恋はちょこよりも甘し
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
今日はバレンタインデー。今年も外国の行事に乗っかって、普段は素直に言えない気持ちを陽太郎に伝える絶好の機会だ。
初めてのバレンタインデーは買ったものをそのまま渡したけど、あんなに喜んでくれるなら次はもっと気合を入れたいと、あの顔を見た瞬間からずっと思っていた。
お渡しする分は昨日の昼間にすでに作ってある。チョコレートを溶かして自作の型に流し込み、陽太郎にはお酒を、虎にはハチミツを入れて固めた。包装もぬからず、手紙もちゃんとしたためた。虎へは感謝の気持ちを、陽太郎へは目の前で読まれたら恥ずかしくて爆死する内容を、それぞれ重たいほどの愛情を込めて深夜まで書き綴った。
そして迎えた今日この日。昼過ぎに台所へ入り、ちょこっと豪華な夕食を作るため、下拵えに勤しみつつ、差し入れ用に温めた牛乳にチョコレートを溶かした飲み物を用意した。
「虎先生、お味見お願いします!」
「ふむ、よかろう。いただきます。」
ふぅふぅと表面を冷まし、ずずっとすする。
「うんまぁい♪」
「ほんと?!」
「あぁ!あまいし身体もあたたまるし、これはいいぞ!まぁ我はもう少し甘い方が好みだがな。」
「ハチミツ入れてみる?」
「なに?おぬしも悪よのう。」
悪代官虎の器に少しだけハチミツを垂らして混ぜると
「ん〜…と・ろ・け・るぅ♪」
茶色い髭を作って、丸い身体を至福にくねらせた。
「今から陽太郎に持って行くのだろう?ちょっと顔を貸せ!」
屈んで虎に顔を近付けると、指に付けたチョコを口の横にちょんと付けられた。
「これでよし!このままいけば『おれはこっちの方がいいな…ぺろっ』『やだ、陽太郎の助平』『ふふ、おかわりさせて?』というわけだ!」
「えー、なにそれ…………最高じゃない?」
「そうであろうそうであろう?さあ、行ってこい!そしてどうなったか教えてくれ!」
そわそわしながらホットチョコを陽太郎の器に注ぎ、うきうきの虎に背中を押されていそいそと畑へと向かった。
「あ、おれのかわいい子豚さん!いらっしゃい!」
「寒い中お疲れ様。はい、差し入れ。」
心なしかいつもよりも陽太郎がかっこよく見え、企みもあって妙にそわそわしてしまう。
「わぁ、これ…チョコレートですか?ありがとう。いだたきます!」
「あっ、熱いから気を付けてね。」
少しふぅふぅしてから口を付け、こくこくとおいしそうに味わっている陽太郎を見ながら、虎の筋書きに乗るならこの後だと、緊張感が走り出す。
「ふぅ…甘くておいしいです。疲れた身体に染みますね。」
上唇のふちにうっすらとチョコを付け、白銀の山々を背ににっこり笑う陽太郎。その姿はチョコなんかよりもよっぽど甘く、チョコを口にした時の幸福感すらゆうに超えている。
寒さも企みも忘れ、嬉しそうに飲んでいる陽太郎に見惚れていると
「ごちそうさまでした。おかげで心も身体もぽかぽかです。」
空になった器が戻された。どうやら私の口の横のチョコに気付いていないようだ。それならばと
「それはよかった。あ、陽太郎口にチョコが付いてるよ!」
気付いてほしくて近付いて、陽太郎の上唇のふちめがけて指を伸ばしたら
「んっ…取れました?」
先に手ぬぐいで拭われた。顔を近付ける機会を失って、ここからどうすればいいか分からず
「うん、取れた取れた!じゃあまた来るね。」
「はい。ごちそうさまでした。」
そそくさと撤退するしかなかった。
「で、おめおめと帰って来たというわけか。」
「はい…情けないです…」
台所に戻って虎にいきさつを話すと、腕を組んで険しい表情をされた。
「付ける量が少なすぎたか…よし、少し待っていろ!」
虎は刻んだチョコの破片を両手で持って溶かして
「よし!顔を貸せ!」
言われるままに顔を虎に近付けると、今度は唇にたっぷりと塗られた。まるで口紅のように、小さなお手々でぬりぬりと塗られていく。
「これでよし!これならさすがの陽太郎も気付くだろう。『なんておいしそうな差し入れ…いただきます!』『おかわりは?』『何百回でもしたいくらいさ』『もうっ、そんなにしたら溶けちゃう!』っくぅ~!これぞ甘い口づけ!!」
「え〜、なにそれ………………困っちゃう!!」
「こんなにときめく口実が作れるなら、毎日がばれんたいんでもいいくらいだな…さぁさぁ!こんどこそ我にちょこれいとよりも甘い実話を聞かせてくれ!」
「あ、おれのかわいい子豚さん!また来てくれたん……」
振り返りながら、さすがに私の唇の異変に気付いて凝視する陽太郎。ここまであからさまなら大丈夫、いける!
