壱頁完結物
コンクリートの廊下に靴音が鳴る。
私の居る場所は柵で閉じられ、中には簡素な寝台と水回りがある位だ。
今日も彼が来る。
見廻りだけだと判っているのに少しだけ期待してしまう。
「君を助ける代わりに君の個人情報を貰おう」
そう云った彼が私を此処から連れ出してくれる事を。
*****
反抗時刻にアリバイが無い、只其れだけの理由で捕まった。
私は何もしていない、そう云っても誰も信じてくれなかった。
「君、冤罪だね。だから僕に聴取を回せって云ったのに」
「…貴方、誰?」
「本来は警察なんだけど、人は僕を名探偵と呼ぶよ」
そう、一人を除いては。
*****
「此処から出たいなら僕が助けてあげよう」
「…本当に?」
「うん。まあ聞かれる前に解説するとうちの署が冤罪に気付かなかったのが上にバレたから評価が地に落ちちゃったんだよ」
「汚名返上の為に、真犯人を見つけるって事?」
「へぇ、察しが良いじゃないか」
「君、名前は?」
*****
そうして捜査協力の名目で私は個人情報を出来るだけ詳しく提供した。
もう直ぐ結婚する事を告げると祝福してくれた。
良い人なのだろうか。
「なるほどねえ」
「それで、冤罪の証明にはどの位掛かりそうですか」
「僕が証明するのは一瞬なんだけど」
「書類って面倒な物があってね」
*****
「僕の推理が間違ってた事なんて無いのに毎回証拠品の詳細やら犯人の動機やらを事細かく書けって煩いんだよ」
自信の乗った口調に驚きながらも静かに最後まで話を聞く事にする。
「早くて…三ヶ月かなあ」
「そんなに!?」
「此れだから無能は困るよねえ」
彼の溜め息が遠くに聞こえた。
*****
それから失望した私は彼の名前を聞くのを忘れていた。
小柄なのに自信に満ちた風貌、其れに似合う翠の瞳。
「結婚式には間に合わせてって、云えば良かった…」
もう頭が回らない。
起きたら次会う時迄に言いたい事を紙に纏めておこう。
「僕が助けてあげよう」
あの声を無意識に思い出す。
*****
それから暫く経ち、理不尽な出来事に激昂していた感情はだいぶ落ち着いて来た。
「はい終わり」
其の日、労働中に怪我をしてしまい私は医務室に居た。
「有難う御座います」
「此れからは気を付けなね」
微笑を浮かべる美人な女医さんが今の私の癒しだ。
「はい、晶子先生」
*****
「与謝野さん!お菓子貰ってくよ!」
突然、けたたましい音を立てて医務室の扉が開いた。
「おや乱歩さん、もう無くなったのかい」
「あんなの一日分だよ!向こうの人間は全然補充してくれない!」
膨れっ面を遠慮なく晒す其の人に見覚えがある。
「貴方は…」
「やあ、元気そうだね」
*****
「おや乱歩さん、この子と知り合いなのかい?」
「前に云った冤罪の被害者だよ」
乱歩さんと呼ばれた警察官が晶子先生と仲良さげに話すのを呆然と見ていると、晶子先生が気付いて声を掛けてくれた。
「彼は江戸川乱歩。署で二番目に偉い人間さ」
「どうせ名乗ってなかったんだろう?」
*****
「江戸川、さん」
「乱歩で良いよ。堅苦しいの嫌いだし」
「え、あ…はい」
「其れよりお菓子だよお菓子!」
「其処の段ボールだよ」
晶子先生が指差す先に飛び付いて蓋を開ける彼はまるで先日とは別人に見える。
「寝台では食べないでおくれよ。掃除が大変なんだから」
*****
「嗚呼、進捗だけどね」
両手一杯にお菓子を抱えた乱歩さんが晶子先生の机の前に当たり前のように座った。
「犯人と証拠の特定は出来たよ」
「え!本当ですか!?」
「只、物証が川の中でね。部下に探させてるよ」
「そうですか…」
「まあ其れも直ぐに見つかるさ。僕の推理は正しいからね」
*****
「書類は揃いそうかい?」
「うん、国木田に任せてる」
「彼奴は直ぐ心労を溜めるから程々にしてやりなよ」
「そうするよ」
紙袋にお菓子を詰め終えた乱歩さんが私の方を向く。
「来週面会があるでしょ」
