ハチミツ口内炎
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
陽太郎と虎と、三人で朝ごはんの準備をしていた時のこと。
昨夜海辺にいた河童の目つきがめちゃくちゃ悪かった件について盛り上がる私と虎をよそに、陽太郎は心ここに在らずといった様子で、浮かない顔で弱々しく大根をすりおろしていた。
「陽太郎大丈夫?体調悪い?」
「あ、いえ…実は口の中にデキモノが出来てしまって…気になって仕方ないんです。」
「口の中のどのへん?」
「下唇の裏あたりです。」
見せてと言おうとしたけど、私も陽太郎も手がふさがっている。そこへ食器を並べていた虎が踏み台を持ってやってきて、私と陽太郎の間に置いてせっせと登った。
「どれ、我が見てやろう!陽太郎、少し屈んでくれ。」
陽太郎が手を止めて、少し屈みながら虎に顔を近付けると、小さな手で陽太郎の下唇をペロンとめくった。下げ過ぎて下の歯ぐきまで見えている。
私も屈んで近付いて虎越しに見ると、白い水ぶくれのようなものがぷくっとできていた。
「なぁおれのかわいい子豚、これは怪我とは違うのか?」
「うん、これってあれじゃない?口内炎。」
「“こうないえん”?」
「ストレスとか寝不足とか、疲れてたりするとできるんだよね…。」
「ふむ…無理が祟ったか。これはどうやって治すんだ?放っておけば治るものなのか?」
「放っておくとね、爆発するんだよ。」
「何?!」
驚いた虎が手を離して振り返ると、陽太郎の唇がぷるんと元の位置に戻り、それと同時に浮かない表情が硬くなった。
「え…そんなこともあるんですか?」
虎を軽く騙すつもりが、まさか陽太郎まで騙されるとは思わなかった。このままでは男二人を騙した悪い女になってしまう。
「ごめん、ないです。冗談です。」
すぐに謝罪をすると二人は、なんだよも~、あーびっくりした、といった感じでため息をつきながら、各々作業を再開した。
「もう、あまりからかわないでください。あなたが言うと、どんなおかしな内容でも信じてしまうんですからね?」
「それは陽太郎だけだと思うが、今回ばかりは我も肝が冷えたぞ!本当にあのデキモノが爆発して、陽太郎の唇が爆ぜ散ることは無いんだな?」
「怖いこと言うな…そんな大袈裟なモノじゃないよ。まぁ、何かの拍子に破裂はするかもしれないけど。」
「破裂だと?!十分痛そうだが、大丈夫なのか?飯は食えるのか?」
「それは問題ないけど、当分辛いモノは食べない方がいいかもな……」
「医者を呼ぶか?」
「ただの口内炎で医者は呼べないよ。」
しょりしょりと大根をすりおろす音が哀愁を奏で、しょんぼりと肩を落とす姿を見ていると胸が痛くなり、少しでも早く治す方法はないかと頭を捻った。
思いきって嚙み千切るという方法がまず思い浮かび、でもそれだと痛いし口にするものがもっとしみてしまいそうなので却下した。
陽太郎に極力負担を掛けず、もっと穏便に治す方法はないか、なにかあったはずだと更に頭を捻っていると、閃くように先人達のある知恵袋を思い出した。
「ハチミツ!」
「なに?!ハチミツ?!」
ハチミツには抗菌作用があり、傷の治りを早くする効果があるとかないとかで、それが口内炎にも効くとか効かないとかいう話をどこかで聞いたことがある。気がする。
それをそのまま説明すると
「それ、おれも聞いたことがあるかも。切らした軟膏代わりにあかぎれに塗ったら治ったとか治らなかったとか…そんな話を聞いたような気が…します。」
「揃いも揃って随分と曖昧だな。しかし、ハチミツならば傷すら治せるとあってもなんら不思議ではない。一口舐めれば幸せに、もう一口舐めれば元気になる。まさに万能薬ではないか。我もその“こうないえん”とやらの予防の為に常にハチミツを口に含んで過ごし、傷口には薬代わりにハチミツを塗ることにしよう。」
「却下。」
「ねぇ、とりあえず試してみようよ!」
包丁を置いて手を洗っていると、陽太郎も大根を置こうとしたので、そのままでいいからと制してハチミツを小匙に少量取った。