「差し入れ!」
「差し入れって……まったく虎のやつ、おれのかわいい子豚さんにこんなことをさせて…おれのかわいい子豚さんも、虎に付き合わなくてもいいんですよ?」
「え?」
「また虎の入れ知恵でしょう?確かにすごく魅力的ですけど…それまた後で、ね?」
確かに虎の提案だけど、“陽太郎に唇を奪われたい”という私自身の願望でもある。
ふざけているように見えるだろうし、こちらとしてもしてくれたらいいなくらいの軽い気持ちではあったものの、陽太郎がお決まりにはぐらかそうとしたからか、直感的になんだか悔しくて悲しくてむかついて、引くに引けない気持ちに傷付きながら、白いフードの端を両手で掴んで引き寄せて、背伸びをして思いっきりぶちゅーっと唇を押し付けた。
チョコを押し付け終わった後、陽太郎は唇にチョコをべったり付けて、何が起きたか分かってなさそうな顔をしていた。
「どう?甘い?」
「あっ、はい。えっと………すごく甘い…です。」
「それはよござんした!!!」
恥ずかしさもあり、キレ気味に吐き捨てて足早に、逃げるように台所へかけ込んだ。
陽太郎は何も悪くない。自分の思い通りに行かなくて拗ねて、こんなに可愛くない態度を取って、自分でも自分が嫌になる。陽太郎にも絶対に呆れられた。
「やったか!」
口元のチョコの取れ具合を見て喜ぶ虎とは正反対に、私は頭に登った血が下がって行くにつれ、激しい後悔が重く伸し掛かって来て、耐え切れずにその場にしゃがみ込んだ。
「やったというか、やらかした…」
虎がぽてぽてと傍に寄って来て
「やらかした?まさか、けんかでもしたのか…?」
心配そうに聞いてきた。
「けんかはしてないけど…もう嫌われたかもれない。」
「陽太郎に限ってそれは天地がひっくり返ってもないと思うが…どれ、我が直接陽太郎に話を聞いてくる。少し待っていろ!」
虎が出て行った後の台所はしんと静まり返っている。
心細くて、自己嫌悪がどんどん膨らんで、このままでは泣いてしまいそうですらある。
ここで私が泣いたら、二人とも自分を責めてしまうだろう。そんなことになったら、せっかくの今日が苦い思い出になってしまう。
深呼吸をして立ち上がり、また深呼吸をして、もうだいぶ冷めてしまったホットチョコレートをゆっくり飲んだ。
さっきはごめんねって、後で謝らないと…
とりあえず台所を片付ようと使った道具を集めていると、玄関が勢いよく開いて
「おれのかわいい子豚さん!」
慌てた様子の陽太郎がやって来て、ふぅ、と息を整えた。少し遅れて虎も台所に入って来て、
「さっきの差し入れ、まだありますか?」
「え???」
色々驚きすぎて心の準備もできていなくて、陽太郎の顔を見ながら内心大慌てでいると
「よかった、まだ残ってた。」
陽太郎は片手で虎を持ち上げて、小脇に抱えて期待に満ちた目を覆い、もう片方の手を私の輪郭に添わせて上を向かせ、ぱくっと唇を塞いでゆっくりと舌を這わせた。
「んっ…」
思わずそんな声が出てしまうほど、じっくりと溶かすように味わわれて
「くっ…!見えん!何も見えん!!」
熱い吐息が濡れた唇にかかり、顔が離れた瞬間腰が抜けて膝から崩れた。
「っと!」
すかさず陽太郎にがしっと抱えられて、もう何が何だか分からないほど心臓がドキドキで壊れそう。
「やっぱりすごく甘い…何回もおかわりしたくなりますね。でも次は、あなたに食べてもらう番です。」
陽太郎の大人の口づけにまだクラクラしながら、支えられて囲炉裏の側まで運ばれて、私の番ってどういうこと?陽太郎の唇に付いたチョコを同じように私がぺろぺろするってこと?え、こんな真昼間から許されるの…?と半ば混乱していると
「ここで待っていてください。」
陽太郎は虎を抱えたまま部屋へと入って行った。
「なんで目を隠すんだ!!」
「見られたくないからに決まってるだろ?」
「せめてどんな口づけをしていたのかだけでも教えてくれ!溶かしたのか?!溶かしたんだな?!」
「内緒!」
丸聞こえの会話の中で箪笥が開いて衣擦れの音がして、なんで着替えてるんだろうとぼんやり思いつつ、唇に残る余韻で動けずにいる。聞いてしまって申し訳ないけど、聞こえて来るものはしょうがない。
「耳まで真っ赤にして…これは相当アツい口づけをお見舞いしたな?」
「……だったらなに?」
「なんだその態度は!我が来るまで地蔵のように固まっていたくせに!」
「それは…あまりに可愛らしいことをするから、嬉しすぎて……頭が追いつかなかったんだよ。」
「お前が身に余る幸せの余韻に浸ってるうちに、おれのかわいい子豚はお前の鈍くささによって乙女の自尊心に傷を負ったんだぞ?」
「わかってる。だから挽回しに来た。」
心の準備は整うどころか、食事時の大奥の台所のように、手に負えないほど騒がしくなっていく。
挽回って何?もっとぺろぺろするってこと?それともぺろぺろし合うってこと?何を?
