内戦後

名前をつけない夜

 ビビはひとり大部屋を出た。
 扉を閉めて廊下を歩き出したら、しゃべり声も笑い声も、厚い石壁に吸われるようにビビの耳から遠ざかっていく。
 廊下には灯りが等間隔に落ちていて、そのあいだにある暗がりが、ひとつひとつ呼吸の間を区切るようだった。
 自分の靴底が石を打つ乾いた音が、やけに明瞭に響く。
 ひとりで歩くには、王宮は広すぎる。そう思うのは、ほんの少し前まで、あの部屋に人の温度が満ちていたせいだ。
(超カルガモ部隊の手配をしなきゃ。砂漠の夜でも、安全に通せるように。それから、お弁当を用意して)
 そうやって、指先でひとつずつ予定をなぞるように考えているうちに、その思考の流れの中に、ふと別のものが混じる。反乱軍は、どうなったのか。
 反乱軍、アラバスタで生きていた人間。そして――砂砂団。ビビにとって、初めて友達という名の宝石を与えてくれた、かけがえのない思い出。
みんなはどうなったのか。
内戦終結直後の王女はやることが多すぎて、負傷者対応の指示、アルバーナの安定化、国王の補佐、海軍の対応、BW残党や混乱の収束。加えてルフィの看病はどうしてもこの手でやりたかった。
かといって、友達の様子を知りたい気持ちだって心にずっと抱えていた。
 麦わら海賊団のみんなは、どこへでも行ける。明日になれば、また別の海へ、別の空の下へ。
 ビビは、自分も共に風に乗れると信じている。
 けれど、この砂の国に根を張って生きる繋がりの遠くで、共にある者たちがいる。
 砂の中を一緒に駆けた子供たち。名前を呼べば振り返る距離にいた、あの頃の友達。そこから続いたはずの時間が、今はどこにも繋がっていない。
 その“続き”を、自分は知らないまま立っている。
 歩みが、灯りの少ない回廊を抜け、宮殿の奥へ進んだ。静まり返った時間の中で、まだ働き続けている場所へ向かっていく。

 廊下の角を曲がるごとに、空気がわずかに変わる。人の気配は少ないのに、作業の続いている静かな緊張だけが残っている。
 本来この時間に人がいる場所ではない。しかし内戦の事後処理が昼夜を問わず追いかけてきている。やがて開けた扉の向こう、灯りの下に人影がいくつも重なっていた。紙の擦れる音がしている。
ビビが入室すると、数人の官吏が顔を上げた。驚きの沈黙が室内に広がり、儀礼的な態度を取られた。しかしすぐに代表格らしい人物が前に進み出ると、複数のペンを操る動きは再開した。王女を認識し、それでも優先されるのは目の前の仕事だという、揺るがない空気。
「夜分に、王女殿下」
「突然ごめんなさい。閲覧を願いたいの」
 求めた内容に相手は表情を変えなかった。ただ一度だけ瞬きをして、「少々お待ちください」と言い、棚の間に消えた。
 その背中に余分な感情はない。気遣いも、詮索もない。ここでは制度が先に立つ。紙が重なる音が乾いて響いていた。
「反乱軍統率者、及び、関連事案の記録です」
 差し出された紙束は、ビビの手に予想より重く乗った。
 粗い。繊維が不揃いの、厚みの不均一な紙だった。急ごしらえで作られたのだとわかる。乾燥したインクが光を弾いて、端がわずかに反り返っている。
 その場では読まなかった。
 礼を言うと対応の人物は頭を軽く下げて、ビビの手に紙束を渡した。ビビはそれを丁寧に包み直してから、持参していたバッグの内側、布で仕切られた場所へと収める。弁当を入れる区画とは別に、奥へ押し込んだ。
官吏は既に次の作業に戻っていた。