「虎、さっきみたいに陽太郎の唇めくってくれる?」
「わかった!陽太郎、屈め!」
「え!大丈夫です!自分で塗りますから!」
「そこだと自分じゃ見えないくない?」
「でも、あなたにうつったりでもしたら…」
「これってうつるの?」
「なんとなくですけど、うつりそうじゃないですか?」
「直になめたりしなければ大丈夫でしょ!」
「直になめっ…?!そんなこと…まぁありえなくも………ないか。いや、朝から何を考えてるんだおれは…」
一人で照れて頭 を振っている陽太郎に、いたずら心をむずむずとくすぐられて
「朝から?何を考えたの?」
にやにやしながら陽太郎の顔を伺うと
「またそうやってからかう…」
そう言いながら照れ困りした後、仕返しとばかりに挑戦的な笑みを浮かべて、首を傾げながら
「いいですよ?あたながそのつもりなら、実際に試しながら教えましょうか?」
そんなことを言うものだから、私も陽太郎の真似をして、同じ方向に首を傾げた。
「教えてもらいたいけど、うつるんじゃないの?」
「うっ、そうでした…。はぁ、治るまでおあずけか…」
陽太郎がまたがっかりと肩を落とすと、虎のお腹がぐぅ~っと鳴った。
「くっ…!こんな時に限って腹が鳴るとは…!我のことは気にせず続けてくれ!」
「ごめん、お腹すいたよね。腹ペコさんの為にも、おとなしく唇を差し出してください。」
「じゃあ、お言葉に甘えて…お願いします。」
陽太郎は先ほどと同じように少し屈んで虎に顔を近付け、虎が陽太郎の下唇を下げて内側を剝き晒した。そこまでしなくてもというくらい下げているため、下の歯茎どころか唇の付け根まで見えている。
ハチミツを小指ですくってそっと陽太郎の口内炎に被せると、陽太郎は顔をしかめた。
「うっ…!」
「どうした?!うますぎて感動したか?!」
「しみる…」
「え?!」
ハチミツが、しみる…?
「しみるということは、効くのではないか?よし!次から我の傷口にもハチミツを塗ってくれ!」
「絶対すぐ舐めちゃうでしょ。はい、手伝ってくれたお礼。」
虎にハチミツの付いた小匙を渡すと、歓喜の声を上げて小匙を口に入れた。
唇から虎の手が離れた陽太郎はというと、ハチミツが歯に付かないよう自力で下唇を下げていた。そままでは話すのも難しそうで、ありがとうの代りに少し頭を下げてから残りの大根をすりおろしにかかった。
私は虎が並べてくれたお皿におかずを盛り付けながら、この後陽太郎はハチミツの口で朝ごはんを食べることになってしまうことに気付き、塗るのはごはんの後でもよかった、逆に悪いことをしてしまったと少し反省した。
食卓に着いていただきますをし、食前にハチミツを塗ってしまったことを謝ると
「大根おろしで流しちゃうので大丈夫ですよ。」
最初に大根おろしのみを口に入れたので、せめてものお詫びに自分の大根おろしを少し取って、陽太郎の皿にこっそり乗せた。
「せっかくの甘いハチミツを、よりにもよって大根おろしで流すとはもったいない。」
「大根おろしにハチミツ、結構いけるよ?虎も食べてみる?」
「ハチミツ十、大根おろし零の割合なら食べてもいいぞ。」
「全部ハチミツじゃないか。」
いつも通り賑やかな食卓だけど、陽太郎が慎重に食べづらそうに、味噌汁も冷めてから飲んでいる様子を見ていると、やはり胸が痛くなる。
同じペースでゆっくりごはんを食べ終えて、私は後片付けを、陽太郎は少しでも早く治したいからと言って、口内を清潔に保つため歯を磨きに行った。
冷たいお茶とハチミツを乗せた小皿を持って縁側に行くと、ちょうど陽太郎と虎も戻ってきた。いつものように並んで座り、陽太郎に下唇をめくってもらって、さっきと同じようにハチミツを小指に取って患部に乗せた。
「疲れが溜まってたのかな?ここのところずっと眠そうにしてたし…私にも手伝えることがあったら、なんでも言ってね?」
「ありがとう。でも、もう終わったので大丈夫ですよ。」
「終わった?」
「ちょっと待っていてくださいね。」
陽太郎が席を立ち、しばらくすると後ろ手に何かを持って戻ってきた。
