ここが、私の
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
来た時と同じ桜に彩られた縁側で、陽太郎とお別れの挨拶をした。
二年間過ごした家を出て、後ろ髪を引かれながら駅までの道のりを歩き、一人でサカモトから故郷へと帰る列車に乗った。
ここへ来る時は、生まれ育った故郷から離れていくにつれ心細くなり、今すぐ家に帰りたい、今すぐ家族や友人たちに会いたいと、原因不明の病を恨みながら涙を流した。
それから走り出した列車の車窓から見えるこの景色を最初に見た時は、豊かな自然に感心しつつ、最期を迎えるには丁度いいかもしれないという漠然とした虚しさと諦めを感じた。
それが今では陽太郎と虎、二人のおかげでこうしてすっかり元気になり、もう二度と帰れないと思っていた故郷に帰れることになった。
それはとても有り難く願ってもないことだったけど、当たり前のように毎日顔を合わせて笑い合っていた二人の元を離れるのがさみしくて、辛くて、出会えたことが奇跡に思えて、蛇に憑かれてよかったとすら思う。
しばらく走ると、山景色が途切れてきた。お腹はあまり空いていないけど、恋しさに押し潰されそうになり、陽太郎が作って持たせてくれたおにぎりを食べ始めた。
すっかり慣れ親しんだこの味も、しばらく食べられないのかと思うと食べ終わるのがもったいなくて、必要以上にゆっくり味わって食べた。
今頃陽太郎は、そろそろ収穫できそうだと言っていたニラを、虎に文句を言われながらも一生懸命刈り取っている頃だろうか。そういえば鋤の置き場所変えたのを言い忘れたけど、見つけられているだろうか。虎はこんなにいい天気だから、ごはんを食べてお腹いっぱいになって、縁側で気持ちよさそうにもうひと眠りしているかもしれない。金平糖を枕元に置いておいたけど気づいただろうか。
そんなことを考えてるうちに、鼻の奥がツンと痛くなって味が分からなくなってしまい、あっという間に視界は涙でいっぱいになり、最後の一口を口に入れると頬が動いてぽたりと落ちた。
鼻をすすって袖で涙を拭きながら飲み込んで、食べ終わってしまったことが悲しくてまた涙を流した。
一度泣き出してしまうと、どんどん悲観的になっていく。二度と会えなくなるわけじゃないのに、望めばいつだって戻れるのに、荷物だってほとんど置いて、すぐ戻るつもりで出てきたのに、窓の外の景色が変わって行けば行くほど、自分が元居た場所に“帰っている”という意識に切り替わっていった。
もしかしたらもう、陽太郎のごはんを食べるのはこれで最後だったかもしれないとか、すべて思い出に変わってしまうのではないかとか、そんな根拠のない不安が涙を押し出していく。
二年という月日は、振り返れば長いようで短い。でも、陽太郎の隣にいると時間がゆったりと流れ、急かされることも無理強いされることもなく、のびのびと優しく毎日が過ぎて行った。
怪モノ退治では三人で手と手を取り合って、それぞれ自分にできることを見つけて精一杯やって、自分の弱さと向き合いながら各々が恐怖を克服した。
故郷で待つ人達に元気になった姿を見せたら必ずまたサカモトへ戻り、怪モノ退治をしながら陽太郎と虎と支え合って楽しく暮らしていきたい。陽太郎も言ってくれていたように、私も二人のことが大好きだからずっと一緒にいたい。
そう思う傍ら、戻るということは陽太郎と男女の仲になるということで、それはどうにも想像の範疇を超えていて、陽太郎にとって本当にそれでいいのかを考える。
月が綺麗な秋の夜、陽太郎は私のことを好きだと言ってくれた。嬉しくて、でも現実味がなくて、高鳴ろうとする胸を、何故だが受け入れられない自分がいた。
私と一緒になって得るものなんてあるのだろうか。陽太郎が私に与えてくれた以上に、私が陽太郎に与えられるものなんてあるのだろうか。
頭と心がちぐはぐで、いくら悩んでも答えなんて出そうになく、そうして車窓からの景色が変わっていくのを眺めていると、夢から現実へと覚めていくように、涙は自然と乾いていった。
昨晩あまり眠れなかったせいか、いつの間にか寝てしまっていた。
乗務員が切符を切りに来て、窓の外から見慣れた景色が流れ込んできてしばらくすると、ゆっくりと列車が止まった。
荷物を持って忘れ物が無いかを確認し、駅に降りるとずいぶん景色が変わっていた。新しい建物が立ち、多くの人で賑わい、浦島太郎のような気分になった。
家族に迎えは頼まなかった。
駅から家までの道を一人で歩いていくと、すぐに見慣れた町並みに入った。懐かしい空気を吸い込むと、あぁ、帰ってきたんだな、と感慨深くなった。
生まれ育った故郷に生きて帰ってこれた喜びと思い出が駆け巡って、胸が震えてじんと熱くなった。
すると、あれほど離れ難かったサカモトでの日々が、今までの出来事が、まるで美しすぎた夢か幻しだったように思えてきた。
家に着くと家族が出迎えてくれた。住んでいた頃は意識することのなかった、懐かしい自分の家の匂いを感じながら荷物を置きに自分の部屋へ入ると、出る前と何も変わっていなかった。
久しぶりの自分一人だけの空間に落ち着くと同時に、ぽつんとしたさみしさを感じた。それから、家の中で身だしなみに気を遣わなくてもいいことに対する解放感と、自分の役割を失くした焦燥感が交互にやってきた。
いろんな感情が一気に代わる代わる襲い掛かってきて、情緒が歪んだ渦に飲み込まれそうになり、気を紛らわせたくて、するほどでもない荷ほどきをしようと鞄に手を伸ばすと、母が私を呼ぶ声がした。
居間に行くと、食卓には私が好きな料理がたくさん並んでいた。久しぶりの母の手料理に手を合わせ、懐かしい味にほっとした。
陽太郎のごはんを初めて食べた時も、優しくてほっとする味に緊張がほぐれたこと、今食卓にも出ている母から教わった料理を振舞って、陽太郎と虎に喜んでもらえたことを思い出していると、二年間どう過ごしていたのかを聞かれた。何から話せばいいのか迷いながら、できる範囲で畑を手伝いながら、それを料理して楽しく過ごしていたと伝えた。
陽太郎の人柄についても事細かく伝えたかったけど、なんとなく気恥ずかしさを感じて、必要以上に落ち着き払って話した。
どれだけお世話になったかとか、どれだけ心が優しいか、どれだけ努力家で真っ直ぐかを、具体的なエピソードも交えて話した。それから、様子をみながら虎と怪モノの話もした。
私を苦しめていたのは怪モノと呼ばれる妖怪みたいなモノで、それを退治して払ってくれたのが虎であること、また、虎も怪モノだけど人間の言葉が話せて、食いしん坊でやんちゃで、でもとても頼りになると、庇うように話した。虎は陽太郎のことが大好きで、常に役に立ちたいと努力している人間の味方だ。二人がいなかったら、私は今ここにいないと思う。
そんな話を、家族は疑いもせずうんうんと聞いてくれて、そのうちご挨拶に行かないとね、と言った。
一通り話し終わると、今度は私のこれからの話になった。嫁ぐのか、仕事をするのか。これからどこでどう生きていくのか。地元の友人の誰それがどこに嫁いだとか、誰それは昔の風習に囚われず立派に仕事をしているとか、親同士でした話を私に教えた上で、私の人生だから、私の好きにしていいと言った。自分が環境に恵まれていることを実感し、感謝の気持ちを言葉にしたら泣いてしまいそうで言えなかった。
食後に出てきたいちごを食べながらまた、陽太郎を思い出した。
いちごが好きだと言って、幸せそうに食べていた横顔がかわいくて、私の分もあげた。虎がずるいと言ったので、虎の口に運んであげた。それを見た陽太郎が何か言いたげにしていたので、陽太郎の口元にも運んだ。いちごみたいにほっぺを赤くさせながら、遠慮がちに私の手から食べた時のあの表情は、思い出すだけで胸があたたかくなる。
このまま帰って陽太郎と一緒になるか、ここでやりたいことを見つけて働いて、自分の力で生きていくか。今後の生き方を、自分自身で決めなければならない。
お風呂に入っている間も、部屋に帰って布団に転がっている今も、心身共に元気な今、どちらの未来も輝いて見えた。
もう一つの選択肢が自分の中で生まれたのは、陽太郎が一生懸命自分の仕事に向き合ってきた姿を近くで見ていて、その姿に影響を受けたというのもある。
でもその憧れを取ったら、陽太郎の気持ちを無下にすることになる。
もう二度と、二人に会えなくなる。
傍にいて、一緒に働いて、一緒に同じ方向を見ながら支え合って、穏やかで優しい日々を生きていくのか。
自分の責任はすべて自分で背負い、自分の力で立って前を向き、厳しくも張りのある日々を突き進むように生きていくのか。
深いため息をつくと、慣れ親しんだ自分の部屋の匂いが眠気を誘い、考えが先に進まないまま夢も見ずに深く眠った。
二日目。
母に起こされて、朝ごはんを食べてからご近所に挨拶をしに回った。
