内戦後

砂に帰る

 天井に石の継ぎ目が走っている。整然とした線だった。職人が丁寧に積んだ石が、隙間なく並んでいる。コーザはそれを見ていた。見るともなく、ただ視界にあった。
 簡素な寝台と水差しと、必要最低限のものだけで整えられた部屋で、一人を持て余すしかなかった。
 白く清潔なものへ変えられた包帯の下が、鈍く疼く。
 仰向けでいると傷が床に引っ張られる感覚があって、寝台の上でも身体の位置を常に意識した。眠気はあったが、意識は落ちきらなかった。
 扉の向こうから、足音と話し声が断片的に届く。誰かの名前が混じることもあるが、それが自分の知る誰かなのか判別はつかない。自分に向けられた声は、ひとつもなかった。
 煮込み豆を運んできた人間に尋ねる。
「他の連中はどうなってる」
 返ってきたのは曖昧な言い回しだ。問題はない、処理は進んでいる、という意味合いの言葉が並んだ。それ以上でも、それ以下でもなかった。
 状況は何ひとつ掴めないまま、管理されているという事実だけが残った。
 食欲はなかったが、ただ反乱軍の人数まで抱え込んだ現状のアルバーナにかき集められた食事の累計を想察して、匙を動かして飲み込み、最後に水差しの水を喉に流し込んだ。こいつを求めて争った日々が身体の中に落ちている。
 聴取で積み上げられた言葉が、頭の中で繰り返される。時系列、場所、人数、衝突。意味を持っていたはずの出来事が、順序だけを残して並び替えられていた。あの夜の砂の匂いも、戦場で聞いた声も、記録の上ですべて統一した「交戦」になった。
 視界の端に、天井の石の継ぎ目が入る。整いすぎた室内の空気が、わずかに息苦しい。
 コーザは王宮内の建築様式をまったく知らないわけでもない。でも似た造りのはずなのに、どこか違う。違和感の正体を探ろうとしたとき、不意に別の光景が浮かんだ。
 子供の頃、王宮の中を走り回っていた記憶。
 強い日差しが差し込む廊下。無駄に広い中庭。石畳を足音を響かせて駆け抜け、誰かに叱られて、笑って逃げた。
 あのときの空気は、もっと軽かった。
 あの頃の王宮と、今いるこの部屋が、同じ場所として繋がらなかった。どこかで繋がるはずだと思いながら記憶を辿ったところで、傷が脈打った。意識がそちらへ引き戻されて、記憶はそこで途切れた。

 夜になり、移送の通達が来た。
 理由は説明されない。ただ「ここを出る」とだけ告げられた。言葉に、特別な感情は浮かばない。明朝、移動手段、必要な連絡事項だけが並ぶ。どこへ行くのかも、どうなるのかも、考える手前で止まっていた。コーザはわかったと答えた。それだけだった。