考えただけでも破裂する。どこかへ隠れた方がいいかもしれないなんて考えが浮かんだと同時に、引き出しの開け閉めされる音がして、思った通り着替えた陽太郎が戻って来た。その手には綺麗に包装された箱を、大事そうに持っている。
「隣、いいですか?」
「は、はい…どうぞ。」
陽太郎はゆっくり隣に腰を掛けると、身体ごと私の方を向いた。
「さっきは、はぐらかすようなことを言ってしまってごめんなさい。そういうつもりじゃなかったんですけど…ああでも言わなきゃ浮かれすぎて、自分を抑えきれなくなりそうで。それに、あなたはほんの冗談のつもりなのに、食いつきすぎて迷惑を掛けてしまうかもって思ったら、遠慮してしまったんです。その結果、あなたを傷つけてしまった…本当にごめんなさい。その上真昼間から台所であんなことまでしておいて、今さらですけど……許してもらえますか?」
さっきあんな口づけをしたとは思えないほど、純粋で真っ直ぐな目で、悲しそうに見つめられ、なんだかこちらこそ大変申し訳ございませんという気持ちになるし、陽太郎がこうして素直な気持ちを包み隠さず伝えてくれるから、私も自然と素直になれる。
「許すもなにも…私の方こそごめんなさい。いじけてあんな態度取っちゃって…可愛くない女で本当にごめんね?」
「え?すごく可愛かったですよ?ちょっとむすっとした瞬間は肝を冷やしましたけど、その顔もすごく可愛くて…力強く引き寄せられた時は、ドキドキしすぎてどうにかなりそうでした。」
「ふむ、おれのかわいい子豚が陽太郎の唇を奪ったのか。予定では逆を狙っていたはずだが…まぁそれでこそだ。でかしたぞ。」
「強くしちゃったけど…痛かった?」
「全然。柔らかくて温かくて…嬉しすぎて、情けないことに頭が真っ白になっちゃいました。何回でもしてもらいたいです。でも、あなたに悲しい思いはさせたくないから…どんな時でもあなたを笑顔にできる男になります。だからまた、してくれますか?」
「いいの?」
「もちろんです。おれからも、またしてもいいですか?」
こういう紳士的で律儀なところも好きだけど、本音を言うと
「聞かなくてもしろ!遠慮なんかするな!お前と同じくいつでも待っているんだ!な?!」
虎が代わりに言ってくれたので、私は熱い頬を手で隠しながら頷いた。
「よかった…!ふふっ、なんだか照れちゃうな。」
「我も照れちゃう!」
「そうだ、これはおれからです。今年はその…せっかくなので、一つ一つ食べさせてもいいですか?」
「ここで“あーん”とは…成長したな。」
ぺろぺろじゃなくて少しがっかりしたような安心したような、でも、陽太郎に食べさせてもらうだなんて、そんな甘くて幸せなチョコレートの食べ方はきっと他にない。
「恥ずかしいけど……」
恥ずかしさに負けて、ここで逃げたら女が廃る。
今まで以上にもっと、仲良くなりたい。
「お願いします!」
「よし!よく言った!」
大きな拍手と共に、ついに虎が大声を発した。
「まったく心配させおって…まぁお前らの事だから丸く収まると信じていたが…どんな恋愛小説よりもぐっと来たぞ!」
「それはどうも。ていうか、さっきから聞こえてるから。」
「我も少し責任を感じていたのだ。おれのかわいい子豚、よかったな!」
「うん。あ、せっかくだから私も今渡しちゃおうかな。ちょっと待ってて!」
自分の部屋に二人へのチョコと手紙を取りに行き、引き出しを開けて陽太郎への恋文見た時、深夜特有の盛り上がりの中綴ったことを思い出して一瞬手が止まったけど、今なら渡せる、渡すならこの流れで今しかないと意を決し、包みと一緒に持って部屋を出た。
「お待たせ。はい、これは虎の。」
「我にもくれるのか?!わぁ…!ありがとう!!」
「はい、これは陽太郎に…あ、ちょっと待って。」
陽太郎に向き合って座り直し、姿勢を正して咳ばらいを一つした。
言え、言うんだ、素直に…素直に!
「すっ…」
「す?」
「すっ……」
「す…!」
虎も見てる。一歩も引くな、勇気を出せと、熱い声援を目で送ってくれている。
…………よし!