無事を喜ばれた後、もしまだお見合いの話が来ていないならうちの息子はどうかとか、仕事の人手が足りないから手伝ってくれないかとか、そういった話もされた。
まだ病み上がりなのでとやんわり断って、いつまでこっちにいられるのか聞かれた時は、母が曖昧に濁してくれた。
立ち話にも花が咲き、挨拶回りで一日が終わった。
三日目。
早くに母が私を起こしに来た。
今日から何日かかけて、近くに住む親せきに顔を見せに行くことになった。皆それぞれ忙しく、一堂に会せそうにないため、こちらから挨拶に回ることにしたという。
行きに手土産を買いに街に出ると、多くの人で賑わっていた。
あちらこちらから活気のいい商売声が飛び交い、肩がぶつかりそうなほど人でごった返している。
大胆な柄と色使いの着物や洋装が色とりどりに道を行き交い、久し振りの雑踏に眩暈がしそうになった。
少し休憩してから路面電車に乗って、親戚の家を訪ねた。
待ちわびていたと豪華な食事でもてなされ、幼い頃からお世話になっている叔母は元気になった私の姿を見て泣いて喜んだ。こっちにいた時よりも私の肌ツヤが良くなったと言われたので、おいしい野菜とおいしい空気のおかげだと返すと、快活な叔母は自分も病に原因不明の倒れたら、サカモトに療養しに行こうかなと笑いながら言った。母も、私もそうしようかなと言って笑うので、しょうがないからその時はまとめて面倒を見るよと、私も笑って言った。
四日目。
他の親戚の家や職場を訪ねて回った。
移動も多く、たくさんの人と接したのが久し振りすぎて、疲れてしまって毎晩考え事をする間もなく布団に沈む日々を過ごした。
親戚の他、両親が懇意にしている人達のところへも顔を見せに行き、挨拶回りが終わったのは私がここに帰ってきてから一週間後のことだった。
その日は母に起こされることもなく、昼前に自分で起きた。まだ疲れが取れず身体が重く、顔に出ていたのか、母に無理させてごめんと謝られ、ごはんの時以外はほとんど寝ていた。
八日目。
母と二人で買い物に出かけた。
私がいない間に新しくできたお店を何軒か回り、そこで試食したお菓子がとてもおいしくて、二人にも食べさせてあげたくなった。
日持ちもするのでお土産に買うと、母は今こっちで話題の洗剤や石鹸などの日用品を教えてくれ、それも持っていくといいと言って買ってくれた。もし帰らなかったら自分で使うからと大量に買い、荷物持ちがいる時にすればよかったと、帰り道に二人で後悔した。
九日目。
お昼前に目が覚めると、ちょうど友人が一人訪ねてきた。お互いに久しぶりの再会を、大袈裟なくらい喜んだ。
友人は和装に洋装を取り入れた、奇抜だけどとても素敵でお洒落な恰好をしていた。新しくできたカフェに行こうというお誘いを受けたので、準備してくるからと居間で待っててもらった。
急いでしっかり身支度を済ませて居間に行くと、彼女は抱えていた包みを私に差し出した。中身は自分で作ったという上品な柄の普段着用の着物と、彼女が着ている着物よりはいくらか落ち着いているけど、お洒落で大胆な組み合わせの着物が一式あった。こんなに高級そうなものを貰ってしまっていいのか尋ねると、快気祝いだから受け取って欲しいと言ったので、大事に着ると約束し、ありがたく受け取った。
カフェに向かう道中、彼女は他の友人達の近況を教えてくれた。
昨日母が言っていたとおり、名家に嫁いだ子、幼馴染と結婚した子、男社会の中で奮闘しながら働いている子、自分の特技を生かして職人になった子もいて、みんなそれぞれ苦労しつつも楽しくやっているそうだ。彼女はというと、元々興味があった服飾の仕事に就いていた。
デザインから生地選びまで自分で行い、縫製にも携わるという。快気祝いにとくれた着物も、全て彼女が手掛けたものだった。かなり大変だけどその分やり甲斐もあって、毎日が刺激的で楽しくて、しばらく結婚なんて無理かもと話す彼女の顔はイキイキとしていて、とても綺麗で眩しく映った。
今よりもっと有名になったら、貰った着物にさらに価値が付いちゃうね、なんて話しながら、目立って男女問わず振り向く人の視線を気にもせず、颯爽と歩く彼女を誇らしく思った。
路面電車に乗ってしばらく歩いていくと、雑誌で見たことがあったカフェに着いた。
席に案内されてふと周りを見ると、見た目からして心が躍る美味しそうなスイーツがたくさんあった。虎が見たら目を輝かせて大騒ぎするだろうし、陽太郎もなんだかんだ甘いモノ好きだから、感嘆の声を上げるだろうなと考えながら品書きに目を通し、彼女は珈琲とケーキを、私はクリームソーダを頼んだ。緑と白が、なんとなく陽太郎の作業着を思い出させた。
それからしばらく思い出話に花を咲かせた後で、私の療養中のことを尋ねられた。
彼女には陽太郎と虎と過ごした二年間を、その時の自分の気持ちも併せて詳細に話した。
陽太郎に気持ちを打ち明けられた時は嬉しかったけど、それは色々とわきまえてた自分に向けられた気持ちであって、同性の友人に見せている本性はまだ晒していない。かといって恋愛モードの自分を受け入れてもらう自信もないし、何より陽太郎が私を好きになる要素に皆目検討も付かず、理解ができない。
正直にそう話すと、彼女は私に陽太郎がどんな人物なのかと尋ねた。
とても穏やかで、自分を顧みず迷わず人の為に行動できる思いやりに溢れた年下の男の子だと言うと、見た目はあの人よりかっこいい?と、いかにも都会の仕事できます風のしゅっとした男性客をこっそり指差した。
確かに顔も整っているしスタイルもいいけど、私には陽太郎の方が断然かっこよく見えた。思ったままを答えると、なるほどね~と大きく相槌を打った。
気が引けるのも分かる。今はいいとしても、十年後二十年後はおばさんになって、どうしても周りの若い子と比べて気後れしてしまう。そして人格者の横にいればいるほど自分の心の醜さが浮き彫りになって嫌気がさす。
ありのままの自分を隠したまま生きていくのは確かに辛い。まぁ、お見合いで嫁いだ大体の女はそうして生きていくことが当たり前になってるから、やろうと思えばできる。いくら想い合っているからといって、全てを曝け出す必要はない。むしろそれくらいがちょうどいい。もしかしたら相手の善に浄化されて、自分も良い人間になれるかもしれないしね。
彼女の話に、何度も何度も頷いた。自分の心の内を理解してくれて、共感してくれる女友達と会話を交わすのが本当に久し振りすぎて、その存在を心底有難く思った。
それから、私も陽太郎のように、今目の前にいる彼女のように、自分の力で道を切り開き、全力を注げる何かを見つけて働くことに対する憧れも打ち明けると、
それは自分で決めるしかない、せっかく元気になって帰ってきたんだから、色んな人の話を聞いて、自分の目で見てしっかり考えて決めるしかない。
と、もっともなことを言われた。
そして、考えても分からない時は、自分の心に正直に、一番ときめく方へ進むのがいい。女だって幸せは自分で掴みに行くものだと言って、私の手を力強く握った。
どの選択をしても味方でいるし、傷ついた時はパーっと遊びに行っていっぱい買い物して、おいしいものいっぱい食べて、いくらでも気晴らしに付き合うと言ってくれた。後悔のない人生なんて送れっこないし、それもまた経験だ。話ならいくらでも聞くし、居場所なんていくつあったっていいでしょ?そう言って笑う彼女は頼もしく、出会えて友人になれたことに、心の底から感謝した。
それから彼女の仕事の話や、実は年下の恋人がいるという話を聞いて盛り上がり、途中お腹が空いて軽食を注文し、話題が尽きることなく閉店までいてしまった。
次は洋食屋にでも行こうと約束をして、家の前で彼女と別れた。その別れ際に、あの着物はここぞと言う時に着ろと言ってウインクをした彼女は、同い年とは思えないほど、とても大人びて見えた。
たくさん話してたくさん笑って、お風呂の中で思い出し笑いをしたりして、その日は心地よい疲れの中で眠りについた。
十日目。
今度は別の友人が二人、家を訪ねてきた。
久しぶりの再会に感動し、玄関で三人して手を握り合った。あまりに騒がしくしてしまい、母が近所迷惑になるから早く中へ入れと言いに来た。
ごめんなさ~いと言いながら、私は自室に二人を招き入れた。
友人のうち一人は名家に嫁いだ子で、快気祝いにと、上品な色の口紅をくれた。もう一人は幼馴染の商人と結婚した子で、同じく快気祝いにと、どの着物にも合うようなシンプルな髪飾りをくれた。先日もらった着物を出して見せると、まるで示し合わせたように似合っていて、奇跡のような偶然に驚いて笑い合った。
それからお茶とお茶菓子を持ってきて、昨日カフェに行ったことをと話した。
二人は、あの子は忙しくて中々つかまらないから、遊ぶなら声を掛けてくれればよかったのに、ただでさえみんなこうして集まるのだって、今となっては難しいもんね、と、しみじみ言いながらお菓子に手を付けた。