「あ、はい。婚約者が来てくれるんです」
「僕付添人だからよろしくね」
*****
「嵐のような人ですね…」
「何時もさ」
其れから乱歩さんは直ぐに医務室を出て行った。
「お二人はお付き合いされてるんですか?」
「妾と乱歩さんが?真逆!有り得ないねえ」
ケラケラ笑う晶子先生は嘘を吐いているように見えない。
「彼は一体何者なんですか?」
「まあ、特殊な人だねえ」
*****
部屋に帰るまでの時間、晶子先生に彼の事を教えて貰った。
署では署長と殆ど同じ権限を持ち、拘置所の出入りも自由なのだとか。
「凄い人だったんだ…」
今日の会話を思い出していると、犯人を特定したと云っていた事を思い出した。
「犯人が誰だったか、聞けなかったな…」
*****
「準備出来た?」
面会当日、乱歩さんが私の部屋へとやって来た。
如何やら先日の話は本当だったらしい。
慌てて出ると頭を撫でられる。
「嬉しそうだね」
「はい、やっと彼に会えますから」
「楽しい話が出来ると良いね」
ニコリと笑った乱歩さんは私の背を押して面会室へと案内してくれた。
*****
しかし、あれだけ浮かれていた気持ちは面会室に入ると一瞬で消え去った。
「…隣の人は、誰?」
「いやさあ、お前があんな事する人間だと思わなくて俺もショックだった訳」
「私は本当に何も…」
「んで、コイツと付き合う事にしたから。別れて」
その様子を翠の瞳は一ミリも逃さず見ていた。
*****
「ご飯位食べなよ」
「要らない」
部屋に戻ってもショックが抜けず、食べ物など喉を通らなかった。
乱歩さんが柵越しに話し掛けてくれるがとても愛想笑いが出来る状態じゃない。
「あの話、本当なのかな…」
「残念だけど本当だ」
「それに、彼女だけじゃないだろうね」
「如何云う事…?」
*****
「他にも居る」
「嘘…」
「…此処で証拠を並べ立てると君の絶食期間が長引くから止めておくよ」
笑みを浮かべない乱歩さんに其の言葉が嘘でない事を直感的に感じ取ってしまった。
「一人にして…」
「判った」
「ご飯食べなよ」
乱歩さんは最後までご飯の心配をして去っていった。
*****
「太宰、指紋取って来て」
署に戻った乱歩はソファでサボっていた太宰を叩き起こした。
「乱歩さん…もう一寸優しく」
「僕の話聞いてた?」
「…はいはい指紋でしょ。誰のです?」
「此の男」
懐から出した写真には今日面会室に来た男性が写っていた。
「明日朝一で鑑識に出すからよろしく」
*****
此処に入って早一月。
周りは皆優しくしてくれるのに如何も気が晴れなかった。
いや、理由などとっくに判っているんだけど。
「まだ引き摺ってるのかい?」
「まあ…」
「彼女を信じない屑なんか別れて正解さ。外に目を向けな」
「出来たら、良いんですけど…」
「なかなか、難しいです…」
*****
「あ、いたいた」
医務室の扉がゆっくりと開き、乱歩さんが滑り込むように入って来た。
「おや、最近来なくなったから死んじまったかと思ったよ」
「真逆!此の僕がそう易々と死ぬ訳無いでしょ」
そう云う乱歩さんは少し疲れているのか何時もより活気が無い。
「何かあったんですか?」
*****
「色々と進展してね。君、予定より早く出られるよ」
待ちに待っていた其の言葉。
しかし、全く嬉しくなかった。
私は今まで彼と一緒に住んでいた。
先日別れろと云われ、荷物も拘置所に送ったらしい。
実家には訳あって二度と帰る事が出来ない。
「此処を出て、何処に行けば良いの…?」
*****
掠れた声しか出ない。
晶子先生が心配そうな顔で背を擦ってくれる。
「君が自立するまで僕が面倒を見るよ」
「…え?」
正面からの言葉に思わず顔を上げると、乱歩さんが何時もの顔で笑った。
「本来なら冤罪を被せた奴に責任を取らせるけど、顔も見たくないだろう?」
「え、あの…?」
*****
その後詳細も聞けない内に部屋へと戻るよう連絡があり、私は医務室を後にした。