「おれのかわいい子豚さん、目閉じてて?」
言われるままに目を閉じると、ふわりと肩に柔らかいものが乗り、首元から頬が覆われてあたたかくなった。
「はい、もういいですよ。」
目を開けると、私があげたマフラーと同じ色のマフラーが巻かれていた。
「これって…」
「お揃いにしたくて編んでみました。編み物って難しいんですね。あなたが編んでくれたものと違ってだいぶ不格好ですけど…受け取ってくれますか?」
私が編んだものよりだいぶ目が綺麗でふんわりしていて、陽太郎そのもののような優しい肌触りに、胸がじーんと熱くなった。
「いつの間に…もしかして、これを編むのに夜更かしして、口内炎できちゃったの?」
「心配掛けてごめんなさい。無理をしたつもりはないんです。ただ、あなたがこのマフラーをしているところを想像したら、心がぽかぽかして、編むのがすごく楽しくて…早く完成させたくて、つい夢中になってしまいました。でも、これじゃあ格好がつかないな。」
「ありがとう…すごくあったかい……一生大事にする。」
陽太郎の気持ちが本当に嬉しくて、感極まって身を乗り出して陽太郎の頬に感謝の口づけをすると、陽太郎はふにゃっと表情を崩した。
「よかったな!陽太郎!」
「うん、虎も協力してくれてありがとう。」
「虎も知ってたの?」
「あぁ、お前を驚かせたいからと言って、見つからないよう連日連夜我の部屋で編んでいたからな。それはもう黙々と編んでおったぞ!我が止めなかったら出来上がるまで寝ずに編み続けていただろうな。」
「本格的に寒くなる前に渡したかったんだよ。」
「おかげで“こうないえん”とやらになってしまったがな。でもまぁ頑張った甲斐があったではないか。こうしておれのかわいい子豚から褒美ももらえ…はっ!!」
突然大きな声を出して目を見開いた虎に、陽太郎も私もビクッと肩を上げた。
「もう、いきなり大きな声出さないでよ。」
「甘い口づけ…」
「え?」
「は?」
「恋愛小説によく出て来る甘い口づけとは、ハチミツ味の口づけなのではないか?!」
「違うと思うけど…」
「どんなモノかと思っていたがそういうことか…実際に甘い口づけをこの目で見られる絶好の機会!陽太郎、おれのかわいい子豚!今すぐ試して我に感想を聞かせてくれ!」
「聞いてないな…今はできないし、できたとしても虎の前ではしません。ていうか、ハチミツなんて塗らなくても十分甘いから。」
陽太郎の発言を受けて、一番最近した口づけを思い出してにやにやしそうになっていると
「そうなのか?おれのかわいい子豚はどうなんだ?」
心の準備をする間もなく虎に聞かれて
「え?!あ、いや、どうだったかな…」
しどろもどろになってしまった。
「ふむ、なるほどな…そういうことか……陽太郎、どうやら甘さが足りてないみたいだぞ?」
「じゃあもっと甘さを足すか…」
「足すって何?!大丈夫!もう十分甘いです!」
「どちらにせよ、早くその“こうないえん”とやらを治さねばな。」
「そうだな。それまでにどうやったらもっと甘くできるか、考えておきますね?」
どこまで本気か分かったものじゃなけど、陽太郎のことだから本気だろう。その意味を想像するだけで恥ずかしすぎて、このままではヒトの原型を保てそうにない。
目を閉じて心を無にし、お茶を一気に飲み干して
「はいはい、楽しみにしてます。」
平気なふりをしてなんとか受け流した。
その夜、口内炎が治るまでは、おやすみとおはようの口づけは私から頬にすることに決まった。陽太郎は嬉しそうに「治ってもしてくださいね」と言って、頬への口づけがずいぶん気に入ったようだった。
それから寝る前以外は口内炎にハチミツを塗り、食事も差し入れにもできるだけ口内炎を刺激しないようなモノを用意し、毎朝虎が下唇をめくって私が経過を観察する、そんな日々を送って一週間が経過した。
朝、冬の到来を感じて身を縮めながら身支度をして、さっそく陽太郎が編んでくれたマフラーを巻いた。陽太郎の口内炎も完治間近だから、様子を見て大丈夫そうなら、久し振りにコーヒーでも淹れようかと考えながら縁側に行くと
