第1章 ルル・ルー


3.喉元過ぎても②

「玉霞さんは元気か?」
「相変わらずだな。会長職を勧めたんだが、断られたよ。一介の冒険者でいる方が気楽でいいんだと。まあ、分からんでもないさ。役職や肩書きが増えると縛られるものも多くなる」
 そう言って肩をすくめた大男に相槌を打つ。冒険者協会の支部長は全員が優れた冒険者であることに違いない。が、他でもないこの男が支部長という肩書きを背負うことになるとは、ノルベルトも当時の他の仲間たちも思いもしなかっただろう。
 数年ぶりに訪れた酒場だが、その盛況ぶりは自分が冒険者だった頃から変わっていないようだ。店員がひっきりなしにドリンクや料理を運び、待ちきれない客が酔いどれのままカウンターまでおかわりを頼みに来ている。それでも混沌に堕ちないのは、常連が多い、つまりは皆大体酒場の暗黙のルールを知っている者だからだ。トラブルを引き起こすのはそれを知らない無法者ばかりで、そういう輩は決まって他のお行儀の良い客に寄ってたかられつまみ出されるのである。
 この日も酒場は血気盛んな一見客を追い返した後だった。店内は何事もなかったかのように談笑する客で溢れている。吟遊詩人が誦じる子守唄に誘われる泥酔客もいれば、積年の悩みをバーテンダーに打ち明ける客もいた。過ごし方は皆様々だが、少なくともノルベルトたちの会話に耳を傾けている物好きはいないようだった。
「こんな世間話をしにわざわざやってきたわけじゃないんだろう。俺としてはそれだけでも大歓迎だが、お前の性格ではあまり考えられんからな」
 すっかり出来上がった様子だが、酒に弱いようで強い男だ。サイリュスの前にはすでにいくつもの空のジョッキが置かれている。その数はいくらか少なくはなったが、それでも当時の現役冒険者時代とそう変わらない。冒険者を辞め妻子を預かってから格段に飲酒量が減った自分とは対照的だ。
「嫁さんの影響で変わったと言うならまた別だが——」

「『悪』の封印を解いた」

 一瞬、サイリュスはぽかんとしていた。しかしすぐに何かを察したのか、赤らんだ顔のまま神妙な面持ちになり、身を乗り出して向かいに座る仲間の肩を掴んで尋ねた――「何故だ?」と。
「そんなことをしたらマズイことはお前もよく分かっているはずだ。俺たち冒険者だけじゃない、手を組んだファントムハンターの犠牲もあってようやく封じたんだぞ!」
「分かっている……」
 テーブルの上に組んだ両手に視線を落とす。真っ直ぐ見据えて問いただしてくるかつての仲間に、どんな言葉で返せばいいのか分からなかったからだ。
 確かに打ち明けたのは自分だ。それを告白した時サイリュスがどんな反応をするかは想像するに難しくなく、実際に彼は予想通りの反応を見せた。それでも――。
 ……ロロ、ロロ……。
 建て付けが悪い窓でもあるのか、唸る猫のような声が聞こえる。
「いつだ」
 少しの間沈黙が続いた。先にしびれを切らしたのはサイリュスの方だった。
「4、5年前」
「お前のことだ。ただ力が欲しかったから、なんてことはないはずだ。一体何があった」
「それは……」
「港の魔剣伝説、ドーンマンポートの奇跡――」
 伏せられていた目が、その言葉で上を向かされた。
 モンド城が風魔龍の被害に悩まされていた――その同時期。離れた港町でも巨大な怪物が現れた。モンド城の問題の方は後にとある勇敢な旅人を中心に解決されたが、そんな旅人が同時に二人も現れることはない。そして、港町の怪物を退けたのは駐在していた騎士ではなく、地元の人間だったという。
 駆けつけた遊撃小隊が見たのは、一面赤黒く染まった埠頭に横たわる怪物の残骸と、そこに佇む一人の剣士。
「あれは、お前か」
「違う。ただ家族を守りたかったんだ」
「港に現れたデカブツを倒したんだろうが。神の目を得たお前の仕業じゃないかとは思っていたが、そうじゃなかったとはな」
「確かにこれが出てきたのはその時だ。ただ、あれを倒したのは俺でも、神の目の力でもない……」
 それ以上詳細を語ることはなかった。向かいの男はただノルベルトの肩を軽く叩き、その行為に無言の労いをかける。無理して話す必要もないのだと、彼の不器用な気遣い方も相変わらずだった。
「しかし解放したというが、ヤツによる被害なんてものは全く入ってきていないな。ウチの諜報員もそんな情報は掴めていないだろう。今ヤツは何処にいる?」
「いるさ。そこに」
 視線だけをその方向、足元へと落とす。向かいの大男もつられてその先へ視線を移した。テーブルの上のランプによって足元につくられた影、そこに広がるのは沼のような暗闇だけ。

 ルル、ルー。

 その暗闇の中から、それが返事をした。
「……まさか」
「身体を無くしたからか、普段は影を拠り所としているらしい。おかげで被害はないさ。今の所は」
「そうは言うが、お前の影に棲みついちまってるぞ。ほら見ろ。今だって遊んでやがる」
 サイリュスに指摘され、改めて足元に視線を落とす。椅子に腰掛ける影の足元を黒い猫――影で形作った猫なのだから黒いのは当たり前だ――が擦り寄っていた。時折ノルベルトの足に前脚をかけては爪研ぎをするように伸びている。無論、影なので痛くはない。
「……大丈夫なのか」
「ああ。誰にも危害は加えていない」
「そうじゃない。お前の心配をしているんだ。十分分かっていると思うが、そいつは」
「影を喰う獣、か」
 そうだとサイリュスは唸りながら頷いた。
 人間は鏡に話しかけ続けると気をおかしくするらしい。博識な遊学者が酒場で酒の肴に教えてくれたことだ。様々な説があるが、一説には自分の中での自分という存在が揺らぐからではないかとか。
 では、今の自分はどうか。日の当たるところでその影を直視できるか? 本来己の姿を形取り、こちらが動くまでは動かず、それ以上もそれ以下の動きもしないはずの影が――突然異形となって勝手に動き始めたとしたら?
「あのファントムハンターは危惧していた。『悪』と称したのはそのためだ。それに触れると人間の悪いところがデカくなってしまう、『悪』という分かりやすい名前をつけて警戒させるべきだと」
「いや……もっと複雑なことを言っていたと思うが」
「分かっている。ああ、だが、大事なのはそこじゃないだろう――友よ。俺はお前を案じているんだ」
 分かっている、と男の言葉を反芻する。
 やはり打ち明けるべきではなかっただろうか。けれども、ずっと隠し通すべきものでもないのは明らかだった。少なくとも当時の仲間には共有しておくべきだ。……もし万が一、自分に何かあったら。無論そうならないのが一番だが、どちらにしろ彼らには面倒ごとを押し付けてしまうのだろう。
「ルャン」
「…………」
 足元から何やら言いたげな声が聞こえる。だが聞いたところで、それが何を言っているのかは未だに分からない。
「……すまない。酒を不味くして」
「何を言う、酒は美味いままだ」
 まずいのはお前の口下手が治っていないことだと、サイリュスはそう言いながらジョッキを傾けた。
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