第2章 モンド牧歌集

2.薫風(ディオナ)
 
 酒場『キャッツテール』——モンド城に数ある酒場の中でも五本の指に入る有名店である。最近はカードゲームができる酒場としても売り始めたらしく、観光客からの知名度も上がってきているようだ。
 足が届かないのにここがいいと駄々を捏ねた娘をカウンター席に座らせていると、ノルベルトのもとに一人の少女が近づいてきた。
「テーブル席もあるのに、ここがいいの?」
「うん。ここならディオナちゃんがつくってるところが見られるから」
「ふうん。それなら、別にいいけど」
 ちゃんと見ててあげてよ、と釘を刺されるのはいつも父親であるノルベルトの役目だ。
 才能と嗜好は相反し得る。それを体現するのがこの彼女、酒場『キャッツテール』の看板バーテンダーであるディオナである。
 泉の精霊の恩恵を受けたという逸話は本物で、彼女がつくるドリンクはどれも見事の一言。酒場『エンジェルズシェア』が歴史と風格を讃えるなら、『キャッツテール』は独創性と親近感を生み出していると言えるだろう。
 酒場が繫盛するためには腕の立つバーテンダーが欠かせない。だがディオナは、腕を磨くことには熱心だが、その熱心さは少し変わった方向性に生かされているようだ。彼女は己の才能に打ち勝ち——つまりは不味い酒をつくることにこだわっている。
「マーガレットさんが新しい看板ドリンクを模索してるの。せっかくだから定番のお花と、少し珍しいけど有名なお花を混ぜたらどうかって。もしこれで最高にマズいお酒がつくれたら、トラウマになってお酒嫌いになる大人たちが増えるかもしれないでしょ」
「そんなことになったら君は解雇されそうだが、大丈夫なのか」
「そ、その時はちゃんと責任はとるよ……」
「ディオナちゃんはなんでも美味しいお酒にできるの?」
「色んなものを試してきたけど、マズいお酒にはならにゃいね」
「すごい! わたしも飲んでみたい」
「ダメにゃ!」
 彼女が今回材料に選んだのは、風車アスターとセシリアの花。収穫量が少ないセシリアの花を大事に切り取り、時折メモを取りながらバーカウンターに向き合っている。彼女の熱心な姿を眺めていると、材料を提供したノルベルトの苦労も報われる気がした。

 モンドに吹く風は、風神バルバトスによる温情の表れである。
 城内や集落に舞い込む風は穏やかで、民を見守り、訪れた旅人を出迎える。
 野外には比較的冷たい風が吹き通るが、植物にはうってつけのようだ。風車アスターは風立ちの地に行けばまず見られる植物で、よく風に吹かれて花弁を回転させている。ディオナの生まれ故郷でもある清泉町の周辺に自生するのはドドリアンという名の固有種。水辺で育つ様は清水に浸かりながら風を嗜んでいるようだ。ググプラムという紫の果実は、何故か奔狼領にしか見られない。その筋の学者によれば、周囲に住む狼たちが種子を媒介しているのではないかとのことだ。確かに、以前奔狼領で出会った謎の少年の上着にもくっついていた。
 また、セシリアの花も有名だ。星拾いの崖周辺にしか生えない植物で、そこは名の通り星が拾えそうなほどの高台である。市場に出回る量が少ないにもかかわらず、変わらない人気を博しているのは、その可憐な見た目とは裏腹に、過酷な環境でも生き抜く力強さを感じるからなのかもしれない。
「セシリアの花は、どうしてセシリアの花と言うの?」
 思わぬ質問が娘から飛んでくる。答えようとしてはたと気が付いた。
 確かに、何故セシリアの花というのだろう。考える機会すらなかったと言えばそうなるが、その花の名前を聞いたのは今回が初めてではない。何より、名前だけを聞いて正しいものを採取出来ている時点で、名前と花の姿は頭の中で一致しているのだ。だからこそ、何故この花が他の何でもなく「セシリア」の花であるのかは、いつかのタイミングで疑問に感じても良いはずだった。
「それは……お父さんも分からないな。お父さんが生まれる前から、あの花にはセシリアの花という名前がついていたんだ」
「ずうっと昔にセシリアというひとがいて、そのひとが見つけた花だから?」
「もしそうなら、そのひとはきっと勇気があるんだろうな。崖の上にしか生えない花を知っている」
「セシリアというひとが、はじめて摘んで花束にしたから?」
「もしそうなら、そのひとは愛情深いんだろうな。大切な誰かのために花束をつくったんだ」
「セシリアというひとを思い出すから?」
「もしそうなら……」