「ずっと前から好きです!受け取って下さい!」
やっぱり顔を見ながらなんて言えなくて、頭を下げて腕を伸ばして箱を差し出した。
距離感が掴めずおもいっきり胸にぶつかったけど、これが今自分ができる、精一杯の告白。
恋する気持ちは、向いている矢印の先に進むのは、片想いでも両想いでもいつでどこでもどんな時でも緊張する。
心の大奥の台所がまたせわしなく動き出し、上様にお食事を運ぼうとバタバタドタドタと戦場のように想いが行き交っている。
「ありがとう…おれも、ずっと前からおれのかわいい子豚さんが好きです。この先も、ずーっと大好きです。」
手から箱が離れても、まったく顔を上げられない。
嬉しすぎて、幸せすぎて、喉の奥が固まって目頭が熱くなる。
ドキドキしすぎて口から飛び出そうな、依然として修羅場の大奥の台所を抑え込むのがやっとで、何も言えない。
「ときめきすぎて死ぬ…ばれんたいん…ここまでとは……」(パタリ)
「おれのかわいい子豚さん、はい、あーん。」
口に運ばれてきたチョコレートは、丸くて薄くて不思議な形をしていた。
安らかに眠る虎をよそにぱくっと一口食べると、甘めのチョコの中から甘酸っぱい果汁が広がって、食べたことのない味わいに思わず面を上げた。
「切ったみかんを溶かしたチョコレートに浸して固めてみました。どう?おいしい?」
みかんとチョコレートの織りなす絶妙な味わいを楽しみながら、力強くうんうん頷くと
「早摘みのいちごのもありますよ。そのまま食べると酸っぱくても、チョコレートと一緒に食べるとちょうどいいかなって。あ、ちゃんと味見はしてますから、安心してくださいね?」
頬を緩ませた陽太郎が、目が溶けちゃうほど甘すぎる笑顔を見せた。皮の部分が少し苦くて、それもまたチョコレートの甘さを引き立てる。
「はい、これがいちご。」
差し出されたいちごの形をしたチョコレートは小さく、一口でぱくっといくと、唇が少し陽太郎の指先に当たった。またさっきのいけない口づけを思い出してドキッとし、気恥ずかしくて目を伏せながら、口の中で溶けたチョコレートを噛むと、甘いチョコレートの奥からいちごの酸っぱさがじゅわっと広がった。
みかんもいちごも、なんかお洒落で大人の味がする。
まるでさっきの陽太郎みたいな…
「おいしい?」
また思い出して恥ずかしくなって、俯いたまま頷くと、落ちた髪が耳にそっと掛けられた。
「これでおしまいにしないとな…」
最後の一口を飲み込んで
「おしまい?」
「本当に、食べさせるだけじゃ済まなくなりそうだから。」
前と違って真実味を帯びた声色と表情に、胸の大奥が上様が御成になった時のように静かにざわめいて、緊張感が走る。
「私も、陽太郎に食べさせたい。」
「ダメです。今年も自分で、ゆっくり食べます。」
「なんで?」
「そのままあなたのことも、食べてしまいたくなるから。」
「さっきのいけない口づけみたいに?」
「さっきよりも、もっといけないことです。両手が塞がってたからよかったけど、実を言うと結構危ないところでした。」
私と陽太郎の間にまたしても、決して切ってはいけない、切る時を間違えてはいけない糸が張り詰めていく。
こういう瞬間は今まで何度もあったけど、今日は切れてしまいそうなギリギリまで張り詰めている気がする。
そんな緊張感に身を委ねられないもどかしさを感じながら、陽太郎の手から大人のチョコレートが入った箱を受け取って、みかんのチョコレートを自分で食べた。
「苦いところもおいしいね。」
「本当は皮まで甘くしたかったんですけど、砂糖で煮てみたら甘くなりすぎてしまって。」
「この苦みがいい感じだよ。」
「そうですか?それならよかった。」
「いい感じなんだけど……私、今日眠れないかも。」
「おれも、眠れないと思います。かといって、一緒に夜更かしできそうもないです。」
「そうだよね…後で虎にお香頼もうかな。陽太郎も頼む?」
「頼みたいけど、効きすぎて起きられなくなったら困るからな…とりあえず、畑に戻って身体をたくさん動かしてきますね。チョコレートありがとう。」
陽太郎は私のあげたチョコレートの包みを大事そうに持って、部屋に置きに行った。
後ろ姿を見送ってほんの少し呆けてから、私も自分の部屋に置きに行こうかと立ち上がった時、陽太郎がまた戻ってきた。
「どうしたの?忘れ物?」
「はい。動かないで、そのままじっとしてて?」
踏まれたらまずいものでも落としたのかと思い、言われた通りにじっとしていると、その割には陽太郎がどんどん近付いて来る。
あっという間に目の前に来て、両肩に大きな手が添えられた。
「今日…最後に、もう一度だけさせて?」
陽太郎の長いまつ毛を見ながら目を閉じると、唇が心ごと重なった。私が知っている陽太郎のいつもの口づけに安心し、幸せに満たされていく。
はずだったのに
“もっとすごいこと”が頭を過ぎり、胸の中で今度は岡っ引が、十手を振り回しながら御用だ御用だと叫んでいる。
例え起きられなくても、しばらくは、いや来年のバレンタインデーまでは、虎のお香に頼らなければならないかもしれない。
離れていく時追いかけたくなった唇と、一度と言わずに何百回もおかわりしたいという欲望が、早くも来年のバレンタインデーの待ちきれなさを裏付けていると、一番強い岡っ引に責め立てられた気がした。
「おれのかわいい子豚さん、来年はいけないことをする予定なので、覚悟しててくださいね?」
ー完ー
【あとがき】
間に合わなかったしオチが酷すぎますが、書きたかった甘いバレンタインデーを書けたので、概ね満足です。
虎はあまりのときめきに途中で気絶してしまった挙げ句、起きたら起きたでお香を大量生産しなくてはなりません。バレンタインデーのお返しとしてはいささか割に合わない気もしますが、虎も優しいので丸二日は起きないくらい強力なものを作ってくれることでしょう。
時期とか色々間違ってたらどうしようと思いつつ、こんなに長くなるとは夢にも思わなかったよハッピーバレンタイン!