 砂はまだ冷えていた。早朝の空気は乾いていて、息をするたびに喉の奥が引っ張られた。
 王都の外縁に、反乱軍の残存メンバーが散在していた。
 一定の距離を保ったまま、それぞれの場所に立っていた。拘束はされていないが、管理下にある配置だった。
 コーザが姿を見せた瞬間、視線が集まった。
 誰も動かなかった。
 近づくでもなく、声をかけるでもなく、ただそこにいると認識するだけの沈黙が続いた。
 かつてのリーダーと部下の距離という距離も、ただの仲間という感覚も、かといって、それ以外の関係に戻る足場も、どこにもなかった。
 その中で、ひとつだけ先に反応が起きた。ケビの肩から、力が抜けた。張り詰めていたものがほどけるように、息が落ちた。ほんの一瞬、そのままコーザを見ていた。
 だがすぐに、遅れて自覚が追いついたように視線が外れた。ケビは顎の位置を戻し、雑に息を吐き直して、身体の向きをわずかに変えた。さっきの状態をなかったことにするように、動きが重ねられた。完全には戻りきらない、わずかなぎこちなさだけが残った。
 その一連の動きは、コーザの視界に入った。だが意味を拾う余地を内側に生み出す前に、別の角度から声が飛んだ。
「生きてたか」
 いつも通りの調子の声が合図になって、空気がわずかに動いた。
「ああ」
「そっちもな」
 断片的な言葉が交わされる。だが、続かなかった。
 短く笑いが漏れても、すぐに途切れる。場をまとめる声はどこからも出ない。
 コーザも短く応じるだけで、その先を繋ぐ言葉は持たない。誰かの上に立つ位置には、もういなかった。
 ユバの連中の距離は、むしろ動かない。近いはずなのに、踏み込めない距離があった。
 戦場のコーザも、子供の頃のコーザも知っているから、どこに声をかけていいかわからないようだった。間を持て余してひとりがわざと雑な調子で云った。
「死んだと思ったわ」
 軽く聞こえる声が、一番重い位置に落ちた。
 コーザは短く返すが、言葉が広がらず、そのまま誰も拾わなかった。
 少し離れた位置に、エリックとファラフラがいた。コーザの隣には立たなかったが、視界から外れない場所にいた。
 エリックは周囲の配置を見ていた。ファラフラが場の空気を和らげるように短く言葉を挟んだが、コーザ個人には触れなかった。支えているが、導かない。その距離が、そのまま今の関係を示していた。
 係の人間に誘導されるまま、集団で崖下へ階段を下る。
 コーザの足はどこか借り物みたいな感覚が残っていて、下り階段の衝撃を吸収しきれず一歩ごとに痛みが貫くようだったが、歩けはした。
 視界の先に、ラクダがいた。崖下の壁の周辺に、繋がれているわけでもなく、逃げるでもなく、ただ座っている。
「あ、いたじゃねえか」
 誰かが小さく声を上げて、瞬間的に空気がほどける。
「それおれのだろ」
「違えよ、こっちだ」
 寄せ集めの大集団である反乱軍では、放置されたラクダたちに「誰のラクダかわからん」問題が起きた。鈴も鞍も緩衝座布団も物資不足の中でかき集めた品が多くて、目印に成りきらない。皆、雑な言い合いをしながら近づいて、長い首を叩く。ラクダは迷惑そうに顔を上げるだけで、動こうとしない。
「ほらな」
「覚えてねえだけだろ」
 そんなやり取りが、あちこちで始まる。さっきまでの静けさとは、まるで別の世界みたいだった。ラクダはそこが餌と水に近いと知っているから動かなかっただけで、人間の動向に頓着しない。
 何人かはそのまま跨り、手綱を取る。
「先帰るわ」
 軽く手を上げて、ばらばらに動き出す。
 統率はない。だがそれでいいのだと、誰もが分かっている。
 残る者たちは、自然と一箇所に集まる。行き先の違いが、そのまま分かれ道になっていた。
 やがてふと、地平の向こうから、砂煙を上げながら近づいてくる影があった。遠くから低い音が響いてくる。
「おれらの足はあいつか」
 巨大な体躯が見えてくる。F-ワニの隊列だった。騎乗の手段がない者、怪我を抱えた者などはそちらに回される。
 F-ワニの到着を待つ集団へ、ラクダに乗った連中が手を振る。返す手はまばらで、それ以上は何もない。
 コーザは立ったまま、それを見送る。 胸の奥に、言葉にならない何かが残るが、言葉にしようとする意志まで行き着かないまま沈んでいく。
 F-ワニが目の前で止まる。係の人間が手際よく動き、乗り込みの準備が整えられていく。
 行き先ごとに人が緩やかに分かれていった。帰る場所のある者と、そうでない者が、自然に別れた。
 ユバの連中以外でコーザと行き先を重ねた者たちは、特別な意志というより、他に行く場所の選択肢がない者たちだった。
「こちらへ」
 短い誘導。踏み出す前に振り返ると、ラクダの背が遠ざかっている。砂の上に、ゆっくりと跡が伸びていく。
 それはもう、戦いの列ではなかった。ただの帰り道だった。F-ワニに乗り込むコーザの背後で、砂が静かに風に均されていく。
 シールドで覆われた内部へ入り込みが完了すると、F-ワニがゆっくりと動き出す。コーザはその背に敷かれた粗い敷物の上に横になり、運ばれていく。身体は揺れに合わせて微かに軋んだ。
 風よけのシールド越しに差し込む光が揺れ、影が流れていく。
 ほんの二日前に攻め落とそうとした場所に背を向け、遠ざかっていく。