「――『そのひとは勇敢で愛情深くて、美しい女性だろう』」

「ごめんにゃさい。面白そうな話が聞こえてきたから」
「いや、いいんだ」
「ディオナちゃんもそう思う?」
「まあ。希望的観測かもしれにゃいけど」
「キボーテキカンソク?」
「そうだったらいいにゃ、ってこと」
 そう言い終えると、ディオナは再びドリンク作りに戻っていった。どうやら最終段階に入っているらしい。
 セシリア――それが人名だとしたらおそらくは女性の名前だろう。男性名としても有り得なくはないが少数派にちがいない。
 何らかの由来があるはずだが、この花がいつからそう呼ばれたのかは誰も知らない。忘れ去られた聖女の名だとか、あるいは旧貴族時代のモンドで反抗勢力が使った隠語だとか、あるいはセシリアという名自体がもっと別の何かを意味するものであったのだとか……不確かな逸話は山ほどあるが、いずれも共通するのは風神の存在である。どのような内容であっても最後には「やがて風神が風と共にさらっていった」という締めくくりになるのだ。風化という言葉が時の流れやその中での忘却を表すように、風神もまた、時の流れを風という形で司っている一面があるのかもしれない。
「わたしが誰も見たことがないお花を見つけたとして、それがお母さんそっくりなら、わたしはお母さんの名前をつけるの。もちろん、ルルの名前もつけてあげる!」
「それじゃあ、知識と体力をつけないと。誰も知らない花を探すには、誰も行ったことがない場所に行くことになるだろうからな」
「その時には、お父さんの剣を持って行ってもいい?」
「エルには重たいよ」
「大丈夫、鍛えるもん。お父さんみたいに筋肉をたくさんつけて、お父さんよりも強くなるから! そうしたら、お父さんはわたしの次にすごいんだって自慢できるよね」
 息巻く娘に、笑ってその頭を撫でた。
 自分という枠の外に興味を持つことは、子の成長を願う親としては大変好ましいことだ。しかし、父親としては、可愛い一人娘に危ない目に遭ってほしくないというのも本音だった。野外はどうしたって危険と隣り合わせである。昔の自分も同じではないかという指摘には返す言葉もないが、ノルベルトの場合は男だったから出来たことだ。夢に性別を持ち出して否定するつもりはない。ただ、身を守るということにおいて、女はどうやったって男よりも気を付けなければならないことが多いのだ。
「お父さんより強いなら、まずはお父さんを倒さないとな」
 彼女が本当に旅に出たいと言い始める前に、この世の中がもう少し平和であることを願うばかりだ。

