真夏の罪人
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「夏…早く終わらないかなぁ。」
そう呟いたのは、陽太郎だった。
空を見上げたまま、私に向けてでも虎に向けてでもなく、ほとんど無意識の独り言のようだった。
「陽太郎、夏嫌いだったっけ?」
暑さに気力も体力も思考も奪われている私も、言葉を発した陽太郎に目を向けることなく、浮かんだ疑問を独り言のように呟いた。
自分でもどこを見ているかわからない。ただずっと、ぼーっと目の前の遠くを眺めている。
どこまでも続く青い空。気分はまったく上がらない。
「そういうわけじゃないんですけど…」
ここ数日、ものすごく暑い日が続いている。
穏やかな田舎の夏景色を裂くような陽射し。夏の風物詩である蝉時雨も、この暑さでは悲鳴のように聞こえる。
陽太郎と虎曰く、ここまで暑い日が続くのは極めて珍しいらしい。
夜はいくらか涼しいけど、確かに以前と比べて寝苦しく、サカモト歴の浅い私でも、今年の夏は暑すぎると思う。
そもそも元から暑いのは苦手だし、四季の中でも夏は一番苦手かもしれない。
夏は日が長くて楽しいことも多いけど、陽射しに肌を焼かれるし、汗をかくと疲れるし、寝苦しい日はうんざりするし、蚊に刺されるし虫は活発だし、なにしろ暑いしあまりいいことが無い。
サカモトに来て初めての夏を迎えた時、初めて爽やかな夏というものを体験した。暑いは暑いけど、数時間外に出ていても案外大丈夫だった。風が吹けば気持ちいいし、日が沈めばかなり涼しい。
それでも一日中畑仕事をしている陽太郎は、毎年かなり体力を消耗していると思う。その上今年のこの猛暑続き。想像を絶する疲労に見舞われているはず。だからこそ、夏の終わりを望む声を無意識に発したに違いない。
そんな陽太郎をねぎらうどころか、私は昨日の朝、配達帰りの陽太郎を締め出してしまった。
寝苦しくてあまり眠れずに寝坊して、一人配達に行った陽太郎をせめて出迎えようと、玄関を気にしながら申し訳ない気持ちで朝ご飯の支度をしていた。
外からただいまー!と聞こえたところを駆け寄って、戸に手を掛けたけど、引っかかって開かない。どうやら陽太郎が出る時に鍵を掛けていったらしい。急いで鍵を開けて戸を開けると、夏の青空のように爽やかな笑顔の頬には汗が伝っていて、心からのお疲れ様と謝罪の言葉を伝えようとした時。
ジジジジジ!!!
陽太郎の背後から、耳をつんざく地獄みたいな音がした。
蝉!と思った瞬間肝が冷えて喉がひゅっと上がり、思わず「ひっ!蝉男!」と叫んでピシャっと戸を閉めてしまったのだ。
人間というのは、恐怖の中にこそ本性が出てしまうのかもしれない。私は猛省した。よりによって家主を、自分の夫を罵って締め出してしまった。それでも向こうでジージー聞こえている限り、戸を開けることはできなかった。
陽太郎に謝りながらも蝉を取って入って来た後も、蝉を背負って帰って来たという衝撃からしばらく近寄れなかった。その時の陽太郎の寂しそうな顔を思い出すと、今も胸が痛む。
「こう暑いと、あなたが近くに来てくれないから。蝉男だし……」
私が投げかけた疑問の答えは、とてもかわいらしいものだった。
確かになるべく近寄りたくなくて、縁側の座布団もいつもより離して置いている。陽太郎が嫌なのではなく、私自信の汗のにおいが気になるからだ。まぁやっぱり、暑いのが一番の理由ではあるけども。
「今年の夏は、特に距離を感じます。寒い時はおれから行かなくても来てくれるのに…はぁ、冬が恋しいです。」
「我も…冬とまでは言わぬが、食欲の秋が恋しいぞ……。」
体に張り付くもわっとした熱い空気。縁側に、おひたしみたいなぐだくだとした時間が流れている。風鈴も鳴らない。
「私は今すぐ、川とか海とか、冷たい水に入りたい。そしたら陽太郎にも虎にも、遠慮なくくっつけるよ…。」
思ったことを率直に言うと、しばらく熱気に煽られた蝉の声だけが響いた。
あぁ、暑くて暑くてかなわない。
言葉を発するだけで汗が流れてくる。その汗を、拭う気にもなれない。
「あ、いいことを思いつきました!」
意識もぼんやりと陽太郎に顔を向けると、「二人共、ちょっと待ってて!すぐ涼しくしてあげる。」と言って、家の中に入って行った。
それからしばらくして外から回ってきて、野菜や瓶の飲み物を冷やすのに使っている桶に、野菜や瓶の飲み物を冷やす時みたいに氷水を張って持って来て、虎が寝そべっているところの下に置いた。
その拍子にたっぷりと入った水が揺れ、少しこぼれて砂砂利の色が濃くなった。その次の瞬間には太陽に照りつけられて、あっという間に元の色に戻った。
「虎、ここに入りな。冷たくて気持ちがいいよ。」