お茶を飲みながら、二人は体調を崩した私を心配していたけど、こうして無事に帰ってきたことを改めて喜び、二年間の療養生活について聞いてきた。
昨日と同じ内容を話し、彼女がくれた言葉も教えると、友人二人は泣きながら、いいこと言うわ~、でも私達もいるのを忘れないでね?と言った。私もつられて泣きながら、ありがとうとお礼を言った。ずっと遠ざかっていた同性の、心を許した友人達との会話が本当に心に沁みる。
陽太郎の家も楽しいけど、こうしてすぐに会えて、気兼ねせず何でも話せる友人達がいる故郷はやっぱり離れ難い。
そんな気持ちで涙を拭きながら、二人の近況を尋ねた。
名家に嫁いだ子は旦那様が六つ年上で、典型的な亭主関白だという。親同士が決めた結婚なので強く出るわけにもいかず、貞淑な妻であろうと頑張っていたそうだ。元々おしとやかな方だけど芯はしっかりしていて、思いやりもある。少し天然なところもあってかわいらしい彼女は、学生時代、この中で一番良き妻で良き母になるだろうとみんなで話していた。
そんな彼女が嫁いだのは、私が地元を離れた年の夏だったそうだ。最初は無口な旦那様が怖くて、会話らしい会話なんてできないでいたけど、ある日を境に一日一輪花をくれるようになったという。
彼女はどれだけ尽くしても反応の薄い旦那様から愛されることを諦めそうになり、夜の務めの時に堪えきれず泣いてしまった。そこで初めて、旦那様が本当は顔合わせの時点で彼女に一目惚れをしていたけど、どう接していいか分からずについ不愛想になってしまっていたことを知った。
気を抜けばだらしない顔を見せてしまいそうになるので、威厳を保つために冷たくしてしまったそうだ。
そう打ち明けられた夜から本当の夫婦になれた気がすると言って、恥ずかしそうに、でも幸せそうにほほ笑んだ。その顔がとてもかわいくて、女の私でもぐっときた。
そしてなんと、今お腹に赤ちゃんがいるという。私達は割れんばかりの歓声を上げて、また泣きながらおめでとうを繰り返した。
幼馴染の商人と結婚した彼女は、旦那様の仕事を手伝いながら、たまに地方に行くことがあるという。もっと仕事がうまくいったら、サカモトにもモノを売りに行けるかもしれないと言った。
幼馴染の旦那様のことは、私達もよく知っている。飾らない姉御肌のこの子に頭が上がらないというか、うまく転がされているというか、昔から尻に敷かれている。
一緒になることが自然の流れだと思っていたので、昨日二人が結婚したと聞いた時もさして驚かなかった。結婚したのは去年の春だと言っていたので、むしろ遅いくらいだと思った。
彼女は幼馴染の旦那様のことを、普段は気が弱いけど仕事になると顔つきが変わって、あれでも頼りになるんだよねと、照れながら笑って話してくれた。
二人とも幸せそうで、それこそ花のように凛として綺麗に咲いているように映った。
好きな人を支えて、好きな人の為に生きる道もやっぱり輝いている。経緯はそれぞれ違っても、それぞれの幸せを掴んだのだろう。
辛いことも苦しいことも悲しいこともあるけど、この人の為ならと頑張れる。一人じゃないから頑張れる。
自由に憧れることもあるけど、手の届く範囲の幸せを大切にしていきたいと二人は言った。
そういう考え方も素敵だなと、また心が揺れた。
そしてまた私の話になり、そもそも私が陽太郎のことをどう思っているのかと聞かれて、一番目をそらしてはいけないのに、なんとなく避けていた雲をつかむような自分の気持ちを、その答えを、一つ一つ言葉にしながら整理していった。
好きだと思うけど、恋と呼んでいいのか分からない。かといって、愛と呼ぶには諸々の理解が足りていない気がする。
考えれば考えるほど、答えから遠ざかっていく。
一緒に暮らしているときは、療養で居候させてもらっている身で、好きになってはいけない、好きになるなんて烏滸がましいと思っていた。恋愛しに来ているわけではないし、そんな感情を向けられても迷惑だろうと思っていた。だから好きにならないように、恋愛のスイッチは切っていた。まして相手は人格者。私なんかがと気が引ける。心の美しさが釣り合っていない。
そこまで話すと、それって、と、幼馴染みと結婚した友人が口を開き、好きだから怖いだけじゃない?と言った。もう一人の友人も続いて、後から心変わりすることもあるけど、悪い方に変わるとは限らない。恋はするものではなく落ちるもので、愛は育むものと、最近読んだ恋愛小説に書いてあったと言った。それを聞いた私たちは、ハッと目を見開いた。それから彼女に、きっと今、私は美しい洞穴を覗き込んでいて、降りた先に宝の山があると知りながら、勇気を出せずにいつまでもその場にしゃがみ込んで、その宝の山が偶像かもしれないと悲観的になり、確かめに行ったら二度と戻れないと思い込んでいるのだと例えられた。わかりにくいと指摘したら、簡単に言うと足がつく海で足がつかないと思い込んで、いつまでも勝手にもがいていると辛辣なことを言われた。
幼馴染と結婚した彼女も、幼馴染としてしか接してこなかった相手に、恋愛感情を抱いたところで今さら態度を変えられないと、私と同じように悩んだこともあったと言った。
思いを告げられた時は正気か疑ったし、こんな色気のない女をどうしてと、彼の気持ちを全く信じられなかった。
大事にされてどんどん惹かれていったけど、そんな自分が気持ち悪く感じて、また相手もそう思うだろうと考えてしまって、戸惑って、素直になれなかった。
今でも素直になれないこともあるけど、隠しきれずに気持ち悪い部分を出してしまった時にはとても喜ばれ、もっとそういう部分を見たいのか、わざと引き出そうとしてくると、愚痴のように惚気 けた。
そして、自分の気持ちをさらけ出して傷つくのが怖いと感じるのは、それほど相手を好きな証拠でもあって、それは向こうも同じで、それでも勇気を出して伝えてきた陽太郎は信用できる人だと思う。何よりこうして私たちに会わせてくれた。そんな人はなかなかいないから、絶対逃がすなと、力強く言った。
でも、私が友達みたいに接していたから、適度な距離感を持って接していたから好きになってくれたのかもしれない。いきなり態度を変えたら気持ち悪いと、そうじゃないのにと幻滅されたら立ち直る自信がないと言うと、だったら玉砕覚悟で敷居を跨ぐ前に全部気持ちをぶつけて、彼の反応に少しでも傷ついたらその場で帰ってこい、私たちが最終列車まで駅で待ってるからと、そして何より自信を持てと、二人して私の手を強く握った。
その手の温もりに勇気がわいてきて、心強くて、くよくよとしおれていた心に芯が通っていった。そして喉の奥につっかえてたものがすっと下がり、私の手を握る二人の頼もしい友の眼差しにぐっときて、ありがとう、と涙ながらに返すと、昔から変わらない、きっとこの先もずっと変わらない笑顔で笑い合った。
それからまた私たちは、噂話や思い出話、赤裸々な話に花を咲かせてたくさん笑った。日が落ちてきて、まだ話し足りないけど夕飯の支度があるからと、また遊ぼうねと言って名残惜しく帰っていった。
二人を見送った後、私も母と一緒に夕飯を作った。ずいぶん手際が良くなったと褒められて、私が作った食事をおいしいと言って食べてくれた陽太郎と虎の顔を思い出した。それがなんだか懐かし感じてしまって、懐かしく感じてしまったことに胸がズキッと痛んだ。
食事が終わってお風呂に入りながら、三人の友人の言葉を振り返った。
自分の気持ちに正直に、自分が一番ときめく方へ進む。
手の届く範囲の幸せを大切にする。
勇気を出して飛び込んで大怪我をしても、引き上げて背をさすってくれる人達がいる。受け入れてもらえる場所がある。
あとは自分の心次第。
立て続けに友人に会ったからか、やっぱり地元から離れがたいという気持ちと、サカモトで過ごした穏やかであたたかい日々が頭の中でぐるぐると巡った。
十一日目。
だいぶ早く目が覚めたので散歩に出た。
まだ動き出す前の町並みを歩いて河原まで来て、静けさの中白んでいく空を眺めた。
こっちに帰ってきてから怒涛のような日々を過ごし、こうしてゆっくり空を見るのはずいぶん久しぶりだということに気づいた。縁側にいた頃は、こういう時間が当たり前のようにあった。
この辺りの桜も、もうずいぶんと散ってしまていった。
適当な場所に腰を下ろし、澄んだ空気をたっぷり吸い込むと、心の奥に隙間風を感じて、どうにも切なくなった。
見上げる空は、こんなに物哀しい眺めだっただろうか。隣にいないというだけで、空気はこんなにも冷たく感じるものなのだろうか。
心寂しくなってふと左を見ると、いつも、どんな時も傍にいてくれた陽太郎の姿が浮かんで、“おはよう、今朝は早いんですね?”と言われた気がした。
陽太郎のように自立して、一つのことに一生懸命打ち込んで、自分自身で何かを成し遂げてみたい。人生を賭けられる何かを見つけて本気で頑張ってみたい。