 砂が白かった。空はまだ朝の色をして、薄く、光の少ない青。
 地平の彼方まで延々と続く砂の海が揺れるたびに、その境界がぼやけた。目を瞑ろうかとも思ったが、規則的な振動が敷物を通して身体の底に伝わって、それが波のような痛みを一定の間隔で起こす。意識が半ば浮いたまま定まらない。
 周囲では、他の連中がひしめき合い、誰かの声が断片的に響いている。
 笑い声のようなものが聞こえた気がした。誰の声なのか、わからなかった。自分の知っている声かどうかも、判断がつかなかった。
 揺れの中で、王宮の石の感触、あの場で向けられた視線、それらが確かにあったことが、ぼんやりと残り続けていた。





 どこかで速度が落ちた。
 完全には止まらず、区切るように動きが緩む。何人かが降り、何人かが残る。そうしたやり取りが、淡々と繰り返されている。
 小規模な休止のあいだ、水が回される。乾いた器の触れ合う音が、わずかに響く。乾パンも配られるが、コーザは手を伸ばさない。視界の外側で、そのコーザの様子を見ている気配はあるが、誰も何も言わない。
 再び、F-ワニが動き出す。重く一定のリズムが、砂を進み続ける。

 しばらくして、風景の中に点のような影が現れる。砂と空の境目に、最初はただの濃淡にしか見えなかったものが、近づくにつれて形を持つ。
 風に揺れる布が、杭に引っかかったまま残っていた。浅く掘られた穴。低く積まれた風よけの壁。それらは生活の痕だった。
 人がいた。
 水袋を抱えたまま動かない人影がある。
 乾いた器を持ったまま、地面に座り込んでいる子供の姿がある。
 どれも動かず、顔を上げない。完全に崩れていないが、人がいても静かすぎる光景だった。
 かつて畑だった場所が広がる。地面はひび割れ、白く粉を吹いた土が、どこまでも続いている。
 水を引くための溝だけが残り、その底には何も流れていない。形だけが維持され、機能だけが抜け落ちている。
 風が吹き抜けるたび、細かい砂がわずかに浮き、すぐに沈む。
 何かが失われた後の静けさが、土地全体に残っていた。
 コーザの視界をそれが流れていった。
 目を逸らさなかった。しかし、ただの景色として、通過した。
 枯れたのではなく、大地は使えなくなっている。その違いを理解する内側が、今の自分にはなかった。
 F-ワニの前進は、変わらず一定に続く。誰もその風景に触れないまま、振動だけがあった。
 光が少しずつ強さを増し、砂の色を押し上げていく。冷えていた空気は乾いた熱へと変わり、シールド越しの光も白く濁り始める。
 揺れの中でコーザの意識は浅く浮かび、風に削られた土地の断片が記憶に淡くこびりついている。