「おはようおれのかわいい子豚さん!あ、マフラーしてくれたんですね?…うん、想像してた以上にかわいい。さ、こっちに座って?」
先週とは打って変わって、だいぶご機嫌な陽太郎に迎えられた。
「口内炎治りましたよ!」
隣に座ると、ほら見て?と下唇を指で押さえて、口内炎があった場所を私に見せた。目を凝らして見ても、陽太郎を苦しめていたあの口内炎は影も形もなく、すっかり綺麗になっていた。
「ほんとだ…!よかったね!おめでとう!」
「色々気遣ってくれてありがとう。思ったより早く治ってよかったです。」
「ハチミツが効いたのかな?」
「うーん…しみたということは効いたのかもしれませんけど、おれはあなたと虎のおかげだと思います。本当にありがとう…今日のおやつはケーキを焼きますね。もちろん、ハチミツたっぷりで!」
陽太郎は本当に嬉しそうに、満面の笑みを浮かべている。あの哀愁漂う大根おろし姿を思い出し、よかった、本当によかったと心から完治を祝福した。
「じゃあ治ったお祝いに、今日の夜は辛いの食べちゃおっか!あ、その前にコーヒー飲んじゃう?」
「はい!楽しみだな。でもその前に…ね、おれのかわいい子豚さん。こっちに来て?」
傍に寄ると、陽太郎はマフラーの端を持ち、外から見えないように口元を隠して、私にそっと口づけをした。
「朝からこんなところでごめんなさい。ずっと我慢してたから…」
久し振りの陽太郎の唇の感触と、はにかむ姿にただただドキドキしていると
「先週、朝ごはんの準備をしている時、教えてもらいたいって言ってましたよね?お望みどおり教えてあげます。でも、長くなりそうだから…それはまた夜に、ね?」
不意打ちの男モードの陽太郎に気圧されて
「よく覚えてたね…」
それしか言葉が出てこなかった。すると、陽太郎は結構根に持つタイプなのか
「ハチミツよりも甘くする自信があるので、楽しみにしていてくださいね?」
軽く流した時のお返しもきっちりと返してきた。それからもう一度、離れ難さが伝わる少し長めの口づけをし、私達の口元を隠していたマフラーの端をそっと下ろすと、マフラーと同じくらい真っ赤になっているであろう私の頬に嬉々として口づけをしてから、足取り軽くそれはそれはご機嫌な様子でコーヒーを淹れに行った。
マフラーに火照った顔を埋めて、陽太郎が戻ってくる前にこの緩み切った顔をどうにかしなくてはと表情を引き締めると、頬の内側に歯が当たり、一か所に少し痛みを感じた。嫌な予感がして舌でそこを触ると、小さなアレと思しきものが出来ていた。
天国から地獄に突き落とされた気分になり、顔面の全てをマフラーで覆った。
コーヒーを淹れて戻って来た陽太郎に「うわっ!」と驚かれ、顔面にマフラーを巻き付けたまま口内炎ができてしまったことを告げると、マフラーを剥かれて口の中を確認され、陽太郎は医者を呼ぶと言って勢い良く立ち上がった。
腕を掴んでなんとか止めると
「今度はおれがあなたの口内炎に、一時間おきにハチミツを塗ります。」
大真面目に言われた。さすがに一時間おきに口の中に指を突っ込まれるのは嫌なので
「奥だから自分でやる。絶対オエッてなるし。」
丁重にお断りすると
「じゃあ、早く治るおまじない。」
陽太郎は私の頬に願いを込めた口づけをくれた。
「おれのがうつったのかな…おれのかわいい子豚さん、ごめんね?」
本を読んで夜更かししていた自業自得の私を、眉を下げて心底心配そうに見ている陽太郎に胸が痛んで
「それは無いから心配しないで?大丈夫、こんなのすぐ治すから!」
陽太郎の手を力強く握りながら、この口内炎を今日中にどうにか噛み千切ろうと決心した。
―完―
【あとがき】
なずな氏が口内炎を患いながらマフラーを編み、階段スベル氏がハチミツが有効であり(あくまで都市伝説)、しかもしみるという話から出たお題がこの『ハチミツ口内炎』。どういうこと?思いつつ、話していた内容も交えて楽しく書きました。
