内戦後

報告の手紙

 オアシスを整え続けるトトから離れて、ユバを少し歩いた。
 足が地面を踏む感触が、さっきよりも確かだ。身体に残る鈍い痛みも、今は輪郭を失い、ただ身体の一部として馴染み始めている。
 裸眼のままで受け取る視界が、やけに澄んでいた。砂の色。布の揺れ。人の顔。
 それぞれがきちんと形を持って見える。音も同じだ。呼び合う声、笑い声、泣き声、それぞれが混ざらずに届く。
 帰ってきた、という実感が、ようやく身体の中に馴染み始めていた。
 町のあちこちで、再会が起きていた。名を呼び合い、肩を叩き、抱き合う。砂に刻まれた時間が、ひとつずつほどけていく。
 コーザはそれを見ていた。輪の中には入らず、一歩引いた場所から。
 そのすぐそばで、輪に入れず立っている者たちがいる。ユバの人間ではない反乱軍。
 住人から声はかけられる。だが、名前では呼ばれない。行き場がまだ定まらない者たちが、場の空気から浮いている。自分もまた、彼らをここに連れてきた側だと知っている。
 そのとき、輪に入れていないもう一人に気づく。それが誰なのか人物を認識した瞬間、頭皮が引き攣った。
 年嵩の女だった。背はそれほど高くないが、姿勢が落ち着かない。視線だけが忙しく動き、群れの中をなぞるように巡っている。再会の声が上がるたびに、その方向を見た。違うとわかるたびに、また別の方向を。
 やがて、その視線がコーザに止まる。女はほんの一瞬の迷いを見せたあと、こちらに歩き出した。
 コーザも、昔から知っている顔だ。
 足音が近づく。砂を踏む音が、こめかみあたりに聞こえて、やけに大きい。
 はっきりとコーザと対峙した位置に来たところで、口を開いた。
「うちの子は」
 コーザは黙る。逃げる理由はないが、答えも持っていない。
 女は早足で詰め寄る。目の前で立ち止まった女の頭の位置はコーザより下だ。コーザの顔を見上げながら、震える手を胸の前で押さえている。
「うちの子は……」
 繰り返される言葉。
 コーザは息をひとつだけ吐いた。
「……わからない」
 断言できず、否定もできない。確かめる手段を持っていないという、それだけの事実を、選べないまま差し出した。
 女がコーザの服を両手で掴む。指先が布に食い込み、引き寄せられて銃創に触れた。強烈な痛みが全身を貫いたが、痛むのは肉体か、別の何かか。
 ぱかりと開いた口から慟哭があふれ出た。乾いた世界のすべてを引き裂く泣き声だった。
「わからない。ごめん、おばちゃん……わからないんだ」
 縋りつきながら崩れゆく目の前の身体を、どうしようもないままコーザは抱きしめた。
 痛みはぜんぶ無視した、肉体の痛みは。女が泣く重さを、そのまま受け止めるしかできなかった。
 どれくらいの時間が過ぎたのか、わからない。
 周囲の大人たちが、ようやく動いた。静かに近づき、様子を見ていた者たちが、少しずつ距離を詰める。
 ひとりの男――夫であり、帰らぬ子の父親が、そっと妻の肩に手をかける。
 女の身体が、わずかに反応する。掴んでいた手の力が、少しずつ緩む。
 コーザは、それに合わせて手を離す。
 男がゆっくりと女を引き取る。支えるように肩を抱き、離れていく。すれ違いざま、父親の手がコーザの肩を軽く叩いた。
 コーザは、その場を離れる。
 背後のざわめきが、徐々に遠のいていく。人の声が重なり合い、やがてひとつの塊になって消える。
 音が減っていく。
 視界だけが、妙に鮮明だった。布の皺。砂の粒。遠くの影。すべてがはっきり見えるのに、意味は結ばれない。
 ただ、抱えたまま歩く。
 家の前に立つ。
 扉を押して、中へ入る。閉める。
 外の音が、そこで落ちる。
 手を扉についたまま、動きが止まる。
 呼吸が浅い。傷が痛む。胸が上下するのが、やけに自覚できる。
 そのまま、ゆっくりと手を離す。
 玄関先から、居間が見える。
 そこには使いかけの器、水差しの残り、整えられた布。どれも、砂に沈まずにあった。ここで途切れずに生活が続いていたということが、静かに伝わってくる。
