第3章 大人たちの喧騒
4.無銘時代②
北風騎士が昔馴染みの酒場に凱旋した。
旧友のバーテンダーであるチャールズは待ちかねたと言わんばかりに出迎え、早速とっておきの美酒を開ける。気前が良すぎないかと指摘する前に、彼は「今日はオーナーの許可も取ってあるから」と言った。モンド城を代表する酒場の従業員とあって流石に抜かりない。
チャールズはドリンクを作りながら、物珍しそうに片眉を上げた。
「まさかお前まで一緒とはな。いったいどこで捕まったんだ? ノルベルト」
「騎士団だ……さっさと逃げてくればよかった」
「そういう割には律儀に飲んでるがな。まあ、うちの酒が美味いってことにしておいてやる」
舌打ちしか返ってこないのを良いことに、バーテンダーは肩を揺らして笑った。
連れてきた張本人を見遣る。彼は酒場に着くなり別のテーブルにいた先客たちに呼ばれていった。ジョッキ片手に昔話に花を、否、酒を飲み交わしている。
カウンター席まで聞こえてくる豪快な笑い声に、ノルベルトは思わず拳を握りしめていた。見かねたチャールズがすかさず指摘する。
「乱闘騒ぎだけはよしてくれよ。お前たち相手だと、旦那様を呼ばないと収拾がつかなくなるからな」
「分かってるさ」
頼むぞとしつこく念を押される。なみなみと注がれたゴブレットを差し出すと、彼は他の客の応対に離れていった。
釘を刺された以上、大人しくしているほかなさそうだ。それに、こんな小競り合いでモンドの要人を呼びつけるわけにはいかない。いくら飲酒が減ったからとはいえ、故郷の美酒にお目にすらかかれなくなるのは避けたいところだ。旅や冒険で何度も離れはしたが、自分も風の民であることは変わらない。
「ノルベルト! お前もこっちにきて話そう。ちょうど今、お前がここで大暴れした時のことで盛り上がっていてな。あれは忘れもしない、バドルドー祭の時のことだ――」
……反射的に立ち上がっていた。
カウンターからは呼び止める声が聞こえたが、何の意味も為さなかった。その程度で止められるものなら、今まで酒場を出禁になることは無かっただろう。
解きかけていた拳が再び固く握りしめられ、酔客になり始めている男を打つまで、そう時間はかからなかった。
結局、ファルカを一発殴りつけてしまった。
側から見たノルベルトは暴漢そのものでしかない。にもかかわらず、周囲から向けられたのは制止でも非難でもなかった。男たちは手にしていた杯でテーブルを何度も叩き、目の前で始まった即興に熱狂している。どうやら「左目に傷のある冒険者」の暴挙がここまで大衆に広まっているようだ。ここ数年は地元でおとなしくしていたはずなのに、これ程までに知れ渡っているのはどうもおかしい。言いふらした何者かを締め上げたいところだが、とにかく今は目の前の男だ。
「騎士と冒険者はどっちが強いんだあ?」
「そりゃあ、俺に決まってるだろう!」
客の煽りにそう応えたのは、殴りつけた男……ではなく、今まさに殴られて頭を揺らしている西風騎士団大団長だった。
流石騎士と褒め称えるべきだろうか。不意打ちで殴られたにも関わらず、彼は膝をつかなかった。しかも殴られる直前にジョッキを近くのテーブルに置いて手放していたのだから、これまた憎たらしい。頑強で、かつ同じ轍を踏まないのは騎士として優れた証拠だが、全てを予測した上で殴打を食らうのだから腹立たしいものがある。だが、この腹立たしさも今更だ。
何度か頭を振った後、ファルカは酒場を見渡して声を張り上げた。
「騎士は市民の不満を受け止めることはあっても、彼らに手をあげることは決してあってはならない。それから――俺が倒れないのは強い騎士だからだ。こいつは手加減なんて生温いことはしないし、決して腕は鈍っちゃいない。誰か、試しに代わりに殴られてみるか? 彼の拳を受けて立っていられる奴がいたら、俺が一杯奢ってやろう」
「そうか」
豪語していた騎士の肩を軽く叩く。振り向いたその顔に、もう一発拳を叩き込んだ。
二発目は、北風を冠する男でさえも踏み止まれなかったようだ。