陽太郎に口内炎を患わせるか、“私”に患わせるか、はたまた虎に患わせるかでお二方とも悩んだことと思います。私も悩みました。そして時間を掛けてこの有様。お二人に期待するしかありません。そんなわけであとはよろしく頼む。
昨夜海辺にいた河童の目つきがめちゃくちゃ悪かった件について盛り上がる私と虎をよそに、陽太郎は心ここに在らずといった様子で、浮かない顔で弱々しく大根をすりおろしていた。
「陽太郎大丈夫?体調悪い?」
「あ、いえ…実は口の中にデキモノが出来てしまって…気になって仕方ないんです。」
「口の中のどのへん?」
「下唇の裏あたりです。」
見せてと言おうとしたけど、私も陽太郎も手がふさがっている。そこへ食器を並べていた虎が踏み台を持ってやってきて、私と陽太郎の間に置いてせっせと登った。
「どれ、我が見てやろう!陽太郎、少し屈んでくれ。」
陽太郎が手を止めて、少し屈みながら虎に顔を近付けると、小さな手で陽太郎の下唇をペロンとめくった。下げ過ぎて下の歯ぐきまで見えている。
私も屈んで近付いて虎越しに見ると、白い水ぶくれのようなものがぷくっとできていた。
「なぁおれのかわいい子豚、これは怪我とは違うのか?」
「うん、これってあれじゃない?口内炎。」
「“こうないえん”?」
「ストレスとか寝不足とか、疲れてたりするとできるんだよね…。」
「ふむ…無理が祟ったか。これはどうやって治すんだ?放っておけば治るものなのか?」
「放っておくとね、爆発するんだよ。」
「何?!」
驚いた虎が手を離して振り返ると、陽太郎の唇がぷるんと元の位置に戻り、それと同時に浮かない表情が硬くなった。
「え…そんなこともあるんですか?」
虎を軽く騙すつもりが、まさか陽太郎まで騙されるとは思わなかった。このままでは男二人を騙した悪い女になってしまう。
「ごめん、ないです。冗談です。」
すぐに謝罪をすると二人は、なんだよも~、あーびっくりした、といった感じでため息をつきながら、各々作業を再開した。
「もう、あまりからかわないでください。あなたが言うと、どんなおかしな内容でも信じてしまうんですからね?」
「それは陽太郎だけだと思うが、今回ばかりは我も肝が冷えたぞ!本当にあのデキモノが爆発して、陽太郎の唇が爆ぜ散ることは無いんだな?」
「怖いこと言うな…そんな大袈裟なモノじゃないよ。まぁ、何かの拍子に破裂はするかもしれないけど。」
「破裂だと?!十分痛そうだが、大丈夫なのか?飯は食えるのか?」
「それは問題ないけど、当分辛いモノは食べない方がいいかもな……」
「医者を呼ぶか?」
「ただの口内炎で医者は呼べないよ。」
しょりしょりと大根をすりおろす音が哀愁を奏で、しょんぼりと肩を落とす姿を見ていると胸が痛くなり、少しでも早く治す方法はないかと頭を捻った。
思いきって嚙み千切るという方法がまず思い浮かび、でもそれだと痛いし口にするものがもっとしみてしまいそうなので却下した。
陽太郎に極力負担を掛けず、もっと穏便に治す方法はないか、なにかあったはずだと更に頭を捻っていると、閃くように先人達のある知恵袋を思い出した。
「ハチミツ!」
「なに?!ハチミツ?!」
ハチミツには抗菌作用があり、傷の治りを早くする効果があるとかないとかで、それが口内炎にも効くとか効かないとかいう話をどこかで聞いたことがある。気がする。
それをそのまま説明すると
「それ、おれも聞いたことがあるかも。切らした軟膏代わりにあかぎれに塗ったら治ったとか治らなかったとか…そんな話を聞いたような気が…します。」
「揃いも揃って随分と曖昧だな。しかし、ハチミツならば傷すら治せるとあってもなんら不思議ではない。一口舐めれば幸せに、もう一口舐めれば元気になる。まさに万能薬ではないか。我もその“こうないえん”とやらの予防の為に常にハチミツを口に含んで過ごし、傷口には薬代わりにハチミツを塗ることにしよう。」
「却下。」
「ねぇ、とりあえず試してみようよ!」
包丁を置いて手を洗っていると、陽太郎も大根を置こうとしたので、そのままでいいからと制してハチミツを小匙に少量取った。
「虎、さっきみたいに陽太郎の唇めくってくれる?」