「た~す~か~る~」
そこへ虎が転がるようにざぶんと入り、「はぁ~生き返る…」と、安らかな笑みを湛えて気持ちよさそうに目を閉じた。
虎の細い毛が水を吸って、冷たい水の表面で気持ちよさそうにゆらゆらと浮いている。
きっとこの毛も桶から出たらすぐに乾くのだろう。微笑ましくて癒やされて、見ているだけでほんの少しだけ涼しく感じる。
死んでいた表情筋が私の広角を緩やかに持ち上げ、陽太郎もふふっと笑った。
「気持ちよさそうで何より。おれのかわいい子豚さん、もう少しだけ待っていてくださいね。今おれたちの分も持ってきますから。」
「手伝うよ。」
立ち上がろうとした私を制して、陽太郎はまた同じ経路を辿って、今度は洗濯に使っている大きなタライを持って戻ってきた。太陽よりも眩しい腕の筋肉を見せつけながら、こぼさないように慎重に運んで、私の足元にさらに慎重に置いた。
それでもたぷんと大きな波を作り、少しこぼれて砂利の色を濃くした。
「さ、おれのかわいい子豚さんも足を入れてみて?冷たくて気持ちいいですよ!」
「こんなに氷使っちゃって大丈夫なの?」
「夕方に氷屋さんが来るから大丈夫ですよ。」
氷が贅沢に浮かんでいる冷えた水。お言葉に甘えて今すぐに足を浸して、できれば頭からかぶりたい。でも、今まで私が働いた数々の無礼を思うとそんな甘えたことは許されない。
「陽太郎からお先にどうぞ。」
「じゃあ、せーので一緒に入れましょうか。」
タライを避けて所定の位置に座ると、陽太郎は靴下を脱いで腕を伸ばし、きちっと並べて遠くへ置いた。
前から不思議に思っていた。大量に汗をかいているのに汗自体もシャツもくさくないし、一番蒸れているはずの足が全然におわない。洗濯物の中にあった一日中履いていた靴下におそるおそる鼻を近づけた時も、履いてたことは分かるものの、皮とかゴムといった靴っぽいにおいがするだけで、思わず顔をしかめるような悪臭を放っていなかった。私の肌着の方がしっかり汗臭い。
陽太郎が私よりも汗臭かったらそこまで気にならないのかもしれないけど、自分だけがくさいのに、迂闊に近寄ってくさいと思われたらと思うと耐えられない。でも今は、それ以上に暑さに耐えられない。
陽太郎がズボンの裾をきちっきちっと丁寧に折りながら捲りあげている間に、私も靴下を脱いだ。逆隣に腕を伸ばし、におわないように遥か遠くめがけてしゅっと滑らせる。一つにまとめた靴下は、思った以上に遠くで止まった。
陽太郎は腕がつきそうな距離までずれると、つっ掛けていた草履を外し、子どもみたいな横顔で「せーの」と言った。
あまりじっくり目にすることのなかった陽太郎の素足は、やっぱり大きくて指が長い。ちゃんと太い毛もあって、筋も張ってて骨が出っ張っててごつごつで、意外性があるようなそうでもないような、外反母趾ではなさそうな。
そんなことをぼんやりと考えながら、足を上げて、少し遅れて氷水に足を入れた。氷が動く音と共に、水の冷たさに身体が一瞬ひゅっとなる。
それもすぐに心地よさに変わり、足元から身体中の全細胞に染み渡る。
「はぁ……冷たくて、気持ちいいですね。」
「うん、最高……」
茹で上がってぐったりとくたばっていた脳もすっきりしてきて、隣の桶で顔だけ出して整っている虎が言った、「生き返る」という言葉を思い出す。本当に、それ。
干涸らびる寸前の草が恵みの雨に打たれたとき、きっとこんな気持なのだろう。
青い空。白い雲。眩しい太陽。色んな種類の蝉の鳴き声。
煩わしかった夏のすべてが、この冷たくて気持ちいい氷水をよく引き立てている。
「おれのかわいい子豚さん涼しい?」
「うん、ありがとう。本当に生き返ったよ…この暑さがちょうどいいくらい。」
「それはよかった。じゃあ…もう少しだけ、くっついてもいいですか?」
ちょと恥ずかしそうに、遠慮がちに聞いてきて、あの、外反母趾ではなさそうで頑丈そうな足が生えてるとは思えなくて、そういうところにいちいちときめいてしまう。
暑さもやわらいだ今なら、肩を寄せ合って見つめ合って、口づけをするのもやぶさかではない。やぶさかでもないんだけけど。
「でも私、汗いっぱいかいてすごいくさいから。」
「もしかして、今までそれを気にしてたんですか?」
「今もすごく気になってるよ。陽太郎はいくら汗かいててもくさくないけど、私だけ普通にくさいんだもん。陽太郎が私よりくさかったら、くっついたっていいけど…。」
タライの中に目を落とす。氷がすでに溶け始めて、どんどん小さくなっていく。虎の桶の氷は、今にも全部溶けてしまいそうだ。
「少しもくさくないですよ?あなたの汗は、ほんのり甘いにおいがします。おれは好きだな…。」
甘いにおい。私の汗が、甘いにおい?
