第2章 モンド牧歌集

3.二代目天空(ウェンティ)

「本当に助かったよ。お前さんたちに助けられなかったら、今頃奴らが食い尽くすのを、指をくわえて眺めているところだった」
 今年は出来が良いらしくてな、と男は安堵に顔をほころばせて語った。
 確かに、礼にともらったリンゴはえらく甘い。荷馬車が襲われた際に傷物になってしまったようだが、内層まで達するような深い傷ではない。この程度で店頭に出さないなんて勿体ないと思う反面、少しでも傷んだ品は懐に仕舞い込まなければならない事情も理解できた。漁師の端くれとして傷のある魚を市場に流すわけにはいかない、それと同じである。
 ただ、勿体ないと感じるのは自分だけではなかった。同乗する彼もまた同じように思っていたらしい。名案があると豪語した彼は身を乗り出して、荷馬車を操る男に提案する。
「アカツキワイナリーに買い取ってもらおうよ。それで美味しいドリンクをつくってもらうんだ。中まで傷んでいないのなら、加工しちゃえば分からないでしょ」
「簡単に言うが、あの旦那様がそう簡単に首を縦に振ってくださるもんか? そもそもお会いできるようなツテもないし」
「ツテなら心配しないで。ボクはよくあの酒場で歌っているんだ」
「はは……」


 清々しい快晴は心まで晴れやかにする。ただし、それは人だけに限らないようだ。魔物、たとえば野外に拠点を築くヒルチャールたちもまた同じようである。
 野暮用でモンド城へと向かう途中、荷馬車を襲うこの集団に遭遇した。
 偶然居合わせた吟遊詩人と撃退すると、荷馬車の持ち主である男に感謝された。男は卸屋で、村で採れた野菜や果物をまとめてモンド城に卸に行く最中だったらしい。相棒でもあり商売道具でもある馬の首筋を撫でながら、男は遠慮がちに尋ねてきた。
「街に着くまで乗っていってくれないか。護衛してもらえると助かる」
「いいけど、ボクらは高くつくかもよ」
「なに、着いたらそれなりの礼をさせてもらうさ。ついでにリンゴも食べてもらっていい。今回は自慢できる味に仕上がっているらしいんでな、傷物で悪いが……」
「やったね! ほら、ご厚意に預かろうよ」
 こうして有無を言わせぬ吟遊詩人に腕を引かれ、荷馬車に乗り込んだのだった。
 恵まれた天気のもと、荷馬車に揺られるのはそれなりに心地が良い。ついさっき魔物に襲われたのが嘘のように、キャラバン道は平穏そのものだ。時折リスやキツネが顔を出しては逃げていく、それくらいだった。
 ノルベルトは手にしたリンゴを見た。表面に細かな傷や凹みは至近距離でじっくり見なければ分からない。これだけで市場に回せないことを思うと、やはり胸が痛む。土埃も洗えば落ちるというのに。
 片手の装備を外しリンゴを軽く掴む。そのまま荷馬車の外に腕を突き出し、手に意識を集中させた。周囲の水が掌にかき集められていく光景を思い浮かべる。
 イメージと全く同じ通りに……とはいかなかったが、手の中のリンゴが衣を纏ったように水に包まれていった。水が渦を巻き、赤い果実の身を清める。そしてしばらくすると、何かの意思から解放されたかのように、まとまっていた水が霧散した。手のひらには水に濡れたリンゴだけが残される。
 へえ、と吟遊詩人が感嘆の声を上げた。何かを思いついたような顔をして、手にしていたリンゴを服で何度か拭くとこちらに差し出してきた。
「ボクのも頼めるかい?」
 興味で目を輝かせる姿はまるで子どものようだ。
 同じようにしてみせると、今度は拍手までする始末である。先程まで子どものようだった吟遊詩人は、いつの間にか、初めての挑戦に成功した子どもを褒める親になっていた。これで居心地が悪くならないわけがない。
 濡れた手でリンゴを渡す。彼は手が濡れるのも厭わず、それを受け取った。
「まだ使い慣れていないんだ」
「そうかな。それにしては上出来だよ」
「神の目ってのは便利なもんだなあ」
 荷馬車を操っていた卸商人も会話に入ってくる。神の目持ちが珍しいのだろう。
「本当に。いつどこでも冷たくて新鮮な水が飲めると思えば、旅人にとってこれほど頼もしいことはないよね」
「自分で出した水を飲もうとは思わないな」
「そう? ボクは自分が起こした風で涼んだりするけど」
 吟遊詩人はそう言ってこちらに目配せした。同調する代わりに、リンゴに齧りつき咀嚼する。
 それを持たない人間にとって、水の神の目はそれほど便利な代物に見えるのだろうか。分からなくもない。ノルベルトも自分が持っていない神の目に対して同じような羨望はある。もし授かったのが炎の神の目であればいつでも火をおこせて便利だっただろうとか、風の神の目であれば洗濯物を早く乾かすことができただろうとか。
「氷の神の目を持っていれば、いつでも冷たいドリンクが飲めるよね」
「そういうもんかね。神の目にまったく縁がない一般庶民にとっては、どんなものであろうと羨ましいものに違いないよ」
「そうかい」
「そうとも。だって少しでも風神様に見てもらえたってことだろう?」
 同意を求められた吟遊詩人はくすりと笑って、自前のライアーを爪弾いた。弦に風が乗っているのか。彼の指先の動きに合わせて穏やかな風が吹き、頬を撫でていく。時折木の葉を巻き上げていくものだから、髪の毛に引っかかって仕方がない。
 神の目が与えられる法則は定かではない。ただし世間一般的に知られている言い伝えはある——神の目とは、人の強い願いが神の目に留まった時に与えられるものだということだ。
 だから、持たざる者は持つ者への羨望がある。きっとかの者の願いは神に認識されたから、認められたのだと羨む。人は誰しも認められたいという社会的欲求がある。認め合うことは常に人同士で成り立っていることだが、神という上位存在に認められることは訳が違う。神の目を持つ者は確固たる安心を得られている、そう思うのだろう。
 しかしながら、持つ者にも持たざる者への羨望があるものだ。
 神の目を得たとしても何かが劇的に変わるわけではない。少なくとも自分は、転機というものが先にあって、神の目は後からついてきたものに過ぎないのだ。神の目に対する世間一般の定義からしてもこの解釈は間違っていないはずである。