自分で誇れる自分になりたい。
なりたいけど。
作業着の後姿も、振り返った時の土の付いた笑顔も、困った顔も、あたたかい手も、名前を呼ぶ声も、諦めるには私の心がそこに在りすぎる。
あの場所で自分なりに頑張った先で、いつも見てくれていた人の顔が鮮明になり、胸がぎゅうっと苦しくなった。
私が認められたいのは、誇りたいのは、生きていきたい場所は……
「会いたい…」
そう口に出した次には駆け出していた。
頑張るなら、何かを成し遂げるなら、陽太郎の傍がいい。陽太郎の為にがいい。
どんな時でもずっと隣にいて、同じ方向を見て、すべてを賭けて陽太郎のことを幸せにしたい。
私はきっと、そのために生かされた。
走りながら、自分でも不思議なほど、散々悩んでいたのが嘘のように、はっきりと答えが出た。
家に戻って部屋に駆け込み、まだ開けていなかった鞄を開けた。ほとんど空っぽな鞄の中から陽太郎の家の匂いがして、もっといてもたってもいられなくなった。
溢れてくる涙を拭う間も惜しくてぐっと引っ込め、友人がくれた着物に着替え、友人がくれた髪飾りを付け、友人がくれた紅を引く。気持ちが引き締まって、背筋が伸びる。今ならどんなことでもできそうなくらい、心が強くなれた。
基礎化粧品と化粧品、二人に買ったお土産と母が買ってくれたもの、思いつく限りのものを鞄にパンパンに詰め込んで部屋を出ると、まだ寝間着姿の母が立っていた。ありがとう、帰るね、とだけ伝えると、ため息をついて私の手に御守りを握らせた。次に会う時は、陽太郎と虎も一緒にと約束をして、私は実家を後にした。
朝一番の列車に乗って、陽太郎になんて伝えようかを考えた。
まずはただいま?遅くなってごめんね?いやその前に、思っていること、考えていることを全部伝えたい。でも、なんて伝えたらいいのか分からないし、うまく伝えられる自信がない。
心がそわそわして落ち着かない中、紙とペンを鞄から出して、伝えたいことを書き殴った。書いては消して、いつまでもまとまらないメモを見ながら、緊張と不安で胸が押し潰されそうなほどドキドキして、今にも叫び出しそうだった。
それから頭の中で予行練習を何度も何度も繰り返し、ふと窓の外を見ると、山景色に差し掛かった。
もうこんなところまで来ていたのかと驚いて、もうすぐ陽太郎に会える喜びと、片想いの相手に一世一代の告白をするような気持ちになってきて、緊張感のあまりどうにかなりそうだった。
乗務員が切符を切りに来た時は、いよいよだと息を飲んだ。切符を出す手が震えてしまって、いぶかしげな顔をされた。
それから到着までの間、荷物を膝に抱えて持ち手を強く握ったまま、はやる気持ちで車窓からの景色を眺めた。
短くて長い時間だった。
二度目の景色が目に入ってすぐ、列車が止まるのも待たずに降車口の前まで移動した。
徐行に入ると足元が浮き立ち、情緒がいっそう落ち着かず、その辺を歩き回りたくなった。
列車が止まり、いよいよ扉が開くと、開き切る前に身体を滑り込ませて足早に、一直線に、わき目も振らずに陽太郎の元へと急いだ。
サカモトの優しい空気に頭が熱くなり、遠い道のりで弾む息を何度も飲み込んだ。振り返る村人たちにせわしなくお辞儀を返しながら、辿り着いた陽太郎の家の前で立ち止まる。
深呼吸をして身だしなみをさっと整え、手鏡でおかしいところがないかを確認して、玄関まで歩みを進めた。足がすくんで泣きそうになるのをなんとか堪えて、頬をパンパンと二回叩いた。
ここで退いたら、女が廃る。せっかくもらった合鍵は、使わない。
「ごめんください!」
パタパタと、聞き慣れた足音が聞こえてきてガラッと開いたドアから、きっとずっと恋しかった人が出てきた。
「おれのかわいい子豚さん、おかえり。」
変わらない優しい笑顔に、やわらかな声にほっとして、今すぐその胸に飛び込んでしまいたくなる。
でも、敷居を跨ぐ前に、私にはやるべきことがある。
私の手から荷物を受け取ろうとした陽太郎の手を制して、
「ここを越えたら私は、陽太郎が好きになってくれた私じゃなくなるかもしれないけど、それでもいい?」
「それは……どういうことですか?」
「今までは、兄弟みたいな、家族みたいな、仲間みたいな、そういう距離感で接してきたの。面倒見てもらって、一緒に生活していくのに、そうじゃなきゃいけないって思って。陽太郎は、そういう距離感の私のことを好きになってくれたんだよね?」
声が、震える。
冷静さを保つのがやっとで、うまく言えてるか不安だったけど、その答えを聞くのが怖いと思う間もなく
「そういうあなたのことも好きですけど、まだ知らないあなたがいるなら、もっと知りたいです。少しずつでもいいから、今よりもっと近づきたいって、そう思っています。」
即答されてしまった。
「知ったら、幻滅するかもしれない。」
「知ったらもっと好きになる気はしますけど…もし万が一、幻滅するようなことがあったとしても、嫌いにはならないと思います。」
「私、陽太郎が思ってるほど良い人間じゃないよ?他人の不幸話で喜んだりするよ?」
「それはあまり良くないですけど、それ以上にあなたは、ひとの為に一生懸命になれるでしょう?」
「そうかな…そうだとしても、身内にだけだよ。」
「それでじゅうぶんだと思います。おれは何度もあなたに救われましたから。それに、おれもあなたが思うほど良い人間じゃないですよ?こうして帰ってきてくれたのが嬉しくて、真剣な話をしているのについ見惚れてしまって…でも、もっと話がしたくて、どうしたら家に入ってくれるかなって、そればっかり考えています。……幻滅しましたか?」
「してない……嬉しい。」
「よかった…あなたに嫌われたら、立ち直れる気がしないです。」
「ねぇ、この着物、似合ってる?」
「? はい。よく似合ってます。あまりに綺麗で、実は少し緊張もしています。髪飾りも、すごく素敵です。」
「…私のこと、女に見える?」
「初めて会った時からずっと、あなたは魅力的な女性です。他の、誰にも見せたくないくらい。」
「気も強くてだらしないのに?」
「そういうところもかわいいです。お化粧をしていないあなたも、朝寝坊して慌てて起きてくるあなたも、大きなあくびをするあなたも、何もないところで躓くあなたも、かわいくて、好きで、仕方がないんです。あ、そういえば靴下片方落ちてましたよ。ちゃんとしまってあります。だからお願い……帰ってきて?」
陽太郎の震える声を聞いて、他にもたくさん聞きたいことはあったはずなのに、迷いと一緒に全部どこかへ消えてしまった。
「っ……………陽太郎、ただいま!」
「おれのかわいい子豚さん、おかえりなさい。よかった……荷物持ちますね。」
陽太郎に荷物を預けて敷居を跨ぐと、扉のわきから虎が飛び出してきた。
「おれのかわいい子豚~~~!!!!遅かったではないか!会いたかったぞ!!!」
「虎…ただいま!」
「うん!おかえり!」
私は私の居場所を見つけて帰ってきた。あたたかくて優しい、誰にも譲れない、私の居場所。
「お菓子のお土産あるよ。あと日用品も少しだけど。」
「わぁ、ありがとうございます。さっそくお茶にしましょう。」
「しかしまぁ、少し見ない間に女を上げたな!恋する乙女は美しいと言うが…これは陽太郎もうかうかしてられんな。我がしっかり指導せねば……!」
「大丈夫。今度は絶対離さないから。まずは信用してもらえるよう、頑張らないとな。」
「おれのかわいい子豚は、陽太郎を信用していないのか……?」
耳を下げて不安そうに聞く虎に
「ううん、まだ自信がないだけ。」
と素直な自分の今の気持ちを言った。
「なるほど…なにもかもを捨てて、好いた相手の胸に飛び込むのは確かに勇気がいるな。だが案ずるな!陽太郎の父と母がそうだったように、きっとお前と陽太郎もうまくいく。数えきれないほどの男女の恋の行方を見届けてきた我が言うんだ。間違いない。」
「ちゃんと元気になった報告してきたし、なにもかもは捨ててないけど、思い立ってすぐ来ちゃったからあとでみんなに手紙書かないと。」
「そうだったんですか…それなら新しい便箋があるので、よかったら使ってください。」
「ありがとう。」
まずは背中を押してくれたかけがえのない友人達に、感謝の手紙を書こう。
思い切って飛び込んだ先にあった宝物を生涯大切にして、私はここで私らしく、ゆっくりでも幸せに生きていく。例えその過程で傷ついたとしてもかまわない。陽太郎の幸せを、私の幸せにしていきたい。だから次に会う時は、四人揃ったカフェで惚気 話をしたいと、これから書く手紙の内容を思い浮かべながら、葉桜見守る縁側の、あたたかい空気をめいっぱい吸い込んだ。
ー完ー
【あとがき】
本編をクリアした後、サカモトとは実は死後の世界なのではと、深読みしたことがあります。一度帰ってそのまま地元に留まれば生還。縁側に戻ったら天国行き決定、みたいな。縁側が天国なのは間違いないのですが、当然死後の世界ではありませんでした。癒し系ハッピーゲームに対して的外れな考察を一瞬でもしてしまったことを、謹んでお詫び申し上げます。
