第3章 大人たちの喧騒


5.無銘時代③

「騎士団図書館から出てきた時は目を疑った。てっきり学者に転職したのかと思ったぞ」
「冒険者から漁師になったんだ。別に学者になろうと言ったって不思議じゃないだろう」
「まあな、そりゃあえらく達筆な学者になるだろうさ。まだ覚えてるぞ。お前が討伐記録に署名した時、何度も俺の名前を間違えて書いていただろう」
「あれは間違えて書いたんじゃない。字が綺麗じゃないだけだ」
 話し込んでいるうちにすっかり夜は更けていた。夕方には賑わっていた酒場も、日付が変わった今では随分と疎になっていた。
 モンドの民は飲酒を習慣にしているが、誰もが夜更かしを好むというわけではない。そもそも酒は詩歌同様人生を豊かにするものであって、泥酔し夜を明かすためのものではないのだ。だからこそ他国の友人たちは「モンド人が羨ましい」と言うのだろう。
 閑散とし始めた店内に比例するように、先程まで豪快に笑っていた男の声も、心なしか小さくなっていた。それでも良く通る声に違いなく、ようやく声量が常人並に戻った程度なのだが。
「聞いたぞ。あのじゃじゃ馬を手懐けたんだって?」
 ファルカからその話を切り出されたのは、酒が全身に回り、うつらうつらとし始めた頃のことだ。酒の有無に関わらずだが、早寝早起きが原則の漁師であればとっくに寝ている時間帯である。眠気を無理やり押し込めながら、適当に返事をした。
「何のことだ」
「スターゲイザー号だよ」
 ――ああ、あの馬か。
 ノルベルトは思考を巡らせながら頷いた。ドーンマンポートからモンド城まで、荷の護送をした時に騎乗した青毛馬である。
 モンド城にいる限り、馬という生き物は目にするだけならそう珍しいものではない。だが、あの牡馬は何故か印象に残っていた。少しでも乗ったという経験があるからなのかもしれない。
「夜でこそ星空を見上げる哲学者のようだが、昼のあいつはそうじゃない。一言で表すなら破壊の申し子だ。日が昇って沈むまで、遠征隊員を何人もモンド城送りにしてきた。サイモンなんて何度あいつから落ちたことか」
「早めに帰れて良かったじゃないか」
 西風教会の現枢機卿サイモンは元冒険者だったと聞く。今は現役を退いているとはいえ、頑強な冒険者であればそう一度や二度の落馬で重傷にはならないだろう……余程の酷い落馬でなければ。
 騎士たちにとって、任務をこなす前に帰還することほど不本意なものはない。ノルベルトの冗談には流石の彼も指摘せざるを得ないといった様子で、「馬鹿言え」と眉をひそめた。溜息を吐く様子は長い旅路の中で足を止める旅人のようだ。しかし彼は、未だに己に課せられた役目という名の荷を下ろす気はないのだろう。
「ずっと馬たちかれらの面倒を見てくれていた調教師がいたんだが、彼は遠征前に亡くなっていてな……ヴァレンタインの時から世話になっている御仁だった。怪我や病に困ることなく大往生だったらしい。後継は、いるにはいる。だが何しろまだ若い、俺が言うのもなんだが」
 最後の一言が一体どこにかかっているのかは聞かないふりをした。黙って飲んでいるノルベルトを横目に、彼は続ける。
「スターゲイザーはその彼から調教を受けた最後の世代の馬だ。人の上手いも下手も分かっているのさ。だから上手いやつが乗れば従順で頭も下がるし、下手なやつが乗ればナメやがる」
「君はどうだったんだ」
「少し折り合いで揉めはしたが、なんとかな。大団長として流石にみっともないところは見せられん」
 馬上の彼を想像してみる。愛用の大剣を振るうのは難しそうだとか、彼の体格に耐え得る馬がいるものかとか、思い浮かばない姿はいくつもあった。西風騎士なのだから馬に乗れて当然なのだが、まともに騎士然とする彼を見たことがないのだ。
「とはいえ、相手も生き物だ。乗り手の技術や癖もあるが、相性の問題もある。前者は改善の余地があるしそうするべきだが、後者はどうにもならない。その意味ではお前で良かったのだろうな」
「素人に相性も何もないだろう」
「本当の素人なら鞍上に5秒と保たんさ」
 彼はグラスを傾けて、その中で美酒と氷が踊り鳴らす音を楽しんでいた。
「お前が素人でないことは聞いていた。例の調教師から直々に手解きを受けたこともな。騎士でないお前がどんな成り行きでそんなことになったのかは知らんが、今回の護送の件で確信したのさ。仮に素人だとしても基礎は身に染みている」
「君が言っていたように、相性が良かったというだけも有り得ると思うが」
「舐められたもんだな。基礎を叩き込まれているのは騎士も馬も同じだぞ。お前も追い鞭で叩かれた経験があるだろう?」
 ファルカはこちらにそう問い掛けたが、返答の有無は求めていないようだった。勝利を確信したような笑みを浮かべ、酒を一気にあおった。
 彼の言う通り、ノルベルトはかつて西風騎士団の調教師から馬術の基礎一切を叩き込まれたことがある。そして言うまでもなく、騎士でもない自分が師事するに至ったのにはそれなりの理由があった。若気の至りとも言うが。
 閉じた瞼の裏で走馬灯のように昔の記憶が蘇っていく。酔いに浮かされた頭は、そのまま夢の中へと吸い込まれていきそうだ。
「その調子で、騎士団のじゃじゃ馬たちを手懐けてくれないか? まだ他にもいてな、スターゲイザー号の妹だ。兄貴に似たんだか似ないんだか、こいつもまた跳ね馬なんだ。よってスターペガサス号と名付けた。牝だから少し小さいが、大の男でも問題なく乗れる。俺もこの間初めて乗ったんだが一度落とされた。急に跳ね上がるからな」
 彼はどこか照れ臭そうに鼻を啜った。
 かつて、自分たちは見知らぬ土地で行き当たり、共に剣を取って魔物を討伐した。それなりに長い人生の中でその記憶がやたら鮮明なのは、おそらく魔物の強さが印象的だっただけではないのだろう。たった数日程度の関わりだが、ファルカという男には間違いなく他者を惹きつける何かがある。だから故郷に戻った時、騎士の装備に身を包む彼の姿に妙に納得したのだ。
 そんな男と、今ではこうして酒場で馬について話し込んでいる。あの頃の自分がこの光景を見たらどう思うだろうか。そもそもいつからこの話題が始まったものだったかと、つい数刻前の自分でさえもあやしい。
 いよいよ本格的に酔いが回ってきたと自覚するとほぼ同時に、意識は途切れた。

「しかし、あのお前が漁師か……サイリュスの冒険団が解散しても冒険者を続けるか、あるいは賞金稼ぎに戻るものだと思っていた。俺が言うのもなんだが、お前も大概フラフラとしていたからな」
「ファルカ」
「覚えてるか? 俺が遠征に行く前、お前の家に邪魔をしたことがあったろう。正直に言って、その時はまだ信じていなかったんだ。だがな、放浪していたお前が昼間から家にいて、嫁さんの尻に敷かれ、子どもを全然あやせないでいたのを見た。はは、信じざるを得なかったよ。ノルベルトという男は父親になったんだってな。ええと、今はノルベルト・エンデか?」
「おい、ファルカ」
「俺はなあ、その時に改めて――ん? なんだ、チャールズ。……ああ、すまん。次は、何を飲むか」
「そうじゃない。お前の話し相手だがな、とっくに潰れてるぞ」
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