 ただし戸口に布が垂らされていないのは、コーザの知らない習慣だ。おそらく外の視界を遮る必要性がなかったからだと一拍遅れて想像する。他には誰もいない場所で、たった一人で生きていた痕跡が見えた。
 嵐が来ても、井戸が枯れても、人がいなくなっても。
 それでも、やめなかったのだろう。掘り続けて、整え続けて、誰もいない場所に生活の形を残し続けた。
 すげえな、とも、何やってんだとも、言葉にはならない。
 ここに戻ってきてしまったことが、妙に現実味を帯びる。
 トトがここで生活していた空気。呼吸していた場所。
 コーザは、視線だけでほんの一瞬そこに触れ、しかしそちらには入らないまま、自室に向かった。
 自分の部屋の扉を開けると、記憶にある室内は形だけそのままで静まり返り、床も机も、うっすらと砂に覆われていた。隙間から吹き込んだものがそのまま積もり、誰の手も入っていない。
 床で、吊るしていた窓布が落ちてぼろきれになっている。三日経ってもまだそこが一番痛い銃創が引き攣れるのを無視してかがみ、拾い上げると手にぐるりと巻いて、それで机と椅子の砂を大雑把に払った。
 椅子を引き、腰を下ろしても身体の奥で鈍い痛みが走る。ぼろきれは丸めて部屋の隅に放る。
 机の上には、干上がったインクの瓶と、穂先が完全に固まった筆。指先が空を掴むように止まり、すぐに顔を上げた。
 窓の外を横切る影が見えた。手帳を片手に立ち止まり、何かを書きつけている。物資の確認か、それとも人員の整理か、指先が慣れた動きで頁を繰っている。いちいち痛む身体を伸ばし、腰を浮かして窓に手をかける。
「おい、エリック」
 声をかけると、外にいた男が振り返る。眉を寄せ、怪訝そうに近づいてくる。
「なんだよ……って、寝てろよ」
「いいから、紙と筆」
 間を置かずに告げる。エリックは一瞬言葉を失い、それから大きく息を吐いた。
「……はあ?」
「あと、それおれにも見せろ」
 手帳を顎で示す。
「ここに来た反乱軍、正確なメンバー。確認して教えろ」
 短く言い切る。視線は逸らさない。エリックはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……了解」
 そのまま踵を返し、足早に去っていく。
 足音が遠ざかる。コーザはそのまま机に肘をつき、息を整える。いつもかけているサングラスは室内では必要がない。代わりに透明レンズを取り出し、弦を開閉しながら裏に表に返す。ひとまず弦を閉じて机に置いた。裸眼のままの視界の端で、砂がわずかに光っている。
 戻ってきたとき、窓越しに差し出されたのは紙と筆だけではなかった。手帳の内容を簡潔に書き起こしたメモ。物資の不足分、移動中に把握した細かな情報まで、いくつかの紙片にまとめられている。
「使えそうなの、適当に抜いといた」
 エリックはぶっきらぼうに云い、窓枠にそれらを置く。
 コーザは眼鏡をかけて受け取り、机の上に広げた。指先で一枚ずつ位置を整え、視線を落とす。
 いま把握できる範囲内で、必要なものは、すべて揃っていた。
 筆先を整え、紙の上へ置く。
 書き出しは迷わなかった。宛名、日付、差出人。公的な文書の形式で書く。
 本文は報告の体裁を崩さない。ユバの現状から。復興に動ける人手の数。医療が必要な者の概数。反乱軍の残存者の配置。書きながら、頭の中で数字を確かめた。曖昧なところは曖昧なままに、推測は推測と明記した。
 文面は迷いなく整っていく。個人の感情は一切挟まれず、事実が順に並べられていく。
 筆先が紙を擦るたび、内側の痛みが遅れて響く。呼吸を浅く整えながら、それでも手は止めない。外で人の動く気配はあるが、意識は机の上に落ちたままだった。

 やがて、日差しが容赦なくなる時間帯、部屋の戸を叩く者があった。返事を待たずに開けられて、コーザは仕方なしに顔を向けた。
「コーザさん、飯。水も」
 入ってきたのは、ユバの出身ではない、反乱軍にいた男だった。大人数が干ばつで村が枯れて合流してきた、その中のひとり。両手に椀と皿を持っていた。
「置いといてくれ」
