恐怖に勝るは恋心
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「おれのかわいい子豚さーん」
ついにこの時が来てしまった。
「そろそろ起きないと、先生が来ちゃいますよー」
“先生”
その言葉に怯えて布団を被り、現在息を潜めて無駄な足掻きをしているところだ。
なぜいい大人がこんな子どもじみたことをしているのか。それは今日これから、あのぶっとい針でとんでもなく痛い予防接種を受けなくてはならないからだ。怖い。怖すぎる。
「どうしよう、困ったな…」
「おれのかわいい子豚はまだ出てこないのか?」
「うん…多分起きてるとは思うんだけど。」
「まったく情けない…おれのかわいい子豚! 開けるぞ!」
「あっ虎!」
スパンと襖が開く音がして、バサッと布団が取り去られたのが分かった。
しかし私は
「なっ…いないぞ?!」
「えっ?!」
こうなることを予想していたので、布団を敷きっぱなしにして押し入れの中に隠れていたのだ。
単なる時間稼ぎでしかないことは分かってるけど、成人としての自覚なんてどうでもよくなるくらい注射が怖い。
本来なら診療所に出向いて打つところを、村長が先生に頼んで特別に家まで来てくれることになった。重ね重ね申し訳ないとは思いつつも恐怖心に打ち勝つことができず、土壇場でこんな、自分でもどうかと思う行動を取ってしまった。
「家から出ちゃったのかな…道に迷ってどこかで倒れてたりしたら…?おれがもっと寄り添って、少しでも不安を取り除けていればこんなことには……今から探してくるから、虎はここにいて!」
「いや待て。」
「待てないよ!こうしている間にも、おれのかわいい子豚さんは心細い思いをしてるかもしれないんだぞ?もし山にでも入ってたら…」
「大丈夫だ。おれのかわいい子豚はすぐ近くにいる。」
やばい、バレてる。そう思った瞬間、押し入れに光が差し込んで、スーッと襖が開く音と共にゆっくりとその範囲が広がっていき
「み〜つ〜け〜た〜」
まるで怪談話のように襖から押し入れを覗き込む虎と目が合ってしまい、観念して深いため息をついた。
「なんで分かったの?」
「忘れたか?我は鼻が利くのだ!陽太郎ー!いたぞー!」
虎に引きずり出されながら押し入れから出ると、部屋の前には心底ほっとしたような顔をした陽太郎がいた。
「よかった…!そんなところに隠れてたんですね…もう、心配したんですよ?」
「ごめん…」
「そんなに注射が嫌なのか?包丁で指を切った時は、平気そうにしておったではないか。」
「それはたまたま切れちゃったからで、人に切りますよって宣言されてからだと怖くない?それに、太い針で刺されるっていうのがもう…あっ、そうだ!虎、私に化けて代わりに受けてくれる?」
「うっ…!かっかかか代わってやりたいのは山々だが、それでは意味が無いだろう?」
「そうですよ。気持ちはわかりますけど、病気になったらもっと辛いですよ?」
「ごもっともです…でもあの痛みを知ってるから余計怖くて……あっ!お香!虎のお香で眠らせてもらって、その間に打ってもらえないかな?」
「すまんな、材料が切れておる。」
「そんな…」
絶望のあまり膝から崩れ落ち、そんな自分の弱さに打ちひしがれていると
「あっ、いいことを思いつきました!」
陽太郎が落ち込んだ私の肩に手を添えた。
「あなたを気絶させることはできませんけど、おれがあなたの気を逸らします。終わるまでずっと傍にいますから、一緒に頑張りましょう?もちろん、頑張ったご褒美も用意します。」
「ご褒美?」
「はい。」
“ご褒美”という甘美な響きに顔を上げると、陽太郎が力強い眼差しで頼もしく微笑んでいた。私が臆病なばかりに、昨夜自分も注射は得意ではないと言っていた陽太郎にここまで気を遣わせてしまって申し訳なくなり、もうみっともなく逃げるのはやめにしようと腹を括った。
「ありがとう…私、頑張るね!」
差し伸べられた手を取って立ち上がると、玄関からごめんくださいと声がした。
「来たぞ!我は身を潜めるから、お前ら二人ともしっかりな!褒美はけえきでいいぞ!」
「なんで虎がご褒美を貰うんだよ。まぁ、おれのかわいい子豚さんを見つけてくれたからいいか。」
「やったー!」
「じゃあ行きましょうか。大丈夫、あの先生は注射が上手だし、きっとすぐ終わりますから。おれのかわいい子豚さんはおれのことだけを見てて?」