「わかった!陽太郎、屈め!」
「え!大丈夫です!自分で塗りますから!」
「そこだと自分じゃ見えないくない?」
「でも、あなたにうつったりでもしたら…」
「これってうつるの?」
「なんとなくですけど、うつりそうじゃないですか?」
「直になめたりしなければ大丈夫でしょ!」
「直になめっ…?!そんなこと…まぁありえなくも………ないか。いや、朝から何を考えてるんだおれは…」
一人で照れて
「朝から?何を考えたの?」
にやにやしながら陽太郎の顔を伺うと
「またそうやってからかう…」
そう言いながら照れ困りした後、仕返しとばかりに挑戦的な笑みを浮かべて、首を傾げながら
「いいですよ?あたながそのつもりなら、実際に試しながら教えましょうか?」
そんなことを言うものだから、私も陽太郎の真似をして、同じ方向に首を傾げた。
「教えてもらいたいけど、うつるんじゃないの?」
「うっ、そうでした…。はぁ、治るまでおあずけか…」
陽太郎がまたがっかりと肩を落とすと、虎のお腹がぐぅ~っと鳴った。
「くっ…!こんな時に限って腹が鳴るとは…!我のことは気にせず続けてくれ!」
「ごめん、お腹すいたよね。腹ペコさんの為にも、おとなしく唇を差し出してください。」
「じゃあ、お言葉に甘えて…お願いします。」
陽太郎は先ほどと同じように少し屈んで虎に顔を近付け、虎が陽太郎の下唇を下げて内側を剝き晒した。そこまでしなくてもというくらい下げているため、下の歯茎どころか唇の付け根まで見えている。
ハチミツを小指ですくってそっと陽太郎の口内炎に被せると、陽太郎は顔をしかめた。
「うっ…!」
「どうした?!うますぎて感動したか?!」
「しみる…」
「え?!」
ハチミツが、しみる…?
「しみるということは、効くのではないか?よし!次から我の傷口にもハチミツを塗ってくれ!」
「絶対すぐ舐めちゃうでしょ。はい、手伝ってくれたお礼。」
虎にハチミツの付いた小匙を渡すと、歓喜の声を上げて小匙を口に入れた。
唇から虎の手が離れた陽太郎はというと、ハチミツが歯に付かないよう自力で下唇を下げていた。そままでは話すのも難しそうで、ありがとうの代りに少し頭を下げてから残りの大根をすりおろしにかかった。
私は虎が並べてくれたお皿におかずを盛り付けながら、この後陽太郎はハチミツの口で朝ごはんを食べることになってしまうことに気付き、塗るのはごはんの後でもよかった、逆に悪いことをしてしまったと少し反省した。
食卓に着いていただきますをし、食前にハチミツを塗ってしまったことを謝ると
「大根おろしで流しちゃうので大丈夫ですよ。」
最初に大根おろしのみを口に入れたので、せめてものお詫びに自分の大根おろしを少し取って、陽太郎の皿にこっそり乗せた。
「せっかくの甘いハチミツを、よりにもよって大根おろしで流すとはもったいない。」
「大根おろしにハチミツ、結構いけるよ?虎も食べてみる?」
「ハチミツ十、大根おろし零の割合なら食べてもいいぞ。」
「全部ハチミツじゃないか。」
いつも通り賑やかな食卓だけど、陽太郎が慎重に食べづらそうに、味噌汁も冷めてから飲んでいる様子を見ていると、やはり胸が痛くなる。
同じペースでゆっくりごはんを食べ終えて、私は後片付けを、陽太郎は少しでも早く治したいからと言って、口内を清潔に保つため歯を磨きに行った。
冷たいお茶とハチミツを乗せた小皿を持って縁側に行くと、ちょうど陽太郎と虎も戻ってきた。いつものように並んで座り、陽太郎に下唇をめくってもらって、さっきと同じようにハチミツを小指に取って患部に乗せた。
「疲れが溜まってたのかな?ここのところずっと眠そうにしてたし…私にも手伝えることがあったら、なんでも言ってね?」
「ありがとう。でも、もう終わったので大丈夫ですよ。」
「終わった?」
「ちょっと待っていてくださいね。」
陽太郎が席を立ち、しばらくすると後ろ手に何かを持って戻ってきた。
「おれのかわいい子豚さん、目閉じてて?」
言われるままに目を閉じると、ふわりと肩に柔らかいものが乗り、首元から頬が覆われてあたたかくなった。