 水の色が見えたのは、昼近くだった。
 砂の地平の先に、光の帯が横切るように広がっていた。
 サンドラ河だ。
 昼前の強い熱の中に、わずかに重さのある気配が混じり始める。乾いた喉の奥が、かすかに緩んだ。
 F-ワニが止まった。
 用意されていたのは、平底の運搬船だった。浅い流れにも対応できるよう、底は平たく、船縁は低い。舷側は厚い板を重ねて組んであり、あちこちに補修の跡があった。帆が一枚、河風を受けてゆるく膨らんでいた。日差しを避けるための粗布が張られ、木組みの骨がその下に影を落としている。
 足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わる。湿度がわずかに増し、熱の輪郭がやわらぐ。砂を踏む乾いた音は消え、水が船体を叩く鈍い音と、木の軋みが代わりに響き始める。
 コーザは船縁に近い、布の影が落ちる位置に身を寄せた。
 完全に横になることはせず、身体を預けるようにして腰を下ろす。揺れはF-ワニのそれとは違い、細かく、持続的に続いていた。背を板に預けて、膝を緩く立てた。それが今できる姿勢だった。
 水音がした。波が舷側を叩く音が、一定のリズムで続いた。
 それまで振動だけだった世界に、音が戻ってきた。木の軋み。低い会話。誰かが水袋を置く音。ひとつひとつが、ばらばらに届いた。意味を結ぶ前に、ただ耳に入った。
 昼食が配られた。保存食がまとめて木箱から取り出され、手渡しで雑に配られる。干し肉と乾パン、それに水袋。誰が誰に渡したかも曖昧なまま、流れるように行き渡っていく。
 コーザの前にも差し出されるが、手は動かない。そのまま脇に置かれ、触れられずに残る。
 だが、
「ほら」
 低い声がして、乾パンが目の前に差し出された。
 オカメだった。特別な調子ではなく、ただ手に持った分を差し出してくる。
 断る理由もなく、コーザはそれを受け取る。だが、すぐには口にしない。手に持ったまま、しばらく動かずにいる。
 オカメはその場に残った。舷側に背を預けて、隣に並ぶ形で腰を下ろし、水だけを一口飲む。喉を通る音が、わずかに聞こえた。また水面に目を向けた。河の流れが、光を弾いていた。
 少しの沈黙のあと、軽い調子で口を開く。
「ケビさぁ」
 視線は水面に向けられたままだった。
「ずっとあんたの心配しててさぁ」
 何でもない話のように落とされる。重さは含まれていない。
 だが、言葉として届き、理解した。ただそれが自分に結びつくまでに、わずかに間があった。
 再会のときの場面の断片が引っかかった。視線が集まった瞬間、視界の端で、何らかの変化。だが、それが何だったのかまでは掴めない。
 少し離れた位置で、ケビが誰かと話している。声は届かない。ただ、その存在だけが、はっきりとそこにある。
 コーザは手元の乾パンを口に入れた。固く、噛むたびに顎の力が傷に伝わって、鈍く響いた。噛み砕くのに時間がかかり、形を崩してから水で流し込む。その動作の中で、さっきのオカメの言葉がもう一度、静かに沈んでいく。
 船の上では、小さな会話が増えていた。
 誰がどこにいたか。あの場面で誰と一緒だったか。あいつはどうなったか。断片的な記憶のすり合わせが、あちこちで起きていた。それぞれの記憶がゆるく繋ぎ合わされていく。声が重なり、笑いが混じり、また静かになった。
 女たちの声が、その流れを緩やかに回していた。話題が偏らないように、途切れないように、温度を調整する。笑いが長く続かない場面では、別の話を差し込む。重くなりすぎないように、だが軽くもなりすぎないように。言葉の間に、水音が入り込み、空気を均していく。
 船はゆっくりと流れに乗り、岸辺の景色を滑らせていく。
 乾いた砂の色の中に、わずかな緑が混じり、水辺の影が揺れる。
 湿り気を帯びた風が、頬をかすめる。日差しは強いままだが、熱の刺し方が変わっていた。
 コーザは身体を預けたまま、水面を見ている。揺れに合わせて光が砕け、形を持たずに流れていく。
 コーザは乾パンの残りを噛んで、水を飲んだ。
 河の水音が続いていた。帆が風を受けて、低く鳴った。日陰の中で、光が揺れていた。





 再び地面に足をつける。歩む速度で、船底を叩く水の音が、ゆっくりと遠ざかっていく。岸を離れるにつれて、空気に混じっていた湿り気が抜けていくのがわかる。風は軽くなり、肌に触れる感触が乾いていく。
 川沿いに、布が張られている。杭と杭の間に渡された布が、風に揺れていた。即席の住処だった。
 人々の長い列が水辺に向かって伸びていた。
 塩を吹いた畑は、形だけを残して白く広がり、その上を風が撫でていく。
 コーザの視界を、それらが流れていった。だが、意味として結びつく手前で、すべてが通過していく。見てはいるが、理解には至らない距離が、そのまま保たれていた。
 やがて完全に水音が消える。足元の砂が音を吸い、風の擦れる音だけが残る。生き延びている場所から、耐える場所へと、境界を越えた感覚があった。
 次はラクダが引く幌車が用意されていて、誰からともなく隊列が緩く組まれていく。歩く者と、乗せられる者が、誰も指示を出さないまま自然に役割がわかれていった。
 動きの中で、ファラフラが隊列に加わらなかった。
「おれはここまでだな」
 周囲を一度見て軽く云うその声に、理由は添えられない。
 誰も止めなかった。コーザは目だけを向けた。ファラフラはそれを受け取って、軽くうなずくだけで踵を返した。
 目的地がある人間の歩き方だった。その影はすぐに砂の色に紛れた。
 一人抜けたことで、空気の重さがわずかに変わる。
 これまでコーザを挟んで常に横並びしていた存在がいなくなったエリックは、そのまま列を保っていた。
 夕方の砂漠は、光を長く引き延ばしていた。