初めてのバレンタインデーは買ったものをそのまま渡したけど、あんなに喜んでくれるなら次はもっと気合を入れたいと、あの顔を見た瞬間からずっと思っていた。
お渡しする分は昨日の昼間にすでに作ってある。チョコレートを溶かして自作の型に流し込み、陽太郎にはお酒を、虎にはハチミツを入れて固めた。包装もぬからず、手紙もちゃんとしたためた。虎へは感謝の気持ちを、陽太郎へは目の前で読まれたら恥ずかしくて爆死する内容を、それぞれ重たいほどの愛情を込めて深夜まで書き綴った。
そして迎えた今日この日。昼過ぎに台所へ入り、ちょこっと豪華な夕食を作るため、下拵えに勤しみつつ、差し入れ用に温めた牛乳にチョコレートを溶かした飲み物を用意した。
「虎先生、お味見お願いします!」
「ふむ、よかろう。いただきます。」
ふぅふぅと表面を冷まし、ずずっとすする。
「うんまぁい♪」
「ほんと?!」
「あぁ!あまいし身体もあたたまるし、これはいいぞ!まぁ我はもう少し甘い方が好みだがな。」
「ハチミツ入れてみる?」
「なに?おぬしも悪よのう。」
悪代官虎の器に少しだけハチミツを垂らして混ぜると
「ん〜…と・ろ・け・るぅ♪」
茶色い髭を作って、丸い身体を至福にくねらせた。
「今から陽太郎に持って行くのだろう?ちょっと顔を貸せ!」
屈んで虎に顔を近付けると、指に付けたチョコを口の横にちょんと付けられた。
「これでよし!このままいけば『おれはこっちの方がいいな…ぺろっ』『やだ、陽太郎の助平』『ふふ、おかわりさせて?』というわけだ!」
「えー、なにそれ…………最高じゃない?」
「そうであろうそうであろう?さあ、行ってこい!そしてどうなったか教えてくれ!」
そわそわしながらホットチョコを陽太郎の器に注ぎ、うきうきの虎に背中を押されていそいそと畑へと向かった。
「あ、おれのかわいい子豚さん!いらっしゃい!」
「寒い中お疲れ様。はい、差し入れ。」
心なしかいつもよりも陽太郎がかっこよく見え、企みもあって妙にそわそわしてしまう。
「わぁ、これ…チョコレートですか?ありがとう。いだたきます!」
「あっ、熱いから気を付けてね。」
少しふぅふぅしてから口を付け、こくこくとおいしそうに味わっている陽太郎を見ながら、虎の筋書きに乗るならこの後だと、緊張感が走り出す。
「ふぅ…甘くておいしいです。疲れた身体に染みますね。」
上唇のふちにうっすらとチョコを付け、白銀の山々を背ににっこり笑う陽太郎。その姿はチョコなんかよりもよっぽど甘く、チョコを口にした時の幸福感すらゆうに超えている。
寒さも企みも忘れ、嬉しそうに飲んでいる陽太郎に見惚れていると
「ごちそうさまでした。おかげで心も身体もぽかぽかです。」
空になった器が戻された。どうやら私の口の横のチョコに気付いていないようだ。それならばと
「それはよかった。あ、陽太郎口にチョコが付いてるよ!」
気付いてほしくて近付いて、陽太郎の上唇のふちめがけて指を伸ばしたら
「んっ…取れました?」
先に手ぬぐいで拭われた。顔を近付ける機会を失って、ここからどうすればいいか分からず
「うん、取れた取れた!じゃあまた来るね。」
「はい。ごちそうさまでした。」
そそくさと撤退するしかなかった。
「で、おめおめと帰って来たというわけか。」
「はい…情けないです…」
台所に戻って虎にいきさつを話すと、腕を組んで険しい表情をされた。
「付ける量が少なすぎたか…よし、少し待っていろ!」
虎は刻んだチョコの破片を両手で持って溶かして
「よし!顔を貸せ!」
言われるままに顔を虎に近付けると、今度は唇にたっぷりと塗られた。まるで口紅のように、小さなお手々でぬりぬりと塗られていく。
「これでよし!これならさすがの陽太郎も気付くだろう。『なんておいしそうな差し入れ…いただきます!』『おかわりは?』『何百回でもしたいくらいさ』『もうっ、そんなにしたら溶けちゃう!』っくぅ~!これぞ甘い口づけ!!」
「え〜、なにそれ………………困っちゃう!!」
「こんなにときめく口実が作れるなら、毎日がばれんたいんでもいいくらいだな…さぁさぁ!こんどこそ我にちょこれいとよりも甘い実話を聞かせてくれ!」
「あ、おれのかわいい子豚さん!また来てくれたん……」
振り返りながら、さすがに私の唇の異変に気付いて凝視する陽太郎。ここまであからさまなら大丈夫、いける!