「……なんだこりゃ」
 コーザの言葉を無視し、器を持ったまま部屋を見渡して、露骨に顔をしかめた。
 砂の積もった部屋のことを言っているのか、それを整えずに机に向かっているコーザのことを言っているのか、どちらでもあるような顔だった。
「食ってろ」
 言い終えるより先にずかずか部屋の中へ踏み込んできて、器をコーザに押し付ける。椀の中で水が揺れ、皿の上で薄焼きパンが踊って滑りそうになって、コーザはそのまま受け取った。
 男は足元の砂を払い、寝台に掛けられていた布を乱暴に取り払う。その背中をコーザは見やった。
 顔と名前こそ憶えているが、この男は年上だったろうか年下だったろうかと、ぼんやり考えたが答えは出なかった。忘れているのかそれとも元から知らないのか、それもわからなかった。細かな塵芥が空気に舞い、光の中で細かく揺れる。
 砂が舞うのを避けるように、コーザは静かに立ち上がり、そのまま部屋を出た。
 出てすぐ扉の横の壁際、足元に、籠に入って畳まれた布がぽつんと置いてあった。清潔な布が入っている。寝台用の大きさ。触れずとも、誰が用意したものか、わかった。
 背後では、扉が開け放たれたまま、布を打つ音と砂を払う音が続いている。コーザは壁にもたれ、パンを口に運ぶ。煮豆のペーストが薄いながらも塗られているとわかるが、味というより体力維持が喉を通る感覚だった。
「そういや明日、王女のスピーチあるとさ」
 寝台用の布を取るため半身を出した男から、ついでのように声が飛んだ。
「立位式もやるってよ」
「そうか」
 国家の動きが、食事中の雑談として届いたのをコーザはただの事実として聞いた。問い返しもせず、話を広げることもない。
 声はそれきりになり、また室内で物が動く音だけが続く。
 皿が空になり、椀の底が見えたところで、持ったままコーザは部屋へ戻った。
 中の空気は先ほどと違っている。砂は払われ、寝台も整えられて、最低限の形が戻っていた。
 男が振り返って、無言で空の器に手を伸ばした。
「ありがとう」
「寝ろよあんた」
 器を持って出ていく。扉が閉まり部屋の中に目を戻すと、砂を追い出すために開け放たれた窓が閉め忘れられていて、外の音が聞こえた。
 砂を運ぶ音が聞こえる。木を打つ音、水を汲む声も。ユバの復興が、昼の光の中で動いていた。遠くで誰かが呼び合い、すぐに別の誰かが応える。灼熱の時間帯がやってくるので、手を休めて日陰に入ろうと云い合っている。
 砂嵐と沈黙だけがあった場所が、今は人の気配を取り戻しつつあった。
 砂が吹き込んでくるのを防ぐため、コーザは窓を閉じた。しかし、閉じても甲高い子供の声が突き抜けてきた。
 コーザは椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろす。書きかけの文章の続きを目で追う。傷が疼いたが、再び手は動いた。
 部屋の中には、また静かな筆の音と、時折、なにもすべきことがない正午をはしゃぐ子供の声が響いた。


 夕方の光が、机の上をゆっくりと滑っていく。窓の外で陽が沈みはじめても、コーザの手は止まらなかった。怪我で削る分のペースが保てないが、続けた。筆先が紙をなぞり、言葉を並べていく。
 やがて、外から匂いが流れ込んできた。
 焦げた燃料の匂いに、何かを煮る湯気が混じっている。
 広場の炊き出しが始まったのだとわかった。
 まだ燃料は貴重で、各々が勝手に火を起こせる状況ではなかった。共同で火を囲む音が、途切れず続いた。呼び交わす声。器の触れ合う乾いた音。戦争が終わって三日で、もうそういう音が戻ってきていた。
 時折、怒鳴り声と、列の流れを仲裁する声も耳に届いた。だが、火が焚かれれば誰か唄い出す者がいる。そういうものだから理由はない。それらは同時に存在してざわめきになっている。連なりは途切れず、夜へ向かう空気の中で、続いていく。
 匂いも、音も、確かにそこにある。それでもコーザは顔を上げない。筆先が紙を走る音だけが、手元に残る。
