キスガス

 控えめな照明で照らされ、ジャズミュージックが心地よく鼓膜を撫でるバーの店内。キースは、いつものようにリリーと飲みに訪れていた。彼女は上機嫌で自分の娘がいかに可愛らしいか語り、キースはそれに相槌を打つ。一方的な会話のように見えるが、キースは上辺ではめんどくさそうなそぶりを見せつつも、この時間を気にいっていた。幸せそうに笑う相手の顔を見ながら飲む酒は格別に美味い。手にしたグラスに口をつけて琥珀色の液体を喉に流し込めば、からん、と氷が軽やかな音を立てた。
「む、もうこんな時間か。時間を忘れて話し込んでしまったな」
「リリーは娘のことになると話が長いからな」
「私の自慢の宝物だからな。仕方ないだろう?」
 自信たっぷりの笑みにはいはいと笑いながら頷いておく。さて、と居住まいを正すリリーを見て、自分もそろそろ帰り支度をするかと財布に手を伸ばしかけたキースに、予想外の言葉がかけられた。
「で?お前は一体何を悩んでいるんだ?」
「は?」
 突然問いかけられ、口から間抜けな音が転がり出る。リリーはそれが面白かったのか、口元を押さえて肩を震わせた。
「そんな顔をしなくてもいいだろうに」
「いや、突然「何を悩んでるんだ」なんて言われたらそうもなるだろ。悩みなんてないよ。ディノも帰ってきたしな」
「嘘だな」
 即座に否定の言葉が返ってくる。リリーはそのアメジストのような瞳で真っ直ぐキースを射抜きながら言う。
「こうしてお前と飲むようになって何年経つと思ってるんだ?顔色ぐらい、読めるようになっても不思議じゃないだろう」
「………ほんと、アンタには敵わないよ」
 居心地悪そうにリリーの視線から逃れながら、癖の強い髪をがしがしと掻く。実のところ、リリーの言う通りキースには悩みがあった。それも、簡単には打ち明けられない類のものが。
「私には言えないことか?」
「リリーには、つーか………誰かに言えるようなもんじゃねーんだよ」
 呟いて、目を伏せる。そう、誰にも。リリーにも、元メンターであるジェイにも。気心知れた同期の二人にすら、言えないこと。キースは重いため息をついて、自分の抱える悩みに思いを巡らせ始めた。



 第十三期研修チームのメンターになって以来、キースは年下のルーキー達と接する機会が増えた。自分の直接のメンティーである二人はもちろん、それ以外の面子とも。ガスト・アドラーは、そんなルーキー達の中の一人だった。
 初めて話をしたのは、チームの垣根を越えたパトロールの時。キースは普段のパトロールと同じく、二日酔いに悩まされながらパトロールへと参加した。普通ならその時点で呆れられたり、注意を受けることがほとんどで、その時もキースは注意を受けるものと思って言い訳の台詞を考えていたほどだった。しかし、ガストはキースの予想とは違った反応を見せた。
「二日酔いはマシになったか?」
 キースを休ませ、ひとりパトロールに出たガストは、そう言って笑った。ああ、こいつは苦労するタイプだな。そう思ってしまえば、放っておくことができなくて飲みに連れ出した。それが、キースがガストと仲良くなったきっかけだった。
 その後も、キースとガストは機会があれば二人で飲みに繰り出した。気遣い屋の苦労性で、話し上手の聞き上手。打ち解けるのにそう時間はかからなかった。たまに飲みに出てはお互いに愚痴を話し、慰め合い、酒を呷る。そういう関係。それだけの関係のはずだった、少なくとも最初のうちは。
「キース」
 年下らしい屈託のない笑顔で笑いかけてくるガストに、後輩に対する以上の気持ちを持ちはじめたのはいつのころだったか、キースは覚えていない。ただひたすらに、ガストと過ごす時間は心地よかった。もっと笑顔が見たい。その声で名前を呼んでほしい。キースが自らの想いを自覚したのは、そうした欲望が溢れる寸前まで胸の内に溜まってからだった。
 この想いはこのまま閉じ込めて置かなければならないと、キースは強くそう思った。伝えれば、今のこの関係はきっと崩れてしまう。それは、避けなければならない事態だった。喉をついて出そうになる愛の言葉を飲み込んで、抱き寄せそうになる腕を押さえつけて。そうして耐えていればいつか思い出に変えられる。そう、信じていた。
