理想とは何か
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
理想とは何か。
其の答えを俺は持っていた筈なのに、【蒼の使途】事件のせいですっかり其の答えに自信を無くしてしまった。
幾ら手帳を反芻しようと、此れが本当に正しく、俺の理想なのか判らなくなって来る。
そんな俺は今、医務室のパイプ椅子に腰掛け、手帳を開いている。
俺の目の前には死んだ様に眠る乱歩さんの妹—江戸川翡翠の姿があった。
「今回はやけに長いな…」
彼女は乱歩さんと出向いていた九州の出張から帰って来て以来、ずっと眠り続けている。
乱歩さんや社長が云うには「情報過多による冷却期間」だそうで、この数日一度も目を覚ました事が無い。
彼女の異能力【人間椅子】は、人の顔を見れば其の人の個人情報や今までの行動が全て読み取れる能力だと云う。
頭に詰め込まれた情報が多過ぎると電子端末の様に固まる為、眠らせる必要があるのだと入社の時に聞いた。
然しそれは早ければ数時間、長くて一日位だった。
だから俺は先程の言葉を述べたのだ。
「一体何の情報を詰め込んだんだ」
「……ぅ、ん…」
「翡翠?」
「…ぉ、にぃ…ちゃん?」
「残念ながら俺だ。済まんな」
「くにき、ださん…」
乱歩さんと揃いの翠色の瞳がゆっくりと俺に向けられる。
まだ半分しか開いていない瞼からまだ目が覚め切っていない事が窺え、俺は頭を撫でてやる。
「乱歩さんは所用で出掛けている。直ぐ戻って来るとは思うが」
「そぅ、ですか…」
「水でも飲むか」
「おちゃ…」
「判った、淹れてやる」
俺は立ち上がり給湯室へと向かった。
数日眠っていた人間にカフェインを摂取させる事が正しいかどうか判らず、悩んだ末ほうじ茶を淹れる。
ふわりと漂う香ばしい薫りの中に一粒潰した梅干を入れ医務室へと戻った。
医務室では既に翡翠は起き上がり、枕を背凭れにして座っていた。
「飲めそうか」
「あ、梅干入ってる。流石国木田さん」
礼を云い、ほうじ茶を口に含むと漸く目が覚めたのか瞼が何時もと同じ様に開いた。
現在時刻を尋ねる彼女に数日眠っていた事を伝えると驚いて湯呑みを置く。
「そんなに…」
「乱歩さんも心配していたぞ」
「そう、ですよね…」
心配する兄が頭に浮かぶのかしょんぼりと肩を落とす翡翠の頭を再度撫でてやる。
頭を撫でるのは、俺が乱歩さんに許されている唯一のスキンシップだからだ。
其れに翡翠は落ち込んでいる時に頭を撫でられると落ち着くという事が判っている。
正しい判断だ。
「国木田さん」
「何だ」
「【蒼の使途】事件、終わったんですね」
「………」
「云いたく無い事は口にしなくて大丈夫ですよ。顔に書いてありますから」
“顔に書いてある”
彼女の異能を使う時の口癖だ。
俺の心情を察して貰い助かる一方、病み上がりの彼女がまた無理をしないか心配になる。
「翡翠」
「はい」
「理想とは、何だろうな」
「難しい質問ですね」
翡翠は湯呑みを俺に渡し、再度布団に潜り込んだ。
矢張り少ししんどいのだろう。
「無理するな」
「良いんです。一緒に謎を解きましょう」
私達は探偵社ですから、と笑う翡翠にまた手を伸ばす。
今日はよく頭を撫でる日だ。
「理想って、きっと一言では表せないんだと思います」
「…そうだな」
「理不尽な死を嫌い、人を救う事が理想だと云う人もいれば」
「恋人の死の復讐に犯罪に手を染める事が理想だと云う人もいる」
「だから、“理想”と云う二文字よりは、“自分の理想”とは何かを考えた方が良いんじゃないでしょうか」
「俺の、理想…」
「汎用的な理想なんて、きっと何処にも無いんです」
翡翠がゴロリと寝返りを打つ。
長い黒髪が陽に中り、艶が増す。