 窓を叩く音がした。左の親指と人差し指で眉間を揉んで視線を上げると、見知った顔がそこにあった。
「……ばっちゃん」
 ユバの住人だった。昔からすぐそこにいた近所の年老いた女。
 いや、最後に記憶している姿より、さらに背中が丸く曲がってる。それは年月の経過というより、苦労がにじみ出た跡のように思えた。砂嵐で災害避難したのは、たしか一年よりも、もっと前。
 コーザは立ち上がって窓から顔を出した。ばっちゃんは椀を両手に持って窓の外に立っている。
「食べなきゃダメだろ、ほら」
 ぶっきらぼうに云って、椀を差し出す。ほぼ白湯に近いような、薄く間延びした、それでも雑穀の粥だった。淡い湯気が二人の間で揺れた。皺深い目元をわずかに細める顔を見た。
「戻ってきたんだねぇ」
 差し出された椀にコーザが手を伸ばしたとき、付け足すようにそっと置かれた声。
 コーザは呟くように軽い礼を言い、椀を受け取った。長居をする気配はない。閉めた窓の外で気配は遠ざかり、火の輪へと姿はまぎれていった。
 椀を受け取った反対の手で、手紙を汚さないように脇にずらす。湯気がわずかに立ち上り、淡い匂いが鼻先に触れる。
 広場のざわめきが耳に届くが、目は机に向けた。椅子に座り直し、紙に触れないよう位置を確かめて、片手で匙を取る。
 口へ運びながらも、目は紙の上に落ちたまま、文章を読み返した。この一文は削る。この数字は確認が必要だ。書いたばかりの一文を追い、次の言葉を選ぶ。
 粒の少ない粥は、それでも温かく喉を通る。だが味として意識せず身体の中に入れた。椀を手渡された時の声と笑い皺も頭の隅へ追いやりながら。
 外はもう暮れかけている。
 椀を机の端に置き、筆を取った。息を吸い、息を吐く。
 誰がいて、誰がいないかの項目。
 帰らぬ子は誰か。言葉を選び、削ぎ落とし、事実だけを残す。誰が、どこで、どうなったか。
 思い浮かべる記憶へ不意に、反乱軍だけではない顔が過ぎ去る。小枝のように動かなかった手足。末期の清めはしてくれるなと儀式の一滴すら惜しんでいた老人。だがそれらはすべて、反乱の戦いに直積的な関わりだとは言えない、内戦の始まり前に終わった記憶だった。確かに繋がっているのに、ここには書かない判断になる記憶だった。筆を握る手に入る力を意識して抜いた。
 感情は置かなかった。削ぎ落としきれないものが、わずかに滲みそうになるのを、抑えつけるように筆を動かした。

 そろそろランプを用意するかと考えた時、戸口が軽く鳴った。今度は内側から。
「終わったかよ」
 ケビが顔を覗かせた。机の上を一瞥する。
「まだ書いてんのか。ほんと好きだな、そういうの」
「やんなきゃなんねえからやってるだけだよ」
 ケビは「そうかよ」と息をつく。その手に、小さな杯があるのに気づく。
 コーザは眉を寄せた。甘い匂い。この混乱期に、どこにこんなものがあった。
「飲め」
 蜜酒。
「どこから出てきた」
「いいから飲め」
 コーザは杯を取った。陶器は混乱期によく出回る粗末な杯ではなかった。古びているが、その分、長く使われてきた質。その中に、琥珀色の濃い飲み物。ケビはコーザが食べ終わった椀を回収している。
 口に含む。甘さの中に、わずかな苦味と、舌に残る丸み。荒さがなく、落ち着いている。
 知っている味だった。
 言葉にするまでもなく、身体が先に思い出す。
「トトおんちゃんから」
 子供の頃のような笑みを残して、ケビは戸の外へ去っていった。
 閉じた扉をしばし見詰め、コーザはもう一口、杯を傾ける。
 この蜜酒を製造した人を、コーザは知っている。よく、知っている。
 ユバ・オアシスの周りの畑を手入れする、水を無駄にしない土の形というものを知った、がさついた手。
 ナツメヤシとその根元には季節の草が三、四種ばかり申し合わせたように寄り添って生えていて、小さな羽虫が光の粒のように飛び交い、飛行音が鳴る。蜂を落ち着かせるための煙の匂い。粗末な木の箱をそっと外す姿が、子供の自分には、幸福をもたらしてくれるとかいう魔法使いのように見えた。周りには誰もいないことを確認してから、木箱に触れた指先をこちらの口元にそっと差し出す二人の秘密。親指に薄く伸びた、透き通った黄金から、土と花と光の混ざったような甘さ。