二年間過ごした家を出て、後ろ髪を引かれながら駅までの道のりを歩き、一人でサカモトから故郷へと帰る列車に乗った。
ここへ来る時は、生まれ育った故郷から離れていくにつれ心細くなり、今すぐ家に帰りたい、今すぐ家族や友人たちに会いたいと、原因不明の病を恨みながら涙を流した。
それから走り出した列車の車窓から見えるこの景色を最初に見た時は、豊かな自然に感心しつつ、最期を迎えるには丁度いいかもしれないという漠然とした虚しさと諦めを感じた。
それが今では陽太郎と虎、二人のおかげでこうしてすっかり元気になり、もう二度と帰れないと思っていた故郷に帰れることになった。
それはとても有り難く願ってもないことだったけど、当たり前のように毎日顔を合わせて笑い合っていた二人の元を離れるのがさみしくて、辛くて、出会えたことが奇跡に思えて、蛇に憑かれてよかったとすら思う。
しばらく走ると、山景色が途切れてきた。お腹はあまり空いていないけど、恋しさに押し潰されそうになり、陽太郎が作って持たせてくれたおにぎりを食べ始めた。
すっかり慣れ親しんだこの味も、しばらく食べられないのかと思うと食べ終わるのがもったいなくて、必要以上にゆっくり味わって食べた。
今頃陽太郎は、そろそろ収穫できそうだと言っていたニラを、虎に文句を言われながらも一生懸命刈り取っている頃だろうか。そういえば鋤の置き場所変えたのを言い忘れたけど、見つけられているだろうか。虎はこんなにいい天気だから、ごはんを食べてお腹いっぱいになって、縁側で気持ちよさそうにもうひと眠りしているかもしれない。金平糖を枕元に置いておいたけど気づいただろうか。
そんなことを考えてるうちに、鼻の奥がツンと痛くなって味が分からなくなってしまい、あっという間に視界は涙でいっぱいになり、最後の一口を口に入れると頬が動いてぽたりと落ちた。
鼻をすすって袖で涙を拭きながら飲み込んで、食べ終わってしまったことが悲しくてまた涙を流した。
一度泣き出してしまうと、どんどん悲観的になっていく。二度と会えなくなるわけじゃないのに、望めばいつだって戻れるのに、荷物だってほとんど置いて、すぐ戻るつもりで出てきたのに、窓の外の景色が変わって行けば行くほど、自分が元居た場所に“帰っている”という意識に切り替わっていった。
もしかしたらもう、陽太郎のごはんを食べるのはこれで最後だったかもしれないとか、すべて思い出に変わってしまうのではないかとか、そんな根拠のない不安が涙を押し出していく。
二年という月日は、振り返れば長いようで短い。でも、陽太郎の隣にいると時間がゆったりと流れ、急かされることも無理強いされることもなく、のびのびと優しく毎日が過ぎて行った。
怪モノ退治では三人で手と手を取り合って、それぞれ自分にできることを見つけて精一杯やって、自分の弱さと向き合いながら各々が恐怖を克服した。
故郷で待つ人達に元気になった姿を見せたら必ずまたサカモトへ戻り、怪モノ退治をしながら陽太郎と虎と支え合って楽しく暮らしていきたい。陽太郎も言ってくれていたように、私も二人のことが大好きだからずっと一緒にいたい。
そう思う傍ら、戻るということは陽太郎と男女の仲になるということで、それはどうにも想像の範疇を超えていて、陽太郎にとって本当にそれでいいのかを考える。
月が綺麗な秋の夜、陽太郎は私のことを好きだと言ってくれた。嬉しくて、でも現実味がなくて、高鳴ろうとする胸を、何故だが受け入れられない自分がいた。
私と一緒になって得るものなんてあるのだろうか。陽太郎が私に与えてくれた以上に、私が陽太郎に与えられるものなんてあるのだろうか。
頭と心がちぐはぐで、いくら悩んでも答えなんて出そうになく、そうして車窓からの景色が変わっていくのを眺めていると、夢から現実へと覚めていくように、涙は自然と乾いていった。
昨晩あまり眠れなかったせいか、いつの間にか寝てしまっていた。
乗務員が切符を切りに来て、窓の外から見慣れた景色が流れ込んできてしばらくすると、ゆっくりと列車が止まった。
荷物を持って忘れ物が無いかを確認し、駅に降りるとずいぶん景色が変わっていた。新しい建物が立ち、多くの人で賑わい、浦島太郎のような気分になった。
家族に迎えは頼まなかった。
駅から家までの道を一人で歩いていくと、すぐに見慣れた町並みに入った。懐かしい空気を吸い込むと、あぁ、帰ってきたんだな、と感慨深くなった。
生まれ育った故郷に生きて帰ってこれた喜びと思い出が駆け巡って、胸が震えてじんと熱くなった。
すると、あれほど離れ難かったサカモトでの日々が、今までの出来事が、まるで美しすぎた夢か幻しだったように思えてきた。
家に着くと家族が出迎えてくれた。住んでいた頃は意識することのなかった、懐かしい自分の家の匂いを感じながら荷物を置きに自分の部屋へ入ると、出る前と何も変わっていなかった。
久しぶりの自分一人だけの空間に落ち着くと同時に、ぽつんとしたさみしさを感じた。それから、家の中で身だしなみに気を遣わなくてもいいことに対する解放感と、自分の役割を失くした焦燥感が交互にやってきた。
いろんな感情が一気に代わる代わる襲い掛かってきて、情緒が歪んだ渦に飲み込まれそうになり、気を紛らわせたくて、するほどでもない荷ほどきをしようと鞄に手を伸ばすと、母が私を呼ぶ声がした。
居間に行くと、食卓には私が好きな料理がたくさん並んでいた。久しぶりの母の手料理に手を合わせ、懐かしい味にほっとした。
陽太郎のごはんを初めて食べた時も、優しくてほっとする味に緊張がほぐれたこと、今食卓にも出ている母から教わった料理を振舞って、陽太郎と虎に喜んでもらえたことを思い出していると、二年間どう過ごしていたのかを聞かれた。何から話せばいいのか迷いながら、できる範囲で畑を手伝いながら、それを料理して楽しく過ごしていたと伝えた。
陽太郎の人柄についても事細かく伝えたかったけど、なんとなく気恥ずかしさを感じて、必要以上に落ち着き払って話した。
どれだけお世話になったかとか、どれだけ心が優しいか、どれだけ努力家で真っ直ぐかを、具体的なエピソードも交えて話した。それから、様子をみながら虎と怪モノの話もした。
私を苦しめていたのは怪モノと呼ばれる妖怪みたいなモノで、それを退治して払ってくれたのが虎であること、また、虎も怪モノだけど人間の言葉が話せて、食いしん坊でやんちゃで、でもとても頼りになると、庇うように話した。虎は陽太郎のことが大好きで、常に役に立ちたいと努力している人間の味方だ。二人がいなかったら、私は今ここにいないと思う。
そんな話を、家族は疑いもせずうんうんと聞いてくれて、そのうちご挨拶に行かないとね、と言った。
一通り話し終わると、今度は私のこれからの話になった。嫁ぐのか、仕事をするのか。これからどこでどう生きていくのか。地元の友人の誰それがどこに嫁いだとか、誰それは昔の風習に囚われず立派に仕事をしているとか、親同士でした話を私に教えた上で、私の人生だから、私の好きにしていいと言った。自分が環境に恵まれていることを実感し、感謝の気持ちを言葉にしたら泣いてしまいそうで言えなかった。
食後に出てきたいちごを食べながらまた、陽太郎を思い出した。
いちごが好きだと言って、幸せそうに食べていた横顔がかわいくて、私の分もあげた。虎がずるいと言ったので、虎の口に運んであげた。それを見た陽太郎が何か言いたげにしていたので、陽太郎の口元にも運んだ。いちごみたいにほっぺを赤くさせながら、遠慮がちに私の手から食べた時のあの表情は、思い出すだけで胸があたたかくなる。
このまま帰って陽太郎と一緒になるか、ここでやりたいことを見つけて働いて、自分の力で生きていくか。今後の生き方を、自分自身で決めなければならない。
お風呂に入っている間も、部屋に帰って布団に転がっている今も、心身共に元気な今、どちらの未来も輝いて見えた。
もう一つの選択肢が自分の中で生まれたのは、陽太郎が一生懸命自分の仕事に向き合ってきた姿を近くで見ていて、その姿に影響を受けたというのもある。
でもその憧れを取ったら、陽太郎の気持ちを無下にすることになる。
もう二度と、二人に会えなくなる。
傍にいて、一緒に働いて、一緒に同じ方向を見ながら支え合って、穏やかで優しい日々を生きていくのか。
自分の責任はすべて自分で背負い、自分の力で立って前を向き、厳しくも張りのある日々を突き進むように生きていくのか。
深いため息をつくと、慣れ親しんだ自分の部屋の匂いが眠気を誘い、考えが先に進まないまま夢も見ずに深く眠った。
二日目。
母に起こされて、朝ごはんを食べてからご近所に挨拶をしに回った。