「はい、もういいですよ。」
目を開けると、私があげたマフラーと同じ色のマフラーが巻かれていた。
「これって…」
「お揃いにしたくて編んでみました。編み物って難しいんですね。あなたが編んでくれたものと違ってだいぶ不格好ですけど…受け取ってくれますか?」
私が編んだものよりだいぶ目が綺麗でふんわりしていて、陽太郎そのもののような優しい肌触りに、胸がじーんと熱くなった。
「いつの間に…もしかして、これを編むのに夜更かしして、口内炎できちゃったの?」
「心配掛けてごめんなさい。無理をしたつもりはないんです。ただ、あなたがこのマフラーをしているところを想像したら、心がぽかぽかして、編むのがすごく楽しくて…早く完成させたくて、つい夢中になってしまいました。でも、これじゃあ格好がつかないな。」
「ありがとう…すごくあったかい……一生大事にする。」
陽太郎の気持ちが本当に嬉しくて、感極まって身を乗り出して陽太郎の頬に感謝の口づけをすると、陽太郎はふにゃっと表情を崩した。
「よかったな!陽太郎!」
「うん、虎も協力してくれてありがとう。」
「虎も知ってたの?」
「あぁ、お前を驚かせたいからと言って、見つからないよう連日連夜我の部屋で編んでいたからな。それはもう黙々と編んでおったぞ!我が止めなかったら出来上がるまで寝ずに編み続けていただろうな。」
「本格的に寒くなる前に渡したかったんだよ。」
「おかげで“こうないえん”とやらになってしまったがな。でもまぁ頑張った甲斐があったではないか。こうしておれのかわいい子豚から褒美ももらえ…はっ!!」
突然大きな声を出して目を見開いた虎に、陽太郎も私もビクッと肩を上げた。
「もう、いきなり大きな声出さないでよ。」
「甘い口づけ…」
「え?」
「は?」
「恋愛小説によく出て来る甘い口づけとは、ハチミツ味の口づけなのではないか?!」
「違うと思うけど…」
「どんなモノかと思っていたがそういうことか…実際に甘い口づけをこの目で見られる絶好の機会!陽太郎、おれのかわいい子豚!今すぐ試して我に感想を聞かせてくれ!」
「聞いてないな…今はできないし、できたとしても虎の前ではしません。ていうか、ハチミツなんて塗らなくても十分甘いから。」
陽太郎の発言を受けて、一番最近した口づけを思い出してにやにやしそうになっていると
「そうなのか?おれのかわいい子豚はどうなんだ?」
心の準備をする間もなく虎に聞かれて
「え?!あ、いや、どうだったかな…」
しどろもどろになってしまった。
「ふむ、なるほどな…そういうことか……陽太郎、どうやら甘さが足りてないみたいだぞ?」
「じゃあもっと甘さを足すか…」
「足すって何?!大丈夫!もう十分甘いです!」
「どちらにせよ、早くその“こうないえん”とやらを治さねばな。」
「そうだな。それまでにどうやったらもっと甘くできるか、考えておきますね?」
どこまで本気か分かったものじゃなけど、陽太郎のことだから本気だろう。その意味を想像するだけで恥ずかしすぎて、このままではヒトの原型を保てそうにない。
目を閉じて心を無にし、お茶を一気に飲み干して
「はいはい、楽しみにしてます。」
平気なふりをしてなんとか受け流した。
その夜、口内炎が治るまでは、おやすみとおはようの口づけは私から頬にすることに決まった。陽太郎は嬉しそうに「治ってもしてくださいね」と言って、頬への口づけがずいぶん気に入ったようだった。
それから寝る前以外は口内炎にハチミツを塗り、食事も差し入れにもできるだけ口内炎を刺激しないようなモノを用意し、毎朝虎が下唇をめくって私が経過を観察する、そんな日々を送って一週間が経過した。
朝、冬の到来を感じて身を縮めながら身支度をして、さっそく陽太郎が編んでくれたマフラーを巻いた。陽太郎の口内炎も完治間近だから、様子を見て大丈夫そうなら、久し振りにコーヒーでも淹れようかと考えながら縁側に行くと
「おはようおれのかわいい子豚さん!あ、マフラーしてくれたんですね?…うん、想像してた以上にかわいい。さ、こっちに座って?」