 
「出来たよ」
 しばらくすると、カウンターに大小のゴブレットが並べられた。
 昼間の青空を映した湖面のように、淡くも鮮やかなドリンク。その上に浮かんでいるのはセシリアの花びらで、まるでついさっき星拾いの崖から風に乗ってきたかのようだ。
「試作品。感想を聞かせてくれる?」
「おつかいの礼として受け取っておくよ」
「だから試作品だってば。材料を持ってきてくれたお礼は別にあるの」
「わたしも飲んでいいの?」
「いいよ。お酒は入れてないから」
 大きいゴブレットを手にしたノルベルトが少しずつ飲むのを見て、娘もそれを真似た。小さい方を手に取り、少しずつ傾けて口に含む。
「美味しい!」
「……変な味とかしない?」
「全然しない。すごく飲みやすいよ」
「これを出したら売れるだろうな」
 感想としてはこれ以上にない好感触なのだろうが、今のディオナにとってはそうではない。ぐぬぬと歯を食いしばった後、一気に脱力し肩を落とした。「にゃんでそうにゃるの……?」と項垂れる彼女は、誰が見ても落ち込んでいるのだと分かるだろう。
「酒にすればマズくなるとか」
「そんなことあるわけにゃい……この味がベースなんだから、どうやったって美味しいままなんだよ」
「ディオナちゃん、バーテンダーの才能あるって! 自信持って」
「エルフリーデ。ほら、リトルプリンスが呼んでる。行っておいで」
 娘の励ましは、今のディオナには非情な追い打ちにしか聞こえないだろう。カウンターの端で寝そべっていた黒猫従業員の手を借り、なんとか娘の意識を向こうへ追いやった。
 酒場といえど、『キャッツテール』は比較的穏やかな客層だ。店内にいる限りは多少目を離しても問題ないだろう。何かトラブルがあれば、誰よりもまず猫従業員が敏感に察知してくれる。
 娘が戻る前に機嫌が治るといいが――ノルベルトはカウンター越しにディオナを垣間見た。
「……ノルベルトさんは、もしエルちゃんが冒険者になりたいって言ったら反対する?」
 ディオナは手元のノートに試作結果をメモしながら、唐突にそう尋ねてきた。もしかするとノルベルトの視線を感じ取っていたのかもしれない。
 話題は、先程の娘とのやり取りの続きだろう。彼女の耳には聞こえていたのだ。
 猫のような耳をもつカッツェレイン一族は聴覚に優れているのだと、他でもないディオナの父親から聞いたことがある。彼女の父親は清泉町の狩人のリーダーで、手本のような存在だ。彼は、ディオナもまた優れた弓の技術を備えているから、町に帰ってきたらいつでも狩人になれると絶賛していた。もちろんそれは事実だろう。だが同時に、その評価の裏側には父親としての本音が滲み出ていた。
「娘の人生は、他の誰でもない彼女自身のものだ。考えて決めたことなら応援するさ」
「そんなものなのかな」
「少なくとも、君の父親も同じだと思う。やりたいことがあるなら、徹底的にやったらいい。だがあまり危ないことはしてほしくないし、たまには顔を出してほしい。そういうわがままな大人なんだ、親というのは」
「父親の間違いなんじゃにゃいの?」
「そうかもな」
 ディオナは書く手をとめてこちらを見上げた。
「あんまり過保護なのもどうかと思うよ。そりゃあ安心して出かけられた方が良いに決まってるけど、大人たちが頑張って働いてるおかげで、子どもは外で遊ぶことができる。もう十分なんじゃないかって思うけど」
 うちはうち、よそはよそだ。他の教育方針に口を出すつもりはないし、口を出したとて何の責任を負えるわけでもない。
 心を揺さぶられかけたのは、ひとえに彼女の巧みな問答にある。幼い見た目——実際まだ彼女は幼いのだが——に反して、その中身は大人びている部分もある。時折己の感情に振り回されたりすることもあるが、こうして冷静に大人の言葉に耳を傾けて指摘することもできるのだ。過剰に子ども扱いするのも彼女に失礼だと言えよう。
「深い話だ」
「あたしのこと馬鹿にしてる?」
「してないさ。この歳になってもまだ考えさせられることがあると思ってな」
「やっぱり馬鹿にしてる!」
 娘や彼女のような子どもたちが様々な経験を経て大人になること。
 若き青春の風が伸び伸びと吹き通る、その土壌を築き護ることこそが、大人たちの役目なのだろう。
2/3ページ
スキ