無事を喜ばれた後、もしまだお見合いの話が来ていないならうちの息子はどうかとか、仕事の人手が足りないから手伝ってくれないかとか、そういった話もされた。
まだ病み上がりなのでとやんわり断って、いつまでこっちにいられるのか聞かれた時は、母が曖昧に濁してくれた。
立ち話にも花が咲き、挨拶回りで一日が終わった。
三日目。
早くに母が私を起こしに来た。
今日から何日かかけて、近くに住む親せきに顔を見せに行くことになった。皆それぞれ忙しく、一堂に会せそうにないため、こちらから挨拶に回ることにしたという。
行きに手土産を買いに街に出ると、多くの人で賑わっていた。
あちらこちらから活気のいい商売声が飛び交い、肩がぶつかりそうなほど人でごった返している。
大胆な柄と色使いの着物や洋装が色とりどりに道を行き交い、久し振りの雑踏に眩暈がしそうになった。
少し休憩してから路面電車に乗って、親戚の家を訪ねた。
待ちわびていたと豪華な食事でもてなされ、幼い頃からお世話になっている叔母は元気になった私の姿を見て泣いて喜んだ。こっちにいた時よりも私の肌ツヤが良くなったと言われたので、おいしい野菜とおいしい空気のおかげだと返すと、快活な叔母は自分も病に原因不明の倒れたら、サカモトに療養しに行こうかなと笑いながら言った。母も、私もそうしようかなと言って笑うので、しょうがないからその時はまとめて面倒を見るよと、私も笑って言った。
四日目。
他の親戚の家や職場を訪ねて回った。
移動も多く、たくさんの人と接したのが久し振りすぎて、疲れてしまって毎晩考え事をする間もなく布団に沈む日々を過ごした。
親戚の他、両親が懇意にしている人達のところへも顔を見せに行き、挨拶回りが終わったのは私がここに帰ってきてから一週間後のことだった。
その日は母に起こされることもなく、昼前に自分で起きた。まだ疲れが取れず身体が重く、顔に出ていたのか、母に無理させてごめんと謝られ、ごはんの時以外はほとんど寝ていた。
八日目。
母と二人で買い物に出かけた。
私がいない間に新しくできたお店を何軒か回り、そこで試食したお菓子がとてもおいしくて、二人にも食べさせてあげたくなった。
日持ちもするのでお土産に買うと、母は今こっちで話題の洗剤や石鹸などの日用品を教えてくれ、それも持っていくといいと言って買ってくれた。もし帰らなかったら自分で使うからと大量に買い、荷物持ちがいる時にすればよかったと、帰り道に二人で後悔した。
九日目。
お昼前に目が覚めると、ちょうど友人が一人訪ねてきた。お互いに久しぶりの再会を、大袈裟なくらい喜んだ。
友人は和装に洋装を取り入れた、奇抜だけどとても素敵でお洒落な恰好をしていた。新しくできたカフェに行こうというお誘いを受けたので、準備してくるからと居間で待っててもらった。
急いでしっかり身支度を済ませて居間に行くと、彼女は抱えていた包みを私に差し出した。中身は自分で作ったという上品な柄の普段着用の着物と、彼女が着ている着物よりはいくらか落ち着いているけど、お洒落で大胆な組み合わせの着物が一式あった。こんなに高級そうなものを貰ってしまっていいのか尋ねると、快気祝いだから受け取って欲しいと言ったので、大事に着ると約束し、ありがたく受け取った。
カフェに向かう道中、彼女は他の友人達の近況を教えてくれた。
昨日母が言っていたとおり、名家に嫁いだ子、幼馴染と結婚した子、男社会の中で奮闘しながら働いている子、自分の特技を生かして職人になった子もいて、みんなそれぞれ苦労しつつも楽しくやっているそうだ。彼女はというと、元々興味があった服飾の仕事に就いていた。
デザインから生地選びまで自分で行い、縫製にも携わるという。快気祝いにとくれた着物も、全て彼女が手掛けたものだった。かなり大変だけどその分やり甲斐もあって、毎日が刺激的で楽しくて、しばらく結婚なんて無理かもと話す彼女の顔はイキイキとしていて、とても綺麗で眩しく映った。
今よりもっと有名になったら、貰った着物にさらに価値が付いちゃうね、なんて話しながら、目立って男女問わず振り向く人の視線を気にもせず、颯爽と歩く彼女を誇らしく思った。
路面電車に乗ってしばらく歩いていくと、雑誌で見たことがあったカフェに着いた。
席に案内されてふと周りを見ると、見た目からして心が躍る美味しそうなスイーツがたくさんあった。虎が見たら目を輝かせて大騒ぎするだろうし、陽太郎もなんだかんだ甘いモノ好きだから、感嘆の声を上げるだろうなと考えながら品書きに目を通し、彼女は珈琲とケーキを、私はクリームソーダを頼んだ。緑と白が、なんとなく陽太郎の作業着を思い出させた。
それからしばらく思い出話に花を咲かせた後で、私の療養中のことを尋ねられた。
彼女には陽太郎と虎と過ごした二年間を、その時の自分の気持ちも併せて詳細に話した。
陽太郎に気持ちを打ち明けられた時は嬉しかったけど、それは色々とわきまえてた自分に向けられた気持ちであって、同性の友人に見せている本性はまだ晒していない。かといって恋愛モードの自分を受け入れてもらう自信もないし、何より陽太郎が私を好きになる要素に皆目検討も付かず、理解ができない。
正直にそう話すと、彼女は私に陽太郎がどんな人物なのかと尋ねた。
とても穏やかで、自分を顧みず迷わず人の為に行動できる思いやりに溢れた年下の男の子だと言うと、見た目はあの人よりかっこいい?と、いかにも都会の仕事できます風のしゅっとした男性客をこっそり指差した。
確かに顔も整っているしスタイルもいいけど、私には陽太郎の方が断然かっこよく見えた。思ったままを答えると、なるほどね~と大きく相槌を打った。
気が引けるのも分かる。今はいいとしても、十年後二十年後はおばさんになって、どうしても周りの若い子と比べて気後れしてしまう。そして人格者の横にいればいるほど自分の心の醜さが浮き彫りになって嫌気がさす。
ありのままの自分を隠したまま生きていくのは確かに辛い。まぁ、お見合いで嫁いだ大体の女はそうして生きていくことが当たり前になってるから、やろうと思えばできる。いくら想い合っているからといって、全てを曝け出す必要はない。むしろそれくらいがちょうどいい。もしかしたら相手の善に浄化されて、自分も良い人間になれるかもしれないしね。
彼女の話に、何度も何度も頷いた。自分の心の内を理解してくれて、共感してくれる女友達と会話を交わすのが本当に久し振りすぎて、その存在を心底有難く思った。
それから、私も陽太郎のように、今目の前にいる彼女のように、自分の力で道を切り開き、全力を注げる何かを見つけて働くことに対する憧れも打ち明けると、
それは自分で決めるしかない、せっかく元気になって帰ってきたんだから、色んな人の話を聞いて、自分の目で見てしっかり考えて決めるしかない。
と、もっともなことを言われた。
そして、考えても分からない時は、自分の心に正直に、一番ときめく方へ進むのがいい。女だって幸せは自分で掴みに行くものだと言って、私の手を力強く握った。
どの選択をしても味方でいるし、傷ついた時はパーっと遊びに行っていっぱい買い物して、おいしいものいっぱい食べて、いくらでも気晴らしに付き合うと言ってくれた。後悔のない人生なんて送れっこないし、それもまた経験だ。話ならいくらでも聞くし、居場所なんていくつあったっていいでしょ?そう言って笑う彼女は頼もしく、出会えて友人になれたことに、心の底から感謝した。
それから彼女の仕事の話や、実は年下の恋人がいるという話を聞いて盛り上がり、途中お腹が空いて軽食を注文し、話題が尽きることなく閉店までいてしまった。
次は洋食屋にでも行こうと約束をして、家の前で彼女と別れた。その別れ際に、あの着物はここぞと言う時に着ろと言ってウインクをした彼女は、同い年とは思えないほど、とても大人びて見えた。
たくさん話してたくさん笑って、お風呂の中で思い出し笑いをしたりして、その日は心地よい疲れの中で眠りについた。
十日目。
今度は別の友人が二人、家を訪ねてきた。
久しぶりの再会に感動し、玄関で三人して手を握り合った。あまりに騒がしくしてしまい、母が近所迷惑になるから早く中へ入れと言いに来た。
ごめんなさ~いと言いながら、私は自室に二人を招き入れた。
友人のうち一人は名家に嫁いだ子で、快気祝いにと、上品な色の口紅をくれた。もう一人は幼馴染の商人と結婚した子で、同じく快気祝いにと、どの着物にも合うようなシンプルな髪飾りをくれた。先日もらった着物を出して見せると、まるで示し合わせたように似合っていて、奇跡のような偶然に驚いて笑い合った。
それからお茶とお茶菓子を持ってきて、昨日カフェに行ったことをと話した。
二人は、あの子は忙しくて中々つかまらないから、遊ぶなら声を掛けてくれればよかったのに、ただでさえみんなこうして集まるのだって、今となっては難しいもんね、と、しみじみ言いながらお菓子に手を付けた。