 そう、信じるしかなかった。



 口の中に広がる苦味を押し流そうとしてグラスを傾けるが、氷が溶けて薄まったそれは苦味を際立たせるだけだった。キースは僅かに眉根を寄せる。
「言いたくないなら無理にとは言わないが……お前はひとりで抱え込んで思いつめる性質だからな。心配してるんだ」
 私だけではなく、あいつらも。告げる声音は優しかった。もし、リリーが面白がるそぶりを見せたのだったら、煙に巻くことも、邪険にあしらうこともできただろう。しかし、真摯な言葉と態度を向けられてしまえば、それはできそうになかった。キースはしばし目を閉じてから、ゆっくりと言葉を喉から押し出した。
「…………誰にも言わねえよな」
「私の口が固いことはよく知っているだろう?」
 笑顔で言うリリー。その笑顔を見て、ようやくキースの口元にも笑みが浮かんだ。
「わかった。話す。ただここだと話しにくいからな……どこか人のいない場所があればいいんだが」
「タワーの屋上はどうだ?この時間なら訪れる奴は滅多にいないだろう」
「そうだな、そうするか」
 提案に頷いて、キースは席を立った。



 タワーの屋上には、リリーの予想通り誰一人としていなかった。仄かに星が輝く夜空を見上げながら、キースはぽつりぽつりと胸の内を話し始める。相手がガストであることは伏せて語られる言葉を、リリーは静かに聴いていた。
「…………と、言うわけなんだが……」
「なるほどな………難儀なことだ」
 リリーが苦笑する。全くもって反論できる要素のないキースは、「まあな」と言って煙草に火をつけた。
「自分でも馬鹿馬鹿しいと思うよ。いい歳して何やってんだって思う」
「恋をするのに年齢は関係ないだろう。そう卑下することでもないさ」
 迷いのない言葉に、少しだけ救われた心地がする。キースは強張った身体を少しだけ緩ませて、ほう、と煙を吐き出した。
「どうしたもんかねぇ……」
 全くもって解決の糸口が掴めない。困り果てた様子のキースの隣で、リリーは同じように空を見上げながら言葉を紡いだ。
「いっそ腹を括って想いを告げてみるのもひとつの手だと私は思うが……」
 想いを、伝える。言葉を脳内で咀嚼する。リリーに相談する前に、何回も脳内でシミュレーションしたことだった。しかし、現実でその一歩を踏み出すには、賭けるものが大きすぎた。臆病なものだと胸中で自嘲の言葉を吐き出すと、それが伝わったのかリリーに背中をばしんとひとつ叩かれる。
「あでっ!……何すんだよ」
「余計なことを考えている気配がしたからな。気合を入れてやった」
 ふふん、と勝気な笑みを浮かべるリリーを、キースはじっとりとした眼差しで睨む。リリーは今度はぽんぽんと軽くキースの肩を叩きながら、諭すように言った。
「まあ、どちらを選ぶかはお前次第だ。私はお前の選択を尊重する。だから、後悔のない道を選べ……もし、選択した先で泣くことがあれば、その時はまた、一緒に酒を飲んでやる」
「…………おう」
 キースは笑った。独りでぐるぐる考えていた頃よりは、胸の内が少し軽くなったのを感じる。全く、敵わないなぁ、と本日二度目の言葉が口から溢れて落ちた。
「もう少し、悩んでみるよ。納得のいく答えが出るまでな」
「ああ、それがいい」
 二人は晴れやかな顔で笑い合った。そのやりとりを、聞いている人物がいることには気が付かずに。



 ノースセクター研修チームの生活スペース。明かりが落とされ、静寂に包まれたそこに、ガストは息を切らせながら駆け込んだ。レンと共有の自室の戸を乱暴に開けようとして、思い留まる。今は深夜だ。大きな音を立てたらメンター部屋にいるマリオンや扉の向こうのレンを起こしてしまうかもしれない。それを考えるだけの余裕はギリギリ残っていた。扉にそっと手を当て、深呼吸をする。全力疾走のせいだけではない動悸を抑え込もうと、シャツの胸元を強く握った。
(キースに、好きな相手がいる)
