短編
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
最初は軽い気持ちだった、サンジの甘くて蜂蜜のようにとろとろした低音ボイスに下の名を呼び捨てされたい、と。だが、サンジは畏れ多くて無理だと頑なにナマエちゃんと邪魔な敬称を付けて私を呼ぶのだ。
「何で」
「畏れ多くて」
「恋人なのに?」
「……はは、緊張しちまうっつーかさ」
まだ、おれには難易度が高ェ、とサンジは初々しい表情で私を見る。名前の敬称如きで大袈裟だと呆れる私よりもサンジの方が何倍も可愛らしい。
「ゆっくり待ってて……?」
小首を傾げて、サンジはそう言うとまた邪魔な敬称を付けて私を呼んだ。それにワザとプイッと顔を逸して、やだ、と言えばサンジは小悪魔だの可愛いだの意味の分からない言動を繰り返しながら崩れ落ちた。
「ナマエって呼ばないと返事してあげない」
よーい、スタートなんてまるでゲームを始めるかのように私は手を叩くとサンジの出方を窺う。サンジはキッチンの床にペしゃりと座り込んだまま、絶望を浮かべた顔で私の顔を見上げる。
「……ナマエちゃん?」
捨てられた子犬のような表情で私を見ては、片方だけ覗いている碧眼を揺らす。これが演技だったら厄介な女にも負けないあざとさだ、と無言でサンジを見つめていれば、もう一度○○ちゃんと名前を呼ばれた。
「ナマエって呼んで」
別に泣かせたいわけでも困らせたいわけでもない、ただ特別が欲しい。全世界のレディの中で私だけが特別だと教えて欲しいのだ、その甘い声で教えて欲しい、私が恋人だ、と。
「ナマエ……ちゃん」
「ふふ、惜しい」
その絶妙な間が何だかおかしくて、つい笑ってしまう。私が笑った事に安心したのか、サンジは先程の不安げな表情をしまい込み、ホッとしたような表情で私を見る。
「追々ね」
「……すまねェ、おれが至らねェばっかりに」
「私も強情だったし気にしないで」
ちょっと羨ましくなっただけなの、と続ければ、サンジは私の言葉をなぞるように口にして小首を傾げる。
「お姉さんのこと呼び捨てだったから」
「レイジュかい?」
「そう、特別みたいで羨ましいなぁって」
「……特別っつーか、ただの姉弟だよ?」
「サンジがレディを呼び捨てするのを初めて聞いたから」
そう言ってサンジの横にしゃがみ込み、その肩に頭を預けた。ふわりと香る煙草の香りに目を閉じる、この距離に私を置いてくれている事がきっと全てだと分かっている。でも、我侭な私はそれ以上を求め、くだらない我侭でサンジを困らせてしまう。
「君の名前はおれには甘過ぎるんだ」
「甘い?」
「口ン中で溶けちまいそうな程にね」
だから、毎回緊張しちまう、君に届ける前に溶けちまったらどうしようってね、そう言ってサンジは私の髪に指を絡める。
「上手い逃げ方ね」
「っ、くく、そんなんじゃねェよ」
本当に思ってる、とサンジは私の耳元に顔を近付ける。
「……ナマエ」
低音が直接、鼓膜を愛撫するように発せられる。先程まで狼狽えていた人間とはまるで別人のようだ。
「ほら、甘ェ」
フッと息を吐いて笑うサンジは私の頭をポンポンと叩いて、だから、しばらくはこれぐらいで、と言葉を続けた。
「……ずるい」
「それ程でも?」
「褒めてない」
「はは、手厳しいね」
もう次には邪魔な敬称を付けて私を呼ぶサンジ、だが、先程の甘さを引き摺っている私はその邪魔な敬称すら今は有り難い。今、ここであんな呼び方をされてしまえば先に溶けてしまうのは名前ではなく、私だったのだから。