「吃驚した…」
あの話は本当なのだろうか。
有難い話ではあるけど、まだ信じられない。
「此れも仕事だから、だよね…?」
失恋直後だからか変な期待をしてしまった自分に腹を立て、布団に潜り込んだ。
*****
「乱歩さん、如何云う心算だい?」
「何が」
「あの子を引き取るだなんて珍しい事を云うからさ」
椅子に乗ってクルクルと回る乱歩。
「冤罪で此処に入っただけでも災難なのに、彼氏にフラれて帰る家もないなんて流石に可哀想でしょ」
「帰る場所が無くなる悲しみは良く判るからね」
*****
「ま、しっかりしてそうだし直ぐに新しい仕事決めて出て行くでしょ」
結構な時間回っていたにも拘わらず真っ直ぐ着地した乱歩に与謝野はお菓子の袋を渡す。
「乱歩さんの事は信頼してるけど、何かあれば云いなよ」
「そうする」
乱歩はお菓子を大事そうに抱え、上機嫌に医務室を出ていった。
*****
「お…お世話になります」
「早く入ってよ。僕が入れないじゃないか」
それからまた一月経ち、私は拘置所から解放された。
あれから気が付けば荷物や手続きが全て終わっていて、本当に乱歩さんの家で生活することになり、今日初めて家に入る。
「散らかってるけど好きに使って良いよ」
*****
「そ、そうですね…あの、掃除しても良いですか?」
散らかってる、と一言では云い表せない程物が散乱している部屋を前に、私は荷物を安全そうな場所に置き腕捲りをする。
「んじゃ僕これからまた仕事だからよろしくね」
「えっ」
「晩ご飯には帰るからねー!」
「…作れってことかな」
*****
「終わった…」
何とか人が住める空間に仕上がった部屋にへたり込んだ。
外は橙色に染まり、どれだけ時間が掛かったかがとても良く判る。
合間に晩ご飯も作ってはみたが、彼の口には合うだろうか。
「只今ー!」
「あっ、お帰りなさい」
玄関で乱歩さんを迎えると何故だか心が温かくなった。
*****
それからまた暫く経ち、私は仕事が決まった。
しかし一人で住むにはまだ資金不足なので相変わらず乱歩さんの家に居候している。
「僕のお弁当は?」
「此処に置いてますよ」
彼は細身なのに意外と食べるし好き嫌いも然程ない。
「そうだ。今日仕事終わったら僕の職場に来て」
*****
何気無く掛けられた言葉なのに物凄く引っ掛かって、仕事中もずっと其の言葉が頭の中を駆け巡った。
外でご飯を食べよう、なんて云うお誘いだろうか。
「って違う違う!乱歩さんは只の家主で…」
妄想を弾き出すべく頭を振る。
其の時はたと気付いた。
「私、最近頭の中が乱歩さんで一杯だ…」
*****
結局ほぼ注意力散漫な儘仕事が終わり、定時ピッタリに会社を出て警察署へと向かう。
乱歩さんに連絡しようと携帯を取り出した瞬間
「おや、こんな時間にお客さんなんて珍しい」
後ろから蓬髪の男性に声を掛けられた。
「誰かに用かな?」
「あ、はい。あの…」
男性がどんどん近付いてくる。
*****
「僕の客だよ太宰」
「でっ!」
男性が横から蹴られその場に尻餅をつく。
「いてて…最近私の事雑に扱い過ぎですよ」
「君が余計な事をするからだろう?」
「ら、乱歩さん…」
「やあ、一寸遅れちゃった。鞄取って来るからもう少しだけ待ってて」
そう云うと乱歩さんは足早にその場を後にした。
*****
「君、乱歩さんの知り合い?」
太宰と呼ばれた男性がまた私に話し掛ける。
「はい、彼にはお世話になってて」
「嗚呼、若しかして乱歩さんと同棲してるって云う」
「ど…!?」
自分でも内心思っていたけど絶対に口に出さなかった言葉を彼はサラリと口にした。
「なるほどねえ」
*****
「お待たせ~」
乱歩さんが手を振りながら戻って来た。
何時もの私服姿に少し安心する。
「んじゃ行こっか」
「そう云えば何処に行くんですか?」
質問を投げ掛けると彼は一寸間を置いて