 眠れずに、夜風を浴びようと訪れた屋上。そこで偶然聞いてしまった事実に胸が締め付けられる。その痛みで初めて、ガストは恋を自覚した。
(気がついた瞬間に失恋とか、なあ……)
 滑稽だと笑い飛ばそうとしても、きりきりと痛む胸がそれを許してくれない。ガストは座り込みたくなる衝動を堪え、気力を振り絞って扉を開ける。一歩、二歩、三歩。ベッドまでの距離が果てしなく遠く感じる。やっとの思いでベッドサイドにたどり着いたガストは、乱雑に羽織っていた上着を脱ぎ捨ててベッドへと身体を沈めた。焼けるように熱い目の奥に、泣くな、と念じて枕に顔をうずめた。
 愚痴を聞いて、一緒に飲んでくれる先輩ヒーロー。それだけだ、と、先程までのガストは思っていた。共にいる間の幸せも、離れている間の待ち遠しさも、すべて優しさをくれた相手への、後輩としての慕情だと、信じきっていた。恋を知らなかったから、そう信じていられた。ガストはついさっきまでの自分が酷く羨ましかった。
(泣くな。動揺するな。笑え………幸せなことじゃねえか。キースが、幸せになれるなら、それで)
 それでいい。そう思いたかった。身体の中で騒ぎ立てる激情を無視して、自分ではない誰かの横で、幸せそうに笑う彼の姿を思い浮かべた。おめでとうと言えるはずだ。言わなくてはならないのだ。それが、キースにとっても自分自身にとってもいいはずだ。そう言い聞かせた。
(…………寝よう。明日も早い)
 ガストは目蓋を閉じた。意識して呼吸を整える。願わくば、これがすべて夢であったなら。そんなガストの願いに応えるように、眠気は即座に訪れてガストの意識を攫って行った。



 如月レンがチームメイトの異常に気がついたのは、朝起きて、眠気覚ましのコーヒーを飲んでいる時だった。いつも鬱陶しいくらいに話しかけてくる同室の男が、今朝はやけに静かだ。「何かあったのか」と、一声かけようかとも思ったが、それは自分の柄ではない。そう思って、レンはとりあえず傍観を決め込むことにした。
「………」
 静寂。本来ならそれはレンにとって好ましいものであるはずだが、今日ばかりはなぜかレンの神経を逆撫でる。
(こいつひとりが喋らないだけでこんなに静かなのか)
 胸中で独りごちる。元々、ノースの研修チームはメンターもルーキーもガスト以外は他者との交流を好むタイプではない。それに加えて今日はヴィクターはラボに泊まり込み。マリオンはノヴァのラボへと足を運んでいる。必然、ガストが黙れば部屋に響くのは僅かな生活音のみ。酷く落ち着かない心地がして、落ち着かないと感じている自分自身に腹が立った。
(……別に、俺が気にすることじゃないだろう)
 レンはやや乱暴にカップをテーブルに置き、立ち上がった。
「集合の前にトレーニングをしてくる。そのままミーティングルームまでいくからここには戻らない」
 素っ気なく言い捨てる。普段なら「一緒に行く」だのなんだのとやかましい口は、「ああ」と二音を絞り出しただけだった。全く、腹立たしい。振り返ることなく、レンは部屋を出た。



「ガストが元気がない?」
 自身のメンティーから聞かされた言葉に、キースは目を丸くした。問いかけられたジュニアは、不思議そうな表情をしながら頷いた。
「おー、いつもうるさいくらいに話しかけてくる癖に今日はずっとだんまりでよ。なんかあったのかな?」
「いつもうるさいのはおチビちゃんも負けてないけどね」
「あんだとクソDJ!!」
 やいのやいのと騒がしいメンティー達を横目に、キースは思考する。
(アイツが周りに気づかれるぐらい落ち込むって相当だぞ、大丈夫か……?)
 ガストは易々と他人に弱味を見せるタイプではない。キースはそれをよくわかっていた。だからこそ、飲みに連れ出して愚痴を吐き出させてやっていたのだ。そんな彼が、ジュニアに不審がられるほど気落ちした様子だという。キースが心配するにはそれだけで充分すぎるほどだった。
 キースはスマートフォンを取り出しメッセージアプリを開く。ガストとのトークルームを開き、メッセージを送ろうとして寸前で指が止まった。
 この行動は、本当に純粋な心配によるものか?