お茶を飲みながら、二人は体調を崩した私を心配していたけど、こうして無事に帰ってきたことを改めて喜び、二年間の療養生活について聞いてきた。
昨日と同じ内容を話し、彼女がくれた言葉も教えると、友人二人は泣きながら、いいこと言うわ~、でも私達もいるのを忘れないでね?と言った。私もつられて泣きながら、ありがとうとお礼を言った。ずっと遠ざかっていた同性の、心を許した友人達との会話が本当に心に沁みる。
陽太郎の家も楽しいけど、こうしてすぐに会えて、気兼ねせず何でも話せる友人達がいる故郷はやっぱり離れ難い。
そんな気持ちで涙を拭きながら、二人の近況を尋ねた。
名家に嫁いだ子は旦那様が六つ年上で、典型的な亭主関白だという。親同士が決めた結婚なので強く出るわけにもいかず、貞淑な妻であろうと頑張っていたそうだ。元々おしとやかな方だけど芯はしっかりしていて、思いやりもある。少し天然なところもあってかわいらしい彼女は、学生時代、この中で一番良き妻で良き母になるだろうとみんなで話していた。
そんな彼女が嫁いだのは、私が地元を離れた年の夏だったそうだ。最初は無口な旦那様が怖くて、会話らしい会話なんてできないでいたけど、ある日を境に一日一輪花をくれるようになったという。
彼女はどれだけ尽くしても反応の薄い旦那様から愛されることを諦めそうになり、夜の務めの時に堪えきれず泣いてしまった。そこで初めて、旦那様が本当は顔合わせの時点で彼女に一目惚れをしていたけど、どう接していいか分からずについ不愛想になってしまっていたことを知った。
気を抜けばだらしない顔を見せてしまいそうになるので、威厳を保つために冷たくしてしまったそうだ。
そう打ち明けられた夜から本当の夫婦になれた気がすると言って、恥ずかしそうに、でも幸せそうにほほ笑んだ。その顔がとてもかわいくて、女の私でもぐっときた。
そしてなんと、今お腹に赤ちゃんがいるという。私達は割れんばかりの歓声を上げて、また泣きながらおめでとうを繰り返した。
幼馴染の商人と結婚した彼女は、旦那様の仕事を手伝いながら、たまに地方に行くことがあるという。もっと仕事がうまくいったら、サカモトにもモノを売りに行けるかもしれないと言った。
幼馴染の旦那様のことは、私達もよく知っている。飾らない姉御肌のこの子に頭が上がらないというか、うまく転がされているというか、昔から尻に敷かれている。
一緒になることが自然の流れだと思っていたので、昨日二人が結婚したと聞いた時もさして驚かなかった。結婚したのは去年の春だと言っていたので、むしろ遅いくらいだと思った。
彼女は幼馴染の旦那様のことを、普段は気が弱いけど仕事になると顔つきが変わって、あれでも頼りになるんだよねと、照れながら笑って話してくれた。
二人とも幸せそうで、それこそ花のように凛として綺麗に咲いているように映った。
好きな人を支えて、好きな人の為に生きる道もやっぱり輝いている。経緯はそれぞれ違っても、それぞれの幸せを掴んだのだろう。
辛いことも苦しいことも悲しいこともあるけど、この人の為ならと頑張れる。一人じゃないから頑張れる。
自由に憧れることもあるけど、手の届く範囲の幸せを大切にしていきたいと二人は言った。
そういう考え方も素敵だなと、また心が揺れた。
そしてまた私の話になり、そもそも私が陽太郎のことをどう思っているのかと聞かれて、一番目をそらしてはいけないのに、なんとなく避けていた雲をつかむような自分の気持ちを、その答えを、一つ一つ言葉にしながら整理していった。
好きだと思うけど、恋と呼んでいいのか分からない。かといって、愛と呼ぶには諸々の理解が足りていない気がする。
考えれば考えるほど、答えから遠ざかっていく。
一緒に暮らしているときは、療養で居候させてもらっている身で、好きになってはいけない、好きになるなんて烏滸がましいと思っていた。恋愛しに来ているわけではないし、そんな感情を向けられても迷惑だろうと思っていた。だから好きにならないように、恋愛のスイッチは切っていた。まして相手は人格者。私なんかがと気が引ける。心の美しさが釣り合っていない。
そこまで話すと、それって、と、幼馴染みと結婚した友人が口を開き、好きだから怖いだけじゃない?と言った。もう一人の友人も続いて、後から心変わりすることもあるけど、悪い方に変わるとは限らない。恋はするものではなく落ちるもので、愛は育むものと、最近読んだ恋愛小説に書いてあったと言った。それを聞いた私たちは、ハッと目を見開いた。それから彼女に、きっと今、私は美しい洞穴を覗き込んでいて、降りた先に宝の山があると知りながら、勇気を出せずにいつまでもその場にしゃがみ込んで、その宝の山が偶像かもしれないと悲観的になり、確かめに行ったら二度と戻れないと思い込んでいるのだと例えられた。わかりにくいと指摘したら、簡単に言うと足がつく海で足がつかないと思い込んで、いつまでも勝手にもがいていると辛辣なことを言われた。
幼馴染と結婚した彼女も、幼馴染としてしか接してこなかった相手に、恋愛感情を抱いたところで今さら態度を変えられないと、私と同じように悩んだこともあったと言った。
思いを告げられた時は正気か疑ったし、こんな色気のない女をどうしてと、彼の気持ちを全く信じられなかった。
大事にされてどんどん惹かれていったけど、そんな自分が気持ち悪く感じて、また相手もそう思うだろうと考えてしまって、戸惑って、素直になれなかった。
今でも素直になれないこともあるけど、隠しきれずに気持ち悪い部分を出してしまった時にはとても喜ばれ、もっとそういう部分を見たいのか、わざと引き出そうとしてくると、愚痴のように
そして、自分の気持ちをさらけ出して傷つくのが怖いと感じるのは、それほど相手を好きな証拠でもあって、それは向こうも同じで、それでも勇気を出して伝えてきた陽太郎は信用できる人だと思う。何よりこうして私たちに会わせてくれた。そんな人はなかなかいないから、絶対逃がすなと、力強く言った。
でも、私が友達みたいに接していたから、適度な距離感を持って接していたから好きになってくれたのかもしれない。いきなり態度を変えたら気持ち悪いと、そうじゃないのにと幻滅されたら立ち直る自信がないと言うと、だったら玉砕覚悟で敷居を跨ぐ前に全部気持ちをぶつけて、彼の反応に少しでも傷ついたらその場で帰ってこい、私たちが最終列車まで駅で待ってるからと、そして何より自信を持てと、二人して私の手を強く握った。
その手の温もりに勇気がわいてきて、心強くて、くよくよとしおれていた心に芯が通っていった。そして喉の奥につっかえてたものがすっと下がり、私の手を握る二人の頼もしい友の眼差しにぐっときて、ありがとう、と涙ながらに返すと、昔から変わらない、きっとこの先もずっと変わらない笑顔で笑い合った。
それからまた私たちは、噂話や思い出話、赤裸々な話に花を咲かせてたくさん笑った。日が落ちてきて、まだ話し足りないけど夕飯の支度があるからと、また遊ぼうねと言って名残惜しく帰っていった。
二人を見送った後、私も母と一緒に夕飯を作った。ずいぶん手際が良くなったと褒められて、私が作った食事をおいしいと言って食べてくれた陽太郎と虎の顔を思い出した。それがなんだか懐かし感じてしまって、懐かしく感じてしまったことに胸がズキッと痛んだ。
食事が終わってお風呂に入りながら、三人の友人の言葉を振り返った。
自分の気持ちに正直に、自分が一番ときめく方へ進む。
手の届く範囲の幸せを大切にする。
勇気を出して飛び込んで大怪我をしても、引き上げて背をさすってくれる人達がいる。受け入れてもらえる場所がある。
あとは自分の心次第。
立て続けに友人に会ったからか、やっぱり地元から離れがたいという気持ちと、サカモトで過ごした穏やかであたたかい日々が頭の中でぐるぐると巡った。
十一日目。
だいぶ早く目が覚めたので散歩に出た。
まだ動き出す前の町並みを歩いて河原まで来て、静けさの中白んでいく空を眺めた。
こっちに帰ってきてから怒涛のような日々を過ごし、こうしてゆっくり空を見るのはずいぶん久しぶりだということに気づいた。縁側にいた頃は、こういう時間が当たり前のようにあった。
この辺りの桜も、もうずいぶんと散ってしまていった。
適当な場所に腰を下ろし、澄んだ空気をたっぷり吸い込むと、心の奥に隙間風を感じて、どうにも切なくなった。
見上げる空は、こんなに物哀しい眺めだっただろうか。隣にいないというだけで、空気はこんなにも冷たく感じるものなのだろうか。
心寂しくなってふと左を見ると、いつも、どんな時も傍にいてくれた陽太郎の姿が浮かんで、“おはよう、今朝は早いんですね?”と言われた気がした。
陽太郎のように自立して、一つのことに一生懸命打ち込んで、自分自身で何かを成し遂げてみたい。人生を賭けられる何かを見つけて本気で頑張ってみたい。
自分で誇れる自分になりたい。