より正確に言うと、不意打ちを予見できていなかった。「左目に傷のある元冒険者は妻子を持ち穏和になった」、この噂を真に受けて油断でもしたのだろう。噂自体は本当のことだが、それは相手によるところが大きい。
酒場の床に倒れ込んだ男の襟足を掴む。呻きながら文句を言われたが、殴った本人が今更聞く耳を持つはずがない。
床から引き上げた彼を近くの椅子に座らせる。文句を背中に浴びつつ、ノルベルトはカウンターへと向かった。一部始終をそこで静観していたチャールズがいる。呆れ顔の彼から水を受け取ると、再びテーブル席へと戻り、項垂れた様子で座り込むファルカの前に水を突き出した。
「酔いは覚めたか」
「ああ……おかげさまでな。覚めた分もっと飲めそうだ」
減らない冗談に思わず舌打ちする。胸倉を掴んでやろうと咄嗟に手を伸ばしたが……今度はそう上手くいかなかった。掴む寸前のところで、相手に手首を掴まれたからだ。
ファルカは水を飲み干すと、己の胸倉を狙った手に空のジョッキを握らせる。そしてこちらを見据えると、にやりと笑った。実に腹立たしい笑顔だ。
「二度あることは三度あるってのは、この世の摂理だろう。俺がお前の拳を予測出来ないわけがない」
「二発目を避けなかったのも戦略のうちか」
「ああ? いや、あれは酔ってたんだ」
手を振り解こうとするも、解放される気配はない。睨みつけても嫌味ったらしい笑顔が返ってくるだけだ。酔っ払いが、そう悪態をつくと「北風だ」と返答があった。全く要領を得ない。
「まあ待て、一杯奢ると言ったろう。何がいい? ビールは、飲み飽きたか。炎水がいいか」
「歳を自覚しろ。それから、炎水はここには置いてない」
「なあノルベルト、お前は今年幾つだ。今から歳の話をしているようじゃあ、若者連中に枯れてるだのなんだのと笑われるぞ――チャールズ! 俺たちを差し置いてひと足先に年寄りになろうとしているこいつに、目覚めのキツいやつをつくってやってくれ。俺の奢りだ」
酒場へ連行された時と同じように、肩を押されてカウンター席へと導かれる。この旧友にとことん甘いバーテンダーは諫めるどころかいっとう濃くて強いカクテルを出してきた。飲めなくはない、それどころか滅多にお目にかかれない美酒の類いである。本来なら有り難みを感じるべきなのだが、それは彼の奢りであるという事実によってすぐに打ち消された。
カウンター席に着くなり、ファルカは「ここは互いに剣を収めよう」と提案してきた。もちろん例えの話である。
「お前もさっきチャールズに言われたろう。ここで騒ぎを起こせばどうなるか」
「追い出されるな」
「ああ、そうだ。お前と、ついでに俺も連帯責任でな。誰が来ても負けるつもりはないが、俺たちの小競り合いで若者を呼びつけるのは忍びない」
全くの同感だ。どうやらある程度酔いは覚めたらしい。
「それに、遠征隊がまだ向こうにいる以上、まだ祝いの風は吹いちゃいない。だがその前に酒場から追い出されるなんてことはあってはならん。先陣を切る北風が――」
「何ものにも抑えられることはないと」
「ああ、ああ、そうだ! 俺たち北風は厳しい環境においても常に道を切り開かねばならん。決して楽ではない。それでも、後ろに続く仲間たちの顔を、故郷の風を、思い浮かべれば何の苦がある? 俺にとってはその全てが愛すべきモンドだ。その為なら、いくらでも書類にサインをしてやるさ」
「もういい。その話は聞き飽きた」
「俺は飽きてない。久しぶりに会ったのはチャールズだけじゃない、お前もだろう。積もる話がたくさんあるはずだ。そうだな……まずは昔お前がフレデリカに吹っ掛けた喧嘩のことだが」
「おい、何回その話を蒸し返す気だ」
「はは! 何度でも言ってやる。結局お前はボコボコにされたわけだが、あの後彼女から一本獲れたのか?」
前言撤回だ。やはりこいつは酔っている。
フレデリカ・グンヒルドは西風騎士団随一の実力者である。騎士団内でも彼女から勝利を奪い取った者はそういないというのに、たかが冒険者一人がそれを為せるわけがないのだ。何より、彼は間近で見ていたはずである――剣と共に石畳に突っ伏した、哀れな挑戦者の姿を。