 自問の声が胸に突き刺さった。
 ただガストのことを心配しての行動ならいい。いつも通り、共に飲んで、愚痴を吐き出させて、労ってやるだけならば。しかし、キースはそこに心配以外の感情が宿ってはいないかと、自分を疑ってしまう。
 自分の行動は、ガストの弱った心につけ込もうとするものではないのか。それを迷わず否定することは、今のキースにはできなかった。自分の心の内に彼への欲望が宿っていると、自覚してしまったキースには。
(………クソッ)
 キースは、奥歯を噛み締めてメッセージアプリを閉じた。彼を想う気持ちが純粋であると、胸を張って言えない自分が情けなく、自分の欲望で彼を傷つけることに怯える自分が疎ましかった。
(あんだけリリーに発破かけてもらったっつーのに。オレは救いようのねぇ臆病者だ)
 キースはもどかしさに、強く強く拳を握った。



(………まだ落ち込んでるのか)
 事態は思っていたより深刻らしい。夕食を摂って早々にガストが部屋に引っ込むのを見て、レンはため息を吐いた。共用のリビングではヴィクターとマリオンがソファに腰掛け、エスプレッソを飲んでいる。ヴィクターはガストが入っていったルーキー部屋の扉を興味なさげに眺め、マリオンは眉を寄せて何か考え込んでいるようだった。
「なんなんだ、アイツ。うるさいのも鬱陶しいけど、じめじめした空気を撒き散らしてるのもキモチワルイ」
 ばっさりである。マリオンらしい、とレンは思うが、今の言葉をガストが聞いていなくてよかった、とも思った。今のガストには、その言葉を受け流せるだけの心の余裕があるとは思えなかった。
「何かあったのでしょうか、レンは知っていますか?」
「いや、俺は知らない」
「そうですか……」
 ヴィクターは呟いて、エスプレッソに口をつけた。どうやらそれ以上問いただす気はないようだ。マリオンは苛立ちを吐き出すように大きく息をついて、刺すような鋭い視線をレンに向けた。
「オマエ、アレをなんとかしてこい」
「は?」
「いつまでも陰気な態度を取られていたら気が散って迷惑だ」
「なんで俺が」
「オマエがアイツと同室だからだ」
「…………」
 レンは思わず沈黙した。確かにレンはガストと同室のチームメイトだ。対処するならまず自分がすべきだということは理解できなくもない。しかし、その理論で行くならばメンターである二人にも自分と同じくらいの責任があるのではないか。そう言おうとしたが、ヴィクターの穏やかな笑顔に封殺されてしまう。
「きっと私やマリオンに話すよりは話しやすいでしょうから。お願いします、レン」
 肯定の代わりにため息を吐き出し、レンは自室へと向かった。
「…………」
 部屋の扉を開けても、ガストはぼんやりと銃の手入れをしているだけで、声をかけては来なかった。レンは普段なら自分のベッドへと向かうところをそうせず、真っ直ぐにガストの方へと向かった。流石にガストがレンへと視線を向ける。
「レン?」
 ガストは驚いた様子でレンを見上げた。レンは座った状態のガストを見下ろし、強い視線でガストの瞳を捕らえながら言った。
「全部吐け」
「へ?」
 間の抜けた声に苛立ちが増す。レンは刺々しさを隠しもせず、なおも言い募った。
「お前、何かあっただろう」
「っ!」
 途端、びくりとガストの肩が震える。図星をついたであろうことはその反応から容易に察することができた。しかしガストは唇を僅かに震わせたものの言葉を発することはない。だんまりを決め込むつもりのようだ。レンはすう、と目を細めた。
「まだ隠し立てするつもりか?」
「………隠し立ても何も……レンには関係ないから話さないだけだよ。今日は変な態度とって悪かった。出来るだけ明日は元どおりにするようにするから……」
「関係ならある」
 レンはガストの肩を掴み、逃さないとばかりに宣言した。
「いつもいつも無駄に話しかけてくるくせに、突然だんまりになられたら調子が狂う。俺だけじゃなくてマリオンもそうだ。ここに来る前に、あいつにお前をなんとかしろと言われた。このままお前がうじうじしたままなら、明日にはお前も俺もまとめて鞭打ちを喰らうことになる。そんなのはごめんだからな。もしこれ以上意地を張るようならヴィクターに自白剤を用意させてでも話してもらうことになるぞ」
「じ、自白剤って、おまっ!?」