「私は、昔も今も理想は一緒です」
「聞いて良いか」
「何時までも、お兄ちゃんと一緒に居る事。辛く苦しい時にも私を育ててくれたお兄ちゃんに、恩返しをする事」
「お前らしい理想だ」
「其れと、先生が作ってくれた此の探偵社を護り続ける事」
「其れは俺も同じだ」
また翡翠が寝返りを打つ。
其の瞳には少しばかり闇が見え、俺は身震いした。
何処かで見た事がある、其の眼は。
「だから、お兄ちゃんや探偵社に危害を加える人が次に現れたら、私は迷いも無く其の人を殺します」
「お前…」
「其れが国木田さんの理想に反していようとも、私は自分の理想を貫きます」
「………」
嗚呼、お前は本当に俺の心情を理解しているのだな。
佐々城女史の理想を如何にかして俺の理想に近付け、俺の望む世界に彼女を置きたかった事を。
六蔵少年や佐々城女史が死なずに済んだ道を今でも探し続ける俺に、翡翠はもう止めろと云って居るのだ。
肩の荷で締め上げていた涙腺が緩みそうになり、俺は目頭を指で押さえた。
「…済まんな」
「探偵社の皆は家族ですから。困ってる時に手を差し伸べるのは当たり前ですよ」
何故か翡翠の眼には涙が浮かんでいた。
慌てて胸ポケットからハンカチを取り出し顔を拭いてやると、自分で拭く事もせずニコリと笑う。
「国木田さん」
「何だ」
「えへへ」
「何なんだ。ほら、貸してやるから自分で拭け」
「ヤダ、国木田さん拭いて」
「こう云う処は乱歩さんそっくりだな」
ボロボロと大粒の涙を流しながらヘラヘラと笑う翡翠に呆れて溜め息を吐く。
落ち着いた頃に茶のお代わりが欲しいと云い出すものだから仕方無く席を立ち給湯室へと向かった。
茶を淹れ乍らふと気付く。
俺の緩みそうだった涙腺は綺麗に閉まっている。
四つも下の少女の前で醜態を晒さずに済んだのだ。
「折角起きたのにまた寝込んだら乱歩さんに絞められるな」
其の時、探偵社の扉が開き乱歩さんが帰って来た。
後ろには付き添っていた太宰が続く。
「只今ぁ」
「お帰りなさい乱歩さん、翡翠が起きてますよ」
「え!?本当に!?」
途端に目を輝かせ、医務室へと走り入る乱歩さんを見送る。
「翡翠!!」
「お兄ちゃんお帰り」
「具合は如何?九州から帰って来てずっと寝てたんだから!」
「心配かけて御免ね」
「お前が無事なら…ん?翡翠、泣いてたの?」
「うん、数日振りの太陽が眩しくって」
其の様子を見た太宰が不思議そうに首を傾げる。
そうか、此奴はまだ翡翠を見た事が無かったな。
九州から帰って来た日も俺達が調査を依頼した時には既に医務室に居たのだ。
「乱歩さんの妹で、翡翠と云う。彼女も社の調査員だ」
「へえぇ、黒髪の美しい美少女じゃないか」
「幾ら女好きのお前でも彼女には手を出すな」
「如何して?」
「探偵社が潰れる」
其の瞬間、何時もは飄々としている太宰が小さく悲鳴を上げた。
彼の名探偵を怒らせると如何なるか、何となく判るのだろう。
何時の間にか俺の不安は消え去っていた。
“俺の理想”か…。
楽しそうに話す江戸川兄妹、其の中に入ろうとソワソワする太宰、何時の間にか様子を見に来た社長と与謝野先生。
———先生が作ってくれた此の探偵社を護り続ける事。
翡翠の理想。
そして俺の理想。
理想が重なる事は、きっと奇跡に近いのだ。
然し今現在其の奇跡は起こり、同じ理想を持つ同士が集い、同じ理想に向かっている。
「俺は、俺の理想を追求する…只其れだけだ」
「如何したの国木田君」
「太宰、妹を紹介するから医務室来て!」
「はぁい」
「社長も!」
「嗚呼」
パタンと閉じた扉の向こうで翡翠が寝込んだ理由が話されている事は、二年後に知るなど俺の手帳には記していなかった。
.
1/1ページ