がってくる。
ユバに残された宿はどれも簡素で、その中でも整えられた一室に、ビビはひとりで入った。正確に言えば先客の一羽はいる。護衛兼任のカルーは、長旅の後のブラッシングを終えて、部屋の隅ですでに肢を畳んでいた。
扉を閉めると、外の音がやわらかく遮られる。遠くで人の声が混じり合い、風が壁を撫でていく気配だけが残る。
清拭の用意のために随行官は席をはずしているうちに、自身で外套を外し、腰を下ろす。指先に、まだ砂のざらつきが残っていた。
無意識の脳裏に、海の仲間たちとこの地に一泊した記憶が差した。宿も部屋も違う。人も違う。それは頭の後ろへと流していく。戻らない過去ではなく、戻さなくてはならない昼の光景が、ゆっくりと浮かび上がる。
再会の声。短い髪。抱きついたときの温度。短く交わされた言葉。壁の修復跡。煙の匂い。人々の顔。どれもが強く残るというより、静かに重なっていく。
思い出すというより、ひとつずつを受け取っていくような感覚だった。
コーザの立ち位置。輪の外縁にいた姿。近くにいるのに、同じ時間を歩いていない距離。
それでも、言葉は届いた。交わしたものは、確かにそこにあった。
ビビはゆっくりと息を吐いた。粥の温かさがまだどこかに残っている気がする。薄い味が、それでも沁みた。あの感覚が、言葉にならないまま胸のあたりにあった。
復興の途中というのは、こういうことだと思った。
完成していない。しかし壊れてもいない。その間にある時間を、人がただ生きて動いて、積み上げている。
昼に見た景色の中に、それがそのまま入っていた。
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ形を整えていく。
すぐに答えが出るものではない。けれど、急ぐ必要もないとわかっている。
夜は深く、静かに続いていった。
翌朝、早くから空気はすでに動き始めていた。砂を踏む音。荷を整える手の動き。ラクダの並び。低く交わされる声。出発の準備は、無駄なく進められている。
まだ夜の冷たさが残る活動開始の重要な時間帯。人だかりとはいかないが、それでも見送りが集まる。
形式的な挨拶が並ぶ。カルーが隣にぴったりとついた。トトと短く、簡潔に、必要な言葉を交わした。
出発の前、ビビは周囲に視線を巡らせた。空気がまだ冷たいから、ビビに手を振る人の声もよく通る。
いない。
探すほどではないまま、ただ、いないことには気づく。
王女の隊列が動き出す。足音が規則的に砂を踏む。わずかな引っかかりが一瞬だけビビの第一歩を崩しかけたが、心に別のものが追いついてきて足を前に動かした。
ああ、そういう人だ。
必要な距離を、自分で決めて守る人間だと、知っている。
無理に顔を出すことも、ここまで別れを言いに来ることもない。
進みながら、ビビは一度だけ後ろを振り返った。
ユバの人たちの輪郭はすでに小さく、人影はひとつひとつ判別できない。そこにいるかもしれないし、いないかもしれない。
それ以上は確かめるすべもない。
カルーがビビの顔を覗き込むかのように嘴を近づけてきたので、羽を撫でた。風が横から吹き抜け、隊列の布が揺れる。
空の高いところで、鳶の鳴き声が響き渡った。
その鳶の視線の下で、ユバは再び日常へと戻っていく。
コーザは作業の手を止めた。何気なく、顔を上げる。
鳶が、静かに円を描いている。
しばらくそれを見てから、再び日常のために手を動かした。
同じ空の下で、別々の場所へと、それぞれが進んでいく。
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