短編2
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気が向いたら書いて、そう言ってサンジは引き出しに婚姻届を入れた。プロポーズから逃げ回る私への配慮だろうか、サンジはそれ以上、私を急かすような真似はしなかった。婚姻届はファイルに入れられて綺麗な状態のまま数ヶ月、引き出しの中で眠っている。サンジがいない隙を見計らって、何度か婚姻届の端から端までを眺めた。用紙の半分を埋めるサンジの字は普段よりもスッキリとしていて、この書類が特別なものである事を嫌でも実感させられた。別に書きたくないわけでも、サンジと夫婦になりたくないわけではない。ただ、始まりがあれば終わりもある。いつか、これと違う用紙に名を書く日が来たら私はきっともう立ち直れない。だから、新たな関係に踏み出す事に躊躇しているのだ。
強情な私をサンジはいつまで待ってくれるのだろうか、お互いの顔に皺が増えて腰が曲がっても半分が埋まっていない用紙と不確かな未来を待ち続けてくれるのだろうか。
「はぁ……」
サンジは決して私を急かしたりはしない。だが、数日に一度引き出しの婚姻届を確認しているのを知っている。その半分だけ真っ白な婚姻届を見て、答えが分かっていたように笑うのだ。
その日は突然訪れた、突然というより日々の積み重ねと言えばいいのか明言は出来ない。ただ、今だ、と思ったのだ。私はボールペンを握り、無我夢中で婚姻届の半分を埋めていった。はじめて書く筈なのに何度も用紙に目を通していたせいか、次はコレ、その次はコレ、と手を止める事なく書いていった。最高傑作とでも言うように頭上に翳してみれば、スッキリとした字の横に余所行き用の私の字が神経質そうに並んでいた。私は婚姻届をファイルに再度しまい込み、引き出しの中に忍ばせた。次に引き出しを開いた時、サンジはどんな顔をして埋まった婚姻届を見るのだろうか。楽しみ半分、怖さ半分といった所だ。
ただいま、と口にする前に私の体は玄関の扉とサンジの体によって身動きが取れなくなっていた。頭が扉にぶつからないようにサンジの手が頭の後ろに回される。そして、もう片方の手は力加減を忘れてしまったのか私の腰をぎゅっと抱いている。
「ふふ、朝会ったでしょ?なぁに、寂しかった?」
茶化すような私の声に返ってきたのは返事ではなく、サンジの泣き声だった。サンジの啜り泣くような泣き方に途端に不安になってしまう。どうしたの、大丈夫、何があったの、と矢継ぎ早に言葉を重ねる私にサンジは首を振り、未だに頬を新しい涙で濡らしている。
「っ……いの」
サンジの声を上手く聞き取れずに私はもう一度と口にする、そうすれば先程よりもハッキリとした声がサンジの口からこぼれる。
「おれでいいの」
「……見つけたのね」
「うん、もしかして、と思って」
サンジは何度もしかしてを繰り返したのだろう。その度に期待は砕かれて、分かりきった半分だけの婚姻届を目にした筈だ。
「……遅くなってごめんなさい」
「いや、責める気はねェんだ」
おれと君のペースは違ェもん、歩く速度だって何もかも違ェんだから覚悟を決めるのだって人それぞれのペースでいいんだ、とサンジは優しく私の背中をポンポンと叩く。
「でも、沢山待たせたわ」
「おれね、君が一生書かなくても許してたよ」
「……なんで」
「君の心がおれの方に向いてるからかな」
愛されてる自覚があるから怖くねェよ、とサンジは潤んだ瞳を細めて私を見た。この数ヶ月、サンジを傷付けていないかどうかだけが心配だった。
「おれと一生いてくれるの?」
「離婚届は引き出しにしまわないって約束してくれるなら」
「君こそ愛が重いって返品は無しだよ」
重なった否定の声にくすくすと笑いながら、サンジは私にこう問い掛けた。何で書いてくれたの、と。
「……あなたの寝顔が幸せそうだったから」
明日も明後日も、そして皺が増えて腰が曲がっても毎朝その平和ボケした寝顔の横で目覚めたいと思ってしまったから、私はその白紙にペンを走らせたのだ。