短編2
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甘いと苦い、どちらかを選べと言われたら彼女は迷い無く甘い方を選ぶ。だが、彼女の記憶にある苦さは酷く甘かった。ファーストキスがレモン味だったか苺味だったかなんて覚えてはいない、だけど現在の恋人とのファーストキスは苦い煙草の味と酷く甘い恋の味がした。スーツの胸ポケットに入れられた煙草とよく手入れがされた年季が入ったジッポライターのセット、付き合い始めの頃はかなり吸っていた煙草も今ではやめてしまったのか吸っている姿を見なくなってしまった。
同棲している部屋の片付けをしていれば、引き出しの中から乱雑に置かれたジッポライターが出てくる。常に胸ポケットに入っていたジッポライターが今では過去の品として置かれている時点でもう随分と吸っていないのだろう。自身への気遣いだろうか、副流煙がどうたら、と追い出されてベランダの窓越しにサンジの事を睨んでいた過去も何だかんだ良い思い出だ。そんな懐かしい過去のせいか、彼女はつい、それをポケットに入れてしまった。指先に触れるシルバーの感触にファーストキスのあの味を思い出す。
あの日の事は昨日の事のように今でも鮮明に思い出せる、何の話をしていたか、気付いた時には互いの唇が触れていた。その細長い指先が彼女の顎を持ち上げて、視線が絡み合った。見事な碧に見惚れていた一瞬の隙に男にしては厚い唇が全てを奪っていった。合わさったままの瞳は緩く弧を描いて、瞳の中の水面を優しく揺らした。淡く開かれた上唇と下唇の隙間から舌が侵入し、口の中で縮こまった彼女の舌を上手にエスコートし、唾液が混じり合う。サンジの舌は少し痺れるくらい苦くて未だに子供舌の彼女は少しだけ苦しかった。なのに、もっと、もっと、と強請るように舌を絡めてしまったのは目の前のサンジの雰囲気が酷く甘い砂糖菓子のようだったからだ。苦くて、甘い、噎せ返りそうになるくらいの愛の味がした。
それから何十回、何百回とキスをしてきたが段々と苦さだけが薄れていった。
レジの後側にずらりと並べられた中から、サンジが愛用していた銘柄を探して数字を口にする。思わず買ってしまったそれを捨てるわけにもいかず、家に持ち帰ってピッと封を切って箱を開けた。何と表現したらいいのか分からない不思議で独特の匂いがする煙草を行儀悪くクンクンと鼻を近付けて確かめてみる。そして彼女はポケットに入れていたジッポライターを掴んでコソコソとベランダに出た。時間帯的にまだ外は肌寒く、部屋着のショートパンツから出た脚がぶるっと震える。縮こまるようにしゃがみこむと、当時のサンジの手付きを思い出して、ライターの蓋をパカっと開いて回転式ヤスリを親指で擦るように勢い良く回転させた。そうすれば、直ぐに、チッ、という音と共に火が付いた。
「……できた」
箱から取り出した煙草を拙い動作で人差し指と中指で挟んで口に咥える。煙草の先端にそっと火を付ければ、ゆっくりと燃え上がり、ゆらりと糸のような細い煙が上がった。1回だけ、と思い切り煙を吸い込む。瞬間、慣れない苦さと煙さにすぐ口を放してしまう。
「……げほ、っ、うぇ」
味を堪能するよりも先に肺が悲鳴を上げそうだ、噎せ過ぎて喉までピリピリと痛い。だが、鼻腔を掠めた煙草の香りに、あ、これ、と彼女は頬を緩めた。スーツから香ってきていた仄かな男臭い香り、サンジの匂いだ、と彼女は懐かしい気持ちでいっぱいになった。ジジジ、と未だに白煙をあげる煙草を押し付けて、火を消す。部屋に入り、気持ち程度に匂い消しのスプレーを部屋着の上から振り掛けたが完璧に消えたかと聞かれたら微妙な所だ。
「おかえりなさい」
帰宅したサンジの手から荷物を受け取ろうと伸ばした腕をサンジに勢い良く引っ張られる。わっ、とサンジの方に倒れ込む彼女を難なく受け止めるとサンジは静かな声で彼女に問い掛ける。
「誰と会ってたんだい」
「コンビニしか行ってないわ」
サンジは荷物を玄関に放り投げると彼女の膝裏に腕を回して担ぎ上げるようにして持ち上げる。困惑している彼女は落ちないようにサンジの肩にぎゅっと掴まるがサンジはズンズンと寝室に足を進めベッドに彼女を放り投げた。普段は姫抱きにして蝶よ花よと自身を甘やかすサンジからそんな扱いを受けた事がない彼女はつい瞳を潤ませる。
「……な、何で怒ってるの」
「どこのどいつに触らした」
ヤニの匂いで鼻が馬鹿になりそうだ、とサンジは舌打ちをこぼすと彼女の手首を掴んでベッドに縫い付ける。
「おれが見逃すとでも思ったかい?残念だったな、無視出来なかったよ」
手首を握るサンジの手のひらにギリッと力が入る、痛みに彼女の顔が歪むがサンジはその手を離そうとしない。
「勘違い!私が自分で買って一本だけ吸ったの!だから手放して!痛い馬鹿!」
ファーストキスを思い出したかったの、と勢いに任せて叫べば、冷えた瞳が驚いたように見開かれる。サンジのジッポを見つけたから同じ銘柄を買って、一回だけ吸ったの、とぽつり、ぽつり理由を話せばサンジはベッドに頭を擦り付けるように崩れ落ちた。
「ごめん……本当にごめん……」
君から男の煙草の匂いがして正気じゃいられなくなった、とサンジは消え入りそうな声で何度も謝る。その項垂れた頭を雑にわしゃわしゃと撫でれば、情けなく下がった眉毛の下にある碧が顔色を伺うように彼女の顔を覗き込む。
「ちょっとだけ懐かしい味を味見したくなったの」
味見、サンジはそう口にするとスーツのポケットからミルクチョコレートの袋を出す。あ、それ、と彼女が口にすると同時にサンジは袋を開けて自身の口にミルクチョコレートを放り込む。そして彼女の薄く開いた口に自身の口の中の熱でとろとろになったチョコレートを流し込む、甘くて優しい味がするミルクチョコレートは彼女がよく買ってしまうものだ。
「これは君の味」
おれのファーストキスは甘ったるいミルクチョコ、とサンジは秘密を共有するように囁いた。久しぶりのファーストキスの再現は甘ったるい愛の味がした。