「差し入れ!」
「差し入れって……まったく虎のやつ、おれのかわいい子豚さんにこんなことをさせて…おれのかわいい子豚さんも、虎に付き合わなくてもいいんですよ?」
「え?」
「また虎の入れ知恵でしょう?確かにすごく魅力的ですけど…それまた後で、ね?」
確かに虎の提案だけど、“陽太郎に唇を奪われたい”という私自身の願望でもある。
ふざけているように見えるだろうし、こちらとしてもしてくれたらいいなくらいの軽い気持ちではあったものの、陽太郎がお決まりにはぐらかそうとしたからか、直感的になんだか悔しくて悲しくてむかついて、引くに引けない気持ちに傷付きながら、白いフードの端を両手で掴んで引き寄せて、背伸びをして思いっきりぶちゅーっと唇を押し付けた。
チョコを押し付け終わった後、陽太郎は唇にチョコをべったり付けて、何が起きたか分かってなさそうな顔をしていた。
「どう?甘い?」
「あっ、はい。えっと………すごく甘い…です。」
「それはよござんした!!!」
恥ずかしさもあり、キレ気味に吐き捨てて足早に、逃げるように台所へかけ込んだ。
陽太郎は何も悪くない。自分の思い通りに行かなくて拗ねて、こんなに可愛くない態度を取って、自分でも自分が嫌になる。陽太郎にも絶対に呆れられた。
「やったか!」
口元のチョコの取れ具合を見て喜ぶ虎とは正反対に、私は頭に登った血が下がって行くにつれ、激しい後悔が重く伸し掛かって来て、耐え切れずにその場にしゃがみ込んだ。
「やったというか、やらかした…」
虎がぽてぽてと傍に寄って来て
「やらかした?まさか、けんかでもしたのか…?」
心配そうに聞いてきた。
「けんかはしてないけど…もう嫌われたかもれない。」
「陽太郎に限ってそれは天地がひっくり返ってもないと思うが…どれ、我が直接陽太郎に話を聞いてくる。少し待っていろ!」
虎が出て行った後の台所はしんと静まり返っている。
心細くて、自己嫌悪がどんどん膨らんで、このままでは泣いてしまいそうですらある。
ここで私が泣いたら、二人とも自分を責めてしまうだろう。そんなことになったら、せっかくの今日が苦い思い出になってしまう。
深呼吸をして立ち上がり、また深呼吸をして、もうだいぶ冷めてしまったホットチョコレートをゆっくり飲んだ。
さっきはごめんねって、後で謝らないと…
とりあえず台所を片付ようと使った道具を集めていると、玄関が勢いよく開いて
「おれのかわいい子豚さん!」
慌てた様子の陽太郎がやって来て、ふぅ、と息を整えた。少し遅れて虎も台所に入って来て、
「さっきの差し入れ、まだありますか?」
「え???」
色々驚きすぎて心の準備もできていなくて、陽太郎の顔を見ながら内心大慌てでいると
「よかった、まだ残ってた。」
陽太郎は片手で虎を持ち上げて、小脇に抱えて期待に満ちた目を覆い、もう片方の手を私の輪郭に添わせて上を向かせ、ぱくっと唇を塞いでゆっくりと舌を這わせた。
「んっ…」
思わずそんな声が出てしまうほど、じっくりと溶かすように味わわれて
「くっ…!見えん!何も見えん!!」
熱い吐息が濡れた唇にかかり、顔が離れた瞬間腰が抜けて膝から崩れた。
「っと!」
すかさず陽太郎にがしっと抱えられて、もう何が何だか分からないほど心臓がドキドキで壊れそう。
「やっぱりすごく甘い…何回もおかわりしたくなりますね。でも次は、あなたに食べてもらう番です。」
陽太郎の大人の口づけにまだクラクラしながら、支えられて囲炉裏の側まで運ばれて、私の番ってどういうこと?陽太郎の唇に付いたチョコを同じように私がぺろぺろするってこと?え、こんな真昼間から許されるの…?と半ば混乱していると
「ここで待っていてください。」
陽太郎は虎を抱えたまま部屋へと入って行った。
「なんで目を隠すんだ!!」
「見られたくないからに決まってるだろ?」
「せめてどんな口づけをしていたのかだけでも教えてくれ!溶かしたのか?!溶かしたんだな?!」
「内緒!」
丸聞こえの会話の中で箪笥が開いて衣擦れの音がして、なんで着替えてるんだろうとぼんやり思いつつ、唇に残る余韻で動けずにいる。聞いてしまって申し訳ないけど、聞こえて来るものはしょうがない。
「耳まで真っ赤にして…これは相当アツい口づけをお見舞いしたな?」
「……だったらなに?」
「なんだその態度は!我が来るまで地蔵のように固まっていたくせに!」
「それは…あまりに可愛らしいことをするから、嬉しすぎて……頭が追いつかなかったんだよ。」
「お前が身に余る幸せの余韻に浸ってるうちに、おれのかわいい子豚はお前の鈍くささによって乙女の自尊心に傷を負ったんだぞ?」
「わかってる。だから挽回しに来た。」
心の準備は整うどころか、食事時の大奥の台所のように、手に負えないほど騒がしくなっていく。
挽回って何?もっとぺろぺろするってこと?それともぺろぺろし合うってこと?何を?