 自由と牧歌の国と呼ばれるモンドでは、吟遊詩人は馴染み深い職業である。地元の港町ではあまり姿を見かけないが、モンド城では街のあちこちで彼らの歌声が聞こえてくる。
 しかしながら、その吟遊詩人を探し求めると意外に捕まえられなかったりする。その神出鬼没ぶりは気まぐれな風のよう。とある伝説では、風神バルバトスもかつて吟遊詩人の姿で現れたとされている。
「ウェンティ」
「んん?」
「ツケはいつ払う気だ」
 そう尋ねると、彼からは曖昧な返事をした。
 彼の名はウェンティといった。以前ドーンマンポートの酒場で出会い、話し相手に付き合ってやって以来、何かと縁のある吟遊詩人である。モンド城ではかなり名が知れているらしく、彼目当てにわざわざ酒場へやってくる客がいたほどだ。
 そんな優秀な腕を持つ彼だが、ノルベルトに対して多少のツケがあった。
 おそらく、自分だけではないのだろう。酒場という酒場に未払いの酒代があるはずだ。確かに彼の歌声は唯一無二だが、それを対価として認める者ばかりではない。過去には浴びるほど飲んでいたという証言も残っているくらいだ。
 ノルベルトに対するツケはたかが酒数杯分だが、こうして挨拶程度に催促している。
「もちろん覚えているとも。でもさ、考えてみて。あのワイナリーには何十年と熟されたワインがあるんだ。ボクらの友情もじっくりと年月をかけていった方が良いと思わないかい?」
 視線の先には、モンド随一と名高いアカツキワイナリーがあった。歴史、規模、品質の三拍子でこの国を牛耳る酒造業界の大物である。
「既婚者相手に口説く気か」
「へへ、そう聞こえたのなら吟遊詩人冥利に尽きるや」
 ウェンティはライアーを弾く手を止める。嘘じゃないよ、とこちらを見据えて微笑んだ。
「安心して。払うものはちゃんと払うから。でも、ツケを払ってハイおしまいの仲なんて、ちょっと惜しいじゃないか。たしかに風は自由であるべきだ。けれど、自由だからこそずっと同じように吹いているわけではないし、時に風同士が交わることもある。それに、ボクも君のことをもっと知りたいと思っているし」
「俺はそうでもない」
「ええっ、遠慮しないでよ」
 聞き役に徹していた卸商人が声を上げて笑った。
 再びライアーが弾かれる。軽やかな音色にはノルベルトや卸商人だけでなく、荷馬車を引く馬や道中の動物たちも興味を惹かれているようだった。
 そのライアーに名前はあるのかと聞いてみたことがある。彼と出会った酒場でのことだ。
「天空——これは二代目みたいなものさ。でもちょっと格好悪いかな」
「趣がありそうでいいんじゃないか」
「ありそうじゃなくて、あるんだよ」
 聞き捨てならないと憤慨した彼は、その後ツケをもう一杯追加し、こんこんと二代目への愛を語り聞かせた。空が白むまで。流石に別れ際は酔い疲れきった状態で、自慢の腕前が披露されることはなかった。
 閑話休題、今は酒も入っていない日中である。
 自慢の腕前が発揮される時だ。モンド城ではまず人盛りが出来るであろう歌声を、真正面という特等席で聴いている。タイトルは、確か……。
「風の歌か。定番だが、歌い手によってこうも違うもんに聞こえるんだな」
 モンド市民では知らぬ人はいないであろう。これが歌えないとモンド城では食っていけないとまで言われる、吟遊詩人の定番にして至高の歌だ。風と自由に憧れ求める歌は、そのどちらも当たり前となった今でも人々に愛されている。
 風に乗って、人の往来が聞こえ始める。モンド城はもうすぐだ。

「悩みがあるなら打ち明けてみて。何処にいても風はきみの声を拾うから、勇気を出して声にするんだ……逆に言うと、秘密にしたいなら声に出すのはおすすめしないかな」
「風神様は耳聡いと」
「風神だけじゃない。みんな聞いているよ」
「みんな?」
「そうさ。たとえば、千の風とかね」
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