 砂の影が東へ走った。足音と車輪の軋みが、一定のリズムを刻む。戦闘のための整列ではなく、生活のための流れへと、形は変わっていた。
 コーザは幌の内側に入り込んだ。布越しに落ちる光は柔らかく、サングラスは外した。割れない場所に置き、敷物の上に身体を横たえた。
 幌の向こうの気配は断片的にしか届かない。声も、動きも、どこか遠い。
 唄が始まった。
 低く、独り言のように始まった。誰の声か判別がつかなかった。
 それが途切れないまま、別の声へ渡った。また別の声へ渡った。
 旋律は単調で、繰り返されるたびに、わずかに形を変える。
 口から水分の蒸発を防ぐため無言を貫くことも多いが、大所帯の移動ではいつのまにやら誰にも知られず砂の海に消える者を出さないために、音は道しるべだ。砂漠を渡るときに唄われる類の、長い唄だった。
 幌の中で、その音は遠くなったり近くなったりする。
 意味は拾わない。ただ、音の連なりとして流れていく。
 最後の一節が来たとき、コーザの口が、ほんのわずかに動いた。声にはならず、誰にも届かず、ただ唇だけが、その形を作った。





 陽が完全に落ち、砂の温度が急速に下がっていく。夜になって幌車が止まり、野営地に火が起こされる。
 暗闇の中で、火だけが輪郭を持つ。自然と人がその周りに集まり、距離がわずかに縮まる。
 しばらくして、誰かが獲物を手にして戻ってきた。小型の鳥だ。
「食えるな」
 軽く言葉が交わされる。手際よく処理が進み、肉は串に刺されて火にかけられる。
 脂が落ちる音が、静かな夜に混じる。焼ける匂いが広がり、乾いた空気の中で、はっきりと存在を主張する。
 干し肉と水を合わせた簡単なスープも作られ、湯気が低く立ち上る。
 粗末ではあるが、それは確かに温かい食事だった。
 会話は多くない。肉をひっくり返す手。水を回す動。火を見つめる視線。それぞれが言葉の代わりに続いていく。それで場が成立した。
 コーザはその輪の中にいる。中心ではなく、ただそこに。
 火の温度が、皮膚を通してじわりと伝わる。サングラスは外した裸眼のままで、火の明かりが周囲の顔を照らしているのを見るともなく見つめた。
 串が回ってきて、受け取り肉を噛んだ。咀嚼するのに痛みが走ったが、飲み込んだ。
 また唄が始まった。
 今度は誰か一人からではなく、輪の中で自然に生まれる。理由はない。ただ、人がいて、火があるから。
 音は低く重なり、夜の空気に溶けていく。砂は冷え、星が静かに広がる。
 しばらく耳を預けたあと、最後の一節が来たとき、コーザはわずかに声を重ねる。火の音に紛れたが、昼よりも確かに音としてそこにある。

