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キスガス

 私はノースセクターのルーキー、ガスト・アドラーのファンだ。
 公式に発売されているグッズはほぼ全て手に入れているし、エリチャンのアカウントはもちろんフォロー済み。彼がかつてホームグラウンドにしていたというだけの理由でイーストセクターの実家からサウスセクターのアパートメントの一室に引っ越し、休日になれば毎回のようにノースセクターに出かけている。家族や友人から呆れられることもあるが、非常に幸せな毎日だ。
 そんな私は今日も、ノースセクターへと足を運んでいた。運が良ければ生のガスト・アドラーが見られるかもしれない。一歩間違えばストーカーと言われてしまいそうな行動だが、推しが一目でも見られるかもしれないという欲求には勝てなかった。
(でも、今日は会えなかったな……)
 意気消沈したまま、カフェのオープンテラスでアイスティーを口にする。彼らヒーローはセクター中を巡回しているのだ。ピンポイントで会おうとしても難しいということは理解している。それでも、一目推しを見て明日から仕事をするための元気をチャージしたかった。そんなことを考えて俯いている私の隣の卓に、誰かが座る気配がした。
「今のところはサブスタンスもイクリプスも現れなかったな」
「そうだな。まあ出てこられたら面倒くさいし、オレとしては万々歳なんだが」
 心臓が止まるかと思った。
 公式のPR画像や何度か見に行ったLOMで聴いた、忘れるはずのない声。私は動揺していることを悟られないように呼吸を整え、何気ない仕草を装って隣の卓をちらりと見た。
 生ガスト・アドラーである。それも距離約一メートルほど。激近だ。喉から漏れそうな雄叫びを必死で押し殺し、なんでもないように振る舞う。会話から察するにパトロールの休憩をしに来たのだろう。せっかくの休憩時間を邪魔したくなかった。
「あはは、キースは相変わらずだなぁ」
「そーそー。人間そんな簡単には変わらないんだって」
 キース、キース・マックスか。ウエストセクター研修チームのメンターで、メジャーヒーローだ。稀に他セクターのヒーロー同士でパトロールを行うことがあると聞いてはいたが、今日がその日だったのか。キース推しの友人が今の状況を知ったら羨ましさのあまり失神しそうだ。これは墓まで持っていこう。そう決意する私の横で、二人の会話は進む。
「あ、そういえば、お前が飲みたがってた酒、見かけたから買っといたぞ」
「本当か?いいねえ。キースの次のオフはいつだっけか」
「来週の金曜だな。お前は?」
「来週の金曜なら俺もオフだ。家に遊びに行っていいか?」
「おー。じゃあうまいつまみを買って来といてくれよ」
「用意しとく」
 セクターが違う二人だが、どうやら宅飲みをする程度には仲がいいらしい。意外な新情報を脳内に刻みつける。ガストくんは、ヒーローとして公式の場で聴くのとは違う、堅さのない嬉しそうな声音で会話をしている。一体今の彼はどんな表情をしているのだろうか。好奇心に負けた私は、もう一度ちらり、と二人の方に視線を向けた。
 ガストくんのエメラルドグリーンの瞳。綺麗なその色が、愛おしさに満たされて揺れている。反対側に座るキースさんのオリーブグリーンの瞳もまた、同じ感情を宿してガストくんを見ていた。なにかいけないものを見てしまった気がして、挙動不審に思われないように迅速に視線を手元のアイスティーに移す。
 あれは、ただ仲のいい友人に向ける眼差しではない。瞬間的に、その確信が私の脳裏を駆け巡った。私の父と母がお互いに向け合う眼差し。遠方の恋人を思う友人が、彼を想いながら見せた眼差し。それらが思い出されて、やはり今日のことは私の胸の中にしまっておこう、と決意が強くなった。推しの幸せを邪魔するようなことはしたくない。
 私はぬるくなったアイスティーを飲み干して、会計をするために席を立った。

 さて、今日も仕事が始まる。ガスト・アドラーのグッズの隣にキース・マックスのグッズが並ぶようになった部屋の中で、私は数日前の光景を思い出しながらそっと祈った。
(今日も二人が幸せでありますように)
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