考えただけでも破裂する。どこかへ隠れた方がいいかもしれないなんて考えが浮かんだと同時に、引き出しの開け閉めされる音がして、思った通り着替えた陽太郎が戻って来た。その手には綺麗に包装された箱を、大事そうに持っている。
「隣、いいですか?」
「は、はい…どうぞ。」
陽太郎はゆっくり隣に腰を掛けると、身体ごと私の方を向いた。
「さっきは、はぐらかすようなことを言ってしまってごめんなさい。そういうつもりじゃなかったんですけど…ああでも言わなきゃ浮かれすぎて、自分を抑えきれなくなりそうで。それに、あなたはほんの冗談のつもりなのに、食いつきすぎて迷惑を掛けてしまうかもって思ったら、遠慮してしまったんです。その結果、あなたを傷つけてしまった…本当にごめんなさい。その上真昼間から台所であんなことまでしておいて、今さらですけど……許してもらえますか?」
さっきあんな口づけをしたとは思えないほど、純粋で真っ直ぐな目で、悲しそうに見つめられ、なんだかこちらこそ大変申し訳ございませんという気持ちになるし、陽太郎がこうして素直な気持ちを包み隠さず伝えてくれるから、私も自然と素直になれる。
「許すもなにも…私の方こそごめんなさい。いじけてあんな態度取っちゃって…可愛くない女で本当にごめんね?」
「え?すごく可愛かったですよ?ちょっとむすっとした瞬間は肝を冷やしましたけど、その顔もすごく可愛くて…力強く引き寄せられた時は、ドキドキしすぎてどうにかなりそうでした。」
「ふむ、おれのかわいい子豚が陽太郎の唇を奪ったのか。予定では逆を狙っていたはずだが…まぁそれでこそだ。でかしたぞ。」
「強くしちゃったけど…痛かった?」
「全然。柔らかくて温かくて…嬉しすぎて、情けないことに頭が真っ白になっちゃいました。何回でもしてもらいたいです。でも、あなたに悲しい思いはさせたくないから…どんな時でもあなたを笑顔にできる男になります。だからまた、してくれますか?」
「いいの?」
「もちろんです。おれからも、またしてもいいですか?」
こういう紳士的で律儀なところも好きだけど、本音を言うと
「聞かなくてもしろ!遠慮なんかするな!お前と同じくいつでも待っているんだ!な?!」
虎が代わりに言ってくれたので、私は熱い頬を手で隠しながら頷いた。
「よかった…!ふふっ、なんだか照れちゃうな。」
「我も照れちゃう!」
「そうだ、これはおれからです。今年はその…せっかくなので、一つ一つ食べさせてもいいですか?」
「ここで“あーん”とは…成長したな。」
ぺろぺろじゃなくて少しがっかりしたような安心したような、でも、陽太郎に食べさせてもらうだなんて、そんな甘くて幸せなチョコレートの食べ方はきっと他にない。
「恥ずかしいけど……」
恥ずかしさに負けて、ここで逃げたら女が廃る。
今まで以上にもっと、仲良くなりたい。
「お願いします!」
「よし!よく言った!」
大きな拍手と共に、ついに虎が大声を発した。
「まったく心配させおって…まぁお前らの事だから丸く収まると信じていたが…どんな恋愛小説よりもぐっと来たぞ!」
「それはどうも。ていうか、さっきから聞こえてるから。」
「我も少し責任を感じていたのだ。おれのかわいい子豚、よかったな!」
「うん。あ、せっかくだから私も今渡しちゃおうかな。ちょっと待ってて!」
自分の部屋に二人へのチョコと手紙を取りに行き、引き出しを開けて陽太郎への恋文見た時、深夜特有の盛り上がりの中綴ったことを思い出して一瞬手が止まったけど、今なら渡せる、渡すならこの流れで今しかないと意を決し、包みと一緒に持って部屋を出た。
「お待たせ。はい、これは虎の。」
「我にもくれるのか?!わぁ…!ありがとう!!」
「はい、これは陽太郎に…あ、ちょっと待って。」
陽太郎に向き合って座り直し、姿勢を正して咳ばらいを一つした。
言え、言うんだ、素直に…素直に!
「すっ…」
「す?」
「すっ……」
「す…!」
虎も見てる。一歩も引くな、勇気を出せと、熱い声援を目で送ってくれている。
…………よし!