 小さなランプに火を灯し、昼間の熱を蓄えた石壁の王宮から外へ出ると、わずかに冷えて乾いた夜気が頬に触れた。
 自分の足は砂の国に立っている、という実感のようなものを、遅まきながら空気を吸い込む胸に感じる。
 この国の夜の匂いだ。見上げる夜空には遮るものがなく、ただ途方もなく頭上に広がるばかり。海の上でも同じ空を見ていたはずなのに、アラバスタから見る空は違う角度で迫ってくる。
「はい、これ」
 差し出した弁当箱に、ルフィが顔を近づける。手渡しただけで蓋もあけずに香りを嗅ぎ取り、目を輝かせた。
「うまそォ〜〜〜!!」
 よだれが垂れそうになったところで、横からナミがぴしりと叩く。ゾロが呆れた声を上げ、ウソップが笑い、チョッパーが慌てる。それらを全部無視したサンジが熱烈な礼をビビに捧げる。
 その騒がしさに、ビビの口元が緩む。作ってもらったのは厨房の人たちで、自分はただ受け取って渡しただけだったが、笑えることが嬉しい。何もかもが軽くなる。
 けれど、その軽さは長くは続かない。ランプの先が通用門の石壁をほのかに照らした。すでに準備が整っている。超カルガモたちが静かに地面を蹴っていて、黄色い羽が柔らかく光った。
 ここから先の案内は超カルガモ部隊に託して、ビビは終わる。
 乗り込みが始まり、超カルガモたちがゆっくりと動き出した。戦闘で断絶された街灯りはすべて元通りにはなっておらず、闇が深い。表舞台から身をひそめる海賊たちを好都合に包み込む。真夜中の市街地へ、隊列が滑るように進む。
 背中が遠ざかっていく。
 ルフィが一度だけ振り返り、何か叫んだ。声は風に散って意味にならなかったが、ビビは大きく手を挙げた。
 ビビは門の内側に立ったまま、その背を見送った。
 隣で、カルーが鳴く。
 明るい空気が、そのまま遠くへ行ってしまう。残された場所だけが、静かに沈んでいく。
 ランプの灯りが、わずかに揺れた。遠くで風が地面を撫でる気配。
 耳を澄ませば、砂が擦れる微かな音が聞こえる。通用門の扉をビビは静かに閉じて、閂をかけた。
 通用門を離れ、ランプの灯りを手元に引き寄せるようにして歩き出す。門の内側はすぐに静けさへと沈み、さきほどまでの声の余韻も、もう残っていない。隣のカルーだけがビビに体温の存在を与えている。

 カルーと並んで曲がり角をひとつ抜けたとき、視界の端に、黒が引っかかる。
 馬だった。
 厩の外。繋ぎ石に結ばれた黒い馬が、月の光の中に立っている。
 手入れはされていた。たてがみに乱れはなく、革の轡も清潔だ。ただ、その配置が妙に曖昧だった。厩の馬でも、衛兵の馬でもない。王宮の規定からわずかに外れている。どこかに属しているようで、どこにも収まっていない。
 ビビは足を止めなかった。止めなかったが、視線だけがそこに引き寄せられた。黒い馬体が夜の中に溶けかけている。ランプの光が届く手前で、輪郭だけがある。
 砂煙の記憶が、思いがけず戻ってきた。
 ラクダの大軍団と先頭の黒い影。砲声。砂煙に遮られた視界と声。
(……あの時、声が届かなかったな)
 ただそれだけを思った。この黒馬はもしかして、と浮かびかけたものを、そのまま手放してビビは先を歩き続けた。


 王家と共に生きる超カルガモは、家畜区間とはまったく別途の室が整えられている。
 宮殿の一階にある超カルガモ舎。
 広い庭を通って、超カルガモ隊員たちが自分で簡単に出入りできるよう設置されている取手のない扉を押すと、藁と温かい獣のにおいが柔らかく押し返してきた。石床の上に敷き藁が広がり、水場の水が微かに揺れている。
 いくつかの寝息が重なり合い、規則的なリズムを作っていた。外の静けさとは違う、生活の内側にある静けさ。
 人の姿はない。管理の手が離れた夜中の空間は、役目のための場所でありながら、今はただ生き物の呼吸だけで満たされている。
 てとてとカルーは迷わず中を進み、一角の藁の中に肢を畳んだ。その隣に座ったビビに「ここにいるの?」みたいな顔をするので、そっと撫でる。羽毛の内側にある体温が、掌にゆっくりと移る。
 制度の線から、ほんの一歩だけ外れた場所。ここでなら、ようやく自分の呼吸が、自然な速さに戻っていくのがわかった。
 カルーの体温がすぐ隣にあり、そのぬくもりがじわりと伝わってくる。
 ビビはバッグの内側から布に包んだものを取り出して、膝の上でそっとほどいた。カルーが鼻先を近づけたので、軽く押しやった。
 窓の外は夜の庭で、月明かりが入ってくる。夜に切り取られた静けさ。宮殿の中でここだけが、時間から少しだけはみ出している気がした。
 ランプを紙に近づけすぎて焦がしたりなどしないように気を付けながら寄せると、淡い灯と月光で文字は浮かんだ。
 紙を開く。司法室で渡されたときより、指先の引っかかりがわずかに柔らかくなっている。藁の粉が表面に細かく付着し、乾いていた繊維が、ほんの少しだけ湿り気を帯びたように感じられた。
 記録は日時から始まっていた。
 場所。関与者。結果。
 それだけが並んでいる。
 インクの滲んだ文字が、均一な速度で事実を積み上げていく。感情の入る余地がない書き方だった。そういう書き方をするための文書だから、それで正しい。
 反乱軍加入以前の記録があって、そこを読んだとき、指が一瞬止まった。
『地域の武力衝突』
 括弧書きで正当防衛と添えてある。あとは日時と場所。
 正当防衛――という四文字が、どこか場違いな重さで紙の上に乗っていた。
 その一行は短く、説明もない。けれど、そこに至るまでの時間が、まるごと切り落とされていることだけは、はっきりとわかる。
 頁をめくる。
 反乱軍としての行動。
 指揮。命令。交戦。被弾。
 戦闘行為という言葉が繰り返し出てきた。
 日時が積み重なるにつれて、規模が大きくなっていく。名前の出てくる場所と、ビビが記憶している地名が重なった。あの時期、あの場所に、コーザはいた。
 でも、知っているコーザと記録のコーザが、重ならなかった。
 整然とした言葉が続くほどに、そこにいる人物の輪郭が遠のいていく。ビビの知っているコーザは、こんなふうにただ単に並べられる人ではない。
 どちらも本当のことだとわかってはいる。
 砂砂団のリーダーで、ビビを対等な人にしてくれて、左眉に傷を作ったコーザと、指揮を執り、命令を下し、被弾した記録のコーザは、同じ人間だった。
 なのに、ひとつにならない。
 コーザの、そこにあったはずの迷い。震え。恐怖。何を望み、コーザが何を考えたか。一行も書かれていない。
 書かれるべきではない文書だから、それで正しい。それで正しいのに、ビビはその空白のところでずっと引っかかったままだった。
 黒馬のことを思った。
 制度の内側でも外側でもない場所に繋がれていた馬。
 記録は人間を整理するが、整理された人間がどこに立っているかは示さない。コーザもあの馬も、書類の枠からわずかにはみ出した場所にいる。
 不意に、脳裏へまだ甲高い声で、コーザの言葉がこだました。

