何も知らない僕たちは
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
私はずっと隠していました。この森に来てつい最初に今まで私の身に何があったのか私は知っていました。ですが単純にお話しするのが怖かったのです。もし真実を知ったら私の居場所は無くなるのではないかと。
ですが貴方にここにいていいと言われてしまえば、もうお話しせざるを得なくなってしまいましたね。
それは時の定めという意味でもありますし、貴方に寄せる信頼という意味でもあります。
私は生まれつき、耳が聞こえません
みんなが普通に聞いている雑音、鳥たちの鳴き声、木々のざわめき、そして貴方たち目の前にいる相手の声すらも一度も聞いたことはありません。
そして私は確かにあそこで死んだはずなのです。
私はごく普通の家庭に生まれました。私が生まれて初めは両親とも障害があろうと二人で頑張って育てようと誓い合ったらしいです。
ですがうまくいきませんでした。お父さんという立場の人は私が小学生の時にいなくなりました。何故こうなってしまったのか子供の私にはわかりませんでした。その原因が私だということを後々知るのですが…
小学校に入学した時、もう二人の間はもうすでにピリピリしていたので世間体をはばかるため、支援学校ではなく普通の学校に通わされました。みんなきっといい子であるはずなのですが欠けている私にはここで生活するには苦痛でした。
皆から向けられる視線、いつか誰からか背後から突き飛ばされるかもしれない恐怖に怯えながら
その時は歩くだけでも誰かの助けが必要でしたが、話すことができない私には「一緒にいて」とすら伝えることもできず孤立に拍車がかかったのは確実でした。
母はもう既にやつれていました。勿論別れた父から養育費など送られませんでしたから生活はどんどん困窮していくばかり。
その時の母の口癖が
「貴方を産まなければ変わらなかった」でした。
私は母が耳が遠い私を懸命に世話をしてくれたことも父に突き放された悲しさと絶望も知っていましたので怒る気も悲しむ気もありませんでした。そうなってはいけないと思いました。
家は私が支えるしかないと思い、生活は仕事に明け暮れていて、内職や近所の畑の手伝いを”おこずかい”として貰ったり、時にはいわゆる違法の職場で働くこともありました。賃金は塵のようなものでしたが掴めるものは掴んでおかねばと必死でした.
生きるためには何でもしました。私は知らなくてはいけないことが沢山あったので兎に角本を読み漁り、学習しました。学校での授業ですら時間が惜しかったのです。
家計のつけ方、ご飯の作り方、仕事のありつき方、文字の書き方、「外」との通信手段、口読術もこの内に身に着けました
振り返れば常に何かを背負い、何かに追われる日々で自分をいたわれる時間なんてありませんでしたし、居場所もありませんでした。自分も他人も私を何処か下に見ていました。
けど、こんな私でも唯一友達になってくれたのが近所の猫でした。当の本人は興味なさそうな顔をしていましたが、仮に私が喋れるようになったとしても、猫は私の言っていることは分からないだろうし、猫が私に話しかけてもきっと私は分からない、そんな関係が私には素敵だと思っていたので登下校の時、時間が許す限りで一緒にいました。
その猫が私の命を取った要因だって言ったら貴方はどんな反応をするでしょうか。笑える話ですよね。
けどあの時の私はそう選択をしたことを確かに覚えています。あの猫が車に轢かれそうだったのを見て、どうせ朽ちるならずっと傍にいさせてくれたあの子の為に落としたいとその時強く思っていました。
後は体が勝手に動くもので、最後の記憶は「痛み」でした。
硬い鉄とアスファルトに引きずられ頭部の肉が裂け、ゴリゴリという音が頭の中に響いている時間。
私の中で命と共に何かが擦り減っていく時間。
気が付けばここにいました。私は死んだはずなのにどうしてここで生きているのか、死んでも耳が聞こえないままなのか全く分かりませんが地獄でもない天国でもない場所で貴方方に大切にされたのは紛れもない事実です。
私はこれからどうしていくのか、どこへ行けばいいのか分かりません。ですが、いつまでも亡者がここをうろついていたらご迷惑になりましょう。
私は随分と面倒をかけました。どうか苦でなければ私の処分は貴方が決めていただけると幸いです。