「ずっと前から好きです!受け取って下さい!」
やっぱり顔を見ながらなんて言えなくて、頭を下げて腕を伸ばして箱を差し出した。
距離感が掴めずおもいっきり胸にぶつかったけど、これが今自分ができる、精一杯の告白。
恋する気持ちは、向いている矢印の先に進むのは、片想いでも両想いでもいつでどこでもどんな時でも緊張する。
心の大奥の台所がまたせわしなく動き出し、上様にお食事を運ぼうとバタバタドタドタと戦場のように想いが行き交っている。
「ありがとう…おれも、ずっと前からおれのかわいい子豚さんが好きです。この先も、ずーっと大好きです。」
手から箱が離れても、まったく顔を上げられない。
嬉しすぎて、幸せすぎて、喉の奥が固まって目頭が熱くなる。
ドキドキしすぎて口から飛び出そうな、依然として修羅場の大奥の台所を抑え込むのがやっとで、何も言えない。
「ときめきすぎて死ぬ…ばれんたいん…ここまでとは……」(パタリ)
「おれのかわいい子豚さん、はい、あーん。」
口に運ばれてきたチョコレートは、丸くて薄くて不思議な形をしていた。
安らかに眠る虎をよそにぱくっと一口食べると、甘めのチョコの中から甘酸っぱい果汁が広がって、食べたことのない味わいに思わず面を上げた。
「切ったみかんを溶かしたチョコレートに浸して固めてみました。どう?おいしい?」
みかんとチョコレートの織りなす絶妙な味わいを楽しみながら、力強くうんうん頷くと
「早摘みのいちごのもありますよ。そのまま食べると酸っぱくても、チョコレートと一緒に食べるとちょうどいいかなって。あ、ちゃんと味見はしてますから、安心してくださいね?」
頬を緩ませた陽太郎が、目が溶けちゃうほど甘すぎる笑顔を見せた。皮の部分が少し苦くて、それもまたチョコレートの甘さを引き立てる。
「はい、これがいちご。」
差し出されたいちごの形をしたチョコレートは小さく、一口でぱくっといくと、唇が少し陽太郎の指先に当たった。またさっきのいけない口づけを思い出してドキッとし、気恥ずかしくて目を伏せながら、口の中で溶けたチョコレートを噛むと、甘いチョコレートの奥からいちごの酸っぱさがじゅわっと広がった。
みかんもいちごも、なんかお洒落で大人の味がする。
まるでさっきの陽太郎みたいな…
「おいしい?」
また思い出して恥ずかしくなって、俯いたまま頷くと、落ちた髪が耳にそっと掛けられた。
「これでおしまいにしないとな…」
最後の一口を飲み込んで
「おしまい?」
「本当に、食べさせるだけじゃ済まなくなりそうだから。」
前と違って真実味を帯びた声色と表情に、胸の大奥が上様が御成になった時のように静かにざわめいて、緊張感が走る。
「私も、陽太郎に食べさせたい。」
「ダメです。今年も自分で、ゆっくり食べます。」
「なんで?」
「そのままあなたのことも、食べてしまいたくなるから。」
「さっきのいけない口づけみたいに?」
「さっきよりも、もっといけないことです。両手が塞がってたからよかったけど、実を言うと結構危ないところでした。」
私と陽太郎の間にまたしても、決して切ってはいけない、切る時を間違えてはいけない糸が張り詰めていく。
こういう瞬間は今まで何度もあったけど、今日は切れてしまいそうなギリギリまで張り詰めている気がする。
そんな緊張感に身を委ねられないもどかしさを感じながら、陽太郎の手から大人のチョコレートが入った箱を受け取って、みかんのチョコレートを自分で食べた。
「苦いところもおいしいね。」
「本当は皮まで甘くしたかったんですけど、砂糖で煮てみたら甘くなりすぎてしまって。」
「この苦みがいい感じだよ。」
「そうですか?それならよかった。」
「いい感じなんだけど……私、今日眠れないかも。」
「おれも、眠れないと思います。かといって、一緒に夜更かしできそうもないです。」
「そうだよね…後で虎にお香頼もうかな。陽太郎も頼む?」
「頼みたいけど、効きすぎて起きられなくなったら困るからな…とりあえず、畑に戻って身体をたくさん動かしてきますね。チョコレートありがとう。」
陽太郎は私のあげたチョコレートの包みを大事そうに持って、部屋に置きに行った。
後ろ姿を見送ってほんの少し呆けてから、私も自分の部屋に置きに行こうかと立ち上がった時、陽太郎がまた戻ってきた。
「どうしたの?忘れ物?」
「はい。動かないで、そのままじっとしてて?」
踏まれたらまずいものでも落としたのかと思い、言われた通りにじっとしていると、その割には陽太郎がどんどん近付いて来る。
あっという間に目の前に来て、両肩に大きな手が添えられた。
「今日…最後に、もう一度だけさせて?」
陽太郎の長いまつ毛を見ながら目を閉じると、唇が心ごと重なった。私が知っている陽太郎のいつもの口づけに安心し、幸せに満たされていく。
はずだったのに
“もっとすごいこと”が頭を過ぎり、胸の中で今度は岡っ引が、十手を振り回しながら御用だ御用だと叫んでいる。
例え起きられなくても、しばらくは、いや来年のバレンタインデーまでは、虎のお香に頼らなければならないかもしれない。
離れていく時追いかけたくなった唇と、一度と言わずに何百回もおかわりしたいという欲望が、早くも来年のバレンタインデーの待ちきれなさを裏付けていると、一番強い岡っ引に責め立てられた気がした。
「おれのかわいい子豚さん、来年はいけないことをする予定なので、覚悟しててくださいね?」
ー完ー
【あとがき】
間に合わなかったしオチが酷すぎますが、書きたかった甘いバレンタインデーを書けたので、概ね満足です。
虎はあまりのときめきに途中で気絶してしまった挙げ句、起きたら起きたでお香を大量生産しなくてはなりません。バレンタインデーのお返しとしてはいささか割に合わない気もしますが、虎も優しいので丸二日は起きないくらい強力なものを作ってくれることでしょう。
時期とか色々間違ってたらどうしようと思いつつ、こんなに長くなるとは夢にも思わなかったよハッピーバレンタイン!
1/1ページ