 夜が深くなる。
 火の明かりが小さくなり、声も次第に落ちていく。
 砂は急速に冷え、吐く息がわずかに白くなる。夜気が身体に触れるたび、熱が奪われていくのがわかる。
 幌車の中とラクダに寄り添う位置は女を優先させ、あとは誰からともなく横になり、その流れの中で距離が詰まっていく。
 意図も声掛けもない。ただ寒さに押されるように、近くにいる者同士が寄る。動きはばらばらなのに、形としてはひとつの塊になっていく。
 その中で、ユバの連中は迷いなくコーザのそばに入る。腕が触れ、背が当たる。それは特別な動きではなく、昔から続いていた癖のような自然さだった。習慣がそのまま戻ってきただけだった。
 コーザの肩に腕が回り、言葉はないまま動作だけで横たわるように促す者がいた。怪我で力が入りきらない身体は成すがまま倒されたが、それは柔らかな誘導だった。
 側臥位にされたコーザの背中に、反対の向きで身体を収めたケビの背中が触れる。船の上でオカメが落とした言葉の続きを、何も言わずにやっている。距離の取り方だけがそれを示していた。
 コーザは一瞬だけそれを意識する。触れている重さと、伝わる熱がはっきりとわかる。拒むことも、応じることもなく、関係の中にいることを説明しないまま、そのまま受け取った。
 目を閉じる。体温が、冷えた身体にゆっくりと染みていく。外側からではなく、内側からほどけるように。
 脈絡もなく、不意に別の感触が浮かぶ。
 黒い物などどこにもない砂漠の中で、たてがみをなびかせた影。
 乾いた風によく動いた、変化と方角を拾う耳。熱を持つ砂から胴を遠ざけるために持って生まれた長い脚は、しかし細くなく、皮膚の下で主張する腱が砂を無駄に崩さずに重さをそのまま前に抜ける動きをした。
 体重を預けたときの感触。硬い筋肉と、その奥の熱。
 気性は荒くないくせに従順でもなかった。乗せることは許すだけで、背を貸す相手を自分で決める、砂漠を生き残る矜持を持った馬だった。あれはただ、拒まなかっただけだ。
 生き残っているだろう、という確信が思い浮かんだのみで、触れた感触だけが残り、連続も意味もなく記憶は閉じた。
 やがて周囲の呼吸が揃い、輪はひとつの塊になって静かに暗闇へ沈んだ。
 瞼に熾火のちらつきが当たるのを感じて、コーザは残り火を見た。昼間さんざ横たわって過ごした身体が眠りに落ちきらない。
 起き上がって、棒で火の残りを軽く揺すった。赤く沈んだ炭がわずかに明滅するたび、影が揺れる。
 その様子に、エリックが気づく。
「……寝てろよ」
 低い声が、夜気の中に落ちる。
「火ぐらい見れる」
「昼間、ずっと寝てたろ」
「……だからだよ」
 理由は言葉にされないまま、何かしていないといられない感覚だけが、火の前に残る。
 エリックは肩をすくめるだけで、それ以上は云わない。少し距離を取ったまま、その場に座る。
 二人とも火のそばにいる。見張りでもなければ、役割を分け合っているわけでもない。ただそこにいるだけの位置。
 砂の冷えが足元から来た。聴取の言葉が、ふと浮かんで、沈んだ。川の水音が、遠くなった。ファラフラの背中が、砂に紛れていった。自分を運んだ黒馬は姿を消したが、賢さと頑健さで生きているだろう。それらが順番もなく浮かんで、また沈んだ。
 コーザの身体が、ゆっくりと揺れ始める。意識が落ちるたびに、重心がずれる。戻す力も弱くなり、そのまま傾き、今度は戻らなかった。
 コーザが静かに倒れた着地先には別のやつの身体があった。緩衝役にされたそいつは、うっとおしそうに低く唸ったが、寝ぼけ半分の反応をするだけで、収まりの良い位置にコーザと自分の身体を適当な仕草で調節すると、何事もなくまた寝息を立てた。
 まるで子犬の兄弟だった。やがて、完全に動きが止まる。コーザの呼吸は、少しずつ深くなっていき、塊の中の呼吸と同じ速さになっていった。
 子供の頃から、寒い夜はこうやって固まって眠っていたのだ。エリックもまた、こうして砂の大地を生きるのは当たり前だった。
 エリックは火を見ていた。手を入れることもなく、ただ視線を落とす。炭は小さく形を変えながら、消えずに残っている。
 夜は深く、音はない。それでも、火は絶えない。小さく、確かに、そこに在り続けていた。
 その中で、コーザはリーダーではなく、一人の人間として、ただそこに存在していた。