「分かった!どんなに痛くても、注射じゃ死なないもんね!大丈夫大丈夫!」
「はい。死なない為の注射ですから。」
陽太郎に手を引かれて気持ちを整えながら一緒に玄関に出て、先生を居間にお通しした。
ちゃぶ台の上に、銀の器に何本かの注射器と、あと何かがかちゃかちゃと置かれていく。見慣れた場所に異質なものがある状況とその音に不安と恐怖心を煽られて、整えたはずの呼吸が上がり、心臓がバクバクしてきた。
準備を見ていると余計怖くなるので、言われた通り陽太郎の顔に目を向けると、陽太郎は穏やかに微笑んで私の手をぎゅっと握った。
いよいよ準備が整い、どちらから先かと聞かれた瞬間体が強ばって、それを察した陽太郎が率先して名乗りを上げた。
「おれからお願いします。」
なんて勇敢なんだろう。自ら袖を捲り上げてちゃぶ台の上に逞しい腕を乗せ、こともあろうか先生の手元をしっかり見ている。
私はその隣で陽太郎の手をしっかりと強く握り、黒いゴム紐でキツく縛られていく様子がちょっと卑猥だなと思う余裕すらなく、目を閉じて祈るように陽太郎の手を自分の額に当てた。
「はい、チクッとしますよ〜」
いよいよ宣言がなされ、心配と恐怖が一気に渦巻いてどうにかなりそうな私とは違い、陽太郎は顔だけ見たらただの休憩中であるかのように、肩の力を抜いて眉ひとつ動かさずにいた。
「痛く、ない?」
「はい。これくらいなら全然我慢できます。」
「かっこいいね…」
「はい、終わり。」
注射痕を押さえなくてはならないので陽太郎の手を解放し、いよいよ私の番が来てしまったと天を仰いだ。
先生が新しい注射器を用意している間、陽太郎は止血もそこそこに再び私の手を取り、手のひらを合わせて先程よりも力強く握った。
「おれのかわいい子豚さんこっち見て? 今から声を出さずに口だけを動かすので、おれが何を言っているか当ててください。」
「うん、分かった。」
正直それどころではないほど縮み上がっているけど、気を散らそうとしてくれている陽太郎の優しさが嬉しくて、平気なふりをして頷いた。
「いきますよ?」
陽太郎の口の動きに注視して、形に合った言葉を探す。
「……“き”?」
(コクッ)
「……“よ”?」
(コクッ)
「……“し”?えっキヨシ?」
「正解です。次いきますね!」
なんで今、村長の名前を?と聞く間もなく、次の問題が始まってしまった。
「……“う”?」
(コクッ)
「……“め”?ウメ!」
「残念、不正解です。」
そこはウメじゃないんかい。
「まだ続きがありますから、最後まで見ててください。」
こんな状況で巧妙な罠を張られるとは思わず、陽太郎の口元をより注視した。
「……“お”?」
(フルフル)
「……あっ“ぼ”!」
(コクッ)
「……“し”? うめぼし!」
「正解。じゃあ、最後の問題です。」
「……“う”?」
(フルフル)
「……“す”?」
(コクッ)
そして陽太郎の口がゆっくりと横一文字に広がり、“き”ならなんてことでしょうとドキッとした瞬間
「痛っ!!」
腕にブスッと針が刺さって、鋭い痛みに顔が歪んだ。でも確かに、前に受けた予防接種ほど痛くない。気がする。
「はい終わり。今日一日激しい運動と、できれば入浴も控えるように。」
「あ、ありがとうございます。お恥ずかしいところをお見せしまして…」
この痴態を笑って許してくれた先生を陽太郎と一緒に玄関先までお見送りし、姿が見えなくなるまで深々とお辞儀をした。
「おれのかわいい子豚さん、よく頑張りましたね!ご褒美は何がいいですか?」
「ご褒美なんていいよ。陽太郎がいてくれて、すごく心強かった…ありがとね。いっぱい迷惑掛けちゃったから、むしろ私から何かお礼をしたいんだけど。」
「迷惑だなんて…頼ってくれて嬉しかったです。でもそうだな…姿が見えなかった時はすごく心配したから、お願いを一つ聞いてもらってもいいですか?」
「もちろん!なんなりとお申し付け下さい!」
「明日、すいかの種を蒔こうと思うんですけど、手伝ってくれますか?」
「それは全然構わないけど…」
本当にそれでいいのか聞こうとしたけど、陽太郎のさりげない優しい気遣いをありがたく受け取ることにした。ちゃんとしたお礼は後で自分で考えればいい。
「もうそんな時期か…あ!もしかしてさっきの問題の答え“すいか”だった?」
「え?あ……はい、正解です。」
「なんだ、てっきり…」
