公募作品(1)

湯治、という言葉がある。
辞書で引けば温泉に入って病気などを治療する事を指し、温泉によってどの病気に効くのか…温泉の数だけ答えがあった。
「ここか…。」
目的地に辿り着いたしがないネット記事ライターの俺は、一人呟く。
何でもここの温泉は、他とは違い変わった効能を持っていると聞き記事にしたいと思ったのと…もう一つ。
俺が今、その効能を最も欲しがっている状態だったからだ。
「まゆちゃん…。」と情けない声と共にスマホの画面を見ると、捨てられないその笑顔が俺を迎えてくれる。
この愛おしく、狂おしい程憎い彼女はもう俺の隣にいてくれない、出来れば効能関係無くこの旅に一緒に来て貰いたかった…と滲む視界を無かった事にしようと乱暴に目元を拭う。

この温泉が持つ効能は傷心状態の回復、特に失恋に効く…らしい。

普通なら心に効くにしても、自律神経不安症、うつ状態回復などと書かれるものなのだが、ここは大々的にネットで失恋に効くなどと自ら謳っていて、もう日常全てに彼女の陰がちらついて離れない俺は藁にも縋る思いで遠路はるばるやって来た。
「ま、あくまで噂程度だけれど。」
俺は勇んでその暖簾をくぐり、受付で日帰り入浴だと告げ貸し出しのタオル等を持ってくるので待っていて欲しいと言われ待つ、すると。
りんりんりん…と、涼やかな音色と共に木桶に入った入浴グッズを手渡され、俺はつい気になったので質問をする。
「何故、木桶の中に鈴が入っているんですか?」
聞かれた女性スタッフは慣れている様でにこやかに答えてくれた。
「野生動物から身を守る為です、時折温泉の近くに来るのでお手数ですが、鈴を鳴らして人間がいる事を教えて下さいね。」
引き攣った笑顔で「ありがとうございます。」と礼を告げて俺は案内看板に従って、脱衣室へ行く。
さっさと着替えて用を足し、俺は温泉への入り口に立ってみると、その扉越しでも湯気がもうもうと立ち、その先が見えない程だ。
鳴らして欲しいと言われた鈴と、木桶に入った入浴グッズをしっかりと持ち。
俺は、その一歩を踏み出した。
「…って、風呂見当たらねーんだけど!」
そう、辺り一面湯気だと思っていたのが、実はただの煙で自分の思わなかった現実につい叫んでしまう。
「何だこの煙…あ、灯り!?何で電気じゃないんだ?」
原始的過ぎる灯りも、さては動物を追い払う為だろうか…火の街灯も無くなりそう考えながら温泉へと繋がる道を歩いていると。
「む、虫!」
飛んで火にいる夏の虫、などと言うが、火に寄って来たか分からない小さな虫たちが俺に寄ってくる。
「止めろあっち行け!…うぇ、口に入った…。」
幸い蜂みたいな毒虫はいなかったが、正直自然の物とはいえ良い気分がしない。
とっとと温泉に入り気分を変えたい所だったが…。
「そういえば、道がやたらと長い…今の俺、ほぼ裸なのに…。」
歩いても歩いても感じるのは温泉の温かさなどでは無く、裸には辛い外の気温。
服を着れば耐えられない事は無いが、今の俺はここで風が強く吹いてしまえば途端に道を引き返そうと思える程に弱くなっていた、おまけに。
ぐじゃ、にちゃ…と音が耳に届き、恐る恐る足元を見ると…昨日は雨だったのか、出来た水溜まりに足が囚われ、引っこ抜くと片足全体に泥が付着している有様。
「全然すれ違う人もいないし…どうなってんだー!」
もう帰りたい、泣きべそをかく様な表情になったその時、あの匂いが俺に救いを教えてくれた。
「この独特な匂い…まさか!」
仄かに光り輝くそこへ、思わず駆け足で向かうと。
ふわり、ゆらり…と穏やかに揺らめくその湯気が、俺を歓迎してくれる様に微笑んだ気がした。
そこから、もう俺はすべての頭の考えを切り、温泉の横に作られた洗い場で髪と体を速攻で洗い、全ての汚れを流した後その風呂に浸かる。
じわじわ、じわわ…と風邪を引く一歩手前だった俺の体は、その湯の温かさに包まれ一気に救われた。
気持ち良い…と暫くそれしか考えられなかったのだが、そろそろ熱いと出ようと思った瞬間、現実に戻る。
何故なら、あの悲惨な目に遭った道を辿らなければ脱衣室へ戻れないからだ。

温泉自体は良かったのに、あの道中の道は流石に嫌な気分になったので、俺は浴後施設に設置されていたアンケートコーナーに行きやんわりとクレームを書く事にした。
(直接文句を言うのは、向こうにも俺にも時間の無駄だろう。)
かりかりと書いていると、後ろから先程受付で対応してくれたスタッフが声を掛けてくる。
「わざわざご意見を書いて下さりありがとうございます。」
どうも、と頭を下げるけど、やはり心の内は納得出来なくて、つい聞いてしまう。
「あの…ここの温泉って何であそこまで不自由になっているんですか?」
「お忘れですか?」
忘れられたのなら良かったと話すスタッフに何の事だ?とつい首を傾げる、すると彼女はまるでお地蔵様の様に微笑んだ。
「もちろん、この温泉の効能の事ですよ。」
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