先週とは打って変わって、だいぶご機嫌な陽太郎に迎えられた。
「口内炎治りましたよ!」
隣に座ると、ほら見て?と下唇を指で押さえて、口内炎があった場所を私に見せた。目を凝らして見ても、陽太郎を苦しめていたあの口内炎は影も形もなく、すっかり綺麗になっていた。
「ほんとだ…!よかったね!おめでとう!」
「色々気遣ってくれてありがとう。思ったより早く治ってよかったです。」
「ハチミツが効いたのかな?」
「うーん…しみたということは効いたのかもしれませんけど、おれはあなたと虎のおかげだと思います。本当にありがとう…今日のおやつはケーキを焼きますね。もちろん、ハチミツたっぷりで!」
陽太郎は本当に嬉しそうに、満面の笑みを浮かべている。あの哀愁漂う大根おろし姿を思い出し、よかった、本当によかったと心から完治を祝福した。
「じゃあ治ったお祝いに、今日の夜は辛いの食べちゃおっか!あ、その前にコーヒー飲んじゃう?」
「はい!楽しみだな。でもその前に…ね、おれのかわいい子豚さん。こっちに来て?」
傍に寄ると、陽太郎はマフラーの端を持ち、外から見えないように口元を隠して、私にそっと口づけをした。
「朝からこんなところでごめんなさい。ずっと我慢してたから…」
久し振りの陽太郎の唇の感触と、はにかむ姿にただただドキドキしていると
「先週、朝ごはんの準備をしている時、教えてもらいたいって言ってましたよね?お望みどおり教えてあげます。でも、長くなりそうだから…それはまた夜に、ね?」
不意打ちの男モードの陽太郎に気圧されて
「よく覚えてたね…」
それしか言葉が出てこなかった。すると、陽太郎は結構根に持つタイプなのか
「ハチミツよりも甘くする自信があるので、楽しみにしていてくださいね?」
軽く流した時のお返しもきっちりと返してきた。それからもう一度、離れ難さが伝わる少し長めの口づけをし、私達の口元を隠していたマフラーの端をそっと下ろすと、マフラーと同じくらい真っ赤になっているであろう私の頬に嬉々として口づけをしてから、足取り軽くそれはそれはご機嫌な様子でコーヒーを淹れに行った。
マフラーに火照った顔を埋めて、陽太郎が戻ってくる前にこの緩み切った顔をどうにかしなくてはと表情を引き締めると、頬の内側に歯が当たり、一か所に少し痛みを感じた。嫌な予感がして舌でそこを触ると、小さなアレと思しきものが出来ていた。
天国から地獄に突き落とされた気分になり、顔面の全てをマフラーで覆った。
コーヒーを淹れて戻って来た陽太郎に「うわっ!」と驚かれ、顔面にマフラーを巻き付けたまま口内炎ができてしまったことを告げると、マフラーを剥かれて口の中を確認され、陽太郎は医者を呼ぶと言って勢い良く立ち上がった。
腕を掴んでなんとか止めると
「今度はおれがあなたの口内炎に、一時間おきにハチミツを塗ります。」
大真面目に言われた。さすがに一時間おきに口の中に指を突っ込まれるのは嫌なので
「奥だから自分でやる。絶対オエッてなるし。」
丁重にお断りすると
「じゃあ、早く治るおまじない。」
陽太郎は私の頬に願いを込めた口づけをくれた。
「おれのがうつったのかな…おれのかわいい子豚さん、ごめんね?」
本を読んで夜更かししていた自業自得の私を、眉を下げて心底心配そうに見ている陽太郎に胸が痛んで
「それは無いから心配しないで?大丈夫、こんなのすぐ治すから!」
陽太郎の手を力強く握りながら、この口内炎を今日中にどうにか噛み千切ろうと決心した。
―完―
【あとがき】
なずな氏が口内炎を患いながらマフラーを編み、階段スベル氏がハチミツが有効であり(あくまで都市伝説)、しかもしみるという話から出たお題がこの『ハチミツ口内炎』。どういうこと?思いつつ、話していた内容も交えて楽しく書きました。
陽太郎に口内炎を患わせるか、“私”に患わせるか、はたまた虎に患わせるかでお二方とも悩んだことと思います。私も悩みました。そして時間を掛けてこの有様。お二人に期待するしかありません。そんなわけであとはよろしく頼む。
1/1ページ