 夫よりも細く、やがて成長した息子より低い背中となってからも繰り返していた営み。
 喉を通り、内側へ落ちていく。身体の奥から温度が広がった。じわりと熱が広がり、張りつめていたものが、ほどけていく。
 肩から力が抜けた。視界が揺れ、文字の輪郭がわずかに滲んで見えた。ゆるゆると筆を握ったが、手に意志が乗り切らない。次の一文を頭の中で組み立てようとしたが、形にならなかった。
 外では、まだ声がしていた。
 人の声と、火の爆ぜる音と、燃える匂い。
 机に腕を置いた。杯はまだ手の中にあった。
 手紙は途中だった。けれど、何に、とか、誰に、とか、何を、ではないが、許された気がした。気のせいだ。しかし、ただただそんな気がするというだけの幻に包まれてしまったこの瞬間に、コーザは抗わないことにした。
 杯も筆も手放した。
 椅子から立ち上がり、ベッドに背中をあずけた。新しい布がかけられた寝台が疲れと怪我の身体を受け止める。天井に、昔からあった染みを見つけたのを最後に瞼が閉じた。
 身体が大地に沈んでいった。



 目を開けたとき、光はすでに高く上がっていた。窓から差し込む陽が、室内の輪郭をはっきりと浮かび上がらせている。
 天井の染みがはっきりと見えて、寝すぎたとわかった。小さく舌打ちしそうになり、途中でやめる。蜜酒の甘さが、まだわずかに喉の奥に残っていた。
 身体が硬く、痛みはある。息を整えてから、足をベッドの下に下ろした。ちっとも記憶になかったが、寝落ちする前に、習慣で脱いでいたらしい靴に足を通す。眼鏡はどこだったか探し、枕元に転がっているのを見つけ、割れてないことを確かめる。
 ふと机に目をやると、昨夜の杯が片づけた覚えはないのに消えていた。目を転じれば、新しい窓布が垂れ下がり、陽射しを柔らかに遮っている。あの後か、朝か、部屋に入る可能性が一番高い人物の顔を思い浮かべ、寝顔を見られたかと思うと背筋がこそばゆくなった。
 自室を出て水場に向かった。
 顔を洗い、冷たい水で意識を引き戻す。トトの剃刀を見つけ、手探りで髭を剃る。刃が肌を滑るたびに、細かな痛みが走る。
 外の音が、昨日と違った。
 復興の音は続いているが、その下に別の気配がある。理由は考えるまでもなく想像ついたが、小用は共有スペースまで足を伸ばして、外の空気を知ることにした。眼鏡をかける。
 玄関から外へ出ると、空気がどこか落ち着かない。それは混乱期の座りの悪さとはまた別の理由でだ。人の数は昨日と変わらないはずなのに、動きが少しだけ速い。声の調子も、わずかに上ずっている。急いでいるのではなく、待っている人間の動き方だった。何かを前にして、そわそわしている。
 それでも人は動きをやめない。ユバはまだ壊れている。新たに建設中の、または、修復されている建物は、どれも見た目は雑だ。杭の打ち方がバラバラで、規格も揃ってない。完成された建物を目指す段階ではなく、必要に応じて後付けされ続けることを想定した建築で町並みは整えられている。
 そのまま視界を広くしながら歩いた。誰がどこにいて、何をしているか。断片的に拾いながら、全体の流れを読む。長く人を束ねていると、群れの空気の読み方が身体に染みつく。
 ただし見つかる人に声をかけられるたび、怪我の調子を尋ねられては寝てろコールを浴びるので、生理現象で出すものを出した後はさっさと家に引っ込んだ。
 卓に残されていた食事を片手で口に運ぶ。歯を磨いた後は部屋へ戻り、窓布を引いて外の光を取り入れ、机の前に立つ。
 書きかけの手紙が、そのままの形で残っている。
 コーザは窓を開けた。続きに手を付けようと思ったが、外の気配に引きずられるように、椅子には座らず寝台へと身体を預けた。
 仰向けになり、腕を頭の後ろで組む。外の声は絶え間ない。天井を見たまま、何もせずに待つ。
 やがて、拡声器を通した声が届く。わずかに歪み、距離を含んだ響き。それでも、言葉の芯ははっきりと通ってくる。