「てっきり?」
“すき”かと思ったなんて言えず、自意識過剰な自分が恥ずかしくなって
「なんでもない!そんなことよりお腹空かない? 朝ごはん食べてないし、ちょっと早いけどお昼ご飯にしようよ。」
誤魔化して無理矢理話題をすり替えた。
「はい、そうしましょう。あ、頑張ったご褒美はあげたいので、何がいいか考えておいてくださいね?」
「いいの?えー、何にしよっかな〜。そうだ、なんで最初に村長の名前出したの?」
「村長の話をすると、よく笑うから。」
「面白すぎて、名前だけなのにちょっと笑いそうになっちゃったよ。しかもその次の問題でさ……」
そんな感じで無事予防接種を終え、いつもより控えめに活動をして迎えた夜。
日記を書き終えて、寝る前にお水でも飲もうかと部屋を出ると、茶の間の襖から明かりが漏れていた。
誰かしらまだ縁側にいるのかもしれない、いたらそっと近づいて驚かせちゃおうなんて考えて、音を立てないように慎重に茶の間に入り、ほとんどほふく前進で障子戸の手前まで来た。
静かに開けるか勢いよく開けるかで迷っていると二人の話し声が聞こえてきて、盗み聞きは良くないとは思いつつ、開けるタイミングを見計らう為に聞き耳を立てた。
「確かお前も注射が大の苦手ではなかったか?去年は一日中情けなくうなだれていたのを覚えているぞ。」
「おれのかわいい子豚さんも言ってたけど、今から刺されるってわかってて、刺されるのを待つのがどうにも…でも、おれのかわいい子豚さんのおかげでなんとか乗り切れたよ。」
「あんなに怯えられたら、見ている方は逆に冷静になれるだろうな。それにしても、あいつにあんな子どもっぽい一面があったとは…。」
「そう?意外でもないけど…それにしても、遠くに行ってなくて本当によかった。」
「あいつのこと、よく見ておるのだな。ところで本当に痛くなかったのか?お前は肉が硬いから、注射が人より痛いのであろう?」
「痛かったよ?」
「それにしてはずいぶんと余裕だったな。」
「おれのかわいい子豚さんの前で情けない姿は見せられないだろ?」
「痩せ我慢してたのか?」
「いや、そこまでではないけど…おれが少しでも痛がって、それで不安にさせちゃうと思ったら、不思議と我慢できたんだよ。」
「惚れた女の為ならどんな痛みでも耐えてみせる、か…陽太郎、成長したな!我は嬉しいぞ!男はそうやって強くなるものだ。」
「惚れっ…?!まぁ、確かに怯えてるのを見てなんとかしてあげたいって思ったし、注射を打たれる時も、怖いとか痛いとかよりドキドキの方が勝ってたというか……」
障子を開けるタイミングを完全に失い、今度は部屋に戻ろうかどうしようか悩んでいると
「あいつもあいつでお前の無事を祈って、しっかり手を握っていたもんな。中々に微笑ましい光景だったぞ?」
「……見てたの?」
「少しだけ、隙間からな!」
「まったく…見つかったらどうするんだよ。」
「すまんすまん、悪かった!」
なんだかとんでもないことを聞いてしまった気がして、さすがに今から縁側に出て行く勇気は無く、そのまま後退して自分の部屋へと戻った。
陽太郎の気持ちも自分の気持ちも、明日どんな顔して一緒に種を蒔けばいいのかも分からないけど、ご褒美に軽い気持ちでお姫様抱っこをお願いしなくてよかったことだけは分かる。
こんな話を聞いた後でそんなことをお願いしようものなら、見て見ぬふりをしているこの気持ちが、きっと加速してしまう。
期待してはいけない。陽太郎のさっきの言葉に深い意味は無く、ただの生理現象の話だ。そう自分に言い聞かせ、丁度いいお礼と丁度いいご褒美をぐるぐる考えながら、腕の痛みなどすっかり忘れて眠れない夜を過ごしたのだった。
―完―
【あとがき】
無自覚両片想い、これで付き合ってないのかよ、みたいな感じが読みたいと思ったので突発的に書きました。あと注射。現代においてはだいぶ針が細くなっていると思うのですが、それでも筋肉注射はとんでもなく痛いので、陽太郎が付き添ってくれたらいくらでも耐えられそうなのに等と考え、昔の注射針の画像を見たところ大変ゾッとしました。一週間くらい前から相当気合いを入れないと無理。
ここまでお付き合い下さってありがとうございました。おれのかわいい子豚様は注射大丈夫な方ですか?それとも無理リンピック金メダルですか?え?陽太郎のぶっとい注射なら大丈夫?
DAYONE〜☆
1/1ページ