「内緒って云おうと思ったけど、君にも身構える時間が必要だね」
「僕らが出会った場所だよ」
*****
着いた先は確かに私達が初めて出会った場所。
「拘置所…」
「大丈夫だよ。もう此処に住めなんて云わないから」
「笑えませんよ」
訝しげな顔で彼を見ると、肩を竦めて私の背を柔らかく押した。
「今日は某る人物に面会に来たんだよ」
「面会?一体誰の…」
「君を陥れた犯人のだよ」
*****
「嘘…」
面会室の硝子の向こうに見覚えがあった。
「如何して…?」
其処には窶れ切った元彼の姿があった。
その場に崩れ落ちそうになるのを乱歩さんが支えてくれる。
「彼のは正確には共犯者だ」
「共犯者?」
「殺人の手助けをしたって事さ」
元彼は俯いた儘何も喋らない。
*****
「以前彼が面会に連れて来た女性、彼女が事件の真犯人。そして被害者の女性も彼と交際していたんだ」
「…え」
「被害者を殺し君を犯人に仕立て上げれば彼らはハッピーエンド、って訳」
さも当たり前の様に話す乱歩さんに背筋が凍る。
「そんな、だって…」
「云いたい事は判る。でも事実だ」
*****
「そうだろう?」
乱歩さんの声掛けに彼は漸く顔を上げた。
「ち、違う!俺は只彼奴の云いなりに…」
其処で彼の言葉が切れた。
「乱歩…さん?」
「君さあ、そんな陳腐な云い訳で彼女に謝罪してる心算なの?」
何時もは温かな翠の瞳が、温度を無くして彼を睨み付けていた。
*****
「お前なら判ってくれるよな…?」
弱々しい声で彼が訴え掛けて来る。
彼は確かに優しかったけど、どちらかと云えば主張が強くて強引な処が目立った。
「悪いけど、信じられない」
自分でも驚く程低い声が出た。
「貴方によりを戻して欲しい気持ちは今完全に無くなったわ」
*****
「それに、今は僕の物だからね」
「そう…えっ?」
突然乱歩さんに肩を抱かれ、口から心臓が出そうな程吃驚した。
「彼女家事は出来るし料理も上手だし気遣い屋さんだしで最高だよ!譲ってくれて有難うね」
満面の笑みで語る彼に、先刻の冷たい目は何処へ行ったのかと混乱する。
*****
「ら、乱歩さん…」
「ん?」
「先刻のは何だったんですか」
彼を捨て置く様に面会室を後にした私達は帰路に着いた。
「何って、事実を述べただけだよ」
「そうじゃなくて最後の…」
「だから事実だってば」
「え、何の話ですか?」
「君は僕の物だって話でしょ?違うの?」
*****
「その話ですけどそうじゃなくて…」
「僕の事嫌い?」
「そんな事は」
「じゃあ良いじゃない」
「いやそうじゃなくて…」
「もう何なのさ」
膨れる乱歩さんに此方が膨れたいわと心の中で悪態をつく。
「じゃあこう云えば判る?」
「君の事が好きになったから、僕と付き合ってほしい」
*****
「此れでも本気なんだけど」
乱歩さんが両手で私の肩を掴む。
何時もは自信に満ちた目に微かだが不安が滲んでいる。
「厭?」
「いやじゃ…ないです…」
其処まで云って自分の顔が熱い事に気が付き恥ずかしさから顔を上げられずにいると、不意に顎を持ち上げられた。
「乱歩さ…っ」
*****
「ご馳走様」
ペロリと唇を舐める姿に放心が解ける。
「え、あっ…」
「あーお腹空いた!ねえ、今日は何処かで食べて帰ろうよ」
徐に私の手を引いて何事もなかったかの様に歩き出す。
「ら、乱歩さん!」
「なあに」
空いた手で服の裾を摘まむと歩みを止めてくれた。
「わ、私も…好きです…」
*****
すると乱歩さんは何も云わず、進行方向を真っ直ぐ見据えてせかせかとまた歩き出した。
「ら、乱歩さん…」
「…んし」
「え?」
「そう云う不意打ち禁止!」
顔は見えないが痛い位握る熱い手が彼の心境を物語っていて、私は思わず声を出して笑ってしまった。
「今は笑うのも禁止!!」
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