「コーザ!! 来い!! 始まっちまったぞ!! ビビちゃんのスピーチが!!」
 トトの焦り声が、何故だか笑えた。
「拡声器の音量は最大なんだ。町中に聞こえてるよ」
 コーザの耳にも、届いている。
 内容は丁寧に選ばれていて、どこか御伽噺に近い組み立て方をしていた。
 誰にでも伝わるようでいて、とても曖昧だった。比喩が多く、感情の輪郭をなぞるような言葉が続く。聞く者によって受け取り方が変わる、そんな響き。
 広場で、国中で、聞いている人間の多くには、その言葉の形そのものが届くだろう。王女の声で、美しい言葉が語られている、という事実として。
 コーザには、別のものが届いた。
 その奥に、実際に見て、触れて、選んできた者の歴史があった。整えられただけのものではない、経験の記録が、声の中に滲んでいる。
 コーザは動かない。寝台に身を預けたまま、その声を受け取る。
 ただ綺麗なだけでもない。言葉にできないことを、言葉の形に変換するときに生まれる、微かな歪みのようなもの。それを、コーザは聞いた。
 コーザは寝台から身を起こした。足を床に下ろし、身体の痛みを受け流しながら窓辺へと歩く。
 窓から、光と風が流れ込んでいる。砂漠の昼の熱気と、外の音がそのまま室内へなだれ込む。
 広場には人が集まっている。老いた者も、子供も、戦っていた者、何かを失った者、復興の手を止めてそこにいた。
 誰かの肩越しに前を見ようとしている者。立ち止まったまま動かない者。腕を組んで聞いている者。それぞれの立ち方で、距離で受け止めながら、同じ方向を向いていた。
 言葉に、アラバスタへの愛があふれた。
 一瞬の間があって、広場から歓声が上がった。大きかった。重なり合って、波のように広がっていく声が、空気を震わせる。
 コーザは窓枠に手をついたまま、それを聞いた。
 小さく、口元が緩む。
 アラバスタの風が吹き抜けていった。


 町中のざわめきが凪いだころ、窓を閉めて椅子を引いた。
 筆を取り、途中で止まっていた文の続きに、そのまま手を入れる。言葉はすでに整っている。
 読み返した。報告すべきことは書いてある。数字は確かめた。削るべきところは削った。感情の入る余地がない文面。王宮宛ての文章として、本文はそのままでよかった。
 最後の行を置く。
『以上
 今後も状況を注視し、必要があれば報告します。』
 しばらく、紙を見ていた。
 コーザは紙の下を少し空けた。
 行間を、ほんの少し。そこにもう一度だけ一筆を置く。
 書き終えると、筆を置いた。インクが乾くのを待った。インクなどすぐに乾く。しかし灼熱をしのぐ時間帯が過ぎるまで、コーザはただ窓からの風景を肌に感じ、目を閉じた。

 そうして、やがて日差しがわずかに和らぎを見せた頃、乾いた紙を指先で折る。角を揃え、余計な力をかけずに重ねる。封を施し、最後に宛名だけを書きつける。筆先は迷わず、短く終わる。
 外へ出ると、正午を越えた町は、わずかに影を伸ばしながら、それでもまだ熱を抱えている。広場の余韻は残り、人の声があちこちに散っていた。
 ラクダ小屋へ向かうと、反乱軍だった男たちが出入りしていた。
「なあ。これ、頼む」
 男は封書を受け取って、裏へ返し、また表の文字を見て、コーザの顔を見た。
 一度だけ頷いた。封の重さを確かめるように懐へ収め、そのまま準備へ移る。手際よく鞍を整え、紐を締め、動きに無駄はない。
 町の外縁、砂へと続く場所まで共に歩く。
 建物の列が途切れて、先は砂だけになる境目に立った。風が正面から来た。乾いた、砂のにおいがした。旅路へ背を叩き、相手からは傷を避けてなのか肩を叩き返された。
 男がラクダに跨った。軽く合図を送り、砂を蹴る音がして、そのまま町の外へ向かった。振り返らないで進んでいく背を、コーザはその場で見送る。
 ラクダの影が、地面に長く伸びる。
 そのとき、別の方向から音が届く。
 車輪の軋み。重く、乾いた音。
 振り向くと、幌車がゆっくりと町へ入ってくるところだった。砂を踏みしめるように進み、去っていくラクダの進路と、交差するように。