なりたいけど。
作業着の後姿も、振り返った時の土の付いた笑顔も、困った顔も、あたたかい手も、名前を呼ぶ声も、諦めるには私の心がそこに在りすぎる。
あの場所で自分なりに頑張った先で、いつも見てくれていた人の顔が鮮明になり、胸がぎゅうっと苦しくなった。
私が認められたいのは、誇りたいのは、生きていきたい場所は……
「会いたい…」
そう口に出した次には駆け出していた。
頑張るなら、何かを成し遂げるなら、陽太郎の傍がいい。陽太郎の為にがいい。
どんな時でもずっと隣にいて、同じ方向を見て、すべてを賭けて陽太郎のことを幸せにしたい。
私はきっと、そのために生かされた。
走りながら、自分でも不思議なほど、散々悩んでいたのが嘘のように、はっきりと答えが出た。
家に戻って部屋に駆け込み、まだ開けていなかった鞄を開けた。ほとんど空っぽな鞄の中から陽太郎の家の匂いがして、もっといてもたってもいられなくなった。
溢れてくる涙を拭う間も惜しくてぐっと引っ込め、友人がくれた着物に着替え、友人がくれた髪飾りを付け、友人がくれた紅を引く。気持ちが引き締まって、背筋が伸びる。今ならどんなことでもできそうなくらい、心が強くなれた。
基礎化粧品と化粧品、二人に買ったお土産と母が買ってくれたもの、思いつく限りのものを鞄にパンパンに詰め込んで部屋を出ると、まだ寝間着姿の母が立っていた。ありがとう、帰るね、とだけ伝えると、ため息をついて私の手に御守りを握らせた。次に会う時は、陽太郎と虎も一緒にと約束をして、私は実家を後にした。
朝一番の列車に乗って、陽太郎になんて伝えようかを考えた。
まずはただいま?遅くなってごめんね?いやその前に、思っていること、考えていることを全部伝えたい。でも、なんて伝えたらいいのか分からないし、うまく伝えられる自信がない。
心がそわそわして落ち着かない中、紙とペンを鞄から出して、伝えたいことを書き殴った。書いては消して、いつまでもまとまらないメモを見ながら、緊張と不安で胸が押し潰されそうなほどドキドキして、今にも叫び出しそうだった。
それから頭の中で予行練習を何度も何度も繰り返し、ふと窓の外を見ると、山景色に差し掛かった。
もうこんなところまで来ていたのかと驚いて、もうすぐ陽太郎に会える喜びと、片想いの相手に一世一代の告白をするような気持ちになってきて、緊張感のあまりどうにかなりそうだった。
乗務員が切符を切りに来た時は、いよいよだと息を飲んだ。切符を出す手が震えてしまって、いぶかしげな顔をされた。
それから到着までの間、荷物を膝に抱えて持ち手を強く握ったまま、はやる気持ちで車窓からの景色を眺めた。
短くて長い時間だった。
二度目の景色が目に入ってすぐ、列車が止まるのも待たずに降車口の前まで移動した。
徐行に入ると足元が浮き立ち、情緒がいっそう落ち着かず、その辺を歩き回りたくなった。
列車が止まり、いよいよ扉が開くと、開き切る前に身体を滑り込ませて足早に、一直線に、わき目も振らずに陽太郎の元へと急いだ。
サカモトの優しい空気に頭が熱くなり、遠い道のりで弾む息を何度も飲み込んだ。振り返る村人たちにせわしなくお辞儀を返しながら、辿り着いた陽太郎の家の前で立ち止まる。
深呼吸をして身だしなみをさっと整え、手鏡でおかしいところがないかを確認して、玄関まで歩みを進めた。足がすくんで泣きそうになるのをなんとか堪えて、頬をパンパンと二回叩いた。
ここで退いたら、女が廃る。せっかくもらった合鍵は、使わない。
「ごめんください!」
パタパタと、聞き慣れた足音が聞こえてきてガラッと開いたドアから、きっとずっと恋しかった人が出てきた。
「おれのかわいい子豚さん、おかえり。」
変わらない優しい笑顔に、やわらかな声にほっとして、今すぐその胸に飛び込んでしまいたくなる。
でも、敷居を跨ぐ前に、私にはやるべきことがある。
私の手から荷物を受け取ろうとした陽太郎の手を制して、
「ここを越えたら私は、陽太郎が好きになってくれた私じゃなくなるかもしれないけど、それでもいい?」
「それは……どういうことですか?」
「今までは、兄弟みたいな、家族みたいな、仲間みたいな、そういう距離感で接してきたの。面倒見てもらって、一緒に生活していくのに、そうじゃなきゃいけないって思って。陽太郎は、そういう距離感の私のことを好きになってくれたんだよね?」
声が、震える。
冷静さを保つのがやっとで、うまく言えてるか不安だったけど、その答えを聞くのが怖いと思う間もなく
「そういうあなたのことも好きですけど、まだ知らないあなたがいるなら、もっと知りたいです。少しずつでもいいから、今よりもっと近づきたいって、そう思っています。」
即答されてしまった。
「知ったら、幻滅するかもしれない。」
「知ったらもっと好きになる気はしますけど…もし万が一、幻滅するようなことがあったとしても、嫌いにはならないと思います。」
「私、陽太郎が思ってるほど良い人間じゃないよ?他人の不幸話で喜んだりするよ?」
「それはあまり良くないですけど、それ以上にあなたは、ひとの為に一生懸命になれるでしょう?」
「そうかな…そうだとしても、身内にだけだよ。」
「それでじゅうぶんだと思います。おれは何度もあなたに救われましたから。それに、おれもあなたが思うほど良い人間じゃないですよ?こうして帰ってきてくれたのが嬉しくて、真剣な話をしているのについ見惚れてしまって…でも、もっと話がしたくて、どうしたら家に入ってくれるかなって、そればっかり考えています。……幻滅しましたか?」
「してない……嬉しい。」
「よかった…あなたに嫌われたら、立ち直れる気がしないです。」
「ねぇ、この着物、似合ってる?」
「? はい。よく似合ってます。あまりに綺麗で、実は少し緊張もしています。髪飾りも、すごく素敵です。」
「…私のこと、女に見える?」
「初めて会った時からずっと、あなたは魅力的な女性です。他の、誰にも見せたくないくらい。」
「気も強くてだらしないのに?」
「そういうところもかわいいです。お化粧をしていないあなたも、朝寝坊して慌てて起きてくるあなたも、大きなあくびをするあなたも、何もないところで躓くあなたも、かわいくて、好きで、仕方がないんです。あ、そういえば靴下片方落ちてましたよ。ちゃんとしまってあります。だからお願い……帰ってきて?」
陽太郎の震える声を聞いて、他にもたくさん聞きたいことはあったはずなのに、迷いと一緒に全部どこかへ消えてしまった。
「っ……………陽太郎、ただいま!」
「おれのかわいい子豚さん、おかえりなさい。よかった……荷物持ちますね。」
陽太郎に荷物を預けて敷居を跨ぐと、扉のわきから虎が飛び出してきた。
「おれのかわいい子豚~~~!!!!遅かったではないか!会いたかったぞ!!!」
「虎…ただいま!」
「うん!おかえり!」
私は私の居場所を見つけて帰ってきた。あたたかくて優しい、誰にも譲れない、私の居場所。
「お菓子のお土産あるよ。あと日用品も少しだけど。」
「わぁ、ありがとうございます。さっそくお茶にしましょう。」
「しかしまぁ、少し見ない間に女を上げたな!恋する乙女は美しいと言うが…これは陽太郎もうかうかしてられんな。我がしっかり指導せねば……!」
「大丈夫。今度は絶対離さないから。まずは信用してもらえるよう、頑張らないとな。」
「おれのかわいい子豚は、陽太郎を信用していないのか……?」
耳を下げて不安そうに聞く虎に
「ううん、まだ自信がないだけ。」
と素直な自分の今の気持ちを言った。
「なるほど…なにもかもを捨てて、好いた相手の胸に飛び込むのは確かに勇気がいるな。だが案ずるな!陽太郎の父と母がそうだったように、きっとお前と陽太郎もうまくいく。数えきれないほどの男女の恋の行方を見届けてきた我が言うんだ。間違いない。」
「ちゃんと元気になった報告してきたし、なにもかもは捨ててないけど、思い立ってすぐ来ちゃったからあとでみんなに手紙書かないと。」
「そうだったんですか…それなら新しい便箋があるので、よかったら使ってください。」
「ありがとう。」
まずは背中を押してくれたかけがえのない友人達に、感謝の手紙を書こう。
思い切って飛び込んだ先にあった宝物を生涯大切にして、私はここで私らしく、ゆっくりでも幸せに生きていく。例えその過程で傷ついたとしてもかまわない。陽太郎の幸せを、私の幸せにしていきたい。だから次に会う時は、四人揃ったカフェで
ー完ー
【あとがき】
本編をクリアした後、サカモトとは実は死後の世界なのではと、深読みしたことがあります。一度帰ってそのまま地元に留まれば生還。縁側に戻ったら天国行き決定、みたいな。縁側が天国なのは間違いないのですが、当然死後の世界ではありませんでした。癒し系ハッピーゲームに対して的外れな考察を一瞬でもしてしまったことを、謹んでお詫び申し上げます。
1/1ページ