 ――おれたちがこの国をもっと豊かにしてやる!!

 コーザは、何かを守る側として生きる人間だと思っていた。
 自分が知るあの頃からずっと、同じ場所に立っていると。
 だが、戦争は、戦いが始まったときに生まれるのではない。
 それがはっきりとわかった。
 生活が崩れた時点で、人はすでに、どちらかの側に立たされている。虐げられるか、抵抗するか。気づく前から、その場所にいる。
 崩れた生活の速度に、制度の時間は追いつかない。
 コーザが動いた理由は記録の外にあって、記録はその結果だけを拾っている。
 だからビビは、納得しなかった。頭が理解することと、心が納得することは違う。
 制度は起きたことを整理する。整理された事実は変わらない。
 しかしその事実を誰かが引き受けたかと言えば、書類は証言しない。記録は謝らない。
 あのとき届かなかった声。ただの結果として片づけざるを得ない状況が、今、意味を持って残る。
 自分もまた、変えられなかった側にいたのだと、静かに知る。
 すぐ隣で寝入ったカルーが小さく身じろぎをして、羽が擦れる音がした。ビビは無意識にその背へ手を置き、指先でなぞる。生きている、と思った。羽の下にある熱が、確かにそこにあり、記録には載らない、ただここにある命だった。
 紙を閉じた。
 理解したことは理解したままにしておいた。どこかへ片付ける場所が、今の自分の内面に見当たらなかった。書かれていたことと、いないすべてのことを、処理しないまま持っていることにした。持っていられるかどうかもわからなかったが、今夜はそれでいいと思った。
 紙の繊維が擦れ、乾いた音がわずかに響いた。布で包み直し、元のようにバッグの内側へ収める。指先がその位置を確かめたところで、そこに置く。
 カルーの背に触れていた手を離し、閉じた瞼の上にキスを落として、ビビは静かに立ち上がった。藁がわずかに沈み、すぐに元の形へ戻る。舎の中には、同じ寝息が満ちていた。

 城内を進んだ先でまた司法室の扉を開けると、さっきと同じ灯りがあった。さっきと同じ官吏が、さっきと同じ速度で書類に向かっていた。ビビが紙束を返却すると、さっきと同じ手が対応した。。
「ご返却ありがとうございます」
 受け取られ、簡単な確認がされ、元の棚へと戻される。その動作に、余分なものは一切ない。記録は棚に戻り、ビビは廊下に出た。
 扉を閉めると音が遮られ、再び廊下の静けさが広がる。この執務室に夜食の差し入れはされているのだろうか気にかかり、もう真夜中の時間帯では明日へ持ち越す確認事項として頭に残した。

 大部屋へ戻れば、そこにはもう誰もいない。ついさっきまであった気配が、跡形もなく消えている。
 夜はさらに深くなっていた。

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