 幌がわずかに揺れ、やがて止まった。
 布がめくられる。中から、一人、また一人と、砂埃を被った荷を抱えた男、子供の手を引いた女、老いた背中といった人々が降りてきた。どれもが見覚えある顔。避難していた住民たちが戻ってきたのだ。
 その流れの中に、一人の中年の女がいた。旅の疲れが滲んだ姿勢で、逆光の中に降り立った。輪郭だけが光の中に浮かんでいた。
「あっ」
 声になったのはそれだけで、続かなかった。
 吹く風に砂が細かくきらめく。遠くなっていくラクダの影と、砂の上に降り立った人の影が、同じ視界の中にあった。去るものと、戻るものが、砂漠の出入り口で静かにすれ違った。
 遠くでは、まだ人の声が続いている。
 コーザは動かない。何も言わず、その場に立っている。ただ、そこにいる。





 昼の光が、執務室の机を斜めに切り取っていた。積み上げられた書類の端が白く浮かび、その影が整然と重なっている。紙をめくる音だけが、静かな緊張の中に規則を刻んでいた。
 内戦の終結から数日。ビビの手元に回ってくる文書は増える一方だった。被害状況の集計。復興に必要な物資の算出。各地からの陳情。隣国への通達。官吏が持ち込んでは、優先度を告げて下がっていく。ビビが座する中央に置かれた机から少し離れた補助机にいる側近はその仕分けにせわしない。その繰り返しが朝から続いていた。
 扉が控えめに叩かれる。
「どうぞ」
 短く応じると、イガラムが入室する。無駄のない動きで歩み寄り、手にした書類の束の中から一通を抜き出した。側近の方へは行かず、直接ビビへ。
「ユバからです」
 それだけを告げる。形式は崩れていないが、わずかに温度が滲んでいた。
 ビビの手が止まる。差し出された封を受け取り、指先でその重さを確かめる。
 宛名を見て、視線が一瞬だけ止まった。
 何も言わず、他の書類からそれをわける。イガラムは静かに一礼をして部屋を去った。
 すでに封は開かれた形跡があった。公的書類として通った後にビビの元に回ってきている。紙を取り出し、中身を広げた。
 昔からメモや地図を書き続けていた者の字癖。綺麗かどうかというよりも、人に伝えるための字として読みやすい。ビビの記憶にある筆跡と、紙の上の字の形は、重る。
 ユバの現状。人的配置。資源の状態。二枚目、三枚目へと次の紙を追う。必要な情報が、必要な形で並んでいる。
 王女として読んだ。一行ずつ、意味を確かめるように。
 記述は簡潔で、過不足がない。読み進めるほどに、書いた者が身体を押して書いたであろうことが伝わってきた。それでも曖昧な箇所はなく、読み返す必要もない。
 完全な報告書だった。
 だが、違和感が残る。
 整いすぎている。余白がない。
 この文書を手がけた人物は、自身と、自身だけではなく他者も含めて、あまたの感情を抱えている人なのに。
『以上
 今後も状況を注視し、必要があれば報告します。』
 やがて最後の段落を越えて、一行空いた先に、短い一文があった。

『約束通り、報告した。』

 手が止まった。
 紙の上の文字をもう一度、目で、そして、指先でなぞる。
 すべてを言葉にしないまま、届いている。
 ビビは静かに息を吐いた。表情は変わらないまま、紙を閉じる。
 机の上にそっと置いた手紙にそのまま触れながら、一瞬だけ動かない。
 だが次の瞬間、椅子を引いて立ち上がった。何事かと顔を上げた側近が口を開く隙もない。呼び出しの鈴には触れなかった。扉へ向かい、自ら開けた。
「イガラム」
 短く呼ぶ。すぐに足音が返り、イガラムが姿を現す。
 ビビはまっすぐに告げた。
「ユバの視察を行います。日程を組んで」
 理由は云わない。それで十分だった。
 イガラムは一拍おいてから「かしこまりました」と答えた。その間に何かを読んだかどうかは、顔に出なかった。
 扉が閉じる。執務室に静けさが戻った。
 机の上には、手紙が置かれている。

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