 砂の色が、わずかに変わっていく。
 乾いた黄土の中に、掘り返された黒い筋が混じり、人の往復で踏み固められた道が現れる。風は同じ砂を運んでいるはずなのに、わずかに湿り気を含んでいた。
 幌車の内側から、その景色が切り取られるように差し込む。揺れに合わせて、サングラスを外している視界の端に断続的に現れては消える。
 ユバだ、という認識が降りてこない。
 風の質が変わったことだけが、身体のどこかに引っかかる。
 やがて、人影が現れた。
 数は多くない。だが確かに動いている。水を運ぶ腕、砂を払う手つき、布を張り直す動き。どれも途切れず続いている。
 完全ではない。だが、生活を戻そうとしている町だった。
 隊列が町へ入ると、それまで点だった動きが線になり、音を伴い始める。名前を呼ぶ声。駆け寄る足音。ぶつかる気配。泣き声と笑い声が混じり合い、あちこちで再会が起きた。悲鳴も上がる。帰ってこない嘆きへの。
 反乱軍の何人かはそこで足を止める。吸い寄せられるように、それぞれとりあえず少しでも納まりのいい日陰へと離れていく。
 抱き合う腕も、肩を叩く手も、ただの続きとして、そこにある。
 コーザは幌車から降りた。足をついた瞬間、わずかに重心が揺れる。踏み直すことで収まるが、身体がまだ完全には追いついていない感覚だけが残る。
 声がかかる。だが短く返すか、視線だけで応じる。周囲では再会が完了していくのに、コーザはその流れに入らない。
 耳に音はある。だがどこか遠い。輪郭を持たず、ただ流れていく。
 そのとき、視界の奥で動きが引っかかる。
 オアシスの色。
 まだ水は浅く、砂が流れ込む場所。
 そこに、シャベルを突き立てて砂をよけている背中があった。一定のリズムで、迷いなく繰り返される動き。
 その男は誰かを迎えに来た様子はない。ただ、砂をどけている。水を守るための、いつもの作業のまま。
 コーザの足が、自然とそちらへ向く。周囲のざわめきはそのままに、意識だけがそこへ収束する。
 距離が縮まる。
 トトは手を止めないまま、顔だけを上げる。
「遅かったな」
 低く、平坦な声。特別な感情は乗らない。ただ時間の続きとして置かれた言葉だった。
 コーザは一瞬だけ息がわずかに詰まり、そのまま吐き出された。その瞬間――ゲンコツが降ってきた。
 シャベルを持っていない側の手が振り下ろされて、頭に衝撃が走った。抑え込まれていた身体の感覚が、一瞬だけ浮き上がる。傷の奥が軋み、視界がわずかに揺れる。
「このバカが!」
 怒鳴りではあるが、爆発ではない。理由はただ一つ、遅かった、それだけだった。
 コーザはすぐに言葉を返せなかった。口の中で何かが転がる。(クソ親父……)という感情が浮かんで――そのまま、ほどけた。
 一度、息を整える。こめかみに残る熱と、残された痛みが、現実の輪郭を戻す。
 そして、少し遅れて、コーザは笑った。
 小さく、力の抜けた笑い方だった
 その瞬間、遠のいていた音すべてが一気に戻った。泣き声も、笑い声も、砂を踏む音も、火の匂いも、水の音も、全部が現実として流れ込んだ。
 止まっていた時間が、コーザに触れる。
 周囲にいた反乱軍は、その様子に気づく。一瞬だけ動きが止まり、戸惑う気配が走る。だがユバの人間にとっては、特別な光景ではない。ああ、帰ってきたのか、という実感が、自然に落ちた。
 誰かが笑い、また別の誰かが声を上げた。泣くほどでもなく、ただ少しだけ顔を崩す。ケビが変な顔をして笑った。そのまま生活の中へと、流れていった。
 エリックは少し離れた位置から見ていた。視線だけを向けて、何も言わなかった。確認を終えたように、わずかに目を伏せた。
 コーザはトトの隣に立つ。
 トトはすでに視線を外し、再びシャベルを握っている。砂をすくい、脇へとよける動きが、変わらず続く。
 水はまだ浅かった。掘り返された砂が、すぐに流れ込もうとする。だがそこには、確かに続いている時間があった。
 コーザは何も言わず、同じ風を受けながら、そこに立っていた。戦場の気配は、どこにもなかった。

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