「効き目を詳細にレポートするとか申し出れば、あいつなら喜んで用意するだろうな。さあ、自分で話すか自白剤で吐かされるか、どっちか選べ」
「わ、わかったよ!話す!話すから自白剤はやめてくれ!」
 レンが至って真剣に告げると、ガストは観念したように叫んだ。レンは「最初からそうしていればよかったんだ」と呟いて、ガストの肩を離した。ガストは至極疲れたような、しかし肩の荷が降りたような顔つきではは、と笑い声をあげる。
「…………レンにとったらすっげえくだらねえことかもしれないけど」
「くだらないかくだらなくないかは聞いてから判断する。さっさと話せ」
「はいはい」
 レンはガストの言葉を食い気味に遮って催促した。ガストはわかったわかった、と降参のポーズをして、ひとつ呼吸をしてから言葉を紡ぐ。
「…………失恋、したんだ」
「……………」
「あっその顔やめてくれよ!傷つく!」
「やかましい。とりあえず一発殴らせろ」
「理不尽!?」
 自分はよほど酷い顔をしていたのだろう。ガストが文句を言ってきたがそれを捻じ伏せて、拳を固く握る。しかし、ガストが「とりあえず最後まで聞いてくれよ」と言うので、一旦拳を解いた。
「………なんつーか、相手に好きな奴がいるって話を聞いてから、ああ好きだったんだなーって自覚したんだよ。それで頭の中ぐちゃぐちゃで、いつもみたいに振る舞えなくてな……」
「…………」
「だからそのしょっぱい顔やめてくれって!」
 抗議されて、レンは仕方なしに表情を引き締める。
「お前、遊んでますみたいな外見しておいて本当に経験がなかったんだな」
「そんなことで嘘なんかつかねえって……本気で、本当に経験人数ゼロだよ」
 開き直ったのか、投げやりな態度で告げるガストを見ながらレンは思考する。正直、レンも恋愛事に関してはガストのことを言えない。恋愛をしている暇も、その気もなかったからである。そのため自分に有効なアドバイスを出すのは難しいとレンは判断した。しかし、このままガストが落ち込んでいては自分も落ち着かないし、自分と同じように苛立っているメンターに鞭打ちされてしまう。それを避けるために考えを巡らせていたレンは、ひとつの答えに辿り着き、口を開いた。
「もう相手に告白するしかないんじゃないのか」
「こくっ!?」
 予想外の回答だったのか、ガストが大げさに叫んで咳き込む。
「げっほ、ごほ、いや、さっきも言ったみたいに相手には好きな奴がいてな!?」
「それですっぱり諦められているなら最初からうじうじしてないだろ」
「うっ………」
 またもや図星をついたらしい。気まずそうに言葉に詰まるガストに、レンは自分なりの考えを伝える。
「まだごちゃごちゃ考えるはめになってるのは、諦めきれてないからだ。大方告白して関係を壊すのが怖いとか思ってるんだろうが、お前はそもそもそんなごちゃごちゃしたものを抱えたままで、相手と今まで通り接することができるのか?」
「うっ………」
 とどめの問いかけで、ガストはがっくりと肩を落とした。その仕草が、レンの問いへの何より雄弁な答えだ。
「どうせ元に戻れないなら、全部ぶちまけてみればいい。結果がどうなるにしろ、抱え込んだままで終わるよりはマシだろう」
 レンがそう言うと、ガストは途方に暮れた顔でレンを見ていた。揺れるエメラルドの瞳が、迷子の子供のようにレンを映している。しかしレンは、迷子にするように手を取って励ましたりはしない。今のガストに必要なのは慰撫より激励だと、そうレンは確信していた。
「………いいのかな。ぶちまけてみても」
「ああ」
「………ダメだったら、慰めてくれるか?」
「断る」
「ひでぇ!」
「…………はぁ。唆したのは俺だから、コーヒーくらいは淹れてやらなくもない」
「はは、そっか…………ありがとな」
 ガストは笑った。昨日までと同じ、へらへらとした締まりのない笑顔。その笑顔に安心している自分が腹立たしかったが、それを表に出すのはぐっと堪えた。
「心を決めたなら、さっさと約束を取り付けろ」
「えっ、今か!?」
「時間を置いて、お前がまた日和ったら俺がここまでやった意味がないからな」
「うう、そりゃそうだけど………わかった!わかった!睨まないでくれ、レン!」
