嬉しい事


「準備は終わったかい、織田作」



夕方から夜へと変わる橙色の陽が街を照らす時間。
太宰に話し掛けられた俺は持っていたグラスを静かに置いた。



「一通りは」

「おお、流石は織田作。抜かりないねえ」



何故か自分の事の様に楽しそうに笑う太宰に釣られ頬を緩めると、太宰の奥に座っていた安吾が口からグラスを離した。



「そう云えば明日でしたね」

「やっと此の時が来たね」

「二人には色々と世話になった」

「否、友人の頼みですから」



安吾も何時もは気難しそうな眉間の皺を解いて穏やかに笑う。



「彼女、喜んでくれると良いですね」

「嗚呼、本当だ」



そろそろ彼女と待ち合わせる時間だ、と俺が席を立つと、太宰がニヤニヤし乍ら何かを外套のポケットに入れた。
其れを見た安吾は見ない振りをしたので、俺も気付かない振りをした。



「ふむ…」



家に帰り、綺麗になった部屋に我乍ら驚く。
何時もは彼女が少し愚痴り乍ら片付けてくれるのだが、今日は自分でやってみた。
意外に時間が掛かるし、体力が要る。
俺よりも華奢な彼女に何時もこんな事をさせていたのかと多少の罪悪感に駆られ、せっせと一日掛けて片付けたのだ。

テーブルにはクロスを掛け、皿やカトラリーを丁寧に並べてみた。
彼女が家に来ると何時もこうしてテーブルも綺麗にセッティングしてくれていたのだ。



「後は此奴だ」



鍋の蓋を開け、匂いを確認する。
限られたメニューの中から(俺が作れるのは数品しかない)選んだカレーは此れまた意外にも美味く出来た気がする。
味も多分大丈夫だ。辛い物が余り得意ではない彼女もきっと食べられる筈。



「そろそろか」



蓋を閉め、くたびれた服を着替え少し姿勢を正すと同時にチャイムが鳴った。



「遅くなっちゃった」

「そんなに待ってない。気にするな」



困った顔で笑い乍ら家に上がったのは愛しい彼女。
仕事が忙しかったのだろう、髪が少し乱れ疲れた顔をしている。
ソファを勧めようと案内すると、部屋に入った瞬間カバンを落として立ち止まった。



「如何した」

「…へ、部屋が」

「部屋が如何した」

「綺麗になってる!!如何したの!?」



目を輝かせ、然し半ばパニック状態の彼女の肩を掴んで宥める。



「片付けた」

「作之助が!?本当に!?」

「他に誰が片付けるんだ」

「それは…居ないけど…でも、あれ?服もピシッとしてる」

「着替えた」

「ええ…?本当に今日は如何し…テーブルも何か綺麗!」

「並べた」

「…うん、そう云う返し作之助っぽくて好き」



落ち着いたのか俺の腰に手を回す彼女を抱き返す。
俺よりも一回りも二回りも小さい彼女。
力を入れると壊れてしまいそうなのに、半端な力じゃ愛が伝わらない気がしてつい力を込めてしまう。



「明日はお前の誕生日だろう」

「え、知ってたの?」

「恋人の誕生日位覚えている」



上を向く彼女の額に口付けを落とすと照れたのか胸に顔を押し付けた。



「そっか…。嬉しいな」

「太宰や安吾に恋人の誕生日は如何やって祝う物なんだと聞いたんだ」

「そしたら何て?」

「自分がして貰って嬉しかった事をしろと云われた」



自分の部屋を見回す。
彼女が来ると見るも無残な自分の部屋が綺麗になり、テーブルには温かく美味しい食事が乗っている日常。
其れがぎこちなくも再現出来た事に少しの満足感を覚えた。



「何時も俺の世話を焼いてくれて有難う」

「ふふ、矢張り作之助らしい」



腕を離し二人でソファに腰掛けると彼女が肩に凭れ掛かって来た。



「でも如何して今日なの?」

「誰よりも早く誕生日を祝いたかった」

「まだ当日じゃないよ」

「なら、日付が替わる時に一緒に居れば良い」



俺の言葉に彼女が目を丸くした。
心なしか頬が染まっている気がする。

其れもそうだ。
彼女を大事にする余り、何時も必ず終電までには帰して、一夜だって共に過ごした事が無いのだから。



「此れは俺の我儘だ。嫌なら何時もみたいに…」

「嫌なんて云う訳ない」



俺の言葉が終わる前に彼女がまた抱き着いて来た。
真っ赤になった耳が髪の隙間からチラリと覗く。



「さ、作之助がそう云ってくれなかったら、今日は無理矢理泊まる心算だったから…」

「……!」

「如何しよう…一番嬉しいかも」



そう云いたいのは俺の方だ。
其の言葉を飲み込んで俺は彼女をまた力を込めて抱き締めた。



「じゃあ先に飯にして、風呂に入る。其れで良いか」

「うん」



俯いたままの顎を持ち上げ触れるだけの接吻をすると、彼女は華の様に笑った。
嗚呼、日付が変わって「誕生日おめでとう」と云った時、彼女はどんな顔をしてくれるのだろうか。
きっと先刻の様な可愛い笑顔を見せてくれるに違いない。



「太宰と安吾に礼を云わないとな」



そう言葉にしてふと、外套に入れられた何かを思い出してポケットを漁る。



「…有難く使わせてもらおう」



正方形の包み紙をズボンのポケットに移動させ、彼女の待つテーブルへと足を向けた。



.
1/1ページ
    スキ