追伸
私はこの家の近くの森にいます。そう離れていないので、もし何かお話ししたいことがあれば探してください。
敬具 平成◇年〇月△日
花園香
ですが貴方にここにいていいと言われてしまえば、もうお話しせざるを得なくなってしまいましたね。
それは時の定めという意味でもありますし、貴方に寄せる信頼という意味でもあります。
私は生まれつき、耳が聞こえません
みんなが普通に聞いている雑音、鳥たちの鳴き声、木々のざわめき、そして貴方たち目の前にいる相手の声すらも一度も聞いたことはありません。
そして私は確かにあそこで死んだはずなのです。
私はごく普通の家庭に生まれました。私が生まれて初めは両親とも障害があろうと二人で頑張って育てようと誓い合ったらしいです。
ですがうまくいきませんでした。お父さんという立場の人は私が小学生の時にいなくなりました。何故こうなってしまったのか子供の私にはわかりませんでした。その原因が私だということを後々知るのですが…
小学校に入学した時、もう二人の間はもうすでにピリピリしていたので世間体をはばかるため、支援学校ではなく普通の学校に通わされました。みんなきっといい子であるはずなのですが欠けている私にはここで生活するには苦痛でした。
皆から向けられる視線、いつか誰からか背後から突き飛ばされるかもしれない恐怖に怯えながら
その時は歩くだけでも誰かの助けが必要でしたが、話すことができない私には「一緒にいて」とすら伝えることもできず孤立に拍車がかかったのは確実でした。
母はもう既にやつれていました。勿論別れた父から養育費など送られませんでしたから生活はどんどん困窮していくばかり。
その時の母の口癖が
「貴方を産まなければ変わらなかった」でした。
私は母が耳が遠い私を懸命に世話をしてくれたことも父に突き放された悲しさと絶望も知っていましたので怒る気も悲しむ気もありませんでした。そうなってはいけないと思いました。
家は私が支えるしかないと思い、生活は仕事に明け暮れていて、内職や近所の畑の手伝いを”おこずかい”として貰ったり、時にはいわゆる違法の職場で働くこともありました。賃金は塵のようなものでしたが掴めるものは掴んでおかねばと必死でした.
生きるためには何でもしました。私は知らなくてはいけないことが沢山あったので兎に角本を読み漁り、学習しました。学校での授業ですら時間が惜しかったのです。
家計のつけ方、ご飯の作り方、仕事のありつき方、文字の書き方、「外」との通信手段、口読術もこの内に身に着けました
振り返れば常に何かを背負い、何かに追われる日々で自分をいたわれる時間なんてありませんでしたし、居場所もありませんでした。自分も他人も私を何処か下に見ていました。
けど、こんな私でも唯一友達になってくれたのが近所の猫でした。当の本人は興味なさそうな顔をしていましたが、仮に私が喋れるようになったとしても、猫は私の言っていることは分からないだろうし、猫が私に話しかけてもきっと私は分からない、そんな関係が私には素敵だと思っていたので登下校の時、時間が許す限りで一緒にいました。
その猫が私の命を取った要因だって言ったら貴方はどんな反応をするでしょうか。笑える話ですよね。
けどあの時の私はそう選択をしたことを確かに覚えています。あの猫が車に轢かれそうだったのを見て、どうせ朽ちるならずっと傍にいさせてくれたあの子の為に落としたいとその時強く思っていました。
後は体が勝手に動くもので、最後の記憶は「痛み」でした。
硬い鉄とアスファルトに引きずられ頭部の肉が裂け、ゴリゴリという音が頭の中に響いている時間。
私の中で命と共に何かが擦り減っていく時間。
気が付けばここにいました。私は死んだはずなのにどうしてここで生きているのか、死んでも耳が聞こえないままなのか全く分かりませんが地獄でもない天国でもない場所で貴方方に大切にされたのは紛れもない事実です。
私はこれからどうしていくのか、どこへ行けばいいのか分かりません。ですが、いつまでも亡者がここをうろついていたらご迷惑になりましょう。
私は随分と面倒をかけました。どうか苦でなければ私の処分は貴方が決めていただけると幸いです。
追伸
私はこの家の近くの森にいます。そう離れていないので、もし何かお話ししたいことがあれば探してください。
敬具 平成◇年〇月△日
花園香
10/14ページ