 レンはガストの脇腹を小突いてスマートフォンを取り出させた。ガストは躊躇いながらもメッセージアプリを起動し、メッセージを打ち込み始める。レンは何の気は無しにその画面を見て、表示されている名前に目を見開いた。
 キース・マックス
 見覚えのあるその文字列に今日最大のしょっぱい顔を披露したレンを見て、ガストは気恥ずかしそうに笑った。



 イエローウエストの街並みは、今夜もきらきらしいネオンに彩られて、星よりも鮮やかに輝いている。手持ち無沙汰な様子であたりを見回していたキースは、目的の人物が通りの向こうからやってきたことに安堵の息をついた。
「悪い、待たせちまったか?」
「いや、大丈夫だ」
 駆けてきたガストの言葉に、手を挙げて応える。さりげなく様子を観察するが、ジュニアから聞いていたほど落ち込んでいるようには見えない。解決したのか、それとも隠しているのか。まあ今夜じっくり時間をかけて聞き出せばいい、と、キースは考えた。
「で、相談事があるんだって?一応家は片付けておいたから、すぐ案内できるぞ」
「ああ、悪いな、家に上がらせてもらうことになって」
「いいっていいって。それじゃあ、行くか」
 連れ立って歩き出す。今日はガストの方から、人に言えない相談事があるから二人きりで飲みたい、と提案を受けていた。ガストが自分だけに相談をしてくれる。その事実だけで浮かれそうになる自分を必死で律しながら、自宅へと案内する。ほどなくしてウエストセクターの一角にあるキースの自宅に辿り着くと、キースは玄関扉の鍵を開けてガストを招き入れた。
(とりあえず片付けはしたからみっともなくない……よな)
 待ち合わせの前に散々チェックはしたものの、改めて確認する。ブラッドの私室のように綺麗に、とまではいかないものの、汚いとまでは言えないくらいに片付けた部屋を、ガストが物珍しそうに見回している。
「広いな……!」
「おう、ソファに座ってくつろいどいていいぞ。酒は今持ってくる」
「あ、ああ」
 ガストに言ってから、キッチンへと足を運ぶ。ウイスキーの瓶とグラス、氷の入ったアイスペールを持ってリビングに戻ったときには、ガストが明らかに緊張した様子でちょこんとソファに腰掛けているのが見えて、思わず酒瓶を落としそうになった。
(いや、可愛いなアイツ……!!あーくそ、落ち着けオレ!!童貞じゃねえんだからこれぐらいで動揺するな!!こういうときはアレだ、素数を数えて……って素数ってなんだっけか?とりあえずニヤつくのだけは絶対にやめろ……!)
 湧き上がってくる煩悩を押さえつけて平静を保つ。ガストが戻ってきた自分を見て、ほっとしたように笑ったのを見て表情が崩れかけたが、固い意志でいつも通りの表情を死守した。
「待たせたな」
「気にしないでくれ。ありがとな」
 ガストの隣に腰掛けて持ってきたものをテーブルの上に置くと、キースは手際良く二つのグラスに氷を入れ、ウイスキーを注いだ。片方のグラスをガストに渡す。
「それじゃあ、乾杯」
「乾杯」
 チン、と澄んだ音を立ててグラスの縁が触れ合った。二人同時にウイスキーに口をつける。
「美味いな、これ」
「だろ?」
 短く言葉を交わし、もう一口。キースは、ガストに話をするよう急かすことはなかった。ガストの方から話すと言ってくれたのだから、ガストのタイミングで話してくれればいい。そう思って、しばらくの間ウイスキーを楽しんでいると、隣のガストが居住まいを正す気配がした。そろそろか。ガストへと視線を向けると、その翠玉の瞳には真剣な色が宿っていた。ガストが緊張した面持ちで口を開く。
「メッセージでも言ったけど、話したいことがあってさ」
「おう」
 キースも、真剣に向き合う。ガストがせっかく自分を頼ってくれたのだ。今だけはガストへの気持ちは封じ込め、どんな相談事でも真摯に受け止めよう。それはガストからメッセージを受け取った時に決めていたことだった。ガストが、何度か逡巡を繰り返した後に重々しく口を開く。
「その、気持ち悪いって、思うかもしれないんだけどな」
「そんなこと、思ったりしねえよ。安心しろ」
 迷いなく、キースは断言した。頼ってくれる想い人のことを、気持ち悪がるなどあり得ない。即座に告げられた言葉に、ガストは驚いたように瞠目してから、ふわりと笑った。それは安心した、というよりも、覚悟を決めた、という笑みで。一瞬その表情に見惚れたキースに、爆弾のごとき言葉が叩きつけられる。