「それに、おれも自分の汗のにおいが気になってましたけど、あなたがその…好きなにおいだって、言ってくれたから。だからあなたも」
「まって。汗が甘いにおいって、やばくない?」
「どうしてですか?」
「糖尿かもしれないじゃん。」
尿から甘いにおいを感じたことはないけど、汗から甘いにおいがするのも糖尿病を疑った方がいいと、どこかで聞いたことがある。「そういう甘さじゃ、ないんだけどな……」と言った陽太郎の小さなつぶやきも、耳をすーっとすり抜けていった。私の人生まだまだこれからなのに、糖尿病なんて……。
「検査した方がいいよね?」
「検査はするに越したことないですけど…さっそく明日、診療所に行ってみますか?」
「明日か…明日も暑いかな。でも行った方がいいよね?糖尿はさすがにまずいもん。」
「あとで氷を多めに買っておくので、帰ったらまたこうして一緒に浸かりましょう。」
氷がすっかり溶けた桶から出た虎が、体を思いっきり震わせて、勢いよく水を払い落としている。水飛沫がここまで飛んできた。私たちの足を冷やしているタライの氷も、もうすっかり溶けている。
「はぁ、気持ちよかった~!なんだお前ら。揃いも揃って浮かない顔をして。」
「私、もしかしたら病気かもしれないから、明日診療所行って検査してもらおうかなって。」
「病気?!頭か?!ついに暑さにやられたのか?!兆しはあったが、まさかそこまで深刻だったとは……」
「兆しってなによ!失礼な!」
タライの水を片手ですくって虎めがけて水を飛ばすと、見事に顔面に掛かった。
「ぶっ!」と唇を尖らせて水を吹き、小さな手で一生懸命顔を拭いている姿が面白くて、ひとしきり笑ってから説明を始めた。
「私の汗、甘いにおいがするんだって。糖尿病っていう病気があって、その可能性があるから検査してもらいに行くの。」
「陽太郎がそう言ったのか?」
「うん。」
「お前の汗から、甘いにおいがすると?」
「そう。」
すると、虎は陽太郎の顔をチラッと見て、なにか言いたげに口を開くと、言葉のかわりに小さなため息をついた。
濡れていた毛は、もうほとんど乾いている。
「まぁなんだ。ついでに二人で削り氷でも食ってきたらどうだ?あーんしたり、舌についたしろっぷの色を見せ合ったり、氷で冷えた唇を温め合ったり…それが夏の逢引きの定番なのだろう?」
「そんな定番聞いたことないけど。でもかき氷か…せっかくだから、帰りに寄ってみましょうか。」
「かき氷屋さんなんてあったけ?」
「夏の間は甘味屋さんでかき氷もやってるんです。都会のと比べたら小さい店ですけど、水が綺麗なので味は負けてませんよ?」
「へ~!楽しみ!」
「我には水まんじゅうを頼む!」
「はいはい。」
明日の予定も決まり、体力も回復したところで、三人でタライと桶の水を庭と畑に撒きに行った。
時々水を掛け合って、夏といえばの連想言葉遊びで暑さから気を紛らわしながら、日暮れまでなんとか凌いだ。
ところが翌日。朝からバケツを引っくり返したような大雨で、診療所に行くのも、楽しみにしていた逢引きも延期になった。
今までの行いの罰が当たったのだと思った。
急にすることがなくなって、なら本でも読むかと陽太郎のお母さんの本を拝借してきた。濡れ場のある、大人の恋愛小説だった。
そこにはこう書かれていた。
“汗の匂いを好ましく感じるのは、相手が好きだから。人の匂いなんてものは皆大体同じ。それなのに甘いと感じるのは、その人のことを、本能的に欲しているからだ。”
陽太郎も虎も、この本を読んだのだろうか。昨日の反応を思い返すと、読んでいてもおかしくはない。
もし読んでいたとしたら、陽太郎は昨日、私に愛をささやこうとしていたということになる。それなのに私ときたら、真っ先に糖尿病を疑って、せっかく陽太郎が作った雰囲気をぶち壊してしまったのだ。
お詫びにというわけでもないけれど、今夜は久しぶりに自ら陽太郎の布団に忍び込んで、たっぷりとご奉仕させてもらおう。
恵みの雨がちょうど、音も声もかき消してくれるはずだから。
―完―
【あとがき】
酷暑が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は頭がやられておりますので、こんな話を書いてしまいました。陽太郎の足の指に、毛!っていう毛が生えていたらいいのにな、という願望から話が発展したのですが、どうしてこうなってしまったのか。とにかく暑さでやられている雰囲気が伝わっていれば幸いです。
1/1ページ