「俺…………俺、キースのことが好きなんだ。先輩ヒーローとしてとか、友人としてとかじゃなくて……恋愛として」
 今、なんて言った?問おうとしても口が動いてくれない。告げられた事実の衝撃に呆けるキースに、ガストは畳み掛けるように続ける。
「キースが俺のこと気にかけてくれて、愚痴聞いてくれたり、一緒に飲んでくれて、すげえ嬉しかった。一緒にいる時間が幸せだった。それで……いつのまにか、キースが好きになってた。いきなりこんなこと言われて、迷惑だと思う。けど、伝えなきゃなって、思ったんだ」
 緊張からか、ガストの手は震えていた。美しい緑の瞳が潤み、不安そうにキースを見ている。ガストが、オレを?そんな馬鹿な。そんな都合のいいことがあっていいのか。頭の中で嵐が吹き荒れるように、疑問が次々と湧いては消える。ガストは無言を貫くキースを見て拒絶ととったのか、悲しそうに俯いた。
「ごめんな、困るよな。いきなり、こんな」
 そう告げる声は震えていた。こぼれ落ちそうな涙を見て、キースは反射的にガストの身体を抱きしめていた。
「っ……!?」
 ガストが驚愕に身体を震わせる。腕の中のぬくもりを感じて、キースははっきりと、これが夢ではないことを自覚した。
「ガスト」
「き、キース……?」
 恐る恐る、といったふうに名を呼ばれる。キースは一度身体を離し、ガストの頬を両手で包み込んで微笑みかけた。
「…………ありがとな。伝えるの、怖かっただろ」
 ぽろりと流れた涙を親指で拭う。
「オレも、お前が好きだよ。前からずっと好きだった」
 告げられた言葉に、今度はガストが驚愕する番だった。見開かれるガストの瞳を、キースは愛おしげに覗き込んだ。
「お前がオレを頼ってくれるのが嬉しかった。笑いかけてもらえるのが幸せだった。でも、それを伝えてお前との関係が崩れるのが怖くて言い出せなかった……あー、年上のくせに情けねえなオレ……」
 ぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。ガストは呆然としたまま呟いた。
「じゃ、じゃあ、キースに好きな相手がいるって言うのは……」
「ん?それどこで聞いたんだ?リリー以外には話してなかったと思うんだが……」
「その、この間屋上で、教官と話してるの、聞いちまって……あ!もちろん、盗み聞きするつもりはなかったんだぜ!?その、夜風を浴びに行ったら偶然、つーか……」
「アレ聞かれてたのか。怒んねえからそんな顔すんなって」
 叱られる寸前の犬のような顔をするガストを、キースは両手で撫で回した。セットした髪が乱れるのも構わず満足げに撫でられている様子に、微笑ましさを感じて表情が緩む。
「それじゃ……両想い、ってことでいいのか?」
「ああ、お互い、くよくよ悩まずにもっと早く話し合ってればよかったな。今更言ってもしょうがねえけどさ」
「はは、そうかもな」
 ガストが愉快そうに笑った。キースの愛した、無邪気な笑顔。それを見ていたずら心が湧いたキースは、そっと頬に当てた手を滑らせてガストの顎に指を添えた。
「ガスト?」
「ん?……………っ」
 呼び声につられて見上げたガストの唇に、自らのものを重ねる。柔らかい感触を楽しみながら舌を伝わせる。初めてキスしたガストの唇はほんの少し塩辛く、しかしキースが食べたことのある他のどんなものよりも甘美な味がした。



「で、うまく行ったと」
「ああ。アドバイスしてくれてありがとうな、レン」
「…………」
「あだっ!?俺今なんで小突かれたんだ!?」
「幸せオーラが鬱陶しかった」
「お前理不尽に磨きがかかってないか!?」
 ガストは抗議するが、レンはそんなことなどどこ吹く風で読書を再開する。文字の海を泳ぐレンの耳に聞こえてくるのは既に聴き慣れてしまった騒がしい声で、それに妙な安心感を覚えてしまう自分も末期だと、吐き出しかけた息を噛み殺す。
 まあ、ずっとうじうじされているよりはこの方がいいのだろう。鞭打ちも免れたし。そう思って、比較的穏やかな心持ちでレンは読書に耽った。
 数分後、「騒がしい」という理由で部屋にやってきたマリオンにガスト共々鞭打ちされることになるのだが……それはまた、別の話。
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